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暗渠の水泡

作者: 相沢 真秀

一、暁星


 俺は既に死んでいるはすだった。

 自分にとって、此処は何の希望もない世界だった。ただ、死にたい。消えるように死にたい。そう思いついたのは何時頃だったろう。

 おそらく二十歳を迎えた時だ。華やかな式典。大人代表のつまらない話の最中。その大人たちの仲間として受け入れられた日に、俺は猶予五年として、二十五歳で自分の人生にピリオドを打つことを決意したはずだった。五年後の誕生日を最高の最期として迎えるべく、それだけのために生きていたような気もする。

 しかし、

 現実はどうか、あの確固たる決意から既に六年が経過したのだ。もうじきその月日がさらに三六五日、丸々追加されようというのが、なんともやるせなく、腹が立った。

 自問自答。

 自分はいつ死ぬのか?

 もう死んでいる。或いはもう自らでは死ねないのかもしれない。

 悔しいが、情けなくも、自らが垂らした苦汁を自らの舌に落とし、俺は生きているのだ。


 バイト先へ、親の自転車を借りて向かうことはいつもと変わりの無い事だ。二十六年住み着いた土地。川を挟めば東京だが、まだまだここは田舎臭い。いや、田畑の近くを通れば何の肥料か、糞のような臭いだって漂ってくる。子供の頃はわざとらしく息を止め、全速力で走り抜けたりもしたが、今ではもうそんなことなどしなくなった。糞のような臭いを肺に満たし、地元を堪能できるまでの余裕が出来た。

 昔はまるで煙幕のようにその異臭があちらこちらに漂っていたものだが、今では田畑の数も激減した。まるで一日経つごとに田畑が一つ潰され、更地に家が一軒建っているようにも感じさせられた。徐々にではあるが、俺が描いていた『ノスタルジックな地元』というものが変容しつつあったが、俺にはやはり何の関係もないし、何の感慨も浮かばない程度のことであった。

 細い道路に面して田んぼが連なっており、田と道路の脇には幅一メートルばかりの、コンクリートで固められたされた用水路が流れていた。

 壁面は苔むしており、底には打ち捨てられた大小のゴミやヘドロなどが付着している。お世辞にも子供たちの遊び場になるような場所ではなかった。それでも、その用水路には鯉がいた。

 もちろん鯉は綺麗なものではなく、万年汚い水の中にいるせいか身体をぬめりとしたヘドロ染みた膜で覆っているようで、水面を通して見ると多少ぼやけて映っていた。そんな鯉を見るのが好きだった。ガードレール越しに孫と手を繋いだ老夫婦がパンきれを投げ入れている様子を見たこともあるし、さらにはガードレールを乗り越えたおっさんが貧相な手作りの釣竿から糸を垂らしているのだって見たことがある。

 そのおっさんはまさに太公望であることを願う。竿の針は真っ直ぐだったか、或いは『水面より針、離れること約三寸』と、いった具合にだ。そりゃあ実に素敵な光景だろう。まさかヘドロまみれの鯉なぞ食いはしまい。

 それでも、鯉は居ない時がしばしばあった。それを俺はコールフィールドのように考えたりはしない。たしか彼はタクシーの運転手に向かって『セントラルパークの池が凍ったらアヒルたちはどこへいくの?』と聞いたはずだ。知らん。知らんよそんなものは。俺も、運転手も、アヒルのことなど知る筈が無い。俺はセントラルパークはおろか、本州から出た事も無いんだ。

彼を読んだ時、幾分憧れや青春というものを感じ取ることができた。だが、それも昔のはなしだ。もうコールフィールドになれない自分というものを知っている。それはつまり、コールフィールドの死を意味していたに相違ない。それでも、赤いハンチングは一回も被らずに引き出しの奥に、捨てることもなくちゃんとしまってあった。

用水路に本日、鯉の気配は無し。それもそうだ。連日の集中豪雨で水嵩は増しに増し、狭いコンクリートの中を大蛇のようにうねり、ぶつかり、飛沫を上げて流れていく。ねぇねぇ、こんな日は鯉はどこへ行くの? くだらない。そんな質問はしない。知りたくても、しない。


始業時間ギリギリに制服に着替えて、タイムカードを切る。バイトはいつの間にか最年長となり、後輩の見本となるべくはずがこの怠惰な有様だ。この仕事を始めたときは最年少のはずだったが、目が覚めれば一日にして最年長となった気分。この感覚はいつだってそうだ。昨日まで学生だったのかと聞かれれば、迷わずに首を縦に振りたくもなる。俺はいつのまにフリーターなんぞになっていたのだ。

 挨拶もほどほどにして業務に取り掛かる。業務内容はスーパー内のレジ打ち、接客応対。こんな俺が八年もこの仕事を続けていられるのだから、さほど難しくもないのだろう。それどころか、今更他の仕事が出来るかどうか、怪しいものがあった。 

 一時的にではあるが客足が途絶え、多少の暇を持て余すことになった。隣のレジを見ると、阿呆の顔をぶら下げて、『疲れました』と顔に書いてある花山に声をかけた。

 私語厳禁なんてものは誰も守らない業務規則だ。店長ですらある程度の私語は黙認していた。

「なぁ、お前誕生日いつだっけ? 今月なのは覚えてるんだけどさ」

「あ、よく覚えてましたね! 二十五日ですよ。給料日です! やったね!」

「なにがやったね! だよ。なにをやったんだよ。そうだな……」

 制服であるエプロンのポケットから皺くちゃなシフト表を取り出し、今月の勤務状況を確認する。

「お。俺もお前も休みじゃないか。ついでに、中野も。あいつも誘ってウチで誕生日パーティーするか」

「まじっすか! 吉沢さんがそういうこと誘ってくれるの珍しいですね! いつも付き合い悪いのに! 性格と同じで!」

「一言余計だカス。まぁ……な。誕生日くらい祝ってやらないとその人はいつか生きてる意味を忘れちまうのさ」

「意味わからないですね。芸術家ぶってキモイっていうかウザイですね」

 ふん。わからないならそれでいい。所詮低脳な貴様には判らないことさ。俺の芸術性または天才気質など、こんな肥溜めみたいな所で発揮などされるはずがないのだ。そんな肥溜めにずっぷり浸ってるような花山なんぞが俺の有難いオコトバなんて理解できようか。それでも、一応は不快感を表す為に大きく舌打ちをしてそっぽを向いくことにした。

 バイトが終わり、早速中野にメールを送ってみた。連絡なら電話のほうが早いのだが、如何せん、俺は音声連絡というのが滅法苦手でもっぱら携帯電話はメール操作が殆どであった。

