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SINS OF THE PAST  作者: 七日
1/1

影の玉座に座す者

挿絵(By みてみん)


アストリア王国の処刑広場。

 曇天の下、杭に縛られた二人の人影を、群衆が息をひそめて見守っていた。


 油を染み込ませた薪に火が放たれる。

 轟々と燃え盛る炎が罪人を包み、悲鳴は煙に呑まれて空へ消える。


 群衆の端に、ひとりの小柄な影がいた。

 髪を片目に垂らし、擦り切れた布を纏ったその身は、炎に照らされて震えていた。


 火刑を見守るのは、黒鉄の甲冑を纏った騎士――教団最強の剣、シグルド。

 冷たい眼差しは何も語らず、ただ燃え尽きるのを見届けるのみ。


 小柄な影は唇を噛み、血の味を覚えた。

 胸の奥で、声にならぬ誓いを刻む。


 ――いつか必ず、この男を殺す。


 その日から、鉄の輪が手首にはめられた。

 名も家も失い、奴隷として売られる。

 荷物を担ぐだけの存在として扱われながらも、その眼だけは炎のように燃えていた。


---


 厩の藁の上で目を覚ますたびに、手首の鉄の輪は冷たく肌に食い込んでいた。

 馬や牛と同じ場所に押し込まれ、夜ごと獣の吐息に混じって眠る。

 与えられる食事は塩気の抜けた粥と固いパンの切れ端。

 名前を呼ばれることはなく、呼び声はいつも「奴隷」か「荷物持ち」。


 冒険者たちに連れられて初めて迷宮に足を踏み入れた時のことを、今も鮮明に覚えている。

 赤黒い壁は生き物の肉のように蠢き、滴り落ちる液体は血か粘液か判然としない。

 マンイーターの体内に作られたこの迷宮は、王国が布告した「魔法使いの根城」だという。


「よし、荷を下ろせ。剣を取るのは俺たちの役目だ」

 戦士の声に従い、背負った袋を地面に置く。

 次の瞬間、足音が迫り、複数の影が通路の奥から現れた。


 ――ゴブリン。

 粗末な刃物を掲げ、涎を垂らして吠える。


 戦士たちが剣を振るい、斧を振り下ろし、血が飛び散る。

 イオルはただ壁際で震えながらその光景を見守るしかなかった。

 戦いが終わると、血の匂いと死体だけが残される。


「おい、罠を探れ。お前の役目だろう」

 刃に赤を残したままの盗賊が命じる。

 イオルは膝をつき、震える手で床をなぞった。

 専門の知識も技術もない。だが命じられるままに、震える指先で石を押す。

 幸運にも罠は作動せず、盗賊は鼻で笑って通り過ぎた。


 別の日には、骸骨兵が壁を破って現れた。

 カラカラと骨を鳴らし、錆びた剣を振りかざす。

 僧侶が聖句を唱え、光が骸を焼き払う。骨が散らばり、静寂が戻る。


 やはりその後に命じられたのは、罠の解除だった。

 仕掛けられた矢の罠に気づけず、袖をかすめて矢が突き刺さる。

 冒険者たちは笑い、「惜しかったな」と肩を叩くだけだった。

 心臓は潰れそうに脈打ち、膝は震えて立ち上がれなかった。


 幾度目かの探索の折、ついにそれは起こった。


「通路が怪しい。奴隷、先に歩け」

 背中を押され、石の床に足を踏み出す。


 瞬間、足元が崩れた。

 石板が割れ、重力が全身を攫う。

 叫ぶ暇もなく視界が反転し、仲間たちの顔が遠ざかっていく。

 手を伸ばす者は誰一人いなかった。


---


 背中を叩きつけられたのは、見慣れぬ石室だった。

 壁に赤い紋が走り、床には淡く光る魔方陣が刻まれている。

 熱と震えが体を包み、次の瞬間、光が全身を呑み込んだ。


 視界が白に塗り潰され、次に開いたとき――


 そこは広大な石の間だった。

 椅子に凭れかかるひとりの男が、静かにこちらを見ていた。

 白髪の影、鋭い眼差し。


 その視線に射抜かれ、息が詰まった。


「……取るに足らん人間が、ここまで飛ばされるとはな」

 低い声が洞窟に響く。

「本来なら死んでいたはずだ。だが、生きてここにいる」


 長い沈黙ののち、男は問うた。


「お前は何を望む? 生き延びて、何を得たい」


 唇が震えた。だが目を逸らさず、声を絞り出す。


「僕は……荷物持ちとしてここに来た。でも、それだけじゃない」

「強くなりたい。復讐のために」


 石室の空気が揺れる。

 男の眼差しがわずかに細まり、深い影がその奥に沈んだ。


「……そうか。復讐か」

 吐き出す声には嘲りはなかった。

 遠い過去を映すような響きだけが残った。


「……ならば、生き延びる術を掴め。ここでなら、それも可能だ」


 その直後、背丈ほどの小鬼――インプが現れた。

 甲高い声で何事かを呟き、身振りでこちらについて来いと示す。


 通路の先に広がるのは、ただの岩壁だった。

 インプは金槌のような道具を取り出し、ためらいなく壁を叩き始める。

 石片が崩れ、穴が広がり、やがて粗末な空洞となる。


 そこに木の板や布を運び込み、寝台と水桶を組み立てていく。

 雑だが、確かに人が眠れる空間だった。


 ――厩で獣と共に藁に埋もれていた日々を思えば、これ以上の待遇はなかった。

 だが同時に胸の奥が冷たく震えた。


「迷宮に巣食う魔法使いを討て」

 王国の布告が耳の奥で蘇る。

 魔物を従え、この迷宮を支配する存在。


 ……まさか。

 あの椅子にいた男こそ――。


 削り出された部屋を一巡りし、息を吐いた。

 光苔が壁を淡く照らし、粗末な寝台と水桶が置かれている。

 石は冷たく落ち着かないが――厩で藁に埋もれていた頃を思えば、これ以上は望めなかった。

 不思議な満足感が胸に広がる。


 やがてインプが現れ、通路の奥へと手を振った。

 再びあの石の間に戻ると、椅子に凭れた男が視線を上げる。


「……部屋の感想は?」


 問われ、言葉を探しながら答えた。


「厩で眠っていた頃よりも、ずっといいです。

 冷たいけれど……僕には、十分すぎる部屋です」


 その瞬間――ぐぅ、と腹の音が鳴り響いた。

 石の間にこだまするほど大きく。


 イオルは顔を赤らめ、慌てて口をつぐんだ。

 男は短く息を吐き、片手をわずかに動かす。


「……食事を」


 現れたインプが、石の卓に赤黒い果実、干からびた肉、黒いパンを並べていく。

 素朴だが、匂いは確かに食欲を誘った。


 奴隷として誰かと卓を囲むなど、これまでなかったことだ。

 敵か味方かもわからぬ存在と並んで口にする食事は、

 奇妙で、けれどどこか温かさを帯びていた。


男も無言のまま卓に手を伸ばす。

 イオルも恐る恐る果実をかじった。

 驚くほど甘く、喉を潤す味が広がる。


 パンは固く、肉は塩気が強い。だが、久しく口にしていなかった“まともな食事”だった。


 沈黙のまま数口を嚙みしめていたとき、不意に椅子の男が口を開いた。


「……身寄りはあるのか」


 イオルは手を止め、果実を見つめたまま小さく首を振る。


「いません。もう誰も……」


「では、なぜ復讐を望む?」


 胸の奥がざわめき、言葉が喉に詰まる。

 だが嘘はつけなかった。


「家族を……教団の騎士に殺されました。

 何もできず、奪われて……ただ見ているしかなかった。

 だから、強くなって、必ず……」


 拳を握るイオルの横顔を、男は静かに見ていた。

 目を伏せ、低く呟く。


「……なるほど。復讐の炎は消えぬものだ」


 その声音は、どこか遠い過去を思い起こしているようでもあった。


 しばし沈黙が落ちる。だが今度はイオルが問い返した。


「……あなたは、どうしてここに?」


 男の眼差しがわずかに揺れる。

 答えをすぐには返さず、乾いた肉を嚙み切り、しばし沈黙を保った。


 やがて、かすかに唇が動いた。


「……理由があって、この場所から離れられぬ。

