第四話 もう遅い
夕暮れ時の王都。
メインストリートは、仕事を終えた人々や、夕食を求める観光客で賑わっていた。
香ばしい串焼きの匂い、楽しげな笑い声、馬車の車輪が石畳を叩く音。
平和で活気のある日常の風景がそこにはあった。
だが、その明るい光景とは対照的に、まるで亡霊のような足取りで彷徨う三人の姿があった。
「……どこだ。どこにいる、アレン」
勇者レオン。
かつて黄金の鎧を身にまとい、自信に満ち溢れていたその面影は、見る影もなかった。
右腕は包帯でぐるぐる巻きにされ、そこから滲み出る赤黒い体液が異臭を放っている。
頬はこけ、目は落ち窪み、血走った眼球がギョロギョロと周囲を徘徊していた。
Sランク装備は泥と埃にまみれ、輝きを失っている。
「レオン様、もう休みましょう……。足が、限界です」
後ろを歩く聖女マリアもまた、酷い有様だった。
自慢のブロンドヘアは乱れ、純白だった聖女の法衣は薄汚れ、泥跳ねで茶色く変色している。
いつもなら馬車で移動していた距離を歩き続けたせいで、ヒールのある靴擦れが痛み、一歩ごとに顔をしかめていた。
「うるさい! 休んでいる暇なんてあるか!」
レオンが振り返り、怒鳴り散らす。
その声には、以前の威厳はなく、ただただ焦燥と恐怖だけが張り付いていた。
「早くアレンを見つけないと……俺の腕が、腐り落ちちまうんだよ! おいルカ、探索魔法はどうした! まだ見つからないのか!」
「無理だよ、さっきも言っただろ……」
魔導師ルカが杖を杖代わりにしながら、青白い顔で首を振る。
彼もまた、憔悴しきっていた。
魔力枯渇(ガス欠)による頭痛と吐き気に苛まれながら、それでもレオンに引きずられるように歩いている。
「僕の魔力はもうスッカラカンなんだ。自然回復分なんて、探索魔法を一回使ったら終わりだよ。……くそっ、なんでこんなに回復が遅いんだ。アレンがいた時は、こんなことなかったのに」
ルカは憎々しげに吐き捨てた。
そう、アレンがいた時は。
三人の頭の中にあるのは、その一念だけだった。
アレンがいれば、荷物を持たなくて済む。
アレンがいれば、魔力は無限に使えた。
アレンがいれば、この呪われた腕の激痛も消えるはずだ。
「あいつだ……あいつが悪いんだ。勝手に出て行くから」
「そうよ、契約違反だわ。私たちの許可なく辞めるなんて」
彼らは自分たちの過ちを認めるどころか、逆恨みのような思考で精神の均衡を保っていた。
アレンを見つけ出し、土下座させ、再びあの「便利なゴミ箱」に戻す。
そうすれば、全てが元通りになる。輝かしいSランクパーティの日々が戻ってくる。
そう信じて疑わなかった。
「……あ」
その時、マリアが小さく声を上げた。
彼女の視線の先。
大通りに面した、オープンテラスのある高級レストラン。
その一番奥の席で、優雅に食事を楽しんでいる男女の姿があった。
「いた……」
見間違えるはずがない。
以前より少し良い服を着て、髪も整えられ、肌艶の良くなった青年。
アレンだ。
彼は今、手に持ったワイングラスを傾け、向かいに座る絶世の美女と談笑していた。
その表情は、かつて荷物持ちとして虐げられていた時には一度も見せたことのない、穏やかで幸福そうな笑顔だった。
「アレンッ!!」
レオンが叫んだ。
周囲の客が驚いて振り返るのも構わず、彼はテラス席へと突進していく。
「おい! こんなところで何をしている!」
レオンはアレンのテーブルに駆け寄ると、バンッと乱暴に手を叩きつけた。
振動でグラスの中のワインが揺れる。
アレンは驚いたように目を丸くし、そしてすぐに冷静な瞳でレオンを見上げた。
「……レオンか。それに、二人も」
「『レオンか』じゃないだろ! 俺たちがどれだけ探したと思ってるんだ!」
