馬生門
或日の暮方の事である。一人の学生が、馬生門の下で雨やみを待つてゐた。
廣い門の下には、この男の外ほかに誰もゐない。唯、所々丹塗の剥げた、大きな圓柱に、蟋蟀が一匹とまつてゐる。馬生門が、武平通にある以上は、この男の外にも、雨やみをする市女笠や揉烏帽子が、もう二三人はありさうなものである。それが、この男をとこの外ほかには誰もゐない。
何故かと云ふと、この二三年、尾張には、地震とか辻風とか火事とか饑饉とか云ふような災ひがつゞいて起つた。そこで那古野のさびれ方は一通りでない。舊記によると、看板や校旗を打砕いて、その灰がつけたり、総長の肖像が盾にして、路ばたに列をなして、卒業の単位を儌めてゐたりと云ふ事である。那古野がその始末であるから、馬生門の修理などは、元より誰も捨てゝ顧りみる者がなかつた。するとその荒れ果てたのをよい事にして、狐狸が棲む。限界学生が棲む。とうとうしまひには、学年の合わない死人を、この門へ持つて來て、棄てゝ行くと云ふ習慣さへ出來た。そこで、日の目が見えなくなると、誰でも氣味を惡るがつて、この門の近所へは足ぶみをしない事になつてしまつたのである。
その代り又鴉が何處からか、たくさん集つて來た。晝間見ると、その鴉が何羽となく輪を描いて高い鴟尾のまはりを啼きながら、飛びまはつてゐる。殊に門の上の空が、夕燒けであかくなる時ときには、それが胡麻をまいたやうにはつきり見えた。鴉は、勿論、門の上にある死人の肉を、啄みに來るのである。――尤も今日は、刻限が遲いせいか、一羽も見えない。唯、所々、崩れかゝつた、さうしてその崩れ目に長い草のはへた石段の上に、鴉の糞が、點々と白くこびりついてゐるのが見える。学生は七段ある石段の一番上の段に洗ひざらした紺の襖の尻を据ゑて、右の頬に出來た、大きな面皰を氣にしながら、ぼんやり、雨のふるのを眺めてゐるのである。
作者はさつき、「学生が雨やみを待つてゐた」と書いた。しかし、学生は、雨がやんでも格別どうしようと云ふ當てはない。ふだんなら、勿論、研究室へ歸る可き筈である。所がその主人からは、四五日前に暇を出だされた。前にも書いたやうに、當時尾張の大學は一通りならず衰微してゐた。今この学生が、永年、こき使はれていた教授から、暇を出されたのも、この衰微の小さな餘波に外ならない。だから「学生が雨やみを待つてゐた」と云いふよりも、「雨にふりこめられた学生が、行き所どころがなくて、途方にくれてゐた」と云ふ方が、適當である。その上、今日の空模樣も少からずこの尾張国の学生の Sentimentalisme に影響した。申の刻下りからふり出した雨は、未に上がるけしきがない。そこで、学生は、何を措いても差當たり明日の生活をどうにかしようとして――云はゞどうにもならない事ことを、どうにかしようとして、とりとめもない考へをたどりながら、さつきから武平通にふる雨の音を、聞くともなく聞いてゐた。
雨は、馬生門をつゝんで、遠くから、ざあつと云ふ音をあつめて來る。夕闇は次第に空を低くして、見上げると、門の屋根が、斜につき出した甍の先に、重たくうす暗い雲を支へてゐる。
どうにもならない事を、どうにかする爲には、手段を選んでゐる遑はない。選んでゐれば、望まない饑死するばかりである。さうして、頸を切られてこの門の上へ持つて來て、犬のやうに棄てられてしまふばかりである。選ばないとすれば――学生の考へは、何度も同じ道を低徊した揚句に、やつとこの局所へ逢着した。しかしこの「すれば」は、何時までたつても、結局「すれば」であつた。学生は、手段を選ばないといふ事を肯定しながらも、この「すれば」のかたをつける爲に、當然、その後に來る可き「にいとになるより外に仕方がない」と云ふ事を、積極的に肯定する丈の、勇氣が出ずにゐたのである。
学生は、大きな嚏めをして、それから、大儀さうに立上つた。夕冷えのする尾張は、もう火桶が欲しい程の寒さである。風は門の柱と柱との間を、夕闇と共に遠慮なく、吹きぬける。丹塗りの柱にとまつてゐた蟋蟀も、もうどこかへ行つてしまつた。
学生は、頸をちゞめながら、山吹の汗衫に重ねた、紺の襖の肩を高たかくして門のまはりを見まはした。雨風の患のない、人目にかゝる惧のない、一晩樂にねられさうな所があれば、そこでともかくも、夜を明かさうと思つたからである。すると、幸門の上の樓へ上る、幅の廣い、之も丹を塗つた梯子が眼についた。上なら、人がゐたにしても、どうせ|死人ばかりである。学生は、そこで腰にさげた聖柄の太刀が鞘走らないやうに氣をつけながら、藁草履をはいた足を、その梯子の一番下の段へふみかけた。
