行くべき場所
朝食を終え、僕らはしばらくのんびりと過ごした。
彼女の名は結局教えてもらえず未だにお姉さんのままだ。
僕は彼女のことを何も知らないし、彼女も僕のことを殆ど知らないだろう。
「星慈君。君はこれからどうしたいの?」
僕が洗い物をしていると彼女はそう尋ねてきた。
どうしたいとはどういうことだろう。
彼女のもとでタダ飯を食い続けるわけにもいかないし、働いておきたいけれど、戸籍的にバレてしまうからそう簡単にはいかない。
僕がしばらく悩んでいると彼女は驚くべき言葉を発した。
「特に決まってないならさ、学校に行っておかない?」
あまりの衝撃に僕は皿を落としそうになり、それをすんでのところで受け止めた。
皿をシンクに置き、彼女の方を見る。
彼女は至って真剣そうな顔をしており、ふざけているわけではなさそうだ。
僕は顔をこわばらせた。
もう家出は満足だろうとでもいう気だろうか。
「それは元の街に帰れってことですか?」
そうならば僕は一人でどこか遠い所へ向かい飛ぶ必要が出てくる。
「そうじゃなくてさ。戸籍的にも金銭的にも問題なく通えてしまう学校があったとしたら行きたいかって話だよ」
そんなところがあるようには思えないが彼女は真剣な様子だったので僕は真面目に考えた。
行けるものなら学校に通いたい気もしてきた。
僕がかつて抱き、そして飛びたいという衝動とともに捨てたはずの夢がまたムクムクと僕の中で主張し始める。
叶えられる可能性が少しでもあるのならば、僕はそこに突き進みたい。
「そんな夢みたいなところがあるならばぜひ通いたいですね」
「なら少し出かけようか。どっちみち今日中には行かなくちゃいけなかったし」
彼女は僕にそう言って微笑んだ。
やはり仮定の話ではなく本気で話していたようだ。
僕は彼女から視線を外し、皿洗いに戻った。
今度は皿を落としかけることもなかった。
まだぎりぎり午前中という時間帯に例の赤い軽自動車に乗り込んで僕達は家を出た。
助手席は昨日と変わらず荷物でいっぱいだった。
この様子を見るに助手席が空くことはきっとないだろうと僕は感じた。
片付けが面倒だから荷物があるのではなく、わざわざここに荷物を置き続けているように感じた。
平日の昼前は人通りが少なく、大きな道路でも混むことなくスイスイと進んでいった。
到着したのはなんというか、普通の一軒家だった。
行かなければならないところと聞いていたから、もっととんでもない豪邸でもあるのかと思っていたがそうではなかった。
彼女とともに車を降り、インターホンを鳴らす。
しばらくしてでてきたのは一人の老いた男性だった。
彼はしばらく僕と彼女を見つめた後に、
「久しぶりだね。とりあえず中へ入りなさい」
と僕らにいった。
僕はかなり困惑していた。
行かなければならないところがあると言っていた場所は彼女の様子を見るにおそらくはここである。
しかし出てきたのは人当たりの良さそうなおじいさんただ一人。
彼は何者なのだろうか。僕は少し興味を持った。
彼の僕とお姉さんを見る目は、物珍しさとかとは別で、優しさに満ちていた。
だから僕は困惑はしているものの、警戒はせずに彼の勧めるまま彼の家に入った。
勧められるままソファーにも座らせてもらい、お茶も入れてもらった。
「このタイミングということは君が陽慈君だね」
僕がお茶を飲んでいるタイミングで彼がそう言ったので僕は危うく吹き出すところだった。
何故彼がそのことを知っている?
僕はお姉さんの方に勢いよく顔を向けた。
彼女はそんな僕には見向きもしない。
「彼は星慈君です。ついこの間までは陽慈君でしたが」
「なるほど失礼したね星慈君、私を許してくれないかな」
「名前は変わったばかりですし、別にいいですよ」
僕がそう言うとおじいさんはニッコリと笑った。
僕は彼のそんな人当たりの良さそうなところに緊張が解けたのか、一つ質問した。
「何故僕が陽慈だとわかったんですか?」
「私はね、君みたいな子を助けてあげたいんだよ」
彼曰く、長い人生をかけて居場所のなくなった者たちに居場所を与えてきた。
お姉さんも与えられた者の一人だという。
そうした人たちがまた居場所のない人を彼のもとに連れていき、居場所をもらう。
これを繰り返し行ってきたから、お姉さんの連れてきた僕はちょうど今朝のニュースでやっていた陽慈だろうと当たりをつけたらしい。
この話を聞いて僕はお姉さんがここに行かなければと行っていた理由が分かった気がした。
「それで星慈君はしたいことはあるのかい?」
「その……、学校に行きたくて……」
僕がそう言うと皆まで言うなとばかりに彼は大きく頷いた。
かなり無茶を言った自覚はあるが彼にはその願いを叶えることが可能らしい。
「それくらいならお安い御用だよ。」
彼はそう言ってくれた。
続けてこうも言った。
「一つ聞きかせてほしいんだが、君は何から逃げて、あるいは何を求め彷徨ってここに来たんだい?」
飛ぼうとしたからここに来た。そう答えるのは簡単だがもっと根源的なことを聞かれているように感じる。
つまりは何故飛ぼうとしていたのかということ。これは彼女も僕にした質問だ。
その時は答えが出なかった。ならば今なら答えが出るのかと尋ねられればそうではないと答えるほかにない。
黙っていたかったが、無茶な願いを聞いてもらってなお、そんなことはできる気がしなかった。
ならば正直に答えるほかない。
「僕は飛ぼうとしていたんです。ただ、原因が何だったか思い出せないんです」
「……思い出せない?」
「はい。飛ぼうと思ったのは五年くらい前が最初で、何かきっかけがあったはずなんですけど、多分色々積み重なって漠然とした飛ぶっていう意識になっているんです。だから原因が話せません。ごめんなさい」
僕がそう言うと彼はしばらく黙っていた。
お姉さんは一言も喋らない。おじいさんが話すのを待っているようだ。
やはり不味かったか。居場所がない人を救ってきた人だ、僕にはまだ居場所があるように見えたのかもしれない。
だが僕にはまだ思い出せないのだ。
だが誠意を持って答えたということが通じたのか、彼の目から穏やかさが失われることはなかった。
「思い出したくないことだってあるさ。でももし星慈君が伝えてくれる気になったなら教えて欲しいな」
彼はそう言ってくれた。お姉さんにもそんなふうに言われていたことを思い出し、早く彼らの期待に答えたいと思った。
なんでもいいので感想がほしいです。