第三話 勇者に訪れる「ツケ」の支払い
翌朝、王都の空は抜けるような青空だった。
しかし、Sランクパーティ『聖光の翼』が宿泊する高級宿の一室は、どんよりとした重い空気に包まれていた。
「……クソッ、なんだってんだ、この痛みは」
勇者レオンは、豪奢な天蓋付きベッドの上で、自分の右腕を抑えて呻いていた。
昨夜、アレンを追放した直後に襲ってきた謎の激痛。
まるで腕の骨を万力で砕かれたような衝撃と、血管に溶岩を流し込まれたような熱さ。
一晩中うなされ、最高級のポーションを何本も空にして、ようやく痛みが引いたところだった。
だが、依然として右腕には痺れが残り、鉛のように重い。
「おはようございます、レオン様。……お加減はいかがですか?」
扉がおずおずと開き、聖女マリアが入ってきた。
彼女の顔色も悪い。目の下にはクマができている。
昨晩のレオンの錯乱ぶりを目の当たりにし、看病でほとんど眠れなかったのだろう。
「ああ、最悪だ。……あのアレンの野郎、最後に妙な毒でも盛っていきやがったに違いない」
レオンは吐き捨てるように言った。
自分の身体に起きた異変を、彼はまだ認めていなかった。
いや、認めたくなかったのだ。
「聖剣の呪いを肩代わりしていた」などというアレンの言葉が真実だとしたら、自分は今まで、あいつの犠牲の上に胡座をかいていたことになる。
選ばれし勇者であるこの俺が、あんな荷物持ちに守られていた?
そんなふざけた話があるわけがない。
これは毒だ。去り際の嫌がらせに違いない。そう自分に言い聞かせていた。
「そ、そうですよね! あんな陰気な男のことですもの、きっと呪いのアイテムか何かを使ったんですわ!」
「全くだ。……おい、水を持ってこい。喉が渇いた」
「えっ……あ、はい。すぐに」
マリアが一瞬戸惑ったような顔をする。
それもそのはずだ。これまでは、レオンが口を開く前に、アレンが適温の水を用意していたからだ。
マリアが慌てて水差しからコップに水を注ぐが、勢い余ってテーブルに少しこぼしてしまう。
それを拭こうともせず、彼女はコップを差し出した。
レオンは舌打ちをしたい衝動を堪え、水を一気に飲み干す。
「ルカはどうした?」
「ロビーで待っています。今日は『赤竜の渓谷』へ行く予定でしょう? 依頼はキャンセルしますか?」
「馬鹿を言うな! キャンセルなんてしたら、俺たちの評判に関わるだろ!」
レオンはベッドから跳ね起きた。
そうだ、今日こそ証明しなければならない。
アレンがいなくとも、いや、いない方がパーティは円滑に回るのだと。
Sランクの俺たちにとって、荷物持ちなど不要な飾りだったのだと、世間に知らしめる必要がある。
「行くぞ。痛みは引いた。Sランクの実力を見せてやる」
レオンは強引に右腕を回し、強張る筋肉を無理やり動かした。
関節がパキパキと不穏な音を立てるが、彼はそれを無視して、愛剣グラムを腰に佩いた。
◇
王都から馬車で数時間。『赤竜の渓谷』は、その名の通り、凶暴な亜竜種が巣食う高難易度ダンジョンだ。
切り立った崖と、吹き荒れる熱風。
硫黄の臭いが鼻をつく荒涼とした大地に、レオンたち三人は降り立った。
「……暑いですわね。汗で化粧が落ちてしまいそう」
「文句を言うなマリア。……おいルカ、冷房魔法はどうした?」
「え? ああ、ごめん。常時展開してると魔力消費が激しくてさ。接敵するまで切っておこうかと思って」
魔導師ルカが気だるげに答える。
レオンは眉をひそめた。
以前なら、ダンジョンに入った瞬間から快適な室温が保たれていたはずだ。
アレンが魔力譲渡をしていたおかげで、ルカは湯水のように魔力を使えていたのだが、その事実に気づいている者はまだ誰もいない。
「ちッ、気が利かないな。……よし、進むぞ」
歩き始めて十分もしないうちに、最初の違和感が彼らを襲った。
荷物が重いのだ。
これまではアレンが巨大なリュックを一人で背負い、さらにマジックバッグの管理もしていた。
しかし今は、予備の武器、回復薬、野営道具、食料……それら全てを三人で分担して持たなければならない。
Sランク装備は性能が高い分、重量もある。