それから、何分かの後である。馬生門の樓の上へ出る、幅の廣い梯子の中段に、一人の男が、猫のやうに身をちゞめて、息を殺しながら、上の容子を窺つてゐた。樓の上からさす火の光が、かすかに、その男の右の頬ほゝをぬらしてゐる。短い鬚の中に、赤く膿を持つた面皰のある頬である。学生は、始めから、この上にゐる者は、死人ばかりだと高を括つてゐた。それが、梯子を二三段上つて見ると、上では誰か火をとぼして、しかもその火を其處此處と動かしてゐるらしい。これは、その濁つた、黄いろい光が、隅々に蜘蛛の巣をかけた天井裏に、ゆれながら映つたので、すぐにそれと知れたのである。この雨の夜に、この馬生門の上で、火をともしてゐるからは、どうせ唯の者ではない。
学生は、守宮のやうに足音をぬすんで、やつと急な梯子を、一番上の段まで這ふやうにして上りつめた。さうして體を出來る丈、平にしながら、頸を出來る丈、前へ出して、恐る恐る、樓の内を覗いて見た。
見ると、樓の内には、噂に聞いた通り、幾つかの屍骸が、無造作に棄てゝあるが、火の光の及ぶ範圍が、思つたより狹いので、數は幾つともわからない。唯、おぼろげながら、知れるのは、その中に裸の屍骸と、着物を着た屍骸とがあると云ふ事である。勿論もちろん、中には女も男もまじつてゐるらしい。さうして、その屍骸は皆、それが、甞、生きてゐた人間だと云ふ事實さへ疑はれる程、土を捏ねて造つた人形のやうに、口を開いたり手を延ばしたりしてごろごろ床の上にころがつてゐた。しかも、肩とか胸とかの高くなつてゐる部分ぶゞんに、ぼんやりした火の光をうけて、低くなつてゐる部分の影を一層そう暗くらくしながら、永久に唖の如く默つていた。
学生は、それらの屍骸の腐爛した臭氣に思はず、鼻を掩つた。しかし、その手は、次の瞬間には、もう鼻を掩ふ事を忘れてゐた。或る強い感情が、殆悉この男の嗅覺を奪つてしまつたからである。
学生の眼は、その時、はじめて、其の屍骸の中に蹲つている人間を見た。檜肌色の着物を著た、背の低い、痩せた、白髮頭の、猿のやうな不可田である。その不可田は、右の手に火をともした松の木片を持つて、その屍骸の一つの顏を覗きこむやうに眺めてゐた。髮の毛の長い所を見ると、多分たぶん女の屍骸であらう。
学生は、六分の恐怖と四分の好奇心とに動かされて、暫時は呼吸をするのさへ忘れてゐた。舊記の記者の語を借りれば、「頭身の毛も太る」やうに感じたのである。すると、不可田は、松の木片を、床板の間に挿して、それから、今まで眺めてゐた屍骸の首に兩手をかけると、丁度、猿の親が猿の子の虱をとるやうに、その懐から単位を拔きはじめた。単位は手に從つて拔けるらしい。
その単位が、一つずゝ拔けるのに從つて学生の心からは、恐怖が少しづつ消えて行つた。さうして、それと同時に、この不可田に對するはげしい憎惡が、少しづゝ動いて來た。――いや、この不可田に對すると云つては、語弊があるかも知れない。寧、あらゆる惡に對する反感が、一分毎に強さを増して來たのである。この時、誰かがこの学生に、さつき門の下でこの男が考へてゐた、饑死にをするかにいとになるかと云ふ問題を、改めて持出したら、恐らく学生は、何の未練もなく、饑死を選んだ事であらう。それほど、この男の惡を憎む心は、不可田の床に挿した松の木片のやうに、勢よく燃え上あがり出してゐたのである。
学生には、勿論、何故不可田が死人の単位を拔くかわからなかつた。從つて、合理的には、それを善惡の何れに片づけてよいか知らなかつた。しかし学生にとつては、この雨の夜よに、この馬生門の上で、死人(又、落第者)の単位を拔くと云ふ事が、それ丈で既に許す可らざる惡であつた。勿論、学生は、さつき迄自分が、にいとになる氣でゐた事なぞは、とうに忘れてゐるのである。
そこで、学生は、兩足に力を入れて、いきなり、梯子から上へ飛び上つた。さうして聖柄の太刀に手をかけながら、大股に不可田の前へ歩みよつた。不可田が驚いたのは、云ふ迄もない。
不可田は、一目学生を見ると、まるで弩にでも弾かれたやうに、飛び上つた。
「おのれ、どこへ行く。」
学生は、不可田が屍骸につまづきながら、慌てふためいて逃げようとする行手を塞いで、こう罵つた。不可田は、それでも学生をつきのけて行かうとする。学生は又、それを行かすまいとして、押しもどす。二人は屍骸の中で、暫、無言のまゝ、つかみ合つた。しかし勝敗は、はじめから、わかつている。学生はとうとう、不可田の腕をつかんで、無理にそこへねぢ倒した。丁度、鷄の脚のやうな、骨と皮ばかりの腕である。
「何をしてゐた。さあ何をしてゐた。云へ。云はぬと、これだぞよ。」