 お前と同じだ。奪われたものを取り戻すために、生き延びている」


 それ以上は語らず、卓の上の杯を押しやった。


 イオルはそれ以上深くは聞けなかった。

 だが、この“魔法使い”が自分と同じように復讐を抱えている――そのことだけは確かに伝わった。


 卓の上の果実が食べ尽くされたころ、椅子の男は静かに口を開いた。


「……だがな。今のお前では、復讐など果たせぬ」


 イオルは息を呑み、固く拳を握った。

 だが男の視線は冷ややかで、情けはなかった。


「力を求めるなら、鍛えろ。生き延びるための術を身につけろ」


 そう言うと、インプに命じて通路へ導かせた。

 辿り着いたのは、光苔に照らされた小さな石室。

 床の中央に、どろりとした青い塊――スライムが蠢いていた。


「……僕が、これを?」


「殺せ。今の力で足りるか、試してみろ」


 唇が乾き、手に汗が滲む。

 震える手で短剣を構え、イオルは一歩前に出た。

 スライムが粘液を飛ばし、壁に叩きつける。

 体を丸め、跳ねかかる影を必死に避ける。


 剣を振り下ろす――粘液が飛び散り、刃は重く沈んだ。

 恐怖と必死さだけで振るった一撃が、奇跡のようにスライムを裂いた。

 ぶしゅりと音を立て、青い塊は床に崩れ落ちる。


 肩で荒く息をつくイオルの耳に、低い声が届いた。


「……悪くない。だが、それだけでは足りん」


 その時だった。

 空気が冷え、苔の光が揺らぐ。

 通路の奥から柔らかな足音が近づき、やがて姿を現したのは――


 緑の衣をまとい、長い髪を流す女。

 木々の精を思わせるその姿は、この迷宮には不釣り合いなほど神秘的だった。


 だが眼差しは冷たく、声は厳格に響いた。


「……まだ動けるのか、賢者」


 その一言に、イオルは息を止めた。

 賢者――。布告にあった“迷宮に巣くう魔法使い”のことではないのか。


 女の視線が、ちらりとイオルに向けられる。

 試すような、あるいは値踏みするような眼差し。


「この子を……選ぶつもりか?」


 冷たい声が石室を震わせた。

 女――ドライアドは一歩前に進み、揺れる緑の髪を垂らしながらエルデンを見据える。


「大地は荒らされ、森は切り拓かれた。お前がここで生き延びているのは、私の気まぐれにすぎぬ。

 忘れるな――この地を縛る鎖を断ち切るまで、私はお前を生かしている」


 エルデンは短く目を閉じ、わずかに肩を落とした。

 その姿は威厳ある賢者というより、鎖に繋がれた囚人のように見えた。


「承知している。だが……選ばれたのは、あの子だ」


 その言葉に、イオルは息を詰めた。

 女の眼差しが、再び自分を射抜く。


「選ばれた……? 僕が……?」


 ドライアドは目を細め、冷ややかな声音で告げる。


「この子に力を与えても、復讐しか知らぬ。

 血を血で洗う道に堕ちるのは、もはや必然だろう」


 イオルは返す言葉を失い、拳を握りしめるしかなかった。

 心臓の鼓動が耳の奥を叩く。

 それでも俯かず、女の視線を正面から受け止める。


「……それでも、強くなりたい。僕には、それしか残ってない」


 声は震えていた。だが、確かに己の意志を宿していた。


 しばし沈黙ののち、ドライアドはわずかに顎を引いた。

 冷ややかな眼差しの奥に、ほんのかすかな揺らぎが見えた。


「ならば、見届けてやろう。

 お前が真に“選ばれる”に足る存在かどうかを」


 そう告げると、女は緑の光に包まれ、森の匂いを残して消えた。


 石室に再び静寂が訪れる。

 イオルは膝に手をつき、荒い呼吸を繰り返した。


 椅子に凭れたエルデンが、深い影を宿した目でこちらを見つめる。


「……聞いたな。お前の望みがただの憤怒か、それとも生き延びるための力に変わるか――それを試す時が来る」


 イオルは無言で頷いた。

 胸の奥に渦巻く恐怖と、復讐の炎。

 それらを抱えたまま、背筋を伸ばした。


---


 ドライアドが去った後も、石室の空気は重かった。  エルデンは椅子から立ち上がり、背後の壁に寄りかかった。


「いいか。剣も呪文もなくとも、生き延びる術はいくらでもある。  まずは“罠”だ。お前の手ならそれが一番早い」


 イオルは首をかしげる。罠といえば、これまで冒険者に命じられて探すものだった。  矢を受ける危険を押しつけられる、死と隣り合わせの役目。  それを“使う”など考えたこともなかった。


 エルデンは石の床にしゃがみこみ、白い指先で粉を撒いた。  小瓶から滴る液体が石を焼き、煙を上げる。  瞬く間に、細工した石の隙間から鋭い刃が突き出た。


「これは単純な落とし罠だ。仕掛けるも外すも、要は構造を知ること。  お前は奴隷として命令されて“探す”だけだった。だが、今度は“仕掛ける”側に回れ」


 イオルは目を見開いた。  これまで恐怖の象徴でしかなかった罠が、己を守る武器に変わる――その発想が、胸を震わせた。


通路に出され、インプが連れてきたスライムと相対する。ヌルリとした影が這い寄り、粘液を飛ばす。


「怯えるな。罠に誘い込め」


 エルデンの声が背に響く。

 イオルは必死に走り、床に撒かれた粉の上へとスライムを誘った。

 次の瞬間、石板が弾け、刃が飛び出す。  スライムが切り裂かれ、青い体液が飛び散った。

 荒い息を吐きながら振り返ると、エルデンは短く頷いた。


「いいだろう。覚えが早い。……次は、罠がなくとも戦え」


 投げ渡されたのは石ころと、短い革紐。  それが武器になるのかと戸惑うイオルに、冷たい声が落ちる。


「スリングだ。魔術師を倒すにはこれが一番いい。覚えろ」


 手を震わせながら紐に石を挟み、振り回す。  音を裂いて石が飛び、スライムの中心を撃ち抜いた。

 ぐしゅりと音を立て、粘液が散った。

 恐怖と緊張の中で、それでも確かに一歩前へ進んだ実感があった。


 壁際に腰を下ろすと、全身の力が抜けた。

 荒い息を吐きながら、自分の指先がまだ震えているのに気づく。


 けれど――奴隷として押しつけられた罠探しとは違う。

 罠を仕掛け、スリングを放ったのは、自分の意志だ。

 生き延びるため、強くなるため、復讐を果たすために。


 胸の奥に、小さな炎のような熱が宿っているのを感じた。


「……気づいたか」

 声に顔を上げると、エルデンが壁に凭れ、静かにこちらを見ていた。


「お前はまだ弱い。だが、奴隷として怯えていた頃よりは、確かに前へ進んでいる。

 その実感を忘れるな」


 イオルは短く頷いた。呼吸は荒いままだったが、胸にあるのは恐怖ではなく確かな熱だった。


---


 数日後、エルデンは石室の床に紋を描いた。

 赤黒い光が広がり、空気が沈む。

 立ち上がった影は――イオル自身だった。


 半透明の身体、赤く濁った瞳。

 それはゴーストとなったイオルであり、冷たい表情のままじっとこちらを見返している。


「……これ、僕……?」


「そうだ。己を超えられぬ者に、復讐など語る資格はない」


 影が一歩踏み出した瞬間、空気が冷えた。

 イオルは反射的に短剣を構える。

 しかし次の瞬間、視界が揺らぎ、首を絞められていた。

 冷たい手が喉を掴み、体の奥から熱が奪われていく。


「がっ……!」

 息が詰まり、膝が折れる。

 影の顔は自分そのもの――無表情で、冷酷で、弱い自分を嘲っているように見えた。


「抗え。恐怖に呑まれるな!」

 エルデンの声が石室に響く。


 必死に短剣を振り上げるが、影は霞のように体を透過し、背後に回り込む。

 背を蹴られ、床に叩きつけられた。

 視界が白く弾け、吐き気が込み上げる。


 ――勝てない。

 そう思った瞬間、胸の奥で別の声が囁いた。


 また逃げるのか? 奴隷のままでいいのか? あの日見た炎と血を忘れたのか?


