戸籍
彼女の後をしばらく黙ってついていく。
今のところ内装に関して特筆するべきことはない。白を基調とした壁が続いているだけだ。
いくつかの曲がり角を右へ左へと曲がって進むうちに目的地についたようだった。
立ち止まった彼女の前には立派な両開きの扉がそびえ立っていた。
この先に『彼』がいる。そう理解した僕は今更にながら緊張し始めた。
『彼』が取り計らってくれるということならば、『彼』の機嫌を損ねてはならない。
何も失礼の無いようにしなければならないと思うものの、大した人生経験のない十六歳の家出少年には、失礼な行為を戒めるということをした記憶がないのである。
やらかしてもやらかしたと認識できないのは割と致命的だ。
もっとも、理解できたとしてもそれを取り繕うスキルもまた欠けているため、理解できても意味がないのかもしれないけれど、理解できるだけでも気持ち的にはだいぶ楽になれる。
何かやらかしても失礼なことをする気がないという気持ちが伝わればいいのだが、人間は相手の気持を読み取ることはできない。
僕は今人生最大のピンチにいるのかもしれない。そう考え始めると息すらまともにできる気がしなくなってきた。
そんな僕の心境を知ってか知らずか彼女は一度僕の方を振り向いた。
「準備はいい?」
「もう少し待ってください」
僕がそう言うと彼女は頷いた。
僕は落ち着くために深呼吸を試みる。
大きく息を吸って、吐き出そうとしたその瞬間、
「やぁ、久しぶり。一室任されるなんてかなり偉くなったんだねぇ」
彼女はそう言って扉を開き、部屋の中に入った。
部屋の奥にある如何にもオフィスにありそうな椅子に座った一人の男が目にとまる。
それを見て僕がゲホゲホとむせ、吐き出すつもりだった空気が想定と違う風に口から漏れていくのも仕方のないことだろう。
まるで待ってくれるみたいな口ぶりだったお姉さんが急に扉を開いたのだ。
しかもだ。人生経験のない僕にだって分かることだが、彼女の今の行動には礼儀もクソもない。
家にいる友だちを訪ねたような気軽さで会社の扉を開ける人間がこの世に何人存在できるのだろう?
お姉さんの無茶苦茶な行動に混乱していると、お姉さんは僕の方を振り返り『彼』に僕を紹介した。
「この子が新しい家出少年の星慈君だよ」
そう僕を紹介した。『彼』は僕をじっと眺めたかと思うと、
「爺さんの許可はすでに取ってあるのか?」
と質問してきた。あまりの失礼さに憤慨していなければいいのだがという気持ちで彼の目を盗み見たが、あまり気にしている様子ではなかったので僕は落ち着いた。
お姉さんのように誰かの戸籍を作ろうとする人が訪れることが多いからなのかは知らないが、彼はこの状況を正しく飲み込んでいるようだった。
僕は緊張を解いて口を開いた。
「少し前におじいさんから許可をもらってきました」
僕がそう言うと彼は「分かった」と呟いた。
想像していたよりも彼は人間的だった。ただ、おじいさんやお姉さんのようになにかの理念を持って生きているようには見えない。
どちらかといえば、彼は何かから目を逸らしながら生きているように僕には見えた。ただ、彼はそれを窮屈だと思っておらず、半ば受け入れているようにも思える。
僕が彼を無意識的に観察している間、彼も僕を観察しているように思えた。
しばらく視線を交わした後彼は口を開いた。
「じゃあ今から戸籍作るからいくつか質問に答えてくれ」
彼はそう言うと僕にいくつかの質問をした。
それは戸籍に記されているような客観的な僕の淡白な情報である。
名前、生年月日、住所。そういった部類のものだ。
僕らは国にとってその程度の存在でしかない。こういった情報があれば人間を判別できるからだ。
本当は国のお偉いさん方は僕らに番号でも彫っておきたいのかもしれない。
そうしたら個人の判別になにかの手続きを踏む必要もないし、僕みたいなのだって逃げることはできなくなるだろう。
それをしないのはきっとそれが人道的ではないと気づいているからで、もしそれが問題ないと国民が言えば実行される気がしてならない。