 中野とは五つ年が離れているが、もうかれこれ四年の付き合いにもなり、唯一バイト先の連中で俺にタメ口を効く男だった。

「二十五日暇ならウチで花山の誕生日パーティーするぞ」と、送信をすれば、五分もしないうちに返信がきた。

『いやっふー』

 まるで意味のない内容だが、そんなメールの応酬を二時間ばかりつづけ、中野と花山はウチでパーティーをすることになった。


「マジかよ!」

 二十五日の昼間、花山の誕生日。俺の悲痛にも似た叫び声がリビングに吐き捨てられた。テーブルには所狭しと母がこさえた料理が並べられている。三人で食べきれなかった分は晩飯に回すという算段らしい。

 俺の驚愕とはよそに花山はいけしゃあしゃあと続けた。

「そうなんすよー。吉沢さんにはもうないだろうけど、僕にはあるんすよー。夢が!」

「いいねェ。おじさん応援しちゃうよ、夢ェ」

 ビールをたらふく飲んで完全にデキあがってる中野が相槌をうつ。こいつは無視して話しを続ける。

「んだよ。佐賀に帰るって。佐賀って何県だよ。バカなの? おまえ」

「佐賀は僕の故郷で佐賀県です。一応バカではないと思ってます。吉沢さんよりは」

 いや、お前はバカだ。大馬鹿野郎だよコンチキショウ。お誕生日会が送別会になるなんて話は聞いた事が無い。そんなもん馬鹿がすることだ。

「いいねェ。おじさん応援しちゃうよ、花山さんの夢ェ……」

 相も変わらずビールを呷っている中野がのたまっている。

「夢、ねぇ……」

 遠い目、というのだろうか。自分でも無意識に壁に掛けられた時計を見るでもなく、時計の針よりもさらに奥、とでもいうのか、焦点の合わない目でぼんやりと眺めた。そんな自分の行いを気づかせたのは花山の一言だった。

「何、感傷に浸ってるんっすか。きもいっすよ」

「うるせぇカス」

 遠い目をしていようが染み付いたレスポンスの速さは鈍ったりはしない。湯飲みに入ったコーラを飲み干して、新たに継ぎ足し、また一気に飲み下した。炭酸が喉の奥で弾けながら流れていき、心地よい痛みを感じた。

「なんだよ、夢って……」

 だれにも聞こえないほどの小さな声。もしかしたら心の中だけで呟いた言葉なのかもしれない。

 夢なんて遠の昔に忘れた。どこかへ飛んでいったのだろうか。コールフィールドになりたいとか、そんな幼稚な夢ではなく、もっと

具体的な将来の夢。きっとあったのだろう。そういったものが。だが、俺にとってはそれは逃げ道でしかなかった。ありとあらゆる苦行から逃げ続けた結果がコレだ。どうにもならない。

 空の湯飲みに注いだコーラはしゅわしゅわと小さく泡立ち弾けている。

「お前は先に向かう訳だ。俺たちより先に、だ。まぁ、佐賀だかウクライナだかは知らないけど、身体には気をつけるこったね」

 と、説教地味たイイコトを言ったつもりで居たが阿呆の花山にはまるで理解もされず。

「何言っているかまるでわからないけど、そうっすねー。それよりもですよ。僕はまだ二十二歳で将来も有望ですけど、吉沢さんはどうするんですか? もう三十でしょ?」

「あぁ? なにがってんだ?」

「就職ですよ。まずいんじゃないですか?」

「どうすっかねぇ。まぁ、俺は天才だし、芸術家になれれば何でもいいよ」

「またそれですか。芸術家って、何やるんですか? 才能あるんですか?」

 まるで呆れたと言わんばかりに顔を顰める花山。中野といえば、「天災だねぇ」と良いながらも言葉遊びに興じている。俺が天災ならお前は所詮厄災だろうがよ。

「吉沢さん、もうスーパーに就職すればいいじゃないですか。勤務態度はマジメ……とは言いがたいですが、かなり接客態度いいですし。良い線いくんじゃないですか?」

「馬鹿野郎。それ以上はよしてくれ。コーラがまずくなる。それにまだ二十六だ」

 これは謙虚な対応でも、褒められた事への照れ隠しでもなく、純粋な嫌悪感だった。あんな仕事場は流刑地だ。いや、俺に言わせればどこもかしこも、流刑地に変わりは無かった。逃げに逃げて辿り着いた此処は、流刑の地でしかなかったのだ。

 宛てなんてものはまるで無いが、芸術家になりたい。いや、なるべくして産まれて来ているんだ。

「ちょっとー。花山くんも中野くんもこの馬鹿に何とか言ってやってよぉー」

 そこでずっとキッチンの奥で凝った料理を拵えていた母親が顔を出した。顔には諦めや呆れといった表情が見て取れたが、半ばいつもどおりの表情ではある。

「もう無理っすね。末期っすよ」

「エンドオブヨシザーワ」

 いつも言いたい放題言う奴らだ。親に向かって実の息子さん終わってますよ、なんて普通の神経ならまず言わない。いや、言えないであろう。それなのにこいつらは平気で言ってのける。まるで容赦の無い奴らだ。しかしこの容赦の無い態度が出るのは幾分かの酒気と我が家の雰囲気が手伝っているのだろう。俺はまるでウンザリしたという表情をつくり、料理を摘むが、なんてことはない。これが楽しい談笑というやつなのだ。いつもどおり。まるでいつもどおり。何の変哲もない、だ。

 なぜか自分にそう言い聞かせているのに気付くのに時間は必要では無かった。


 夜半もすぎ、二人はとっくに帰り、家の片付けも既に終わっていた。両親がいる寝室からはどちらともつかぬ鼾が聞こえるばかりだった。シャワーを浴び眠気を一時的にでも覚まし、パソコンを立ち上げた。ネットサーフィンは日課でもあり、多少の眠気は我慢してでもこなしたい事であった。

 就職か……どうしたものかね。

 独りごちでみるも数年前にブックマークに登録してある求人サイトには飛ばず、趣味丸出しのお気に入りサイトを巡回する。

 二十五歳までには就職するということで親元に置かせてもらっていた。だが、就職もできず、ましてや死ぬこともできず、ずるずると二十六を迎え、あと半年もすれば二十七歳だ。判りきったことだが、もう未来なんてありゃしない。芸術家? わかっちゃいるさ。俺には何もない。何も積み重ねていない。気取るだけなら中坊にでもできる。ただ違うのは中坊には未来があり、俺には無い、ということだけだ。それだけの違いなのに、どうしてこうも決定的な絶望を俺に齎すのだろうか。