「……違う!」

 自分でも驚くほどの声が喉から絞り出された。


 立ち上がり、影の動きに合わせて踏み込む。

 影が腕を伸ばし、再び首を掴もうとした瞬間、イオルは短剣を逆手に構えて突き出した。


 刃が影の胸を裂き、黒い霧が迸る。

 影は呻き声を上げ、よろめきながらも消えない。

 代わりに今度はイオルと同じように短剣を構え、切りかかってきた。


 刃と刃がぶつかり合い、火花が散る。

 影の一撃は重く、冷たく、イオルの腕を痺れさせた。

 だが退くわけにはいかなかった。


「僕は……死ねない!」


 振り下ろされた影の短剣を弾き返し、すれ違いざまに首筋を狙う。

 鋭い感触とともに影の身体が裂け、悲鳴が石室に木霊した。


 赤い瞳が揺らぎ、影は崩れ落ちて霧散した。

 残響のように、自分自身の呻き声が耳に残る。


 荒い息を吐きながら膝をついたイオルを、エルデンは冷ややかに見下ろした。


「……今の一撃、ようやく生き延びる者の刃だった。

 だが忘れるな。これは始まりにすぎん」


 イオルは歯を食いしばり、黙って頷いた。

 恐怖と震えはまだ体を支配していたが、胸の奥には確かに小さな炎が燃えていた。


 そのとき、扉が軋み、インプが食事を運んでくる。

 温かい粥と干し肉、黒いパンの籠。

 香りが漂うと同時に、イオルの腹が鳴った。


 エルデンは目を細め、器を押しやった。

「食え。弱った身で剣を振るっても無駄だ」


 イオルは木匙を握り、夢中で粥を口に運んだ。

 温かさが喉を下り、腹の奥を満たしていく。


 食べながら顔を上げると、エルデンの瞳が遠くを見ていた。


「……かつては、私も仲間とこうして食事を囲んだ」

 低い声は、思い出をたぐるように途切れ途切れだった。

「剣を振るい、盾を掲げる戦士。祈りと癒しで我らを守る僧侶。

 愚かだが陽気で、道を間違えれば笑って引き戻してくれる者もいた……」


 一瞬、エルデンの口元がわずかに緩む。だがすぐに影が覆った。


「そして、ロードリック。

 我らを率い、悪魔ネフカリオンを討つために剣を掲げた“英雄”」


 その名を吐くとき、声は鋭く冷たくなった。


「奴を信じていた。誰よりも。

 だがネフカリオンを封じたその瞬間――奴は我らを裏切り、報酬を独り占めするために剣を振るった」


 イオルは息を詰めた。

 焚火を囲み、笑い合っていた光景と、血に塗れた裏切りの場面が交錯するのを想像する。


「戦士は盾ごと胸を貫かれ、僧侶は祈りを途絶えさせた。

 そしてバードは――最後まで笑い声と歌で恐怖を隠し、血を吐きながら倒れた」


 エルデンの眼差しは硬い石のように冷えていた。

 けれどその奥に、深い悲しみが沈んでいるのをイオルは見逃さなかった。


「私は瀕死で逃れ、指輪を奪ってこの迷宮に潜った。

 その代償が、今の姿だ」


 イオルの胸の奥で、灯った炎が揺れる。

 自分の復讐と、エルデンの憎悪が、わずかに重なり合った瞬間だった。


 エルデンは椅子の肘掛けに手を置き、淡く光る指輪を見せた。

 冷たい銀に赤黒い宝石が埋め込まれ、室内の灯りを吸い込んでいる。


「これが《支配の指輪》。魔物を縛り、使役する権能を持つ」


 イオルは息を呑んだ。

 魔物は人を襲う存在――そう信じて疑わなかった。

 だが目の前の賢者は、その常識を覆すようにさらりと告げる。


「迷宮そのものは、私が生み出した《マンイーター》の体内に築かれている。

 人が踏み込めば、その振動と匂いを通して私に伝わるのだ」


 言葉が終わると同時に、エルデンの瞳が細められた。

「……来たな」


 石室の壁が震え、インプが慌ただしく駆け寄る。

 報告の必要もなく、エルデンは立ち上がった。


「よく見ておけ。指輪の力がどう働くか――そして、冒険者をどう狩るかを」


 赤い光が指輪からほとばしり、魔法陣が床に浮かび上がる。

 次の瞬間、骸骨兵が数体、音もなく姿を現した。

 その眼窩には紅い火が宿り、無言のまま通路へと進む。


 しばらくして、外から怒号と金属のぶつかる音が響いた。

 冒険者たちの声、叫び、悲鳴。

 そして……沈黙。


 骸骨兵たちが戻ってきたとき、足元には血に濡れた首と剣が転がっていた。

 エルデンはそれを見下ろし、わずかに指を鳴らす。

 骸骨たちは首を捧げるように差し出し、崩れ落ちた。


「こうして血は迷宮に還る。

 迷宮に注がれた命はすべて、我が力の糧となる」


 イオルは唇を噛みしめた。

 冒険者の死、それが賢者を強くする血脈になる――

 その現実に寒気を覚える一方、己が目指す復讐の道も、この力を知らずして歩めないと悟った。


 そのとき、エルデンの冷たい声が落ちる。


「……教団の騎士を城で討つのは分が悪い。

 教団は王の庇護の下にあり、軍勢に囲まれている。

 だが、ここに誘い込めば話は別だ」


 イオルの視線がわずかに揺れる。


「冒険者を狩り続ければ、王国は恐れ、討伐隊を組む。

 復讐を果たしたいのなら、まずは血を流し、この迷宮へ奴を引きずり込むのだ」


 胸の奥に沈んでいた小さな炎が、静かに大きさを増した。

 ただの殺戮ではない。

 目的のために積み上げる犠牲――それが、自分の戦う理由となる。


 そのとき、エルデンは指に嵌めていたひとつの指輪を外す。


 銀の輪に、闇色の宝石が埋め込まれている。

 見た目はただの装飾に過ぎない。だが纏う気配は、冷たい死そのものだった。


「これは《死の指輪》。魔物が死ねば、その力を一時的にお前に宿す。

 血を糧にして強くなれ。……お前に相応しい」


 イオルは躊躇しながらも手を差し出す。指輪が嵌められると、冷気が骨の奥まで染み込み、体の奥底で何かが蠢いた。


 さらにエルデンは黒い鞘を取り出し、そこから細身の短剣を引き抜いた。

 刃は月光のように白く光り、その先端は空気すら裂くように鋭い。


「そしてこれが《ヴォーパルダガー》。首を刈るために作られた刃だ。

 迷宮の闇で、静かに、確実に――これがお前の牙になる」


 イオルは両手で短剣を受け取り、その重みを確かめる。

 奴隷として与えられるはずのない、真の武器。

 胸の奥で燃える炎が、確かな形を持った気がした。


---


 その夜、イオルは石造りの部屋で短剣を抱いたまま横になった。

 冷たい死の指輪が指に嵌められ、微かな重みが眠りを縛る。

 それでも、不思議と安らぎがあった。

 ――初めて、自分だけの武器を得たのだ。



 翌朝。

 部屋の外でばたばたと小さな足音が響き、扉が勢いよく開いた。

 インプが鼻を鳴らし、甲高い声で叫ぶ。


「ご主人! 侵入者、三人!」


 イオルは跳ね起き、ヴォーパルダガーを握った。

 指にはめられた《死の指輪》が冷たく輝き、胸の鼓動を締めつける。


 エルデンは椅子に深く凭れたまま、瞳だけを向ける。

「……見本はもう済んだ。次はお前の番だ」


 そう言うと、指を鳴らした。

 床に赤黒い魔方陣が浮かび上がり、骨の兵士――スケルトンが呼び出される。

 ぎしりと音を立てて剣を掲げ、イオルの隣に立った。


「テレポーターで近くへ送る。真正面ではなく、影からだ。

 魔物は盾となる。だが刈り取るのは――お前自身だ」


 イオルは小さく頷き、スケルトンと共に魔方陣の中心に立った。

 光が足元から立ち上がり、視界が白に弾ける。


 次に踏み出したのは、湿った脇道だった。

 壁は粘膜のように脈動し、遠くから冒険者の声が聞こえてくる。

 松明の明かりが揺れ、通路の先に戦士と僧侶、盗賊の背が見え隠れした。


 隣のスケルトンがぎしりと剣を構える。

 イオルは呼吸を整え、短剣を握り直した。


 ――初めての狩りが、始まる。


---


 通路の奥から三人の冒険者が現れた。

 先頭は戦士、背後に松明を掲げた僧侶、そのさらに後ろで弓を構えた盗賊。


 弓弦が鳴る。矢が飛ぶ――だが、スケルトンが盾を掲げ、矢は乾いた音を立てて弾かれた。


 「今だ」

 エルデンの声が頭に響く。


 イオルはスリングを振り、革紐を僧侶の足へ絡ませる。

 力任せに引き倒し、僧侶が悲鳴と共に床へ崩れた。松明が転がり、炎が揺れる。


 怒声をあげた戦士が突進し、スケルトンと斬り結ぶ。

 剣と盾がぶつかり合い、狭い通路に衝撃音が響き渡る。

 一閃――骨の兵士が頭蓋を砕かれ、崩れ落ちた。


 その瞬間、イオルの指にはめられた《死の指輪》が熱を帯びる。

 血管を駆け上がるような力が全身を突き抜け、恐怖が霞のように消える。刃は異様に軽く、世界が鮮明に見えた。


 イオルは背後に回り込み、ヴォーパルダガーを振り下ろす。

 刃が首筋を断ち、戦士の巨体が血飛沫と共に崩れ落ちた。


 僧侶は這いずりながら立ち上がり、祈りを口にする。だがその胸を、スケルトンの剣が突き破った。呻き声と共に光は途絶える。


 盗賊は恐怖に駆られ背を向けた。逃げようとした瞬間、別のスケルトンが剣を振るい、その背を裂いた。

 短い悲鳴を残し、盗賊は壁にもたれたまま動かなくなる。


 血と死体だけが通路に残った。

 肉の壁がぬめりと震え、流れ出た血を吸い込んでいく。


 イオルは荒い息を吐き、手を見下ろした。刃は赤に濡れ、指輪はまだ脈打つように熱を放っていた。


 「……これが《死の指輪》の力だ」

 エルデンの声が低く響く。

 「仲間の死を糧に強くなる。それを恐れるな。お前は今、一歩を踏み出した」


 イオルは震える指で刃を握り直し、深く息を吸った。

 胸の奥で燃える炎が、もう後戻りを許さぬほど大きくなっていた。


 血に濡れた刃を握ったまま、イオルは通路の奥に立つ転移陣へと歩み寄った。

 肉壁に刻まれた紋が青白く脈打ち、足を踏み入れた瞬間、光が全身を包み込む。


 次に目を開けたときには、すでにエルデンの居る広間へ戻っていた。

 石の床に残る転移の光が消えると、インプが音もなく現れ、イオルのために扉を押し開ける。


 部屋に入るなり、膝が笑い、イオルはそのまま椅子へと腰を落とした。

 握った短剣がカランと音を立てて床へ転がり、震える手だけが残る。


 「……初めてにしては、よくやった」

 エルデンの低い声が背後から響いた。

 褒めるでも慰めるでもない。ただ事実を告げる声音。


 イオルは視線を落とし、赤く濡れた手を見つめた。

 血の匂いがまだ鼻を突き、指輪は脈動するように熱を帯びている。


 心臓が速く打ち続け、胃がせり上がる。吐き気にも似た感覚。

 それでも――胸の奥で燃える小さな炎だけは、決して消えなかった。


 (……怖かった。でも……これが、力……)


