Ep2.姫はお隣さんに訪問する
俺、江波戸蓮が住んでいる賃貸マンションは学校から片道で徒歩30分程の距離にある。
一室2LDK、セキュリティが万全で、学生にしては結構お高めな物件だ。
そんなマンションに学生が住むのは珍しく、実際に俺以外には一人しか見たことがない。
……いや、いるっちゃいるんだけどな。
そいつが誰かと言うと、なんとまあ偶然のことか、例の白河小夜だ。
それも、お隣。扉を出て右を向けば、なんと直ぐに[学園の「姫」]の御宅に訪問できる。
しかし、だからといってお互いに家を訪問したことはただの一度も無い。
当然だろう。白河小夜は人を避け、俺も彼女に興味などなかったのだから。
だと言うのに、台風が過ぎ去ってギラギラと太陽が輝く土曜である今日この日。
日が登ってから時間は経っているとはいえ、まだまだ体が怠い午前九時。
──珍しく鳴ったインターホンに、何故その白河小夜が映っているのだろう?
ディスプレイ越しにこちらを見てくる彼女を見て、俺は軽くパニック状態に陥っていた。
それこそ当然だ。前述の通り人を避けている彼女が、何故我が家(賃貸)に訪問を?
そう一人で狼狽える俺に、画面に映る彼女は長い金髪を揺らして首を傾げた。
そんななんてことのない仕草でさえ、「姫」様がすると別次元のものに見える。
<ピンポーン>
と呆けている俺など露知らず。
画面の向こうにいる彼女は、手を伸ばして再度インターホンを鳴らしたようだ。
「えーと、はい」
俺は混乱しながらも、通話ボタンを押して情けない声をマイクに発した。
何故かは分からないが、例外として電話のマイク等は俺の声に反応してくれるのだ。
だから俺は、とりあえずインターホン越しの会話を試みることにした。
それに反応した白河小夜は、何か違和感のある微笑みを浮かべ、何かを持ち上げる。
それは、昨日雨に打たれていた白河小夜に押し付けた、黒い俺の傘だった。
「“おはようございます。昨日、江波戸さんが譲ってくださったこの傘を返却しに参りました”」
ご丁寧な挨拶と共に、訪問してきた目的を丁寧な言葉で説明してくる白河小夜。
しかしその内容は、俺にとって先程の笑顔よりも違和感を感じるものだ。
……その口ぶり、もしかして昨日の事を彼女は認識していたのではないだろうか?
そんなはずは無い、過去を抱えた記憶がそう叫ぶ。しかしじゃあ、この発言はなんだ?
頭の中にある混乱が急加速する。
しかし直ぐに頭が痛くなってきて、早くもキャパシティがオーバーしてしまった。
……しかしでも、どちらにしろ俺はかの「姫」様と交流する気など、全くない。
応答するのも面倒になってきたので、俺は拒絶するようにこう返した。
「……なんのことだ。俺は君に、その傘を貸した覚えなんてないぞ」
「“嘘をつかないでください。夕方頃、私の手に貴方がこの傘を握らせたじゃないですか”」
しかし、少し度を強めてきた彼女に1秒もせずにそう返されてしまった。
その表情は変わらず微笑のままだ。しかし、画面越しなのに少しだけ威圧を感じるような。
「……待ってろ」
少し面倒に思って溜息を吐きつつ、俺は押し付けた傘を受け取ることにした。
最初からそうしろ、とか言われそうだが、こんな朝から叫びたくはないんだよ。
近所迷惑なのは勿論だし、ただ単純に大声を出すのは疲れてしまうだろ?