 ああ、何かしでかしてやりたい。

 でも、何もできやしない。自分の首も締めれない男だ。事故でもない限り、大それたことはできやしない。判っている。判っているんだ。そんな事は。

 くだらない逡巡をしながらのネットサーフィンはまるで楽しくなく、さっさと寝てしまおうとも思ったが、一つ目を引くものがあった。

「ほう、これはちょいとおもしろいんじゃないか」

 俺の目に留まったのは大規模とは言いがたい、おそらくマイナーな掲示板に載せられた一文。

『明日の正午、人を殺す。大量にだ』

 犯罪予告。

 ネットの世界じゃ嘘か本当かも判りはしない。真相は明日の正午になれば判ることだ。今この犯罪予告を見ている人間はどのくらい居るのだろう。決して多くはないはずだ。だが、リロードする度にレスポンスの数が増えていく。ネット特有の煽る奴等に、必死に止めようと訴えている奴等。

『顔真っ赤にしてキモイよ。とりあえず通報すっから』

 これが犯罪予告に対する俺が最後に確認したレスだった。

「……明日もどうせ変わらぬ一日だ」

 パソコンの電源を落とし、床に就いた俺は溜息交じりに呟いていた。


 目が覚めたのは昼もとうに過ぎて、二時を少し回った頃だった。今日のバイトは夜からだったし、まだ一眠りするには充分な時間もある。普段は何度か途中で目が覚めるものの、バイトの時間ギリギリまで布団の中で眠っているのが常であった。

 乾いた喉を水で潤してから、携帯電話をいじり、登録してあるSNSサイトを開く。無数に挙がっているニューストピックスが目に飛び込む。芸能人の電撃入籍、恋人が出来ない十の理由、ババアが孫を刺した。新宿にて死傷者十九人。

「死傷者十九人……か」

 そのニュースを開く訳でもなく携帯のウェブ接続を切る。概要は知らない。興味も無い。まして犯人が昨日のネットの住人だったとしても、俺にはどうでもいい話しだ。だが、ちくしょう。この憤り。腹ただしさはなんだ。こんなにもイタマシイ事件が起きたことに腹をたてているわけでは断じてないのは自分でも判っている。そんな善人に生まれてはいない。俺は地獄に落ちて然るべき人間性を備えていると常日ごろから思っているくらいだ。

 テレビの向こうの犯人は死刑だ、殺された奴等も当然、もうこの世にはいない。被害者も加害者もみんな向こう側に行っちまった。おそらく、これは羨望だ。ちくしょう。ちくしょう。ちくしょう。

 クーラーが効いたリビングでは母がニュースを見ていた。画面には大きなテロップで死傷者十九人という文字と、その凄惨たるや事件現場が映し出されていた。それはまるでノイズ。イカレた電波まみれで嫌気がさす。吐き気まで覚える。

「なぁ、母さん」

「どうしたの。ほら、テレビ見た? 怖いわねぇ……」

「どうして俺の目の前には蜘蛛の糸が垂らされないんだい?」

「はぁ?」

 そこで初めて母がこちらに顔を向けた。表情には多少の訝りが顕れているたので、どうせ理解はされないと思い自らが先にそっぽを向いてこの話しを無しにするという形になった。

 おい、釈迦だか、仏だか知らないが偉い奴。お前は間違えている。蜘蛛の糸を垂らす場所はここだ! 俺は間違いなく、カンダタよりも上手に糸を登る自身がある。お前の機嫌をとって、糸を登って見せる。絶対に糸を切らせはしない。この地獄地味た娑婆苦から俺を救い出してくれ。チキショウ、はやくしやがれ。クソ、クソ……。

「……寝るわ」

「あら、ご飯は?」

「起きたら食うよ」

 クーラーの無い俺の部屋で、首の部分が壊れた扇風機がカタカタと音を立てながら羽をくるくると回している。お前は首が、俺は頭がイカレている。まったく俺にお誂え向きの扇風機だよ。蒸し暑い部屋で、シャツに汗を滲ませながら、一時の惰眠を貪るようにして時を無碍に過ごした。

 蝉も鳴き止みたくなるような暑さの中、陽も暮れているというのにまだ蒸し暑く、少し動けば汗が額に滲み出てくる。

 ドブ川のような用水路を眺めての出勤。いつもと変わらぬ一日だ。たとえテレビの向こうで誰が死のうと、誰が誰を殺そうとも俺の一日は何事も無く過ぎてゆくのだ。

 信号も近くなり、交通量が少ない道路ではあったが一応と、前を向き直ろうとしたとき、違和感を覚えた。自転車を止め、改めて用水路を認めると、赤みがかった腹をぷかりと浮べて鯉が死んでいたのだ。ここ数年この道を通り、その度に用水路を眺めていたたが、鯉の死体を見たのは、今日が初めてのことだった。


 バイト先の休憩室で中野が片手に本を持ってやって来た。何かと思えばどやら地方公務員用の参考書らしい。

「これ使う?」

「ああ? 俺には必要ないな」

「だよね。もう三十歳だし」

「まだ二十六だ。それよりお前、公務員になるのか?」

「一応ね、予定ではいる。やっぱ将来とか不安じゃん? あと、この参考書役に立たないから売ろうと思って」

「売ろうとしてたのかよ」

 鼻で笑って見せたが、それはただの強がりだった。いつになく真剣な中野の表情と、参考書という分厚い本に俺は虚を衝かれ、焦り、憤り、穏やかな感情は我が心中にはなかった。

 本日の業務も終わり、帰りと同じように暗く濁った用水路を眺めて帰る。夜半も回っており、用水路は黒く、時折きらり、きらりと月の光を反射しているのかガラスのように光ってみせるばかりである。脳裏には死んでいた鯉の姿が蘇る。まだ浮かんでいるかは定かではない。確認するにはもう辺りは暗すぎる。だが、もう居ないだろう。

 コンクリートで囲まれた用水路に逃げ道などあるわけが無い。ならば蜘蛛の糸は垂らされたのだろうか。太くて頑丈な、切れない糸が――。判らない。お釈迦様にでも聞いてみるか? 無理な話だ。俺には信仰心なんてものはないのだから、俺の声なんぞが届くはずもない。

 なぁ、コールフィールド、セントラルパークのアヒルたちは蜘蛛の糸の先に行ったんじゃないのかね。セントラルパークにお釈迦様なんて笑えるか? いやいや、奴等はグローバルだろ。なら蜘蛛の糸もグローバルに垂らしてもなんらおかしくないだろう。神や仏っていうのはグローバルな存在なんだよ。

「あぁぁぁぁぁ!!」

 我慢の限界。思わず自転車を止めて叫んでいた。叫んだのが先か、限界を感じたのが先か、自身でもそれは定かではない。

 携帯をいじりながら歩いていたサラリーマンが振り返りこちらを伺っているようでもあった。暗いから判らない。だが、俺を異物でも見るような目で見ているに違いない。俺ならばそうする。ちくしょう! クソッタレ! 助けてくれ!