炎天下の行軍で、マリアの足取りはすぐに重くなり、ルカも杖を突く回数が増えた。
「ねえレオン様、少し休憩しません? 荷物のベルトが食い込んで痛いですわ」
「まだ入り口だぞ? ……まあいい、五分だけだ」
レオン自身も、肩に食い込む荷物の重さに苛立ちを感じていた。
腰の聖剣グラムが、今日はやけに重く感じる。
まるで、剣そのものが拒絶の意思を示しているかのように、ズシリと腰骨を圧迫していた。
「(クソッ、アレンの奴、いつもこんな重いものを持っていたのか?)」
無意識にそんな思考がよぎり、レオンは慌てて頭を振った。
違う。あいつは才能がないから、力仕事しかできなかっただけだ。
俺たち選ばれし者とは役割が違う。
「休憩終了だ! 魔物の気配がする」
レオンが鋭く声を上げるのと同時に、岩陰から巨大な影が飛び出した。
全長五メートルはある『レッド・オーガ』だ。
筋骨隆々の巨体に、鉄をも砕く棍棒を持った、この階層の中ボス級モンスター。
通常なら苦戦する相手ではない。
「ようやくお出ましだな。雑用係がいなくなって精々したところだ、八つ当たりさせてもらうぜ!」
レオンは荷物を投げ捨て、聖剣グラムを抜刀した。
チャキッ、という金属音と共に、白銀の刀身が太陽の光を反射する。
その輝きは以前と変わらない。
いや、心なしか禍々しい赤黒いオーラが混じっているようにも見えたが、レオンは興奮でそれに気づかなかった。
「ルカ、援護射撃! マリアは強化魔法!」
「了解! 『ファイア・ボール』!」
「『ストレングス・アップ』!」
ルカの放った火球がオーガの顔面で炸裂し、マリアの魔法がレオンの身体能力を底上げする。
オーガが怯んだ隙を見逃さず、レオンは地面を蹴った。
速い。
アレンがいなくとも、俺は最強だ。
その確信と共に、レオンは必殺のスキルを発動させる構えを取った。
「これで終わりだ! 聖光斬!!」
剣に魔力を流し込む。
いつも通り、膨大なエネルギーが刀身に収束していく感覚。
オーガの首を狙い、渾身の力で剣を振り抜いた――その瞬間だった。
バキィィィィンッ!!!!
何かを斬る音ではなかった。
何かが「砕ける」音だった。
「――が、あ?」
レオンの視界がぐらりと揺れた。
オーガの首は飛んでいない。
剣はオーガの皮膚を浅く切り裂いただけで止まっていた。
代わりに、レオンの右腕から、聞いたこともないような異音が響いたのだ。
「ぐ、あああああああああッ!?」
遅れてやってきたのは、昨夜の比ではない激痛だった。
右腕の骨が、内側から爆ぜた。
筋肉が千切れ、皮膚が裂け、毛穴という毛穴から血が噴き出す。
聖剣の柄を握っていた指は、ありえない方向にねじ曲がっている。
「な、なに、これ……熱い、痛い、痛い痛い痛いッ!!」
レオンはその場に倒れ込み、のたうち回った。
剣を取り落とし、自分の右腕を抱えて絶叫する。
その腕は、まるで数百年も経過したミイラのように干からび、黒く変色し始めていた。
「レオン様!?」
「おい、どうしたんだよ!」
マリアとルカが悲鳴を上げる。
だが、事態は待ってくれない。
攻撃を受けて激昂したレッド・オーガが、咆哮と共に棍棒を振り上げたのだ。
「ガアアアアアッ!!」
「ひっ……!」
「迎撃しろルカ! 早く!」
「やってるよ! 『フレア・ランス』! ……えっ?」
ルカが杖を振るうが、魔法が発動しない。
杖の先からプスンと小さな煙が出ただけだ。
ルカは青ざめた顔で自分の杖を見た。
「魔力切れ(ガス欠)……? 嘘だろ、たった一発撃っただけだぞ!?」
「何やってるのですか! 早く!」
「出ないんだよ! 魔力が回復しないんだ!」
ルカはパニックに陥った。
これまで彼は、アレンから常時供給される魔力のおかげで、ペース配分など考えずに魔法を乱発できていた。
その「外部バッテリー」を失った今、彼自身の貧弱な魔力タンクは、最初の火球と移動中の維持ですでに空になっていたのだ。
「う、嘘……じゃあ、どうすれば」
マリアが震える声で呟く。
彼女の回復魔法も、レオンの「呪い」による壊死には効果が薄いことを、彼女はまだ知らない。
迫りくるオーガの棍棒。