色々な意味でやけに重く感じる足を動かし、クロックスを履いて俺は玄関の扉を開いた。
視界に映るのは、勿論だが実物の白河小夜。
半袖の白いブラウスと、長めな丈の赤いフレアスカートという私服姿だ。
袖から出ている白い両腕の先端には、昨日俺が押し付けた傘を握っている。
なんともまあセンスの良いファッションか。
少し外観が地味な廊下にいるのに、白河小夜の周りは一輪の花な咲いているかのように輝いて見える。
んな馬鹿な考えを他所に、突然開いた扉に驚いているであろう彼女を前に俺は息を吸う。
「───」
「おはようございます、江波戸さん」
「!?」
しかし、それより先に頭を下げてきた白河小夜に俺は言葉を詰まらせた。
先程と同じような信じられない状況に、叫び損ねた口をパクパクと情けなく開閉させる。
そんな俺を見て、ご丁寧なお辞儀から頭を上げた彼女は金髪を揺らしながら首を傾げる。
……その仕草については先程も述べた故、今度は割愛させて頂こう。
「ご体調が優れないのですか?」
「いや──ん?体調?」
無事を確認してきた彼女に、反射的に首を横に振る。
──が、その質問の内容に少し違和感がある事に遅れて気がついた。
何故体調の心配を?
……もしかして、一回一回の反応がやけ遅いからって頭の心配をしてきてるのか?
おうおうそれはいきなり喧嘩売ってくるじゃねえか……んなわけねえわ。
なんだか自分のテンションのおかしさも疑問に思いつつ、俺は質問の真意を考える。
しかし、白河小夜は直ぐに謎を答えた。
……いや、その謎を出したのってこいつ本人だけどな。
「顔が著しく赤いように思います。それに、少し体勢も優れないと言いますか……」
「は?」
体勢に関してはよく分からないから兎も角として、俺の顔が著しく赤い?
確かに少し怠さは感じるが、暑いとか寒いとかの体感に関しては特に問題ないはず……
しかし白河小夜は、違和感を感じる微笑みを崩すと、顔を青くし始めた。
「もしかして、昨日私に傘を譲ってくださったせいで……」
「いやいやちょっとまて。俺は別になんともないぞ?ほら、この通りな」
まさかの解釈に慌てた俺は、首を横に振りつつ両手を上げて白河小夜に健康を示す。
実際、俺としては特に体調の問題はないと思っている。普通に行動できるからな。
しかし、そんな俺の言葉に彼女が分かってくれたような様子はなかった。
「……しかし、念の為様子は見た方が良いと思いますよ。看病させて頂きます」
「え、は?何故?」
真面目な顔になってそう平然と言ってくる白河小夜に、俺は素っ頓狂な声を上げる。
面倒ながら様子を見るのは頷ける。が、どうして彼女が看病してくるのか。
しかし白河小夜は、真面目な……しかし少し冷たく感じる表情で告げた。
「昨日、傘を譲ってくださったお礼をさせてくださいませんか」
……ああ、なるほどな。
なんとなく彼女の思っていることを察した。
人を突き放す白河小夜のことだ。
誰かに借りを作りたくない、そう言いたいのだろう。
ぼっちの俺でも、下心の持つやつはそういうので近づこうとするのは想像しやすい。
少し、不憫には思う……が、それでも。
「不要だ」
俺は突き放した。
でも。そう言いたそうな、弱々しい表情の彼女が口を開くより先に、俺は続ける。
「あんなの貸しだと思ってねえよ」
白河小夜は目を見開き、口を噤んだ。
俺の勝手な想像だったが、幸い言いたそうなことを間違ってはいなかったらしい。
鼻を鳴らしながら、俺は手を差し出す。
「傘は貰っておくよ。態々ありがとう」
「……わかりました」
白河小夜は少し躊躇したような仕草を見せたが、無事に渡してくれた。
その表情はなんだか居た堪れないといった感じだったが、もう形振り構ってられない。
「じゃあな」
「……ええ、さようなら」
なんとも暗い雰囲気だ。
そんなやり取りを終え、俺は静かに扉を閉める。
これでいいんだ。そう、これでいい。
俺はもう人と関わるのは諦めた。彼女も、この結末を望んでいたことだろう。
……しかし、白河小夜は俺の事を普通に認識していたし、話も普通にできていたな。
キャパオーバーして触れられなかったが……一体、どういう原理だったのだろうか。
もう知ることは無いだろう疑問をぼんやりと考えつつ、俺はリビングに戻るのだった。
──因みにだが、白河小夜の言う通り俺は風邪をひいていたため、その後自分で看病した。