 連勤が建て続きに続き、三連休が取れたのは奇跡ともいうべきだった。何を思い立ったか、バイトが終わるや否や、急いで福井県坂井市に向かう算段を立て、即座に実行に移した。行く場所は既に決めている。以前テレビで見たことがある。観光スポット、自殺の名所でもある東尋坊だ。

始めて夜行バスというものに乗り、目的地まで向かう。道中、携帯で東尋坊の由来などを調べ、ぬかりはない。ウェブを開いている最中に中野から一通のメールが届いた。メールの内容は最近はめっきりご無沙汰だったカラオケの誘いだ。俺は「ノー」とだけ返信して携帯を閉じた。お互いに連絡事項はそれだけで充分だった。

 目的地に着き、大きく伸びをして、空気を吸った。空気の味なんてものはどこも同じだ。何も変わりはしない。ポケットの膨らみを思い出し、徐にハンチングを取り出した、赤いハンチングだ。高校時代に買ったはいいが、今日の今日まで一切被ることのなかった代物。何しろ、洋服のセンスなぞてんで無い俺には赤いハンチングが似合う服装などまるでわからないし、判ったとしても帽子は似合わない顔つきをしているということを知っていた。それでも今日だけはコレを被っていたかった。どうせ今の服装ともアンバランスでチグハグな格好になるだろうけど、それでも今日は、今日だけは構わないと思った。

 日が伸びたと言っても午後六時を過ぎれば多少は薄暗くもなり、自殺の名所と言われるだけもあってか、物寂しい雰囲気が漂う。テレビでは物々しい様子を放送していたが、実際はどうだろうか。何もありはしない。ただ、やはりというか、テレビ通りというか、自殺を思いとどませるようなシカケがいくつもあり、これで救われるなら結構なことである。

 テレビで見たような見てないような既視感に囚われながらもとぼとぼと歩みを進めていく。たしかここのトイレには女性の霊が助けを求めているとかなんとか。嘘か本当かは知らないし、大した興味もない。テレビの嘘を見抜くのはいつだって難しい。

 丁度向こうから来た通行人が通り過ぎようとしたので、これを機に尋ねてみたいことがあった。東尋坊が落ちた場所はどこか、と。酒を食らって絶景を眺めたという東尋坊たち、酒の肴になるくらいなのだから、さぞかし荘厳であるだろうという期待は、嫌でも心に満たされてくる。尋ねた相手は年配の男性だった。値踏みするようにつま先から頭の天辺まで見られ、訝しげながらも、真剣な顔で、

「あんた、はやまっちゃいかん」

 と語気を強める。どうやら自殺志願者と勘違いしているようでもある。

「いやいや、ちょっと知りたいんですよ」

「死んだらちょっとじゃすまないぞ! 何を言っているんだ!」

 『知りたい』と『死にたい』か確かに語呂は似ているし、滑舌の悪い俺では聞き取りにくい発音をしたかもしれない。それが少しおかしくて自然と笑いがこみ上げてくるが耐えて、男性を説得にあたる。

「死にたくないです。知りたいんです。取材です。しゅ、ざ、い」

「取材?」

「ええ。自分、アマチュアの作家でして」

 作家志望。夢という名の逃げ道。数年ぶりに口にするが、ガラス玉を噛み砕いたように言葉の欠片が口内にざらつき刺さる。自分の発言でなんとも煮え切らない気持ちになるのなら世話は無い。

「なんだ。作家さんか。東尋坊はどこからか落ちたかなんて知らないけどね。景色が一等綺麗な場所は知ってる。ここは観光名所だからの。でももうこんな時間じゃしょうがないから宿に帰ってまた明日明るいうちにきなさいよ」

「そうですか……、明日の朝には帰る予定なので。今日のうちに見ておきたいです。どうも」

「そうか? いくら取材つっても、今から行ってもしょうがないだろうよぉ? まぁ、そんな大荷物をもってたら自殺はしないだろうけども……。あんまり長居しないで宿にもどるんだぞ」

「ええ、ありがとうございます」

 パンパンに膨れたリュックをわざとらしく背負い直し、礼を言う。たしかに、こんなに用意周到な自殺者もいないだろう。

 男性は別れ際に、「本当に作家さんなのかい?」と疑問を投げかけてきたが、これには作り笑いだけで答え、先に向かった。

 断崖絶壁に近づくにつれ不思議と高揚感が沸々と沸いてくる。風が強く、それに運ばれた潮の香りが俺の脳を狂わせてるのかもしれない。あわよくば海の藻屑と成り果てるか?

 崖っぷちギリギリまで行き、慎重に腰を下ろす。少し前屈みになれば青くも黒い海面が見渡せる。随分と肩に食い込んだリュックを肩から下ろし一息着く。

「そりゃあ、ここから落ちたら普通は死ぬよなぁ……」

 人事然と呟いて、2リットル入りのコーラのペットボトルを取り出し、一気にラッパ飲みをする。ゼロだからいくら飲んでもカロリーフリー。それが自分に科した信条でもあり、下戸な俺は毎日コーラを愛飲していた。ふとラベルのゼロという文字を見て思う。

「二十五で死んだ男が健康なんて気にしてどうするのかね……」

 皮肉を込めた自嘲。こんな己が情けなくもなる。

 何時間こうしていただろうか、携帯もいじらず、ましてやネットもない状況で、コーラを飲みながら、海とつかず、空とつかず、ただぼんやりと虚を眺めていた。気付けば空には月が砕けたように欠片の星々が煌いている。