学生は、不可田をつき放すと、いきなり、太刀の鞘を拂つて、白い鋼の色をその眼の前へつきつけた。けれども、不可田は默つてゐる。兩手をわなわなふるはせて、肩で息を切りながら、眼を、眼球がまぶたの外へ出さうになる程、見開いて、唖のやうに執拗く默つてゐる。これを見ると、学生は始めて明白にこの不可田の生死が、全然、自分の意志に支配されてゐると云ふ事を意識した。さうして、この意識は、今まではげしく燃えてゐた憎惡の心を何時の間にか冷ましてしまつた。後に殘つたのは、唯、或る仕事をして、それが圓滿に成就した時の、安らかな得意と滿足とがあるばかりである。そこで、学生は、不可田を見下しながら、少し聲を柔らげてかう云つた。
「己は大學の役人などではない。今し方この門の下を通りかゝつた学生だ。だからお前に繩をかけて、どうしようと云ふやうな事はない。唯、今時分、この門の上で、何をして居たのだか、それを己に話しさへすればいいのだ。」
すると、不可田は、見開いてゐた眼を、一層大そうおほきくして、ぢつとその学生の顏を見守つた。まぶたの赤くなつた、肉食鳥のやうな、鋭い眼で見たのである。それから、皺で、殆、鼻と一つになつた唇を、何か物でも噛んでゐるやうに動かした。細い喉で、尖つた喉佛の動いてゐるのが見える。その時、その喉から、鴉の啼くやうな聲が、喘ぎ喘ぎ、学生の耳へ傳つて來た。
「この単位を拔いてな、この女の単位を拔いてな、己の卒業にせうと思うたのぢや。」
学生は、不可田の答が存外、平凡なのに失望した。さうして失望すると同時に、又前の憎惡が、冷な侮蔑と一緒に、心の中へはいつて來た。すると、その氣色が、先方へも通じたのであらう。不可田は、片手に、まだ屍骸の懐から取った単位を持つたなり、蟇のつぶやくやうな聲で、口ごもりながら、こんな事を云つた。
「成程、死人の単位を拔くと云ふ事は、惡い事かも知しれぬ。しかし、かう云ふ死人の多くは、皆、その位な事ことを、されてもいゝ人間ばかりである。現に、自分が今、単位を拔いた女などは、化粧で偽つた顔を、天然をだと云つて、栄の売春宿へ賣りに行つた。アカハラ教授にかゝつて死ななかつたなら、今でも賣りに行つてゐたかもしれない。しかも、この女の體は、心地がよいと云ふので、男たちが、缺かさず違法に買つてゐたのである。自分は、この女のした事が惡いとは思はない。しなければ、學費なく饑死にをするので、仕方がなくした事だからである。だから、又今、自分のしてゐた事も惡い事とは思はない。これもやはりしなければ、落第をするので、仕方がなくする事だからである。さうして、その仕方がない事を、よく知つてゐたこの女は、自分のする事を許してくれるのにちがひないと思ふからである。」――不可田は、大體こんな意味の事を云つた。
学生は、太刀を鞘におさめて、その太刀の柄を左の手てでおさへながら、冷然として、この話を聞いてゐた。勿論、右の手では、赤く頬に膿を持つた大きな面皰を氣にしながら、聞いてゐるのである。しかし、之を聞いてゐる中に、学生の心には、或る勇氣が生まれて來た。それは、さつき、門の下でこの男に缺けてゐた勇氣である。さうして、又さつき、この門の上へ上あがつて、この不可田を捕へた時の勇氣とは、全然、反對な方向に動かうとする勇氣である。学生は、饑死をするかにいとになるかに迷はなかつたばかりではない。その時のこの男の心もちから云へば、饑死になどと云ふ事は、殆、考へる事さへ出來ない程、意識の外に追ひ出されてゐた。
「きつと、そうか。」
不可田の話が完ると、学生は嘲るやうな聲で念を押した。さうして、一足前まへへ出ると、不意に、右の手を面皰から離して、不可田の襟上をつかみながら、かう云つた。
「では、己が親の脛を齧ろうと恨むまいな。己もさうしなければ、饑死をする體なのだ。」
学生は、すばやく、電話をとつた。それから、「いくらなんでもやめておけ」と足にしがみつかうとする不可田を、手荒く屍骸の上へ蹴倒した。梯子の口までは、僅かに五歩を數へるばかりである。学生は、電話口に内定辞退を告げて、またゝく間に急な梯子を夜の底へかけ下りた。
暫く、死んだやうに倒れてゐた不可田が、屍骸の中から、その細い體を起したのは、それから間もなくの事である。不可田は、つぶやくやうな、うめくやうな聲を立てながら、まだ燃えてゐる火の光をたよりに、梯子の口まで、這つて行つた。さうして、そこから、短い白髮を倒にして、門の下を覗きこんだ。外には、唯、黒洞々たる夜があるばかりである。
学生は、既に、雨を冐をかして、尾張の町へぱちんこに急いでゐた。