謝罪と秘密
お久しぶりです
最寄り駅まではそこそこ距離が空いていたが、僕は座席に腰掛けることなく扉付近の吊革に掴まり、到着を待っていた。
それは座席に余裕がなかったからというわけではなく、ただなんとなく座ってしまうと自身が引きずり込まれそうだったからであり、その原因は僕ではなく、列車内で僕を見つめる視線のせいだった。
とはいえ僕が取り立てて不自然な行動を取ったとか、僕が直接的に厄介な者に絡まれているというわけでもない。
それは陽慈の頃の習慣で、過去の街の駅階段付近の車両に乗ってしまったことで引き起こされた事象だった。
過去の知人がこちらを見ている、ただそれだけのことではあるが僕は冷や汗が止まらなかった。
だがそれを悟らせてはならないし、疑いが疑いのまま終わるように祈り続けるしか僕にできることはないのだった。
結局、視線の主は僕に一言声をかけることもなく、ただ下車するのみだった。
視線を感じていたというのは僕の思い過ごしであったのかもしれないと少し反省し、自身の軽率な行動を恥じた。
消えていき二度と関わることのないだろう人物のことをこれまで通り頭の隅に追いやり、僕はお姉さんに尋ねることを考えた。
まずは謝罪からだ。今日の僕にまつわる幼稚な言動の数々を謝り、それから、それからお姉さんの今日のことを質問するのだ。
答えてくれないのならばそれはそれで構わない。ただし、そうなったときに不貞腐れることの無いよう心構えをしておくことは重要そうだった。
列車が僕の最寄り駅に到着すると、人の波を分けて僕は下車した。
階段は遠く、エスカレーターはさらに遠くにしかなかった。
改札を抜け僕は駆けていた。
時刻はすでに午後十時を軽く超えていた。
お姉さんは僕のことを心配してくれているのだろうか、それともそうではないのか。
答えのない思いを胸の中で持て余しつつ、僕は自宅の戸を開きたい欲望で満たされていた。
外から見える自宅の窓からは明るい光が漏れ出ていて、お姉さんが就寝していないことを示唆していた。
マンションのオートロックを通過し、非常階段を駆け上る。一段に感慨はなく、ただ過ぎ去っていった。
欲望の赴くままに自宅の戸を少しだけ乱暴に開け、それからひと息ついて丁寧に扉を閉めた。
扉を開くと同時に、お姉さんの部屋の扉も開いた。
「ただいま、お姉さん」
「おかえり、星慈くん。……帰ってこないかと思ったよ」
それは安堵か落胆か、どちらにせよ彼女は溜め込んでいたように大きく息を吐いた。
僕は早々に謝った。勿論今日の行動についてだ。
幼稚な嫉妬を直視せずにお姉さんを追いやり、傷つけたかもしれないことを謝罪しなければ僕は一日を終えられないからだ。
「今日はわざわざ遊園地に連れて行ってくれたのに醜い嫉妬をして愚行に走りました。ごめんなさい」
お姉さんも自身の行動にも負い目があったのか、僕の謝罪はすぐに受け入れられた。
「私の方こそごめんね、折角の一日だったのに今日は上の空だった」
お姉さんは僕に対してそう謝った。
勿論僕もすぐに謝罪を受け入れた。
「しかし何故、お姉さんは今日あんなにもぼんやりしていたんですか?」
僕がそう切り込むと彼女は一度口を噤んだ。
「話したくないならないでいいんです」
僕は彼女に対して申し訳なくなり咄嗟にそう言った。
やはり気まずくなったり険悪になったりするくらいならば知らずに生活するほうがマシに思えてしまったからだ。
彼女は僕の目を見た。それは長かった今日一日の中で初めて、彼女が僕の瞳を直視した瞬間でもあった。
彼女の目は直接僕を捉えており、僕は他の何者でもなく星慈として彼女に見つめられた。
「話したくないわけじゃないの。ただ、私は気持ちを整理したくなかっただけなの」
そう言って彼女の口はしばらく凍ってしまったかのように動かなくなった。
だがそれは対話の拒否を示す沈黙ではなく、対話を始めるための沈黙だった。
焦れったく感じるものの、この時間はお姉さんにとってはとても大切なものだと僕は分かっていた。
「私も昔、今日の君みたいに遊園地に行ったの」
それはたしかに誰かを懐かしむ声だった。
そしてそれは僕にはその感情が向けられることはない、そう確信を得ることができる声音だった。
ただ遊園地に行ったわけではないのだろう。僕のように遊園地に行ったと言うのだから。
彼女もきっと、僕のように誰かに救われて今があるのだ。
そしてその誰かは、今ここにはいない。
「お姉さんも、誰かに救われたんですね」
その言葉に対し、彼女は微笑みとともに返事をした。
「きっとあの人は救ったなんて思ってないよ。私は攫われただけ。君もそう」
「でも救われた」
「……そうかもね」
「車の荷物もその人のものなんですか?」
彼女は黙って頷いた。
僕等は傷を舐め合うことしかできない。何一つ変わっていない、そしていつか失われる心地良いぬるま湯だ。
その時間が長く続くことを、僕はただただ純粋に願った。
それから僕等は特に会話をすることはなかった。
今日一日が気まずいものだったことに変わりはないし、僕等の関係が変化することもなかった。
まだ保温状態が維持されていた湯船に浸かり、僕は淡々とお姉さんに就寝する旨を伝え、言葉通り眠りについた。
お姉さんもきっと眠りについたが今夜は夢を見ることだろう。
楽しい夢でもあり、哀しい夢でもあり、懐かしい夢でもあり、色褪せない夢でもあるだろう。儚い夢であることだけは確かだ。
願わくばその夢が久しぶりな夢でありますようにと、僕はお姉さんに救われた一人としてそう思った。
その日は僕も夢を見た。
足を怪我した鳥の夢だった。
既に誰かが治療したあとなのか、右足首には白いハンカチが巻き付けられていたが、そのハンカチはずいぶん長く巻かれているのだろう、薄く汚れ、所々がほつれていた。
だがそれを綺麗にして巻き直してあげようと思っても、鳥はハンカチを外そうとする動作を警戒している。
頭を撫でさせてくれたり、こちらをつついたりと戯れる事はあっても、決してハンカチには触らせてくれなかった。
僕は自分の部屋の窓を開き、羽を休める場所を作ってやることしかできなかったが、鳥は多くの時間を窓辺で過ごしてくれた。
木箱で巣を作ってあげたらそこに住み着いてくれるし、僕と良好な関係を築いたが、稀に夜になると外へ飛び出し、何かを探しに行ってしまう。
何を探しているのか、僕に教えてくれることはない。
僕はどこへも飛び立つことはできなかったのに、一匹で飛び出していけるその鳥を羨ましく思うと同時に、家にいる間は僕にかまってくれてもいざという時にはどこへも連れて行ってくれない鳥に対して、僕は一抹の寂しさを覚えた。
そんな寂しさを抱えている途中で、僕の目は覚めた。
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