「ちょっと、身投げするなら早くしてくれる? あなた待ちなんだけど」

 不意に後方から女の声が聞こえた。まだ若い感じの声音で、本人が言うとおりなら、今らから死ぬとは到底思えないほど勝気で強気だ。

 別にこの女が幽霊や妖怪の類とはおもわなかったが、なんとなくこの場所ということもあり、『振り返らずの禁忌』なんてものを思い出し、あえて振り返らず、その女に応えた。

「ああ、ちょっと待ってくれ。今、蜘蛛の糸を垂らしているんだ」

「何? 自殺志願者風情がお釈迦様にでもなったつもり? ここじゃカンダタなんて釣れないわよ?」

「お、良くご存知で」

「このくらい一般常識じゃない?」

「コモンセンスときましたか、なら、ここで釣れるのは東尋坊? 真柄覚念? それとも水死体?」

「はっ、笑えないわね。あんただって直、水死体の仲間入りでしょ? そもそもあんたの糸はちゃんと地獄まで届いてるの? 海面にすら届いてるか怪しいものね」

 まったく頭がよく回る女だな、と半分関心するが、半分は腹が立つ。ここまでウィットに富んでいる奴とは初めて話しをした。これはこれで、俺のちっぽけなプライドが黙ってはいない。

「いや、俺は死なないよ」

「は?」

「やっぱさ、こえーもん。ここから死ぬの」

「私が思いっきり押したら、あんた、落ちるわよ?」

 女の声が一瞬わざとらしいほど不適なものへと変わった。

コーラを口に含んでからゆっくりと飲み下す。

「そうだろうなぁ。それでもいいけど、でもコーラはこんなにもうめぇ」

「意味わかんない」

「意味なんてないさ」

「まどろっこしいわね」

「ああ、それに加えてキモイとまで言われる始末さ」

「あるある」

 あるある、じゃねーよ。今あったばかりなのにそいつはあんまりだろう。ウィットに富んでいるばかりでなく、多少のユーモアも判る奴、というのがこいつの印象だった。妙なライバル心が心の奥底から沸いてくるのが自分でも判る。

 後方の女が腰を下ろす雰囲気が伝わってきた。というよりは、薄手のシャツを通して彼女の感触があったのだ。温もりこそ感じなかったのはこの蒸し暑さの所為だろうか。崖っぷちでこの女は俺の背中に寄りかかっている。傍から見れば可笑しな光景だろうか。

 不思議なものだ。こんな状況になっても振り返る気が起きない。振り向くなと、と言われた訳ではない。ましてや塩の柱にされるわけでも、冥界に送られてしまうわけでもない。否、むしろ振り向くな、と言われたら、意思の弱い俺は好奇心に負けて振り向くような失態をしていたのかもしれない。だが、今はまったくそんな好奇心を微塵も感じてはいない。

「あんた、自殺を止める人?」

「いや、取材だ。こう見えてモノカキなのさ」

「ふぅん。モノを書く宗教の人ね」

 内心で舌打ちをして悪態をついてみせた。どうせ相手には見えないのだから舌を出すくらいしてもよかったのかもしれない。しかし、モノを書く宗教、ね。それにしちゃあ俺は実に信仰心が薄いったらありゃしないね。

「俺には何にもねぇんだ。生きることも出来なければ、死ぬのも、こりゃあ当分無理だわ。ちょーこえーよ、この高さ」

「はは。じゃあ今のあんたは生きてるの? 死んでるの?」

「どっちでもあって、どっちでもない」

「なにそれ? 生ける屍って感じかしら?」「いや、もっと崇高さ。始まりであり、終わりである。アルファであり、オメガでもある」

「今度は聖書からの引用かっ」

 肘で背中を小突かれた。本当によく知ってる女だ。なにか一つ、知識で勝ちたいものだ。俺は芸術家だ。ここで負けてなんていられないだろう。

 それからというもの、好きな本や好きな映画について散々話をした。いや、そんな生半可なものではなく、議論、討論と言って差し支えないレベルだ。お互いが何かの評論家にでもなったかのように、散々に語り合った。

 一つでも勝つどころか、ピシッと俺の後を着いてきて、遅れをとらない。お互いロジックの破綻を紐解くのに必死で話しは弾む一方だ。

「俺はよぉ。羨ましかったんだよ……」

「お。どうした急に。酔っ払ったかオイ。コーラでか? 自分にか?」

 多分両方だろう。

「新宿十九人の死傷者……」

「ああ、あれね」

「偉ぶった奴とか、被害者遺族とかそういった類の連中は不謹慎だ! って言うだろうけどよ。俺は羨ましかったんだよ」

「何が?」

「殺した奴と、死んでいった奴等」

「そりゃあ、不謹慎だわな」

 まるで何を言うか判っていたかのように即答で一蹴する。クソ、お前までそういうか。自殺志願者風情のクセに。

「私、あの現場の近くにいたんだよね」

「そりゃあ……」

 そりゃあ、なんだ? 危なかった? 残念だったな? 次に浮かぶ適切な語句が思いつかない。しばらく考えて、結局頭に浮かんで来たのは芥川龍之介、蜘蛛の糸の引用だ。

「蜘蛛の糸が手元の先から千切れちまった訳だな、そりゃあ」

「……はぁ?」

 多少気の利いた言い回しだと思ったが彼女に伝わったかは判らない。今までに逢った誰よりもウィットに富んでいる人間ではあるが、俺の感性を完全に理解してくれるとは思ってもいない。

「つまり、私はカンダタってわけ? やめてよ、そんな悪党じゃないわよ私。それに、もしそうだとしたなら、あなたもカンダタね。でも、あなたの前に垂れ下がっている糸は完全にぶった切れてるわよ」

 彼女は、まぁ登りきったとしても極楽には逝けなかっただろうけどね、とまで付け加えた。どうしたものか、言いたかったことがここまで見事に伝わるというのも空気味悪いものがある。それにしても、俺もカンダタか。たしかにそうだ。ぐうの音も出やしない。まるで苦虫を奥歯で噛み潰したような気分だ。

「でも、判るよ、その気持ち、私はね。だからここにいるんだよ。だから、ここにくる決意が出来たの」

「……」

 本当に判ってくれたかはわからない。この女の真意なんてものは判らないし、さして興味もない。ただ、その表面上の言葉どおりの意味、『判る』という言葉が俺には嬉しかった。こいつにはこいつの考えがあり、ここに来たのだろう。俺だってそうだ。その真意はお互いに知る由の無いことなのだろう。

 気付けば朝日が徐々に昇り始める気配を遠くの空から感じた。これをかわたれ時というのだろうか。確かに街頭もないような道でこのくらいの暗さなら、彼は誰そ、なんて言うこともあるだろう。

