黒の掃除屋編-Ⅰ
■□貿易都市フレデナント セウィ漁港
【■■□■■】シルメリア=ビリーゼ
リムレア暦1255年 5月27日 7時00分
ドラグー王国の貿易拠点の一つとされるのがここフレデナントの港だ。
姉妹国であるソウライ大公国との間に横たわるゼーレ海を繋ぐ要の一つであり、両国の商業に於いて絶大な役割を担うドラグー有数の貿易港である。
晴天の空に消えて行くカモメを見送って艶のある黒髪をポニーで束ねた魔族の少女シルメリアは燦々と眩い陽差しに緋色の瞳を細めながら大きく息を吐いた。
「よし……やるか」
意を決した面持ちでシルメリアは地元の漁船に乗り込む。
フレデナントの特産で知られる【アーバオウァー】という名の魚をかき入れる漁船、まさにそれに。
ただ、黒基調のチュニックにスカート、黒のスパッツ姿と漁船に乗り込むには些か不釣り合いな格好。
一通り船内の漁師達に挨拶を済ませると出航と同時に少女は船首へと向かう。
◆
「おぉぉぉ……!」
徐々にスピードを上げていく漁船は波を切り裂いて沖へ沖へとその身を突き動かす。
太陽の光が海面に反射して煌めき弾けるその様に少女はあどけなく感嘆の声を上げた。
「おぉお嬢ちゃん。ここにいたか」
「むっ、これはこれは船長」
背後からした声に振り返るとそこには如何にもという漁船の船長。日に焼けた肌に丸太の様な腕が海の男さ加減をぐっと強調していた。
「例のポイントまではまだ少しかかるからよ、ほら。それまでこれでも食べててくれよ」
差し出された手の上には白い皿。ただ、その白面が覆い隠される程に盛り付けられた刺身、刺身、刺身。
「おおぉぉぉぉ……!!」
その様を目にして煌めかせたるは緋色の瞳。不可力に下垂れ落ちる大量のよだれも潮風に流れ、煌めく。
◆
暫しの時間は流れ、漁船は予め決まっていたポイントへと停泊する。辺り一面見渡せど広がる青い海原。
「───それにしても本当に大丈夫かいお嬢ちゃん?」
それは彼女が刺身盛りを胃に納め、ご満悦な気分に浸っている時だった。
「大丈夫とは何がだ船長?」
「いや、だってよ……」
彼女は船長の言っている意味が心底理解出来なかった。
片や当の船長もあっけらかんとしている魔族の少女を見ていると不安な思いに駆られてくる。
そもそも事の発端は【アーバオウァー】の巻き網漁のポイントに厄介な魔物が出現し始めたからだ。
漁師達の手に負える程度なら問題はなかったのだが、そうもいかなった。
人の身丈程にもなる大きな鋏を持つ甲殻類の魔物。名を【アバレザザミ】。その名通り蟹をルーツに持つ変異進化を遂げた魔物だ。
極めて凶暴性が高く、その大鋏にかかれば人間など容易く圧殺される。
幸いな事に移動速度は遅い為、人的被害が出ていないのだが、【アーバオウァー】漁を行う彼らからしてみたら安心出来たものではない。
現にポイントに停泊中、剣や弓も通らない甲殻の身体で船体に体当たりされたらひとたまりもない。
そこでようやく、ギルドに用心棒を依頼したのだが……。
「何か不安でもあるのか?」
目の前にはいたいけな程に頭上に疑問符を浮かべる少女。可憐なまでに整った顔立ちも今は無垢なまでにあどけない表情を浮かべている。
実のところ、強者揃いのギルド《ヴェンガンサ》という評判から、どんな強面のハンターが派遣されるのだろうと思っていたのだが、蓋を開けてみれば、魔族の少女が一人。
一応はギルドの支部長代行の人選だと聞かされたが、はたして……。
「……まあ、いざとなったら漁は放棄して逃げれば何とかなるか」
少女が聞き取れるかという微妙な声で呟いた船長はある種の諦めにも似た嘆息をつき、眼前の少女に笑みを浮かべた。
……のだが。
「心配は無用だ船長。私に任せておくといい。先程の刺身分も加算で働くぞ」
言って彼女はとびきりの笑顔を浮かべながら親指を突き出した。
数分後……。
「で、でたぁぁぁ……!!?」
「【アバレザザミ】だッ!!」
巻き網のポイントが近付き漁船がその速度を緩めた途端に船内から声が湧き上がる。
それは少女が何事かと尋ねる必要もない漁師達の驚きと不安を宿した警鐘だった。
「マ、マジで出やがったぁ!?」
他の乗組員よりは幾分冷静に船長がシルメリアの下へ駆け寄って来る。しかし、その声の中にも不安の色は拭えていない。
そんな船長をチラリと横目で見て彼女は小さく微笑んだ。
「……さて、どんな輩が出て来るのやら」
少女は不敵に笑って船頭に立つ。
その緋色の瞳はまだ見ぬ魔物の姿を冷静に追う。
やがて水面に変化が訪れる。船頭の先の海面が黒く影を浮かび上がらせていた。
「ようやく、お出ましか」
シルメリアは胸の前で腕を組みながら海面の影に目を凝らす。
……ごごごごぉぉん……!