 恐怖と昂揚が混ざり合い、初めて人を殺した重みが全身を締め付ける。

 それでもイオルは、奥歯を噛みしめて目を閉じた。


---


 まぶたを開けると、薄暗い石天井が目に入った。

 夢の中でも血の匂いと断末魔が付きまとい、胸を押し潰していた。

 だが手を見れば――短剣と指輪はそこにあり、すべては現実だった。


 「起きたか」

 低い声に振り向くと、エルデンが椅子に腰掛け、静かにこちらを見ていた。


 イオルが身を起こすと、インプが音もなく近づき、抱えた装備を床に並べていく。

 血と泥を丁寧に拭われたそれらは、昨夜の冒険者が身に着けていたものだ。


 革鎧は軽く柔らかく、胴にぴたりと馴染む。

 深い色のマントは影に溶け、背を覆い隠す。

 腰に吊るす小さな革袋には、盗賊の持っていた工具が詰まっていた。


 イオルは恐る恐る袖を通し、身体をひねる。

 動きを阻害しないその軽さに、思わず息を呑んだ。

 昨日までの奴隷の鎖とは違う――これなら走れる、隠れられる、背後に忍び寄れる。


 「……盗賊の装備か」

 エルデンが低く呟いた。

 「お前には丁度いい。影に紛れ、背を取る者の装いだ」


 イオルは小さく頷き、胸の奥に浮かぶ感覚を押し殺した。

 恐怖と共に、確かにそこには奇妙な安堵と、僅かな誇りがあった。


 革鎧の感触に慣れぬまま立ち上がると、通路の奥から軋むような音が響いた。

 骨のぶつかる乾いた音が近づき、昨日と同じスケルトンが姿を現す。

 だがその眼窩には、青白く揺らめく光が灯っていた。


 「……昨日の死が、この迷宮に溶けた」

 エルデンが静かに告げる。

 「お前が狩った冒険者たちの血肉は、マンイーターの壁に吸い込まれ、血脈として我に還る。

 その分、使える魔物はより強靭になり、数も増える」


 スケルトンは以前より速やかに剣を構え、動きに無駄がなかった。

 武器の切っ先が床に擦れることもなく、瞳の光は命令を待つ獣のように鋭い。


 イオルは思わず息を呑む。

 昨日、死と隣り合わせで必死に生き延びた自分の行いが、こうして力に変わっている。

 それは恐ろしくもあり、同時に――確かな報いでもあった。


 「……わかるな」

 エルデンは視線を落とさず言った。

 「お前が剣を振るうたび、この迷宮もまた成長する。お前自身と同じようにな」


 イオルは短剣の柄を強く握りしめた。

 恐怖と誇り、その両方が胸を満たし、次の血を求める鼓動に変わっていく。


 血と鉄の匂いに慣れぬまま、イオルは迷宮を抜け出した。

 夜の森はしんと静まり返り、木々の梢が月光を受けて銀色に輝いていた。

 枝の間を渡る風が草を揺らし、湿った土の匂いが肺に満ちる。


 ――ここには、血の匂いも怒号もない。


 イオルは思わず深く息を吸い込み、背にまとわりついていた重苦しいものが少しだけ薄れるのを感じた。

 闇に沈む迷宮と違い、森は生きていて、どこか優しい。

 その温もりが、張り詰めていた心を解きほぐしていく。


 やがて小川のせせらぎが耳に届いた。

 月明かりを映す水面は揺らぎ、草の香りとともに冷ややかな空気を放っている。


 「……血の匂いを落とすといい」

 後ろからエルデンの声がしたが、振り返った時にはその姿はもうなかった。

 気配さえ消え、イオルはひとり取り残される。


---


 革鎧を外し、膝をついて水に手を浸す。

 冷たさが指先を刺し、思わず息を呑んだ。

 腕や頬を擦ると、こびりついた血が水に滲み、流れていく。

 水面に映るのは、自分でも知らない表情をした顔だった。


 「……これが僕か」

 ぽつりと呟く。奴隷だった頃とは違う――もう後戻りできない。


 そのとき、木々がざわめき、空気が張り詰めた。

 振り向くと、白銀の髪を持つ女がそこに立っていた。


 冷たい瞳、揺らがぬ立ち姿。土地神ドライアド――ネリサ。


 「血も死も、隠すことはできぬ」

 ネリサの声は水面を渡る風のように鋭く響く。

 イオルは慌てて身を縮めるが、その仕草さえ見透かされたようで頬が熱を帯びた。


 「だが、この森はお前を拒まぬ。

  芽吹いた決意を折らぬ限り、お前の歩む道はここに続く」


 言葉を残し、ネリサは木々の闇へ溶けるように姿を消した。


 残されたのは、水音と鼓動だけ。

 イオルは胸に手を当て、己の震えを押し殺した。


 森で血を洗い流し、ドライアド――ネリサの冷たい言葉を受けた後、イオルは迷宮に戻った。

 身体は冷えていたが、胸の奥には奇妙な静けさと、小さな炎のようなものが灯っていた。


 部屋に入ると、インプが机に食事を置いて立ち去る。

 イオルは手をつけず、椅子に凭れかかるエルデンをまっすぐ見上げた。


 「……訓練をしてください」


 その声はまだ弱々しかったが、瞳に宿る光は揺らがなかった。


 エルデンは短く視線を落とし、白い指先をわずかに動かす。

 空気が凍り、冷気が這い寄る。

 霧が濃く渦巻き、今回は二つ、三つと影が重なって現れた。


 ――ゴースト。


 前よりも数が多く、重苦しい気配に胸が圧迫される。

 冷気が喉を締めつけ、思わず足がすくんだ。


 「昨日と同じと思うな。恐怖は重なるごとに深くなる」

 エルデンの低い声が落ちる。


 イオルは短剣を抜き、呼吸を整えた。

 一体が手を伸ばし、腕に触れる。骨に響く冷たさに体が硬直しかける――

 だが、昨日の自分とは違う。


 スリングを取り出し、石を飛ばす。

 風を裂いた音と共に一体が砕け散る。


 だが残る影は二つ。冷気が全身を覆い、背後から首を掴まれる。

 視界が暗転しそうになった瞬間、イオルは頭を振り返りざまに打ちつけ、短剣を突き立てた。

 白い霧が悲鳴のように散る。


 最後の一体は前方から迫り、影の腕を振り下ろす。

 足が震えた。けれど逃げずに踏み込み、刃を胸に突き立てる。

 影は揺らぎ、やがて霧散した。


 石室に静寂が戻る。

 荒い息を吐きながら、イオルは膝に手をつき、短剣を握り直した。


 エルデンは長い沈黙ののち、冷ややかに告げる。


 「……悪くない。恐怖を呑み込み、刃に変えた。それでいい」


震えはまだ残っていた。

だが胸の奥にある炎は、確かに昨日よりも強くなっていた。


イオルは深く息を吸い、壁に背を預けて静かに目を閉じた。訓練で磨かれた感覚が、ようやくイオルの中に根を張り始めているのを感じる。


 ――そのときだった。


扉の上に留まっていたインプが、甲高い声で報告した。

「ご主人! 侵入者、四人!」


エルデンは椅子から身を起こし、細長い羊皮紙を差し出す。

「……行けるか?」


イオルは短く頷いた。

「これは転移の巻物だ。危うくなれば使え」

その声には冷徹さだけでなく、かすかな心配が滲んでいた。


イオルはそれを受け取り、革鎧の胸元に仕舞う。

そして転移陣の光に包まれ、戦場へ送られた。



---


通路に現れた瞬間、湿った肉壁の奥から松明の光が揺れる。

剣士、僧侶、魔法使い、盗賊――四人の冒険者が列を成して進んでくる。


イオルは仕掛けた罠の横に身を潜め、息を殺した。

その背後で、二体のケルベロスが低く唸り、赤い眼を光らせている。

さらに闇の奥には、エルデンが操るグールの影が佇んでいた。


足音が近づく。冒険者たちが罠の位置に踏み込む寸前――。

ケルベロスが吠え猛り、背後から飛びかかった。


「なっ……!?」

剣士が驚愕する間もなく、両脇から噛みつかれ、血が飛び散る。

剣を振り抜いて抵抗するが、深手を負い体勢を崩す。


「炎よ、燃やせ!」

魔法使いが詠唱を完了し、灼熱の炎が通路を薙いだ。


「イオル!」

エルデンが操るグールが飛び出し、炎を受け止めた。

肉が焼け爛れ、悲鳴と共に崩れ落ちる。


その瞬間、エルデンの視界が途絶えた。

「……見えん! イオル、今どこだ!」

焦りを帯びた声が頭に響く。


だがイオルの指にはめられた《死の指輪》が熱を帯び、全身を駆け抜ける。

失われた仲間の死が力へ変わり、恐怖が霞む。


イオルは胸元から転移の巻物を取り出し、躊躇なく魔法使いへ叩きつけた。

光が弾け、魔法使いは壁に呑まれ――悲鳴を上げながら肉と骨が押し潰された。


その隙を逃さず、イオルは投げナイフを閃かせる。

剣士の喉に突き刺さり、血を噴き上げて崩れ落ちた。


「ひっ……!」

盗賊が背を向けて逃げ出す。だが足元の石板が沈み、床下から槍が突き上がった。

胴を貫かれ、断末魔と共に地に沈む。


残された僧侶は震えながら後退し、通路を駆け抜けて逃げていった。

