移住先
彼女はいくつか服を僕に買い与えてくれた。
僕は低価格帯の洋服にも意外といいものが揃っているんだなと彼女が買い与えてくれた服を見て思った。
この服は家にあるものとは全然違うものであり、これが全て僕のものだと思うと少し違和感を抱いた。
しかし見知った服、またはそれに酷似した服が今手元にあったならば僕は違う街に行ってもなお自分の街を忘れることなどできなかっただろう。
服とはこんなにも自分を縛り、人の自由を左右するのかと考えると、少し恐ろしくなった。
車に戻って僕は制服から購入した服に着替えた。
「制服はどうしましょうか」
「簡単でしょそんなの。捨てるか燃やすかしちゃえばいいんだよ」
「流石に駄目じゃないですか?」
「どうして?」
彼女の目が少し冷たくなっているように感じるのはきっと気の所為ではない。
戻る必要もないし戻る気もないのであれば必要ないものなのだ。
さらに言えばこれを手元においておくというだけで僕は自分の街を忘れることができなくなる。
あそこは好きではないと思っていたのに未だにあの街を自分の街だと思っている、そのこととなにか関係している気もするが今の僕にはわからなかった。
だから僕は正直になるしかなかった。
「自分でやります。でも少し時間をください。今捨てたら分からないままで終わってしまいそうなことがあるんです」
彼女は頷いた。
彼女からしたら制服を持ち続けるということは未練があるのではないか、そう思っているのだろう。
きっとそれもあるのだろう。
僕を縛るものから開放するために服を買い与え、知らない所へ移動してくれているにも関わらず、自分の街につながるものを持ち続けるというのは未練の最たるものだろうから。
僕は脱いだ制服を丁寧に畳んで、購入した服の入った紙袋にしまった。
車はしばらく走り続けた。
その間僕はラジオに耳を傾けていた。
薄っぺらい言葉で人を励ます深夜ラジオを一度きいてからというもの、ラジオを聞くことはなかったが、昼のラジオは悪くないと思えた。
番組としての内容は無であり、CMばかりのように感じる。
長いCMが途切れたかと思えば数曲流れるだけでまたCMになる。
ラジオには最早喋る人は必要ないのかもしれない。
曲を適当に流しCMを流すだけで完成するように思えた。
「そういえば少年は何故飛ぼうとしたんだい?」
彼女がそう尋ねてきた。
何故死のうとしたか。
人生に嫌気が差したからだ。
ただ、いくつか理由は思い浮かぶけれどどれも違う気がする。
受験が面倒だとか、恥をかきすぎたとか、今の人生に価値を見いだせないとか。
でもどれも死ぬ理由には少し足りないような気がする。
冗談で死にたいと言えるレベルではあるものの、実際に死ぬほどではないだろう。
僕は何が原因で死のうとしたのだろうか。
僕には本当に自殺する理由があったのだろうか。
あるはずなのだ。
僕が死に対して一種の崇拝の念を抱き始めたのは五年前からだが、その理由は最早思い出すことができなかった。
「………」
だから僕は彼女の疑問に答えることはできなかった。
しかし、もし僕が理由を思い出せていたのであればきっと僕はこの車に乗っていなかったであろう。
何故かそうはっきりと感じる。
ただ一つだけ言えるのは、僕の心の不調を僕の体は一度受け取っていて、それをストレス性の病気として発現させたことがあるにも関わらず、当時の僕は具体的な原因を掴みきれなかったということだけだ。
「………答えたくないならいいんだよ。でもそれを乗り越えられたなら教えて欲しいな」
彼女との車での会話はそれっきりだった。
車は結局知らない街の知らないマンションに到着した。
何も分からず何も知らないというのは幸福だと思った。
「さあ降りてくれ少年」
シートベルトを外しドアを開く。不気味なまでに静かな駐車場に僕らは降り立った。
「これからどうするんですか? えっと……お姉さん」
僕は彼女と出会ってから三時間ほど経過しているにも関わらず彼女の名前を知らないという事実を知った。
「このマンションに私の家があるからまずはそこへ行こうか」
彼女は僕の言い淀みの意味を正確に理解していただろうが、彼女は名を明かさなかった。
彼女も僕の名を知らない。そう考えると少しワクワクした。
彼女の部屋は四階にあった。十七階建てだから下の方だ。
彼女の家は2LDKというやつだったが、二部屋とも物置になっていた。
「私、自分の家に男の人を入れるの初めてなんだよね」
彼女のその言葉に少しだけ赤くなった自分がいた。
彼女はそんな僕を微笑ましそうに見つめた後、僕を物置の一つに案内した。
玄関に近い方の部屋だ。
「多少散らかってるけどこの部屋は好きに使っていいよ」
物置と表現したものの想像より整理されていた。少なくともつい三時間前まで僕の自室だった部屋よりはよっぽど片付いている。
僕は自分の荷物を机の近くに置き、彼女に感謝を伝えた。
彼女は部屋を去っていった。
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