その影が、恐怖に固まる三人を覆い尽くす。
「死ぬ……殺される……!」
レオンは地面を這いずりながら、涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにして逃げ惑った。
勇者の威厳など微塵もない。
右腕の激痛で思考がまとまらない。
なんでだ。なんでこんなことになった。
昨日は一撃で倒せた相手だぞ。
なぜ剣を振っただけで腕が腐るんだ。
(――その剣は、使用者の命を削る『呪いの装備』だ)
アレンの声が脳裏に蘇る。
(今までお前 無事だったのは、俺がスキルで呪いの代償を肩代わりしていたからなんだ)
「あ、ああ……あぁぁぁ……ッ」
理解したくなかった。
認めたくなかった。
だが、現実は残酷なほど明確に、その答えを突きつけていた。
痛みが、壊死が、魔力切れが、全てを証明していた。
アレンは嘘をついていなかった。
あいつこそが、俺たちの強さの根源だったのだ。
「マリア! 結界石を使え! 早くしろォォォッ!」
レオンは喉が裂けんばかりに叫んだ。
高価な緊急脱出用の使い捨てアイテム。
Sランクパーティのプライドとして、こんな雑魚相手に使うなど恥辱でしかない。
だが、今はプライドよりも命が惜しかった。
「は、はいッ!」
マリアが震える手で懐から輝く石を取り出し、地面に叩きつける。
光のドームが展開され、振り下ろされたオーガの棍棒を間一髪で弾き返した。
続けて発動した転移魔法により、彼らの体は光の粒子となってその場から消え失せる。
後に残されたのは、投げ出された大量の荷物と、地面に転がる血まみれの聖剣グラムだけだった。
◇
王都の救護所。
転移してきたレオンたちは、すぐに緊急治療室へと運び込まれた。
命からがら逃げ帰った彼らの姿は、あまりにも惨めだった。
「……酷い状態だ」
治療にあたった高位治癒術師は、レオンの右腕を見て顔をしかめた。
皮膚は炭化し、筋肉は萎縮し、骨がスカスカに脆くなっている。
まるで、急激に百年ほどの時間を経過させたような老化現象。
「治せますか……? 俺の腕は、元通りになるんですか……?」
レオンはベッドの上で、虚ろな目で医師に縋り付いた。
激痛は鎮痛魔法で抑えられているが、腕の感覚は全くない。
「正直に申し上げましょう、レオン様。……切断を免れただけでも奇跡です」
医師の冷淡な宣告に、レオンの喉がヒュッと鳴った。
「これは通常の怪我ではありません。強力な呪詛による『代償』です。聖属性の最上位魔法でも、失われた生命力を完全に戻すことは不可能です。……剣を握ることは、もう二度とできないでしょう」
「嘘だ……嘘だ嘘だ嘘だ!!」
レオンは叫び、完治していない腕でシーツを掻きむしった。
剣が握れない? 勇者が?
Sランクの俺が、もう終わりだというのか。
「レオン様……」
「僕たち、どうなるんだよ……」
部屋の隅で、マリアとルカが呆然と立ち尽くしている。
彼らもまた、理解し始めていた。
アレンがいなければ、自分たちは何もできないのだと。
魔力はすぐに尽き、荷物は持てず、防御もできない。
ただの無力な子供に戻ってしまったのだと。
「アレン……」
誰かがその名前を呟いた。
今まで蔑み、馬鹿にし、追い出した男の名前。
今、この瞬間ほど、その名前が恋しく、そして恐ろしく感じたことはなかった。
「アレンを……アレンを連れ戻せ」
レオンは血走った目で二人を睨みつけた。
プライドも羞恥心もかなぐり捨て、彼は唯一の解決策に縋り付いた。
「あいつがいれば、呪いは消える。あいつにまた肩代わりさせればいいんだ! 金ならいくらでもやる! 土下座でもなんでもしてやる! だから……あいつを今すぐ連れて来いッ!」
狂気じみた叫びが病室に響き渡る。
だが、彼らはまだ気づいていなかった。
アレンはもう、彼らの手の届かない場所へ飛び立ってしまったことに。
そして、彼らが支払うべき「ツケ」は、まだ支払いが始まったばかりだということに。
窓の外では、夕暮れの空が血のような赤色に染まっていた。
それはまるで、彼らの未来を暗示しているかのような、不吉な色だった。