イオルは追わず、短剣を下ろした。



---


転移陣を踏むと、再び広間に戻る。

迷宮の壁が脈動し、通路に散った血を吸い上げていく。

その流れは赤黒い光となってエルデンの掌へ還り、魔物たちの眼窩に新たな輝きが灯った。


エルデンは椅子に凭れながらも、低く問う。

「……無事か」


イオルは息を荒げたまま頷く。


白髪の賢者の眼差しが鋭く細まった。

「だが……甘いな。なぜ僧侶を逃がした」


イオルは唇を湿らせ、低く答えた。

「伝えさせるため。討伐隊を呼ばせる。それが狙い」


長い沈黙の後、エルデンの口元にわずかな笑みが浮かぶ。

「……なるほど。甘さではなく策、か。お前、確かに強くなっている」


イオルは短剣を握り直し、熱を帯びた指輪に視線を落とした。

胸の奥の炎は、もう恐怖では消せないほどに燃え上がっていた。


戦いを終えた広間は、赤黒い光に包まれていた。

通路に散った血と魂が壁へ吸い込まれ、脈動する肉が震えている。


エルデンはその波動を掌に受け止め、低く息を吐いた。

「……見える。血脈が満ちてきた。あとわずかで、この身も全快に戻るだろう」


イオルは肩で息をしながら、死の指輪の熱を意識した。

それがエルデンの言葉を裏付けるように、力強く脈打っていた。


その時、インプがよろよろと現れ、大きな袋を床に下ろした。

中には冒険者たちの鎧や武器が詰め込まれている。

「装備、持ってきた。選べ」

甲高い声は変わらず無機質で、ただの任務報告のようだった。


イオルは血に濡れた鉄鎧を見て首を振り、軽やかな革鎧と短弓、道具袋を選び取った。

それは影に生きる者の装いに近く、彼の動きに自然に馴染むものだった。



---


一方その頃――。


アストリア王都の冒険者ギルド。

普段は笑いと喧噪で溢れる広間が、その夜は重苦しい空気に支配されていた。


血にまみれた僧侶が扉を蹴破るように飛び込み、膝から崩れ落ちる。

「た、助けてください……! 剣士も、魔法使いも、盗賊も……皆、迷宮で……!」


場にいた冒険者たちの表情が一斉に凍りついた。

誰もが聞き知っている――彼らは「鋼級」の冒険者パーティ。

王都でも屈指の実力者たちだった。


「馬鹿な……あいつらが、全滅だと?」

「嘘だろ、あいつらは竜狩りにも加わった連中だぞ」


ざわめきが渦を巻き、やがて沈黙に変わる。

依頼主として待合にいた商人たちも青ざめ、互いに顔を見合わせて立ち去り始めた。


「……こんな状況で依頼を出せるものか」

「迷宮調査なんて、無理だ。金を積んでも死んでは意味がない」


次々と依頼票が剥がされ、掲示板はみるみる白紙のようになっていく。

冒険者たちも黙り込み、誰も目を合わせようとしなかった。


奥から現れたギルド長が、低く言葉を落とす。

「……これは王国に知らせねばなるまい。鋼級が狩られたとなれば、次は我々の手には負えん」


重い沈黙の中、使者が急ぎ城へと走っていった。


---


アストリア城・玉座の間。


封蝋を割った書簡を読み上げる使者が、膝をついたまま声を震わせた。

「……冒険者ギルドより。数日の探索の末、鋼級一隊が全滅。生存者の証言によれば――」


読み上げは一拍置かれる。

「『迷宮には魔法使いが巣くう』との従前の布告に相違ありませんが、同時に――魔物に号令を下す者の存在が確認された、と」


廷臣がざわめく。

「魔法使いだけと聞いていたはずだ」

「では、魔法使いとは別に主がいるのか」

「いずれにせよ、冒険者は引いた。依頼は止まり、誰も赴かぬ」


玉座の上でロードリックは瞼を細めた。

「……民の力は尽きたということだな。――王国軍を動かす。討伐隊を編成せよ」


重い沈黙を裂いて、黒衣の神官が一歩進み出る。

「陛下。我ら教団もこの任に力を。最強の剣――シグルドを差し出します」


甲冑の打ち合わせる音。

松明の火が揺れ、銀の鎧を纏った巨躯が現れる。月光を閉じ込めたような光沢が広間を照らした。背には巨大な処刑剣。氷のような眼が玉座を射抜く。


「命じよ。――魔法使いであれ、魔物の主であれ、断つべき敵に変わりはない」


 森を覆う王国軍三百の焚き火が夜空を赤く染めていた。

 だが実際に地下へ踏み入れるのは、その中でも選ばれた十人。


 「残りはここで待ち伏せだ。奴らを地上に逃がすな」

 将の命令に兵たちは頷き、迷宮の周囲を固める。


 地下に潜る十人こそ、王国と教団が誇る精鋭だった。

 王直属の騎士に、祈祷師と魔術師。

 そしてその先頭に立つのは、銀鎧のシグルド。


 「三百の軍勢など必要ない。十人の精鋭で十分だ」

 そう豪語したロードリックの言葉は、兵たちの耳にまだ残っていた。


---


 エルデンは椅子に凭れながら、冷たい瞳を細めた。

「……来たか。十人の精鋭。その中に――シグルドがいる」


 名を聞いた瞬間、イオルの胸が凍りつく。

 息が詰まり、握った短剣が震えた。


 「お前の標的だな。家族を処刑した、教団最強の剣……」

 エルデンの声は低く重い。


 イオルは奥歯を噛みしめ、言葉を絞り出す。

「……はい。僕が、この手で……」


 その時、扉の上に留まっていたインプが、甲高い声で叫んだ。

「ご主人! 侵入者、迷宮に入りました!」


 エルデンは椅子から立ち上がり、イオルを見据える。

「……行け。魔物は我が呼び寄せる。だが罠はお前の役目だ」


 イオルは小さく頷いた。

「はい」


 インプを連れ、イオルは迷宮の通路へと駆け出す。

 松明に頼らず、肉壁の赤い光だけを頼りに歩く。

 通路の節々に粉を撒き、細工した板を仕掛け、毒針の仕掛けを隠す。

 背後でインプが釘や縄を差し出すたび、イオルは無言で受け取り、次々と罠を整えていった。


---


アストリア王国の精鋭十人は、森を抜けてマンイーターの咽喉へと足を踏み入れた。

 肉の壁が脈打ち、血と粘液の匂いが充満する異形の迷宮。松明の炎はすぐに湿気で鈍り、鉄の鎧には赤黒い雫が滴る。


 先頭には銀の鎧を纏うシグルド。その背を追って二人のソードマスターが無言で剣を構え、黒鎧のブラックガードが盾のように並ぶ。


 後列には二人のアークメイジと二人のハイプリースト。杖と聖印を掲げ、絶えず詠唱を繰り返し、瘴気を払いながら進む。

 両脇を固めるのは二人のマスタースカウト。矢を番え、罠を探りながら目を光らせていた。


 B3階で群れをなしたオーガが現れると、シグルドは銀の剣で一閃し、肉を裂き骨を砕いた。

 ハイプリーストが癒しを重ね、アークメイジの火球が通路を灼いたが、残骸はなおも呻き、這い寄った。

 ソードマスターたちは黙々と斬り伏せ、血飛沫の中で前進を続けた。


 B5階ではケルベロスが炎を吐き、祈祷の障壁を焼き焦がした。

 マスタースカウトの矢がその眼を射抜き、ソードマスターが首を刎ねる。だが片方は炎を浴びて鎧を黒く焦がし、苦鳴を漏らした。

 ハイプリーストが必死に治癒を施すも、疲労は隠せなかった。


 B7階に差しかかると、冷気を纏うリッチが現れ、影を引き連れて立ちはだかった。

 アークメイジ二人が同時に呪文を唱え、炎と雷が轟く。

 黒煙の中からデスナイトが突進し、ブラックガードが受け止めた。盾と剣がぶつかるたびに火花が散り、金属の悲鳴が響き渡った。


 幾度も立ち止まり、息を整え、癒しを重ねながら彼らは進んだ。

 汗は兜の下を流れ、祈りの声は震え、魔術師の唇は乾いていた。

 それでもシグルドはただ前を睨み、歩みを止めることはなかった。


 「最強の剣が共にあるならば、迷宮も討てる」

 誰もがその言葉に縋りつき、恐怖を押し殺して進んだ。


 そして――B10階。

 そこに待ち構えていたのは、常識を超えた「壁」だった。


 七つの頭を蠢かせるヒュドラ。

 視線を浴びるだけで肉体が石に変わるバジリスクとコカトリス。

 漆黒の甲冑に身を包んだデスナイトと、その背後で呪文を紡ぐデスウィザード。

 闇の力に身を堕としたヴァンパイアロード。

 巨大な盾を構えるドゥームガード。

 さらに、二人一組のダークエルフ戦士とメイジが通路を封じるように並んでいた。


 わずか十の影――だが、その存在感は百をも凌ぐ。

 討伐隊の兵たちは息を呑み、足を止める。恐怖が隊列を縛った。


 「怯むな!」

 銀の鎧に身を包んだシグルドが叫び、剣を掲げて前進する。

 彼の背に押されるように、騎士と祈祷師たちも剣と杖を構えた。


 咆哮と共に戦いが始まる。


 ヒュドラの尾が通路を薙ぎ払い、三人の兵が壁に叩きつけられる。

 デスナイトの剣が火花を散らし、騎士を両断する。