「探した? 奇遇だな。僕は君たちともう二度と会いたくないと思っていたんだけど」
アレンの声は冷ややかだった。
以前のような、顔色を伺うような卑屈さは欠片もない。
その態度が、レオンの癇に障った。
「ふざけるな! お前、俺たちを陥れたな!?」
「陥れた?」
「とぼけるな! お前がいなくなったせいで、俺の腕がこんなことになったんだぞ! ルカの魔法も使えなくなった! 全部お前の仕業だろ!」
レオンは包帯ごしに腐りかけた右腕を突きつけた。
異臭が漂い、近くの席にいた客が眉をひそめて席を立つ。
アレンはため息をつき、ナイフとフォークを静かに置いた。
「言ったはずだ。それは『聖剣グラム』の代償だと。僕が肩代わりするのをやめたから、本来の持ち主である君に請求が行っただけだ」
「だから! それを戻せと言ってるんだよ!」
レオンは唾を飛ばしながら喚き散らす。
「いいかアレン、今回は特別に許してやる。俺の慈悲深い心に感謝しろ。今すぐパーティに戻ってこい。そうすれば、追放の件は水に流してやる」
「は?」
「聞こえなかったのか? 戻ってこいと言ってるんだ。……ああ、報酬が不満だったのか? なら、今までの一割増し……いや、特別に二割増しにしてやってもいいぞ」
レオンは恩着せがましく言った。
これでアレンは泣いて喜ぶはずだ。
Sランクパーティに戻れる上に、報酬も上がるのだから。
だが、アレンの反応は彼らの予想とは全く違っていた。
「……呆れたな。まだ状況が分かっていないのか」
アレンは哀れむような目でレオンを見た。
「僕は君たちの奴隷じゃない。戻る気なんてさらさらないよ」
「な、なんだと!?」
「それに、その腕。もう手遅れだろ? 壊死した細胞は、僕が戻ったところで治らないよ」
図星を突かれ、レオンが言葉に詰まる。
そこへ、マリアが涙目で割り込んできた。
「そんなこと言わないでよアレン! 私たち、仲間だったじゃない!」
「仲間?」
「そうよ! 幼馴染でしょ? 困った時は助け合うのが当然じゃない! ねえ、お願い。荷物が重くて歩けないの。洗濯も掃除も、誰もやってくれないの。アレンがいないと、私……何もできないの!」
マリアはアレンの袖に縋り付こうとした。
だが、その手は空を切った。
アレンが触られるのを嫌がり、露骨に身を引いたからだ。
「……仲間だって言うなら、僕が高熱を出して倒れた時、君たちは何をしてくれた?」
「えっ……」
「『早く起きろ、朝飯ができてない』って蹴り飛ばしたよな。回復魔法の一つもかけずに」
アレンの静かな告発に、マリアの顔が青ざめる。
ルカも気まずそうに目を逸らした。
「そ、それは……忙しかったから……」
「僕も忙しいんだ。君たちの介護をしている暇はない」
アレンは冷たく言い放つと、ウェイターを呼んで会計を済ませようとした。
完全に拒絶された。
その事実に、レオンのプライドが音を立てて崩れ去り、代わりにどす黒い怒りが湧き上がった。
「ふざけるな……ふざけるなよ、無能のくせに!」
レオンは残った左手で腰の剣を抜こうとした――が、そこには剣がない。
聖剣グラムは、ダンジョンに置き去りにしてきたのだ。
武器がないことに気づき、彼は一瞬狼狽える。
だが、すぐに狂気じみた笑みを浮かべ、アレンに掴みかかろうとした。
「力ずくでも連れ戻してやる! お前は俺の道具だ! 死ぬまで俺の身代わりになってりゃいいんだよ!」
「――下賤な手が、私のマスターに触れるんじゃないわよ」
凛とした、そして氷点下のように冷たい声が響いた。
次の瞬間、レオンの体は見えない衝撃波に弾き飛ばされ、地面に転がった。
「ぐわっ!?」
「レオン様!」
何が起きたのか分からず、呆然とするレオンたち。
アレンの向かいに座っていた黒ドレスの美女――イヴが、ゆらりと立ち上がっていた。
