Ep3.姫は影が見える 前編
あの後、少し生活に支障を感じながら土曜日を過ごし、日曜日となった。
その日、俺、江波戸蓮が起きたのは昼前だ。夏の名残か、熱い陽光が燦々と降り注ぐ。
右側にある窓のカーテンを閉めてそれを防ぎつつ、俺は非接触型の体温計を額に掲げた。
……36.2、平熱だ。体を軽く動かしても特に問題は無さそうだし、ほぼ治っているだろう。
その事に安堵の溜息を吐いて、俺は起き上がる。沢山寝たからか、欠伸は出そうにない。
溜まっていた目脂をほじくり出しつつ、俺は寝室から洗面所に場所を移した。
洗面台で汗で油汚い女顔を軽く洗い、黴菌が蔓延っている口内を嗽で綺麗に流してやる。
もうルーティンであるこの行為だが、こんな夏だと冷たい水が気持ちいいな。
で……これから朝昼兼用の飯を作るつもりだし、手も念入りに洗っておこう。
食に置いて、衛生面というのは大変気をつけなければならないのは常識である。
濡れた手と顔を新しく取り出したフェイスタオルで拭き、それを洗濯カゴに放り込む。
特に刃物等を扱う気は無いが、無駄に手首を解しながら俺はリビングに出た。
一人暮らしには広すぎて殺風景になったスペースを横目に、そのままキッチンに立つ。
……まあ、流石に料理内容を移しても億劫だと思うし省かせてもらうが。
──というわけで、出来上がったのはオリジナルの特性サンドウィッチだ。
全体的に柔らかい歯応えで、ほかほかと温かく、そして栄養も取れる自慢の一品である。
具材の関係で食パンサイズを四枚分も作ってしまったが、大事な病み上がりにはこれくらい食べる方が丁度良いだろう。
実際、今の俺は食欲がかなり沸いている。これくらい、ペロリと平らげてやるさ。
「それじゃ、いただきます」
飲み物のコーヒーを片手に、俺はサンドウィッチに頭を下げた。
■ □
「うっぷ……っ」
──あんな風に思っていた時代が俺にもありましたよ。はい。
早くも限界を迎えてしまった腹に手を添えながら、俺は心の中で項垂れる。
即堕ち2コマとはこの事だ。昨日は晩飯を十分に取っていないとはいえ、平常時の俺が食欲に関しては結構控えめなのを完全に忘れていた。
間抜けな自分に嫌気がさしつつ、目の前に鎮座する二枚のサンドウィッチに目を向ける。
楕円皿の上をドミノ倒しに乗せられたそれらは出来立て。今こそが食べ頃だろう。
風邪で鼻が詰まっているため匂いはわからないが、見ているだけでも食欲が沸くものだ。
だが……。俺は窮屈な腹を服の上から摩る。
食欲と容量は……比例しない。
「仕方ねえか……」
とある事情で食には拘る俺としてはなんとも苦しい決断だったが、俺は立ち上がった。
キッチンまで向かい、取り出したのはラップ。
それでサンドウィッチを保存し、冷蔵庫に突っ込んで後々おやつにしようって魂胆だ。
無事にラップし、冷蔵庫の空いていたスペースに楕円皿を放り込む。
気を取り直しつつ、再度窮屈な腹を摩る。
「……散歩でもするか」
腹が苦しい。このままじっとしていてもあれだし、寝るのは体に悪いし。
というわけで、俺は気分転換に散歩に出ることにした。行先は……近くの公園でいいか。
その前に、一旦歯を念入りに磨いておく。寝起きだし、朝飯食った後だしな。
朝シャンは……帰ってからでいいか。お湯よりも、窮屈な腹の方が意識してしまいそうだ。
で、就寝着である紺の半袖スウェットを脱ぎ、俺は一応外に出られる服装に着替え始める。
と言っても、その内容はラフもラフ。白のシャツとベージュのチノパンという単純なもの。
そもそも俺は[ほぼ存在しない]のだから気にするのも無駄なのだが、まあ一応な。
脱いだスウェットを洗濯カゴに放り込み、運動靴を履いて、さあ出発だ。
少しルンルン気分になりながら、俺は現在の家じゃ特有の重い扉を開ける。