 デスウィザードの呪文が空気を歪ませ、火と氷が交錯して通路を爆ぜる。

 祈祷師の聖句は届かず、血と悲鳴が石床を染めた。


 「くっ……化け物どもが!」

 盾を掲げたドゥームガードが進軍を押し止め、ヴァンパイアロードが影から兵の首を掴み、血を吸い尽くす。


 討伐隊は、押し返されていた。

 十人の精鋭とて、上級魔物の群れを前にすればただの餌に過ぎなかった。


 それでも――シグルドだけは前へ進む。

 彼の剣は魔物を切り裂き、呪文を振り払い、ただ一直線にイオルのもとへ向かう。

 銀の鎧が赤に染まりながらも、その瞳は一度も揺らがなかった。


 「……来たな」

 エルデンの声が、イオルの背に響いた。


 目の前に迫る――宿敵。

 家族を処刑した剣。教団最強の騎士、シグルド。


 そしてその瞬間、頭上の暗闇が揺れた。

 巨大な影が翼を広げ、咆哮と共に急降下する。


 ――ワイバーン。


 鋼の顎がシグルドを掴み、そのまま地面へ叩きつけた。

 衝撃で床石が砕け、土煙が舞い上がる。

 剣は手から弾かれ、銀の鎧は大きく歪み、最強の騎士は動けずにそこへ転がった。


 「……僕が、終わらせる」


 イオルは震える足を一歩前へ進め、ヴォーパルダガーを構えた。

 死の指輪が脈打ち、刃が異様なまでに軽く感じられる。

 シグルドの視線がこちらを捉える――それでも、剣を振るうことはできなかった。


 イオルは刃を振り下ろす。

 鋭い閃光が走り、血が飛沫を描いた。


 銀の鎧に覆われた巨体が、完全に沈黙する。


 ――復讐は果たされた。


 その瞬間、迷宮全体が震えた。

 血は肉壁に吸い込まれ、瘴気が渦を巻き、エルデンの体に流れ込んでいく。

 長く閉ざされていた傷が癒え、白い髪が光を帯びる。


 「……ついに、全快だ」

 エルデンの低い声が響いた。

 その眼光は鋭く、かつて「賢者」と呼ばれた力が戻っていた。


 イオルは血に濡れた刃を見つめ、胸の奥に燃える炎が静かに揺らめくのを感じていた。


---


石室の空気が、一瞬で変わった。

エルデンが立ち上がり、支配の指輪に触れる。指先から薄い黒光が広がり、床の紋が次々と起動していく。


「――機は熟した。出るぞ、イオル」


肉壁に刻まれた召喚陣が連鎖し、闇から巨影が首をもたげる。


紅の鱗をまとったドラゴンが翼を鳴らし、灼熱の気配を吐いた。

腐臭を帯びた黒の竜は、噛み合う骨の中に毒の靄を渦巻かせる。

白の竜は吐息だけで空気を凍てつかせ、

青の竜は稲妻を喉に孕み、

緑の竜は粘る毒霧を滴らせる。

そして金色の鱗の巨躯が最後に降り立ち、静かに地を震わせた。


竜列の背後、鎧の中から冥火が滲む騎士が一歩進む――デスロード。

さらに、霜の王冠を戴く亡者の王――リッチキングが杖を掲げ、

黒骨の司祭ネクロロードが、血の羊皮紙を破り捨てる。


最後に、空間そのものが軋んだ。

九つの瘤を持つ黒い門が裂け、角と鎖の影が姿を現す。


ネフカリオン。

地を踏むたび、沈黙が悲鳴に変わる最終の悪魔。

すべての魔物が跪き、エルデンへ額を垂れた。


「外だ」


エルデンが掌を翻す。

肉壁が花弁のように開き、地上の夜気が流れ込む。


冷えた星明かり。森がざわめき、洞の前には影が幾重にも折り重なっていた。

王国兵――迷宮の口で待ち伏せる包囲線。槍と盾の列、弩の列、鬨の声。


最初の矢が飛んだ。

前列にいた骸骨兵が粉砕され、破片がイオルの足元に散る。

その瞬間、指の《死の指輪》が熱を噛んだ。


胸の奥に、速い拍動。視界の端が鮮明になる。

――仲間の死を喰って、刃が軽くなる。


「下がるな。見ろ、選べ」


エルデンの低声が耳の奥に落ちる。


赤の竜が口を開いた。

黒い森の縁が、炎で昼になった。槍列が乾いた音もなく崩れ、鉄が溶けて地に貼りつく。

白の竜が翼を一振り、吐いた息が兵の鎧を白霜に包み、動きごと凍りつかせた。

青の竜が空で翻り、稲妻の縄を地面に投げつける。盾ごと数人が焦げ、立ち上がれない。

緑の竜の霧が後列へ流れ、悲鳴が泡立って止む。

黄金の竜は吠えただけで、恐慌が波のように広がった。


デスロードが一騎、静かに突撃した。

刃が抜かれる音はしない。ただ通ったあとに倒れた影が増える。

彼の後ろで、ドラゴンが翼を半ば広げ、低く這う炎を吐いた。炎は黒く、燃え残ったものを喰う。


イオルは影へ滑り込む。

混乱の縁――軍旗の下、号令を張り上げる指揮官の背が見えた。

足音を殺し、幕の影に沿って回り込む。

槍の石突きを跨ぎ、掴みかかってきた兵の籠手の継ぎ目に短剣を差し込み、捻って捨てる。

《死の指輪》が、またひとつ鼓動を強めた。


幕の隙間から、銀糸の肩章が覗く。

イオルは呼吸を一度だけ整え――ヴォーパルダガーを水平に払った。

刃は声より先に通り、首は言葉を知らぬ器になる。

旗が傾き、周囲の列が歪む。号令が途切れたところへ――


リッチキングが詠唱を落とした。

夜風が逆巻き、兵の影から兵が立ち上がる。

倒れたばかりの王国兵が、白い眼窩で旧き仲間を見つめる。

ネクロロードの禍文が重なり、死体の喉から黒い糸が迷宮の方角へ伸びた。


――血は、帰る。


マンイーターの入口が、喉のように蠢き、地に流れる血を啜りはじめる。

肉の根が土の下を走り、じわりと広場を赤く染める。

血脈が太る音は聞こえない。ただ、空気が重くなった。


反撃が来た。後列の弩兵が一斉に射る。

一本がイオルの頬を掠め、別の一本が前を行く骸骨兵を砕いた。


熱。視界の縁がまた研ぎ澄まされる。

イオルは弩兵の列と列の間へ斜めに割り込み、弦を巻く腕の陰に潜って喉を裂く。

短剣を抜けば血は静かに噴き、足音は土に呑まれた。


その時、地面が低く唸った。

ネフカリオンが歩く。

鎖の先についた鉤が、空を掴むたびに悲鳴が止む。

悪魔の掌が地を撫で、整然と並んでいた盾列が瓦礫のように散った。

逃げ腰の馬が嘶き、目を白く剥いて倒れる。

ネフカリオンはその首を無感情に踏み、眼窩の無い顔で城都の方角を見た。


王国兵の輪が切れ目を見せた瞬間、黄金の竜が低空を薙ぐ。

吹き返しの風が土を剥ぎ、焚き火の火の粉が星になって舞った。


イオルはその背風に乗るように、最後の抵抗を見せる小隊の背へ滑り込み、二人、三人と静かに倒していく。

《死の指輪》はもう灼けるようだったが、刃はなお冷たく、迷いはどこにも無かった。


やがて、声が尽きた。

森はまた夜の音を取り戻し、倒れた兵の影だけが地面に残る。


エルデンは右手をわずかに掲げる。

竜たちが旋回を止め、デスロードは血のつかない剣を収め、リッチキングとネクロロードは呪を締める。

地に広がる赤は、じわじわと洞の喉へと流れ込み、肉壁の奥で脈打った。


エルデンがイオルのそばへ歩く。

夜気が彼の白髪を撫で、瞳の奥の光は、もう隠しようもない強さを帯びている。


「これで――完全だ」


彼は空を見上げ、遠い城郭の灯りに目を細めた。

「王都は震える。ロードリックも、動かざるを得まい」


イオルは僅かに息を吐き、刃についた血を払う。

足元で、兵の影が遅れて震え、やがて迷宮の方へと引かれていった。


血脈。すべてが、賢者の力へ帰る。


「行くぞ」


エルデンの指が静かに振るわれる。

竜列が森の天蓋へ散り、デスロードは闇の縁へと溶け、ネフカリオンだけが一歩、イオルとエルデンの背へ寄り添った。


森の向こう、アストリアの城壁が、かすかな鐘の音を漏らす。

夜は深い。だが、夜のほうが戦いには都合が良い。


イオルは頷いた。

復讐の炎はもう、ひとつの名だけを映してはいない。


――城を、変える。


刃を下げ、二人は闇を踏み出した。

魔物の軍勢は、その影となって、静かに続いた。


---


アストリア王国――玉座の間。

高い窓から差す光が、石床に沈黙を落としていた。


重厚な扉が開き、伝令が駆け込む。

「陛下……報告いたします。シグルドが……討たれました」


広間が凍りつく。重臣たちは息を呑み、互いに顔を見合わせた。

教団最強の剣と呼ばれた男。その死は、王国にとって有り得ぬ報せだった。


続けざまに、別の伝令が膝をつく。

「さらに……討伐隊三百、全滅! 生還者はおりません……!」


「迷宮に潜む魔法使いは、もはや人の域を超え、竜をも従え進軍してきます……」


どよめきが広間を覆い、声を失った重臣たちがただ震える。


玉座に座す王――ロードリックは、ゆるりと瞳を閉じた。

胸の奥に、かつての名が沈む。

(……エルデン。やはり、お前か。賢者のままならば、国の礎となったものを……)