 しばらくの沈黙のあとに、女が大きく伸びをした動きを背中に感じた。

「はぁ、こんな面白い人は初めてだった。キモイけど」

「あるある。とでも言うと思うか。ほっとけ」

「私の話しについてこれたのはあなたが始めてよ。ホンット、マニアックでキモイわね」

 それはこっちのセリフだ。お前こそキモイほどマニアックだわ。

「一番。水岡涼子。辞世の句を読みます!」

 これほど物騒な宣言も他にはあるまい。だが、それでいい。俺たちにはこれがお誂えだ。

「おお、いったれいったれ!」

「諸君、喝采を! 喜劇は終わった! もっと光を!」

 女が声をあらん限り張り上げて叫んだ。水平線の向こう側にまで届く勢いだ。辞世の句にしては元気すぎるだろうが、まぁいいだろう。

「おい、最後まで引用かよ! しかも偉大なるかな、ゲーテを引用か」

「はは……私には何も無いの。空っぽなんだよ、あなたと同じ」

 始めてこの女が乾ききったしょぼけた声を出した。思わず苦笑いを漏らしたが一つ考えても答えに辿り着かないことがあった。

「なぁ、ゲーテは『もっと光りを』としか言わなかったはずだぞ。その前の『諸君、喝采を。喜劇は終わった』ってのは誰の引用だい?」

「よし! 私の勝ちだ!」

 しゃぼけていた声が一瞬で元の勝気な声音に戻る。勝ちってなんだよ、やっぱりこいつも俺と勝負してたってのか。で、俺は負けたのか。つくづく救えないな、お互いに。それにしても、クソ。誰だ。誰の引用だ?

「おい、おしえてくれよ、気になるだろ」

 フフンとわざとらしく鼻で笑い、どうやら教える気は毛頭なさそうだ。

「んじゃ、私はもう往くわ。この謎は宿題にしておくよワトソンくん」

「誰がワトソンだ。馬鹿にしやがって」

 宿題なんて数十年ぶりに出されたことか。まぁいい、ネットで調べれば一発で判る。

 気が着けばもう妙な憤りや腹ただしさは無く、答えこそは気になるものの、なんとも清清しい気分だ。

「もう逝くのか。まぁ、なんだ、その、向こうでは上手くいくといいな」

「ははは、本当に止めないんだね。あなたも来れるといいね。自分で無理なら、不慮な事故とか事件とかで」

「ああ、まったくだね」

 自然と苦笑いが浮かんだ。こんな物騒でヘンテコな会話は普通ありえないことだ。親が聞いたら泣いて精神科にでも連れて行かれるだろう。でも、……親父にお袋、親不孝者ですまん。無理なんだ。俺。こういう人間なんだ。

「じゃあ飛び降りちゃうぞー!」

 まるでプールにでも飛び込むかのように張り切った声だ。それが辞世の句でも差し支えないんじゃないだろうか。まったく、引用よりよっぽどいいぞ。そう言うか言うまいか迷ったところで結局口には出さなかった。

 背中が不意に軽くなり、彼女が立ち上がったことを意味していた。背中に夏の生暖かい風を感じる。もうじき、俺の隣を横切ってプールに飛び込むかのように、きっと綺麗なフォームで身投げするのだろう。そして、帰らぬ人となるのだろう。

「なんてね。冗談。ホントはもう済んじゃってるんだよね」

 いたずらっぽい声で女が耳元で囁いた。

「あ?」

「そうそう、その赤いハンチングいくらで買った? イカしてるじゃん」

 ここで始めて後ろを振り返った。いや、振り返ろうとしたが、急な突風に煽られ、眼と口の中にゴミとも砂利ともつかぬ物が入ってきたのだ。思わず眼を瞬き擦り、口の中の異物を必死に吐き捨てた後には女の姿はどこにもなかった。

「おーい、作家先生よー」

 声の主は先日、すれ違い様に少し話した件の年配男性だった。作家先生と名乗れていればこうも苦労はしないだろう。どうせ、この男にしてみれば、俺の職業なんてさしも興味の無いことなのだろう。

「どうしました?」

 息を切らして俺の元に駆け寄ってきた男性の顔は青ざめ、額にはびっしょりと大粒の汗が浮かんでいた。

「ついさっき、水死体が上がったっていうから心配になってこの辺見て回ってたんだよ」

「水死体? それって女性ですか?」

「いや、そこまでは……俺はてっきり作家先生かと思ったから、こうして……」

「そうですか。不思議なこともあるものですね……」

 『不思議』じゃまるで済まないことだろう。それほど濃密な時間を過ごした気がしたし、事実そうなのだろう。でも、不思議で済ませてしまっても良い気がした。

 もう何時間も座っていたせいかケツが痛い。例によって大きく伸びをしたあと、尻を叩きながら立ち上がり、リュックの中から今度は500ミリリットルのコーラを取り出した。そのキャップを開けると小気味良い炭酸が抜ける音がする。徐に海へと飲み口を傾け、どばどばと海の海へと流し込む。

「……なにしてるんだい? あんた」

「弔いの、コカ・コーラ」

「なんでコーラ?」

「意味なんてないですよ」

 強いて言うなら好きだから。

 判ってくれなんて言わない。そうやって稀有な眼で俺を見ればいい。あんたらにとっちゃ俺等は異物さ。クソッタレ。

「おじいさん。もう、帰りますね。いい取材ができました」

「なんだい。日中の景色が一番最高だっていうのに、勿体無い」

「ええ、もういいんです。とても貴重な時間でした」

 嘘ではない。理解なんてしてくれなくてもいい。だから、しばらくは誰とも話したくはない。あの、余韻に浸っていたい。

 帰り道、バスの中で一眠りする前に思い出したかのように携帯をいじり、SNSサイトのページを開いた。くだらないニューストピックの中には福井県東尋坊で水死体が上がったというニュースの記事は一つも見当たらなかった。安堵にも似た溜息がもれる。この溜息の正体がなんなのか、ついぞ俺にはわからなかった。

 今度は急いでウェブトップページに戻り、『諸君 喝采を 喜劇』と打ち込んで検索した。バッテリーの残りは1。

「頼む。もってくれよ……」


 俺がいる用水路はコンクリートで四方を囲まれている。出口なんてものは有りはしない。どう足掻いても向こう側になんて行けやしないんだ。蜘蛛の糸も垂らされる気配はまるでない。そうさ、俺はカンダタだ。どうせ垂らされたところで己が所業で断ち切るに違いない。

 ならば、

 なら俺はこの汚い用水路の水を腐るまで飲み干すしか術はないのだろう。きっとコールフィールドだって同じだったはずだ。俺はそう信じているし、そうであって欲しいと切に願う。

 なぁ。あんたなら判ってくれるだろ? 水岡涼子さんよぉ。





二、冥冥


 仄暗い部屋の中、パソコンのキーを打つ音だけが、ぱちり、ぱちり、と聞こえてくる。その音から察すると、音の主はキーボードを打つ力が存外にも強いという癖があることと見受けられる。