「あっ」
──刹那、碧い眼と目があった。『刹那』なので、全く好きだと気づいてはいない。
素っ頓狂な声を上げたそいつは目を見開き、この国じゃ珍しい長い金髪を揺らす。
見たことのあるビジュアルだなあ、とふと思ったが、あるも何もそいつは間違いなく[学園の「姫」]こと白河小夜であった。
なんやかんやで、その顔を拝むのは今日で三日連続である。特に嬉しくはないけども。
「………」
「……こんにちは、江波戸さん」
そのままお互いに口を開かず静かな空間を作り上げていたのだが、白河小夜は案外早めにその空間を破壊して平然と挨拶してきた。
「……ああ」
なんて返せば良いか迷ったが、とりあえず五十音最初の文字を二度繰り返しておく。
自分でもどうかと思う返しだとは思う。しかし、俺は一つ考えていたのだ。
それは……やはり、白河小夜が俺のことが見えている、という結論。
昨日でほぼ分かっていたことだが、意図せず居合わせてもこれなのだから、その確実性は格段と上がってくる。
だとしたら、それは一体何故だろうか。
まあ一応、原理はわからないが俺のことが見える人物は他に二人程知っている。
ただ、双方は共に血の繋がっている親戚だ。もしかしたら、その影響なのかもしれない。
逆に数ある親戚の中で何故二人だけ、という話にはなるが、まあ今は置いておこう。
白河小夜は、赤の他人だ。
他に見える二人のように血の繋がっていることがなく、事実として外人やハーフの親戚がいるという話も全く聞いた事がない。
実は居ました〜、なんて説も有り得なくはないが、今は考えないこととする。
この人生、赤の他人に見つけられるなんて初めてなので、得もないのに俺は考え込む。
その顔はさぞ難しい雰囲気だったのだろう。伺うように、その当人が口を開いてきた。
「えっと……江波戸さん、未だに体調を崩していらっしゃるのでしょうか?」
「は?──ああいや、すまん。体の調子についてはもう大丈夫だよ」
予想外の質問に素っ頓狂な声を上げるも、俺は慣れない笑顔を浮かべ身の無事を主張する。
白河小夜の心配は恐らく借り、今回に関しては迷惑という弱みを作りたくないためだろう。
心配しなくとも、こちらも[学園の「姫」]と交流することは願い下げだ。
今の状況で口に出すことはできないが、心の中でそう悪態をついた。
とりあえず、先程の考えは一旦保留にする。
今の状態で考え込んでも、さっきみたいに面倒な質問をされるかもしれない。
だからといって、滑稽に見えるであろう笑顔を浮かべるのは少々屈辱ではあるが。
ただ、少なくとも効果はあったようで白河小夜は安心するように息を吐いた。
「でしたらよかったです」
「ああ。白河のおかげで風邪ひいてたことに気づいたし、感謝するよ。ありがとう」
……なんだかこの雰囲気、慣れねえな。人とこうして話すことがあまりないからだろうか?
まあ、そんなのも今日が最初で最後だ。
とりあえず、できるだけ白河小夜が一昨日の事について気にしないように返しておく。
「いえ、そんな──」
「そんなことあるって」
しかし、少し言葉が下手だったか。白河小夜はゆるゆると首を横に振ってきた。
ただ、これ以上話を続けるつもりもない。俺はその言葉を遮り、無理矢理納得させる。
強引な行動に彼女は困った顔をしながらも、それ以上何も言ってこない。
よし。その隙に、俺は出発することにした。
「それじゃ、俺は出かけてくるから」
「え?あっ、はい。では……」
素早く鍵を施錠し、手を振りながら俺は白河小夜のいる方と逆方向に歩き出す。
少しの可能性も見出さないよう、後ろに振り返らず、俺は彼女からの死角に入ろ──
「待ってくださいっ」
──とした所で、後ろからする叫び声に呼び止められた。