目を開いた王の双眸は、冷たく燃えていた。


重臣の誰も、その名を知らない男。だが王だけは知っていた。

それはかつての盟友、今や敵国を震え上がらせる存在。


ロードリックは立ち上がり、玉座の間を見渡した。

「王都に迫るのは、魔王の軍勢だ。――覚悟を決めよ」


誰一人、声を返せなかった。


---


 アストリア王都――深夜。

 鐘が打ち鳴らされ、城壁の上に松明が揺れる。

 弓兵が列を成し、祈祷師が詠唱を始め、騎士たちが盾を構えた。

 城門の前には、白銀の甲冑をまとった近衛が並び、王都を背に睨み据える。


 玉座の間。

 ロードリックは立ち上がり、右手の《運命の指輪》に視線を落とす。

 黄金の光が脈打ち、広間に集う将校たちの背筋を強ばらせた。


「――来るぞ。迷宮の魔法使いと、その軍勢が」


 彼の声は冷徹に響き渡り、誰ひとりとして息を呑む音すら漏らせなかった。


 その頃。

 森を踏み破り、地平を埋める影が姿を現す。

 六色の竜が空を覆い、デスロードが剣を曳き、リッチキングが死者を従える。

 悪魔ネフカリオンの鎖が唸り、土を砕くたびに震動が街路へと伝わった。


 その先頭に、エルデンとイオルがいた。

 燃える瞳の賢者と、ヴォーパルダガーを握りしめた影。


「――城門だ」

 エルデンが囁く。

 イオルは頷き、刃を抜いた。


 アストリアの運命を賭けた戦いが、いま幕を開けようとしていた。


---


 森を抜けた。

 夜気を裂くのは竜の咆哮と、魔物たちの蹄と爪の轟き。

 炎と雷、霜と毒を孕んだ竜列が天を覆い、亡者の軍勢が地を揺らして進む。

 その先には、アストリアの白壁。王都を守る高き城門。


 鐘が鳴った。

 ひとつ、ふたつ――重ねて鳴り響き、闇の中に人の陣が光を放つ。

 城壁の上に松明が連なり、弩兵が矢をつがえる。槍を構えた兵列が城門前に整然と並んだ。

 恐怖を押し殺すように、鬨の声が夜空に散った。


 その最前で、黄金の指輪をはめた王――ロードリックが馬上に立つ。

 冷ややかな瞳で迫る群れを見据え、鋼の声を張った。

「――構えよ! これはただの魔物ではない。国を揺るがす脅威だ! 一歩も退くな!」


 次の瞬間、矢が放たれた。

 幾百の矢が黒い雨となり、亡者たちを貫いた。

 骸骨兵が砕け、影の兵が地に崩れ落ちる。


 《死の指輪》が熱を帯びた。

 イオルの胸を焼くような鼓動が広がり、視界の端が鮮やかに染まる。

 ――仲間の死を喰って、己の刃を軽くする。


「行け、イオル」

 エルデンの声が背で響く。


 赤の竜が翼を広げ、炎を吐いた。

 白壁に炎が映え、夜が昼に塗り替えられる。

 青竜の稲妻が轟き、緑竜の霧が流れ、黒竜の吐息が鎧を腐らせる。

 黄金の竜の咆哮は兵の列を崩し、恐慌を波のように広げた。


 デスロードが騎士を踏み砕き、リッチキングの呪文が倒れた兵を起こす。

 ネクロロードの禍文が空を黒く塗り、ネフカリオンの鎖が振り下ろされるたび、盾列が瓦礫と化した。


 イオルは影を駆けた。

 倒れた兵の間を縫い、火と氷の残滓をすり抜け、城門の下へ迫る。


 城壁の上から、火油を詰めた壺が投げ落とされ、夜闇を赤く裂いた。

 矢の雨が降り注ぎ、前に出た骸骨兵が次々と砕け散る。


 イオルは影を縫うように走り、城門の脇へ身を寄せた。


 ――門を、開けろ。


 エルデンの声が脳裏に響いた。


 イオルは頷き、壁の継ぎ目に仕掛けられた補助縄梯子をよじ登る。

 衛兵が一人、鬨の声を上げながら矢を射っていた。

 背後から忍び寄り、口を塞いで短剣を差し込み、音もなく崩す。


 門楼へ忍び込むと、鎖と歯車の影に二人の兵がいた。

 イオルは足音を殺し、素早く投げナイフを放つ。

 一人が崩れ落ちた瞬間、もう一人が振り返る。

 駆け寄り、顎の下に刃を突き上げる。呻き声もなく沈んだ。


 荒い息を吐きながら、イオルは両手で鎖を掴む。

 重い。だが、背後から聞こえる魔物の咆哮が力を呼び覚ます。

 歯車が軋み、鉄門がゆっくりと持ち上がっていった。


 「……開いたぞ!」


 門楼の下から兵の叫びが上がる。

 同時に、外の暗黒が爆ぜるように動いた。

 赤と黒の竜が翼を広げ、亡者の群れが鬨の声を掻き消す。

 城門が半ば開いただけで、炎と雷と霧が城内へ流れ込んだ。


 イオルは門楼の窓から飛び降り、闇に身を溶かす。

 背後で門が完全に開かれたとき、地鳴りのような足音と咆哮がアストリアの城下へ雪崩れ込んでいった。


---


 一方、王城――玉座の間。


 夜半、鐘が鳴り止まぬ報が次々と駆け込む。

 「城門が……破られました!」

 「竜が……竜が六体も……!」

 「兵が、兵が立ち上がって味方を斬っております!」


 群青の外套を纏った兵たちが、蒼白な顔で玉座へ進み出る。


 ロードリック王は玉座に腰を掛けたまま、目を閉じて報告を受けた。

 黄金の指に輝く《運命の指輪》が、淡い光を放つ。


 「……やはり、エルデンか」

 吐き出す声は冷酷で、震えはなかった。


 重臣の一人が慌てて叫ぶ。

 「陛下! もはや防衛は不可能にございます。退避を――!」


 ロードリックはゆるりと立ち上がった。

 「退く? この王が民を捨てるとでも?」

 その眼光が広間を射抜く。臣下たちは息を呑み、広間に沈黙が走る。


 「生きていることは、知っていた。だが……ここまで力を増したのは、我が誤算よ」


 王は腰の剣を抜き、白刃が炎を映して煌めいた。


 「我みずから出る。運命は、我がこの手で断ち切る」


 その言葉とともに、玉座の間に集った騎士たちが一斉に膝をついた。


---


 広場を覆う轟音と咆哮の中、ただ二人の声だけが鮮烈に響いた。


 ロードリックは馬上から剣を掲げ、黄金の《運命の指輪》を輝かせる。

「魔に堕ちた者よ! 貴様をこの場で断つ!」


 対するエルデンは、竜列の影を背に歩み出る。

 白髪が夜風に揺れ、指に嵌めた《支配の指輪》が黒く脈打った。


「断つだと……?」

 静かに笑い、賢者は目を細める。

「裏切ったのは貴様だろう、ロードリック。仲間を斬り捨て、王の座に就いた――英雄の仮面をかぶった裏切り者よ」


 その言葉に、兵たちが息を呑む。

 ロードリックの双眸が冷たく光り、白刃が月を映した。


「黙れ。過去を持ち出し、己の魔に正当を与えるな」

「ならば、剣で語るがいい」


 黄金と黒の光が交錯する。

 竜と兵、亡者と騎士が広場でぶつかる中――

 王と賢者、二人の宿命の戦いが始まろうとしていた。


 ロードリックの視線が軍勢の奥に立つ巨影へと吸い寄せられた。

 鎖と鉤をまとい、眼窩のない顔で静かに城壁を睨む――ネフカリオン。


「……あり得ん……!」

 王の双眸が見開かれた。

「ネフカリオンは我らが討ったはずだ。あの地で、確かに滅ぼしたはず……!」


 兵たちがざわめき、弓を握る手が震える。