 灯りはパソコン――小型のノートブック――のディスプレイのみ。その電子的な光を浴びて、考え考えにキーを叩いているのはまだ二十四、五歳の女性であった。この女性が此処、福井県東尋坊近くの旅館に泊まって二日目が過ぎようとしていた。

 彼女は思い出したかのようにディスプレイから顔を上げ、まるで今始めてこの部屋が暗いことに気付いたかのように、ゆっくりとした動作で立ち上がり、窓際に掛かるカーテンを開け、月明かりを臨んだ。顔立ちは端正で、化粧は薄い。きりっと力強く、細長い眉がどこか勝気で男勝り、そして近づきにくさを演出していた。

 窓の外の月は雲間に隠れることもなく、柔らかなきいろい光を部屋まで届けてくれた。女にとってしてみれば、光などそれだけで充分だったのであろう。当然部屋の天井には蛍光灯が備え付けられているが、それには手を伸ばさず、またノートブックと睨めっこを始めたのであった。

 時折、肩口まで伸びた黒髪の先を指先で円を描くように弄って。彼女は何かの節目節目には必ず髪の毛を切っていた。その長さはいつもまちまちであったが、今回ばかりは切りすぎてしまったかもと思っていたのだろう。慣れない短さは違和感を生み、心が落ち着かないでいた。それに、自分自身は長い髪が似合っているという自負もあり、事実その通りであった。しかしながら、ショートヘアでもそれほど不恰好になったことは一度も無く、おそらくはどんな髪型にしようとも、相応の型に嵌るような顔立ちをしているのであろう。

 髪先を弄る手を止め、またノートブックのキーを叩き始める。その仕草は力強くも、滑らかで、ピアノを弾くかの如く、優美であった。

 彼女が今打ち込んでいるテキストファイルはこう始まる。

『福井県に着てから、簡単な遺書、というか、手記というか、そういったものを残そうとは思っていた。でも、それがまさか二日も此処に滞在することになるとは思っていなかった。料理は美味しいし、お風呂も家のものとは違って、格別なものだ。文句なんて一つも出たりはしない。ただ、そういったこの世の悦楽が私の意志を鈍らせ、躊躇わせている訳ではないことを十二分にこの冒頭に書いておきたい。

 文章を書くのは得意な私でも、、これが最期となると、多少のかっこつけや、装飾なんかに拘ってしまい、筆が進まなかったという言い訳も書き足しておきたいと思う。

 内容は両親に宛てた遺書でも良かったのだが、それを含めて、おそらく決して届かぬであろう「貴方」へとこの手記を続ることにした。

 私は貴方を憎んでいる。それは、貴方が多くの被害者を生んだことにあり、その中に私が含まれていなかったことに因がある。私は貴方が凶行に及んだ時、すぐ眼と鼻の先にいたというのに、これを恨まずにはいられない。

 やはり、この手記はどうしても貴方に読んでもらいたいものだ。貴方はどう感じるか? 私には判らない。ただ、貴方を賞賛しているということも此処にしっかりと書き記しておかなければならない。もちろん貴方の自己中心的且つ、身勝手極まりない劣悪な犯行を肯定している訳ではない。そこまで私は反社会的思想や非人道的、或いは非道徳的な精神は持っていない。貴方がどんな経緯であのような罪を犯したにせよ、それは償いきれないほどの大罪であると認識している。

 ――では、何を賞賛しているのか。

 それは自分で自分を終わりにすることが出来たという点が一つ。自暴自棄、大いに結構なことだ。ただ、先述している通り、私には罪は罪という認識はしっかり持っているつもりだ。結果として、貴方の行動は劣悪最低なものであった事には変わりは無い。しかし、私が此処、福井県に来るに至ったのは貴方のお陰でもある。

 少し話が脱線するかもしれない。今、私の中には文章の羅列が行き交っている。多少の整理はすれど、ほとんど無意識的にこの手記を進めているので、もし後にこれを読む人がいるのなら、どうか、飽きずに最後まで読んで頂きたい。

 この世の中には白い羊が過半数を占め、数頭の黒い羊が紛れ込んでいる。もしかしたら、黒い羊はもっといるが、自分の羊毛は白いと勘違いしているのも中にはいるのかもしれない。しかし、私は紛れもなく黒い羊で、その毛色が黒であることを知っていた。

 黒い羊は惨めだ。

 何故なら、マイノリティはいつだって弱者だ。淘汰されるべき存在であると私は認識している。そして貴方も、黒い羊に違いなかったと勝手ながら解釈している。

 それでも貴方はただ無闇に屠られるだけではなかった。貴方が行った行動は白い羊たちの羊毛を根こそぎ毟り取り、そして自分の黒毛も綺麗に根元から全て毟り取るという行動そのものに感じた。私にはそれが羨ましく仕方がない。私には出来ない事をやってのけたからだ。それが尊い命の略奪と批判されようとも、私は賞賛を辞さないつもりだ。

 此処にきた理由。それは、ある意味では模倣、しかし、私という自我の確立、貴方とは違うという差別化。私は他人の毛を毟り取りはしない。私には自分の羊毛を毟り取るだけで精一杯なのだ。ただ、それだけのこと――』

 指を休め、体勢を後ろに預けた。その勢いでゴロンと寝転がり、横に置いてあった携帯電話に手を伸ばす。登録してあった掲示板を開こうとするが、既にデータは削除されているらしく、アクセスすることは出来ない状況であった。

 彼女は月明かりを通した窓ガラスに映る自分を見つめ、ぼんやりと昔のことを思い出した。

 一言で言えばオカルト。彼女自身にわかには信じ難いオカルト染みた経験を幾度としてきていた。俗にいうドッペルゲンガー現象。彼女が幼少期の頃から、彼女の知らぬ所で、彼女を見た、という人がちらほらと現れだしたのだ。当の本人はそのもう一人の自分を見た事がないし、ましてや非科学的なことなど信じられない性分なので、目撃談を聞かされる度に、またか、と半信半疑で聞き流していた。

