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コンと狐と  作者: 千曲春生
コンと狐と水底の祈り
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第三章 第12話 或る記憶の話 後編

【重要】

本話内に、小児に対するみだらな行為を想起させる描写があり、読まれた方に不快な思いをさせる可能性があります。そのような内容を含んでいることをご了承のうえご高覧いただくようお願いいたします。


また、作者は性犯罪行為に対しては常に批判の立場をとるものであり、そのような性犯罪を肯定する意図で執筆されたものではないことをご理解ください。

 塾を出ると、もうすっかり日が暮れていた。

 仕事を終えたスーツ姿の人々に紛れて、私鉄の駅へむかう。

 自分じゃない生き物が自分の体内にいる。確かに気持ち悪いかもれない。

 イマは他人に深く考えない方がいい、といっておきながら、ぼんやりと寄生蜂のことを考えていた。

 そのときだ。

「あの、ちょっといいですか?」

 突然、後ろから声をかけられた。

 振り返ると、スーツを着たサラリーマン風の男がいた。

 イマが何かものを落としたか、道を尋ねられるか、あるいはナンパだ。

 それぞれの対応を脳内であの、シミュレーションする。

「すみません、ちょと猫を探してほしいのですが」

 しかし、男の口から出た言葉は予想外のものだった。

「猫……ですか?」

 イマは首をかしげた。

「はい。飼い猫を獣医のところへ連れていく途中だったのですが、ちょっと目を離した隙に逃げられてしまったんです。元々妻には懐いていたんですが、私にはあんまりだったもんで、困っているんです。もし、時間があれば、手伝ってくれませんか?」

 イマは男性を見つめる。

 本当に困っているよう見える、かな?

「まぁ、ちょっとだけでしたら……」

 イマがそういった途端、男性の顔はパッと明るくなる。

「ありがとうございます。助かります。猫がいなくなったの、こっちなんです」

 男は、どこかへ案内しようとする。

「あの、猫がいなくなったのって、この辺りの話じゃないんですか?」

 イマがいうと、男は険しい表情をする。

「探してくれるんじゃないんですか? さっき、そういいましたよね」

 イマはなにもいえなくなった。

 少しだけ探すフリをして、見つかりませんでしたね、といってすぐに立ち去ろう。

 イマはそう心に決めた。


 連れてこられたのは、ひと気のない路地裏だった。

 ワンボックスカーが停まっていた。

「この下に逃げ込んでしまって……」

 男がそういった。

 イマは身をかがめて、車の下をのぞき込む。

 その途端、いきなり後頭部に強い衝撃と、鋭い痛みがはしった。

 なにが起こったのかわからなかった。

 なにがなんだかわからないうちに、ワンブックスカーの後部座席に押し込められた。

 そして、男は馬乗りになるとあっという間にイマに布で目隠しをした。

「なんですか、なんなんですか」

 視界を奪われた、イマの耳に、カタカタという音が聞こえた。それは、カッターナイフの刃を出す音に聞こえた。

 そして、首元になにか金属製の冷たいものが触れるのを感じた。


 殺される。


 イマは声が出せなくなった。体も動かなかった。

「静かにしてろ。喋ったら殺す」

 耳元で、男のささやくような声が聞こえた。

 ドアが閉まる音。車が走り出す感覚。


 どれほど走っただろうか。

 車が止まり、ドアが開いた。

 イマは男に連れられて車を降りた。

 そのまましばらく歩き、目隠しを外されたのはある部屋の中だった。

 どこかの民家の浴室らしかった。

 イマは床に座らされた。

 嫌な臭いがした。

 天井では、切れかけの電球がちらついている。

 浴槽には濁った水が溜まっている。

「お前はここで過ごすんだ。いいな」

 男の手には、イマのショルダーバッグがあった。

 男はバッグをあさると、一枚のカードを取り出した。

 それは、塾の入館証だった。

「今野……コン? 変わった名前だな。塾の先生か?」

 イマは首を横に振った。名前の読みが間違っていること、塾の講師ではないこと。その両方を表していた。

 その途端、男は近くにあったバケツを手に取ると、浴槽の水を汲みイマにぶっかけた。

 そして、何度も殴って、蹴った。

「嘘をいうな! お前が塾の生徒だと? そんなでかい体をして、そんなわけあるか!」

「本当です……信じて、ください」

 イマは弱々しくそういうのが精いっぱいだった。

「お前の家族も、調べればすぐにわかる。余計なことをすれば、皆殺しだからな」

 男はそういってから、イマを別の部屋につれていった。

 そこで服を脱がされ、そして……。


 イマは知識としてはそういうことは知っていたので、なにをされたかわかった。だけど、理解したくなかった。

 痛かった。ただ、いろんなところが痛かった。


 事が終わると、イマは再び風呂場に入れられた。

 ドアが閉まり、鍵がかかる音がする。

 入るときに見た。明らかに後付けとわかる南京錠があった。

 華奢な取り付け方だったから、ドアに全力で体当たりすれば脱出することもできたかもできたかもしれない。

 でも、脱走しようとしているのが見つかったら殺される。

 その思いが頭をよぎり、あきらめた。


 それから時間をおき何度か男はやってきてはイマに水をかけ、殴り、蹴って、それから……。

 閉じ込められていた浴室はとても冷たい場所だった。

 真っ暗で、冷たい場所。

 イマは、その場所に全裸で寝そべっていた。

 一滴の水が落ちてきて、鼻先を濡らした。

 照明は消されていて暗く、古い水の嫌な臭いがする。

「出して……ここから出して。こんなのヤだよ。助けてよ」

 イマは弱々しくいった。

 いつまでこれが続くのだろう。

 いつになったら終わるのだろう。

 そう思ったその瞬間、扉のむこうがわが騒がしくなった。

 数人の男性が口論しているようだった。

 そして、扉が開いた。警察官だった。


 イマが連れ去られるところを見ていたヒトがいて、通報したそうだ。

 必死にイマのことを探してくれていたらしい。

 誘拐されてから、二日たっていた。

 警察のヒトが毛布をかけてくれた。

 警察署に移動すると、女性の刑事さんが状況を尋ねてきた。とても優しい口調で、何度も無理しないでね、といってくれた。しかし、イマがされたことを話すと、すぐに顔色を変え、すぐに病院へ連れていってくれた。