 重臣たちの記憶にも焼き付いている。かつて王と賢者の一党が討ち果たした“最終の悪魔”――それが、いま再び歩んでいる。


 エルデンは静かに前へ進み、冷ややかに告げた。

「討った? 笑わせるな。あれは一時の死にすぎん。

 その魂は私が縛り、鎖で繋いできた。今ここで再び解き放たれたのだ」


 ネフカリオンが鎖を振り上げる。

 空気が震え、盾列が一斉に崩れた。

 地鳴りと共に兵たちの心を縛る恐怖は、瞬く間に陣全体に広がっていく。


 《運命の指輪》が黄金に輝き、夜闇を照らす。

「ならば再び討とう。裏切り者と共に、その魔もろとも!」


 王の声が戦場に響き、兵たちの耳に届く。

 たとえ恐怖が消えなくとも、王の背中だけは揺るがない。


 馬腹を蹴り、ロードリックは前へ進み出た。

 黄金の光を纏う刃が宙を裂き、白髪の影――エルデンへと向かっていく。


---


 六色の竜が咆哮し、ネフカリオンの鎖が大地を砕く。


 そのただ中で、二つの光が激突していた。


 一つは黄金。

 王ロードリックが掲げる《運命の指輪》が、まばゆいばかりの輝きを放つ。

 その光は兵を奮い立たせ、王自身を神話の戦士のごとき存在へと押し上げていた。


 一つは漆黒。

 エルデンの《支配の指輪》が魔物を従え、瘴気を束ねて夜空を黒く染めていた。

 その眼差しは冷たく燃え、かつて賢者と呼ばれた姿はもはや人の域を超えていた。


 黄金と黒が交錯し、城門前の大地は何度も震え、砕け散った。


「ロードリック……!」

 エルデンの声が低く響く。

「お前が裏切らなければ――仲間は、今も……!」


「黙れ、エルデン! 裏切りしはお前だ! 己の復讐に囚われ、国を魔に売った!」

 ロードリックの剣が黄金に灼け、闇を切り裂いた。


 互いの剣が交差するたび、光と闇の奔流が爆ぜる。

 兵も魔物も近づけず、ただ二人の王だけが戦場の中心を占めていた。


 やがて――両者の剣が最後の一撃でぶつかる。


 黄金と黒が溶け合い、轟音が天地を裂いた。

 衝撃に城門が崩れ、兵と魔物がまとめて吹き飛ばされる。


 光が消えたあと、二人は互いに剣を突き立てたまま、動きを止めていた。


 ロードリックの胸を黒き刃が貫き、エルデンの腹を黄金の剣が穿っていた。


「……これが、運命か」

 王が低く呟く。


「……ああ。ようやく、報いだ」

 賢者の唇が血に濡れ、笑みのように歪んだ。


 轟音が大地を割った。

 燃え落ちる城壁の中心に、二つの影が沈む。


 王ロードリックと、賢者エルデン。

 互いの刃を突き立てたまま、二人は動かない。

 かつての盟友は、憎悪と運命の果てに相討ちとなった。


 竜は咆哮し、亡者は軋み、悪魔の鎖が大地を裂く。

 主を失った軍勢は、暴走寸前の力を撒き散らしていた。


 その混乱の只中に――緑の光が差し込む。

 崩れた天蓋の間から、枝葉のざわめきと共に女が降り立った。

 ドライアド・ネリサ。森に縛られた精霊は、静かに戦場を見渡す。


 イオルは血に濡れた刃を握りしめ、息を荒げながら彼女を見た。


 ネリサは屍の傍らに歩み寄り、エルデンの手からひとつの指輪を抜き取った。

 黒い金属に紅玉が埋め込まれたそれは、なおも脈打つように光を放っている。


「――《支配の指輪》。

 魔物を従え、この迷宮を縛ってきた力。

 エルデンの生涯はここで尽きた。だが、その意思は……お前へ継がれるべきだ」


 ネリサは振り返り、イオルの手を取った。

 強引に指輪を押し込む。冷たい鎖が血管を這うように、力が骨の奥へと染み込んでいく。


 息が詰まった。視界が揺れ、遠くにいた竜や亡者の影が、まるでイオルの心に繋がるように感じられる。

 指輪が、命令を待っている。


「選べ、イオル」

 ネリサの瞳は深く、逃げ場のない光を宿していた。

「復讐だけを糧とするのか。それとも――この力で、新たな道を築くのか」


 イオルは拳を握り、荒い息を吐いた。

 支配の指輪が脈打つ。竜の咆哮が、彼の心臓と重なる。


 幻のように、エルデンの声が耳の奥に残る。

 ――血脈を繋げ。迷宮を支配しろ。


 イオルは拳を握り、顔を上げた。

 瞳には迷いも恐れもなく、新たな決意だけが宿っていた。


 ネリサの声が重く響く。

「この城もまた、血に喰われる。……マンイーターは、お前の牙となる」


 轟音が城下へ伝わった。

 王城の白壁が波打ち、塔の石が肉のように蠢き始める。

 石畳は赤黒く濡れ、裂け目からは触手めいた肉壁が伸び、建物を呑み込んでいく。


 城門に残っていた兵たちが盾を掲げる。だが、肉壁に飲み込まれた石が脈打つたび、足元の石畳が裂け、血のような液が溢れた。

 剣を抜く者も、祈祷を叫ぶ者もいたが――次の瞬間、地面から伸びた赤い管が足を絡め取り、叫びごと呑み込んだ。


 イオルは崩れた玉座の間から城下を見下ろした。

 《支配の指輪》を通じて、全てが掌にあるとわかる


 夜を裂く鐘の音の中、街は地獄に変わっていた。

 王城の白壁はうねり、赤黒い脈が塔を走り、窓からは肉の触手が溢れ出す。


 「ひ、ひぃぃ! 城が……!」

 「化け物だ! アストリアが呑まれる!」


 逃げ惑う民の叫びが石畳に反響する。

 地面は軋み、建物の壁は蠢き、まるで街全体が一匹の魔物となって吠えていた。


 母親に抱かれた子供が声を限りに泣き叫ぶ。

 老人が膝を折り、祈りの言葉を繰り返しながら涙を流す。

 兵士たちは盾を投げ捨て、足をもつれさせて逃げ出した。


 「いやだ! 喰われる……!」

 裂けた石畳から赤い管が伸び、悲鳴をあげた男の脚を絡め取り、地の奥へ引きずり込んだ。

 血の臭いと絶叫が夜気に充満し、人々は泣き叫びながら城門を越えて外へ溢れ出す。


 その混乱のただ中で、王城の玉座は静かに揺れていた。

 柱は肉壁に呑まれ、天蓋は赤黒く脈打ち、広間全体が生き物の内臓のように蠢いている。


 玉座の階段を、イオルがゆっくりと上がった。

 白刃を握る手は血に濡れ、短く切った髪は汗と埃に貼り付いている。


 背後に立つネリサが、冷ややかに囁いた。

 「見ろ……これが、お前の選んだ道だ。王国は、今この瞬間からお前の迷宮だ」


 イオルは答えず、ただ玉座に腰を下ろした。

 街から響く泣き叫ぶ声が、壁越しに波のように押し寄せてくる。


 《支配の指輪》が熱を帯び、胸の奥で脈動が重なった。

 城も人も、すべてが自分の中に繋がっている。


 イオルはかすかに息を吐き、唇を開いた。

 「……これが、私の力」


その呟きは涙にも笑みにもならず、ただ夜に溶けた。


 夜風が吹き込み、城下の悲鳴と嗚咽を遠くに運んでいく。

 新たな主を戴いた王城は、血と闇を孕んだ迷宮として脈動を始めていた。


 こうして、アストリアの王座は継承された。

 かつて復讐に燃えた一人の影は――今や魔の王となった。


-fin-



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