僕らは自分と関わった人間のことは戸籍データとは違ったもので個人を見分けるが、それは個人の主観によって変動してしまう。
髪をバッサリ切ったり、めちゃくちゃに厚塗りメイクをしたら大抵の人は気が付きにくくなるということだ。
ただそういったときも客観的な人間のデータ、戸籍があれば判別が可能になる。
しかし戸籍まで変えてしまえばお姉さんやおじいさんくらいしか僕が元々は星慈ではなく陽慈であったことを知りえることはないだろう。
それもしばらくしたらきっと忘れる。僕でさえ名前を尋ねられてももう自分は陽慈ではなく星慈だと考えているのか、躊躇いなく僕は星慈だと自己紹介ができる。
しばらく続いた質問を答え終わると彼は目の前のパソコンに何かを入力し始めた。
おそらくは僕の話したことをデータとしてまとめているのだろう。
しばらくすると彼がこちらを向いた。
「もう終わったよ。学校に通うんだろう?しばらくしたら連絡するからそれまでに色々準備しておくといい」
「ありがとうございました」
「気にすることはない。ここは君みたいな子を助けるのが仕事の一つなんだ」
彼がそう言った。最初、僕は彼にいくつかの質問をしようと考えていた。
こんな秘密結社めいた場所に来たのだから色々知りたくなるのは、秘密基地ごっこをして育ったタイプの人間には理解してもらえるだろう。
しかし僕はもう彼に質問する気がしなくなっていた。
勿論知りたいことは山のようにあるし彼が勝手に話してくれるのならば僕は喜んで聞くだろう。
ただ、彼が仕事の一つだと言ったとき、この世には知らない方がいいこともあると思ったのだ。
確信なんてものはない。なんとなくそう思っただけだ。
世の中は綺麗事だけで回っているものではないからと言って汚いものを肯定するのはどうなのかと僕は今まで考えていた。
しかしこの世の川が全て清く、透明なきれいすぎるものであっては息ができない人が多いのだろう。
清い川を泳げないのは努力不足だと割り切っていたし、だからこそ僕は飛ぼうとしたのかもしれないが、そんなことはなかった。
色々な種類の濁りを含んだ川があるから僕たちは発狂せずに生きていけるのだ。
ならば思春期特有の正義感や社会への反骨心、何も知らないのに斜に構えて正論を吐くふりなどする必要はない。
後ろで立って僕らを見守っていたお姉さんに声をかける。
「帰りましょう」
僕のその言葉に彼女はひどく驚いたようだった。
「もういいの? 色々聞こうとしてたんじゃないの?」
「いえ、もういいんです。少なくとも何を言われても理解ができそうにないですし」
彼との別れはおじいさんの時と違い、特に会話はなかった。
玄関に類する、部屋の扉がすぐそこにあるというのも影響しているはずだ。
ただし、僕は彼の人柄をなんとなく知ることができたし、彼もそうだと思う。
言葉を交わさなくても理解できることはあるのだ。
こうして僕は彼から目を逸らしているのかも、この会社についても特に何を知りえることもなくビルを後にしたのだった。
帰り道では雨が少し降っていた。
僕は車窓に当たる雨をなんとなしに眺める。
彼女は珍しく(といっても大して彼女のことを知らないが)ラジオをかけることなく車を運転していた。
僕が知らない曲を口笛で演奏し、上機嫌そうに運転する彼女は一体どうやっておじいさんや彼と出会ったのだろう。
彼女は何から逃げた末に、この場所にたどり着いたのだろうか。
彼女の過去について知りたいと思うのはなぜだろうか。僕は彼女のことを知らないことについてむしろワクワクしていたはずなのだ。
少なくとも今の僕が焦って彼女の過去について尋ねたとしても、彼女は大した事を教えてくれないだろう。
僕は僕で成長する必要があるが、その成長に必要な答えがどこにあるかも分からず、ぼんやりと辺りを回遊している。
結局僕は彼女のことを何も知らないし、彼女も僕のことを殆ど知らないのだ。そして彼女は彼女のことを知っているにも関わらず、僕は僕のことを知らない。
なんだか少しだけそれが寂しかった。
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