 新生児のとき以来、物心ついてからははじめて来る産婦人科だった。

 診察をうけて、それからなにか薬をもらってそれを飲んだ。

 病院に、お父さんとお母さんがやって来た。二人とも、泣いていた。

 気分が悪かった。薬の副作用らしい。

 吐き気をこらえた。


 それから数日間、毎日警察署へいって、事件の状況について聞かれた。

 イマはそれ以外では、一切家の外に出なかった。

 痛みが、体に残り続けた。

 男が持っていったイマの鞄は、しばらくして警察のヒトが返してくれた。

 しかし、それを持っていたくなかった。

 イマは鞄を新調した。

 キツネのストラップはどうしても捨てられなかった。おばあちゃんが残してくれた、大切なものだから。

 だから、新しい鞄につけなおした。


 イマは普段と変わらず、学校も、塾にも通った。

「しばらく休んでいたけど、大丈夫?」

 クラスメイトにも、塾の友達にも同じことを尋ねた。

「ちょっと体調を崩したけど、大丈夫だよ」

 イマはそういって笑った。

 しかし、いつもどこかで事件のことを噂されているのではないか、という思いが付きまとった。

 平静を保つのだ。

 なにもなかったかのように。

 自分にそういい聞かせ続けた。

 事件から一ヶ月ほどして、男の裁判が開かれた。

 イマは証人として、出廷した。

 衝立で、イマの顔は周りに見えないようにしてもらえた。

 あの男とは一切、顔を合わすことはなかった。

「大人だと思ったから襲った。小学生だとわかっていたら襲わなかった」

 男がそんな証言をしたらしいことを聞いた。


 裁判所からは、お母さんの運転するレクサスで家にむかう。

 車内では、一切会話がなかった。

 大人に見えること。

 それが自慢だった。

 誇らしく思っていた。

 なのに、そのせいで襲われた。

 そう思った途端、急に胸が締め付けられるような感じがして、息ができなくなった。

 イマは座席の上でうずくまる。

「イマ? イマっ! 大丈夫」

 お母さんの叫び声がした。


 お母さんは近くの公園に車を停めた。

 カッターナイフの音、殺されるかもしれないという思い。

 のしかかられ、手を押さえつけられ、抗っても勝てないと悟られた絶望。

 イマは荒い呼吸で、全身を強張らせる。

 お母さんがなにか叫んでいるが、耳に届かない。

 ふと、視線を感じた。

 車の外に、あの男がいた。

 水をかけられる感覚。殴られる痛み。体に異物が入ってくる感覚。

「逃げて、逃げて、お母さんっ!」

 イマはありったけの力で叫んだ。


 その日から、イマは家にこもった。

 お気に入りだった“大人っぽい服”を全て処分した。

 かわりに、これまでだったら絶対に着ないであろうデザインの野暮ったい服を買ってもらった。出来るだけ肌を晒さないように、というのも注文に加えた。

 大人だと思われないように。

 子供だと思われるように。

 大人だと思われたから襲われた。

 子供だったら襲われなかった。

 でも、イマの前にあの男が現れるようになった。

 耳の奥にあの男の声が響いた。

 幻覚、幻聴だということはわかっていた。

 しかし、恐怖も傷みもあのときのものが蘇ってくる。

 窓の外に、時には家の中にまで入り込んできた。

 その度にイマは泣き叫び、ただひたすら、そいつがいなくなるのを待った。

 イマは睡眠も食事もほとんどとることができなくなり、体重はみるみる減っていった。


 数日たったある日、お母さんはイマをリビングに呼んだ。

「イマ、ちょっとこれ見て」

 お母さんはパソコンの画面を指差す。

 それは、誰かのブログだった。

 元々は東京に住んでいたが、キャンプが好きで、自然豊かな場所に引っ越したのだという。小学校五年生の娘がいると書いてある。

「ここに引っ越してみるの、どうかなって思って」

「引っ越すって、この家を出るってこと?」

 イマは驚いて尋ねる。

「うん。そう。いろいろ調べてみたんだけど、なかなかよさそうなところだし、引っ越してのんびり暮らしてみるのもいいのかな? って思うんだけど」

 イマはもう一度画面を見た。


『鳥取県 八東郡 若桜町』


 地名は、そう書かれていた。

「わか、さくら町?」

 イマは首をかしげた。

「『わかさちょう』って読むんだって」

 お母さんがいった。


 このおよそ一ヶ月後、イマたち一家は若桜町へ引っ越してくる。

【参考文献】

本エピソード執筆にあたり、下記の書籍を参考にしています。


小林美佳著『性犯罪被害にあうということ』朝日新聞出版 2008年

斎藤英二監修 『「心の病気」がきちんとわかる本』西東社 2019年

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