船底が何かにぶつかり、鳴き声を上げた。今更、何と衝突したのか理解出来ない訳ではない。
船体が揺らめき、漁師達がバランスを崩す中、少女は何事もなかったかの様に動かない。
ざばぁぁぁん!と、海面から急速に何が姿を現す。
全長4メートル近い魔物は8本に及ぶ足で船体に絡み付き、赤黒く光る双眸で辺りを見渡す。
深い紺碧に染まった甲殻から伸びる異常に発達した2本の腕。更にその先に剛々と聳える双爪を目の当たりにして、漁師達の背に冷たい汗が流れる。
「……で、でかすぎる……普通のザザミじゃねぇぞコイツは……!?」
今にも震える足が砕けてしまいそうな船長の言葉に呼応するかの様に、通常の【アバレザザミ】の1.5倍はあろうかという蟹の怪物───【ヌシザザミ】は……ギィィィィィイ……!!と耳を劈く不快な鳴き声を上げた。
同時に魔物は獲物に狙いを定める。眼下でこちらを不敵に見上げて唯一この場で動じていない黒髪の少女に。
ザザミは片方の腕を振り上げる。成人男性二人分もあろうかという猛々しく巨大なその腕を。
「お嬢ちゃん、危ねぇ……!!?」
その剛腕が振り下ろされる先は誰もが瞬時に予測出来た。何故なら少女は動かない。船長の警告もその背には届いているのかも怪しい。
誰もが想像し得る最悪の結末を裏切る事なく容赦もなく振り落とされる暴力的な一撃。
───ガキキィィィィィイン……ッ!!
激しくぶつかり合う金属音が木霊した。
「…………?!」
事態を把握出来ない漁師達とまた同じく、魔物ですら何が起きたのか理解出来なかったに違いない。
勢いよく振り下ろされた【ヌシザザミ】の腕はシルメリアの手前───50センチ付近でその動きを止めた。それを気に病む事もせず、尚も押し込もうとする丸太の様な腕はその先に進む事を阻まれてしまう。
魔物の腕部と彼女を隔てる銀色の魔術壁は何者の侵入をも拒むかの様に、時折淡い翡翠色に煌めきを放っていた。
「残念、通らなかったな。まあ通すつもりはさらさらないのだけれどね。一応全力で防壁を張っておいて正解だったよ」
シルメリアは口元に軽く笑みを浮かべる。同時に右手に紫黒に染まる閃光の魔力鎌が生み出されている。
「今度はこちらの番だ……!」
身を翻してシルメリアは右に跳ぶ。同時に彼女を防護していた魔力壁は硝子細工の様な音を立てて砕け───魔物の剛腕は勢いそのまま船体に振り下ろされ、船首を破砕する。
軽快に跳ね上がったシルメリアは魔力鎌を両手で強く握り締め、ありったけの力を込めて振り下ろす!
ガキィィン……!!
先程と近い金属音を反響させ、少女の一撃は阻まれる。
「思ったよりも堅いみたいだな。まさか魔術も通さないとはね」
徐ろに呟いた彼女だが、台詞を吐き切る前に次の歩を踏み出していた。
それは【ヌシザザミ】も同様。左の爪で少女を挟み込もうと巨大な腕を伸ばす。
それを寸前のところで躱し、状態を低くしたまま、魔物の懐に入っていく。一撃でも喰らってしまえば生身の身体など砕かれてしまうだろう。そんな事は百も承知で。
まさに今、懐に到達しようとしたその時、【ヌシザザミ】は両腕を振り翳す。
「いけねぇ、お嬢ちゃんッ!」
船長の声を背にシルメリアは構わず突き進む。
狙う箇所は一点のみ。鋼の甲殻が纏われていない内側の関節部!
ザザミが両腕を振り下ろすよりも疾く、黒鎌は右足の2本を斬り落とした。支えを失った魔物は大きくバランスを崩すが、すぐに体勢を立て直そうとする。所詮失ったのは8分の2なのだから。
ただ、少女にはその僅かな時間で充分だった。
少女の左腕を包む様にして絡み付く黒炎は猛りを抑え込む様に静かに滾り、自らを生み出したる主人の命を待つ。
刹那、シルメリアは自らで斬り落とした【ヌシザザミ】の足の切断部に左拳を捻り込む。
それは彼女の拳から腕をすっぽりと包み込む様にして出来た断面。
筋肉質な繊維を無理矢理拳で掻き分けながら侵入を果たした彼女は静かに微笑み……、
「流石に内側まではどうする事も出来ないだろうよ」
見上げた緋色の瞳と巨大なザザミの双眸が合い、時間が止まる。
しかし、それは一瞬に等しい間。
「───深淵たる闇に其の身を焦がし、灼き尽くせ<黒ノ大蛇>……!」
少女の力ある言葉に応え、左腕から放たれた炎獄の大蛇は【ヌシザザミ】の体内で凶暴にその身を爆ざす。
───ギイィィィィィィッ……!!!?
断末魔の叫びにも似た悲鳴を上げ、魔物は野田れ回る事もなくその身を焼かれ、小刻みに震えながらも硬直する。
間もなく、その体躯は弱々しく崩れて双眸は光を失った。
『…………うおぉぉぉぉおおッ……!!!!』
途端に沸き上がる漁師達の歓声の輪。
それを他所にシルメリアはザザミの内側から身を引き千切り出した。
程良く焦げた弾力のある身は湯気を放ちながらも強烈な香ばしい薫りを少女の鼻腔に伝える。
堪らず、その薫りを吸い込む度、口元から涎が垂れ落ちる。
むしろ、堪える必要などなかった。
パクッ。
シルメリアはほくほくと焼けたその身を口に頬張る。ほっこりとした甘みが口内に広がり、引き締まっていた筈の身が柔らかく解けていく。
「……旨し!」
頬を紅潮させながらシルメリアは光悦に浸るのであった。
その後、瞬く間に巨大なザザミが彼女によって解体された逸話は漁師達の間で伝説となったのであった……。
人物紹介
シルメリア=ビリーゼ age 不明
ハンターギルド《ヴェンガンサ》でアルバイトをする魔族の少女。食いしん坊。
黒髪ポニー、緋色の瞳、見た目は10代半ばの美少女。
独自の魔術を扱う。