 事の始まりは小学校高学年の頃だ。既に彼女は家に引き篭もりがちで家では読書や空想ばかりしている少女だった。母親の催促もあり、仕方無しに数週間ぶりに登校し、教室に入るや否や、特段親しくもない同級生の女子がやって来て、開口一番に謝罪を申し立てて来たのだ。勿論、その同級生と会うのも前回登校して以来、数週間ぶりになる訳だが、同級生からしてみれば、どうやらそうではないらしい。その子が言うにはどうやら、昨日の出来事だという。些細な心無い意地悪をしてしまい、母親にも咎められ、多少の罪悪感が芽生えたらしい。彼女からしてみればそれは覚えの無い話しである。かといってこんな嘘を付く理由も思いつかず、さてはからかっているのかな、などと邪推もしてみたが、角が立たぬようにぎこちない笑顔で気にしてないという体を示し、話しを終わらせた次第であった。

 本当に瑣末な意地悪だったとはいえ、何故そのような経緯に至ったかはもう少し言及してやってもよかったのでは、と今になって思えど、それはもはや栓無き話しであった。先述した通り、その時はからかわれているのかと思い、それほど気にしてはいなかったが、それがどうにも、『もう一人の彼女』についての目撃談が後を絶たなかったのだ。仕舞いには両親までもそれを目撃するまでに至っていた。

 その所為で彼女は、謂れの無い誹謗中傷を受け、何度と無く傷つけられたり、はたまた逆に、何の覚えもないのに謝罪を受けたりと、どちらにせよ彼女にとってはいい迷惑であった。『もう一人の彼女』とはどういう訳か大抵は無愛想、悪辣な態度であるらしく、それが因となり、とばっちりは何倍にもなって彼女本人に返ってくるのが往々にしてそうであった。多少なりとも、彼女本人の性格と同じ性質を持っている面もあり、それ故に彼女自身も他人を拒絶していた節もあったのだろう。しかし、やはり、というか、覚えの無いことで怒られ、振り回され続けるのは流石に辟易、腹も立つというところである。

「一回位は素直で可愛い私が出てきてもいいんじゃないかなぁ……」

 思わず呟いてみたが、可愛い、という部分で吹き出してしまう。彼女自身『素直で可愛い私』というのがまるで想像できない代物だった。そんなものが、自分の預かり知らない所に出てきたら今度はどんなとばっちりが来るか判ったものではない、と珍妙な身震いをし、多少の自己嫌悪に陥った。

 それからしばらくは何も考えずに時計の針を漠然とながら目で追うように眺めていた。なんとなく、だが、『今日』と決めていた。それは神が下した啓示でもなければ、ましてや、『もう一人の彼女』が囁いたことでもない。ただそう感じていたのだ。彼女自身が『今日』だ、と。

ウォークマンとノートブックを手に取り、旅館を後にする。向かうは東尋坊。飛び降りる場所は人目が付かぬ所が良いだろうと考えていた。

 徐々に潮の香りが彼女の鼻をくすぐりだす。暗闇の先の方から人の気配がし、咄嗟に警戒しつつ目を細めると、崖の縁に大きなリュックが一つ置いてあった。いや、性格にはそのリュックに見え隠れするように赤いハンチングを被った人物が腰を下ろしているのが判る。赤いハンチングを被った人間など、映像作品以外では今日の今日まで見ることが無かった彼女は少なからずその人物に興味を持つのと同時に目を丸くした。

「……なに、あれ。コールフィールド気取りかしら」

 彼女にとって、サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』は学生時代表紙が擦り切れてボロボロになるまで何度も何度も読み返した大切な本の一つであった。『東尋坊のコールフィールド』に興味はあったものの、気付かれたら面倒になるかもという懸念があり、大きく遠回りして、随分と離れた所で腰を下ろした。

 コールフィールド気取りさんはどうして此処に居るのだろうか、と考えてみたが答えは判りきっていた。こんな夜更けに観光な訳が無い。その人もまた彼女が言うところの『黒い羊』に相違なかったのである。なら、自殺者同士で話が弾むかもしれない、それはそれで最期としては面白いだろうと、可笑しな妄想をしてみたが、頭を振ってその妄想を振り払った。

「私には関係の無いことだ……」

 ノートブックを立ち上げ、先程まで打ち込んでいたテキストファイルを読み返す。誤字は無いか、脱字は無いか、入念にチェックを入れる。六箇所のミスを見つけ、丁寧に訂正する。文法的におかしな所は何度と無く推敲もした。そんな自分に気付き、おかしくなって鼻で笑ってしまう。最期の最期まで性格は出るものなんだな、としみじみ思い、指先越しにキーボードを見つめた。それから大きく息を吸い込み、潮の香りを肺いっぱいに満たして、再びテキストファイルの続きを打ち始める。

『私は孤独だった。先述したとおり、周りには白い羊しか居ないのだから。そして、最期に出来る事と言えば、私の羊毛を私自身が綺麗に根こそぎ毟り取り、白か黒か判別付かなくすることくらいだ。もう二度生えてくることもないだろう。私は貴方と違って白い羊を傷つけたりはしない。――ねぇ、知ってた? 牧場には白い羊しか居ないということを

 きっと黒い羊は自分の毛を悉く毟り取って寒さで死んでしまうのだろう。貴方も、貴方が傷つけた羊たちも、もうこの牧場にはいない。

 何故、黒い羊が産まれるのか、私にはまるで判らない。黒い羊同士仲良くはなれないのだろうか。それもずっと考えてきたけれど、答えは見つからなかった。なぜなら、私の目には見る人全てが白く見えるからだ。それが黒だと気付く時はいつだって手遅れで、テレビ越しに、ああ、あの人は黒羊だったんだな、と納得するのが常だった。貴方ならどんな答えを見出せるのだろうか。或いは私が知らない。まだ見ぬ黒羊たちはどのような答えに辿り着くのだろうか――。




 追伸

 結局はこんな生き方しかできなかったの。

 だから、ごめんなさい。お父さん。お母さん。本当にごめんなさい。』

 ノートブックの充電がそろそろ無くなりそうだった。スペック上、三時間はバッテリーが保つ筈だったから、旅館を出てから既にそのくらいの時間が経っていたことを示している。彼女の決心は既に出来ていた。ただ、最期の一文を悩んでいた。辞世の句とも言うべきか、どうせなら格好良く決めたいと考えていたのであろう。

 その時、ウォークマンからベートーベンの第九が流れ出した。歓喜の歌は彼女が一番好きなクラシックナンバーであった。

「そうね……」

 おもむろに、丁寧に一字ずつゆっくりとキーボードを叩き、ノートブックを閉じた。

 テキストファイルに打ち込んだ最期の一文は、

『諸君、喝采を。喜劇は終わった! もっと光を!』

 数秒後、彼女の身体は、海ともつかぬ、空ともつかぬ、青く黒い、深い奈落の底へと叩きつけられ、更なる深遠なる暗渠へと沈んでいった。

                                           了

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