彼女の手には、漆黒のスプーンが握られているだけだが、そこから放たれる威圧感は、Sランクモンスターすら凌駕していた。
「誰だ……てめぇ、何をした!」
「誰、ですって?」
イヴは妖艶に微笑み、アレンの肩に手を回した。
「貴方が散々振り回し、道具扱いし、そして最後にはダンジョンに捨ててきた『相棒』の顔も忘れたのかしら?」
「な……?」
レオンは目を見開いた。
銀色の髪、紅い瞳。
そして、その身から溢れ出る禍々しくも神聖な魔力。
それは、彼が長年腰に佩いていた、あの剣の気配そのものだった。
「ま、まさか……グラム……なのか?」
「今はイヴよ。アレン様がつけてくれた、大切な名前」
イヴはうっとりとアレンを見つめ、そしてレオンたちに向き直ると、ゴミを見るような蔑んだ視線を向けた。
「貴方の汚い魔力と、欲望にまみれた魂……本当に不味かったわ。吐き気がするほどにね」
「け、剣が喋るわけ……それに、人型になるなんて……!」
「アレン様のおかげよ。彼が呪いを解除し、私を『解き放って』くれたから、こうして実体化できたの」
イヴはレオンの鼻先に顔を近づけ、囁くように言った。
「感謝しなさい? 私の呪いの『残りカス』を受け取るだけで済んでいるのは、アレン様が長年フィルターになってくれていたおかげよ。もし彼がいなかったら、貴方なんて最初に剣を握った瞬間に干からびて死んでいたわ」
「ひっ……!」
レオンは腰を抜かし、後ずさる。
圧倒的な格の違い。
生物としての本能が、目の前の存在が「死」そのものであると告げていた。
今まで自分が振るっていた力が、これほどまでに恐ろしいものだったとは。
「さあ、消えなさい。二度と私たちの前に現れないで」
イヴが手を振ると、強烈な突風が巻き起こり、レオンたちを店の外まで吹き飛ばした。
路地に転がる三人。
通りすがりの人々が、遠巻きに彼らを見てヒソヒソと噂話をしている。
「あれ、勇者パーティじゃないか?」
「なんて無様な……」
「仲間を追い出したって噂、本当だったんだな」
嘲笑と軽蔑の視線。
それが、今の彼らに残された全てだった。
「くそっ……くそぉぉぉッ!」
レオンは地面を叩いて泣いた。
痛い。腕が痛い。心が痛い。
失ったものの大きさに、今更ながら気づいた。
だが、もう遅い。
全ては後の祭りだった。
◇
テラス席に戻ったアレンは、騒ぎなどなかったかのようにワインを一口飲んだ。
イヴが心配そうに彼の顔を覗き込む。
「大丈夫? 気分を害したなら、あいつら、今すぐ塵にしてあげるけれど」
「いや、いいよ。そんなことに力を使う価値もない」
アレンは穏やかに微笑んだ。
不思議なほど、胸がすっとしていた。
かつては彼らに認められたい、彼らを支えたいと必死だった。
だが、今の彼らを見ても、何の感情も湧いてこない。
ただの「過去の知人」でしかなかった。
「それよりイヴ、この肉料理、すごく美味しいよ。君も食べる?」
「ええ、アレン様が「あーん」してくれるなら」
「……はいはい」
アレンが切り分けた肉を差し出すと、イヴは幸せそうにそれを頬張った。
最強の魔剣にして、絶世の美女。
そんな彼女が、今はただの恋する乙女のような顔をしている。
これからの旅は、きっと騒がしくも楽しいものになるだろう。
アレンは席を立ち、イヴの手を取った。
「行こうか。次の街へ」
「ええ、どこまでもついて行くわ。私のマスター」
二人は寄り添いながら、夕闇に染まる王都を歩き出した。
背後で響く、かつての英雄たちの嘆きの声は、もう彼らの耳には届かない。
自由な風が吹いている。
アレンの新しい人生は、まだ始まったばかりだ。
その行く手には、無限の可能性と、確かな幸福が待っているのだった。




