第三章 第8話 プールサイドの想いの話 前編
数日がたった。
学校の教室。
朝のチャイムが鳴ると、先生が教室へ入ってくる。しかし、それだけではない。もう一人、若い女性。明らかに着なれていないスーツ姿で、明らかに緊張している表情を浮かべている。
「今日から一週間、教育実習でお世話になります、大岩アズサです。よろしくねお該します」
アズサ先生はそういって、頭を下げた。
青い空。
入道雲。
塩素の匂い。
今年はじめてのプールの授業。
イマは、ベンチのはしっこに座って見学していた。
長袖、長ズボンのジャージ。学校指定の体操服ではないが、イマはこれを体操服の代わりに使うことが許されていた。
先生が自由時間だと告げると、皆は一斉に歓声をあげながら、水しぶきをあげ、はしゃぎまわる。
「あーあ、私も入りたかったなー」
体操服を着て、ベンチに座るカコはプールを見ながらいった。
「なんでプールの日にアレが被るんだろ。もーサイアク。アレなんて無くなっちゃえばいいのに。ねっ、イマちゃん」
不満をいうカコの横に座っているのは、イマだった。
上下ジャージ姿、それも真夏なのに長袖、長ズボンだ。
イマの横には、ミキもいる。
「私、カナズチだし、プール見学でいい。濡れるの、恐いし」
イマは小さな声でいった。
濡れるのが恐い。それが、イマが見学している理由だった。担任の先生も事情を知っているので許可してくれている。
だけど、そんな理由で見学するのは、ずる休みしているような罪悪感がある。
でも、やっぱり濡れるのが恐い。
「慣れたら水なんて怖くないわ」「慣れたら、水なんて怖くないよ」
全く同時に二人の声が重なった。一つはミキのもの。もう一つはアズサ先生だった。
「アズサ先生は水泳好きなんですか?」
イマが尋ねると、アズサ先生は遠い目をしてプールを見つめる。
「うん。プールの授業大好きだった。泳ぐのが好きで、毎年、夏になるとワクワクしたわ」
子供たちの声。水を跳ねる音。
「中学のときはね、水泳部で、一年の頃から大会にも出てたの。でも、三年生の最後の大会の日に風邪をひいちゃって、私はそれでも大会に出るっていったんだけど、お母さんに部屋に閉じ込められちゃった。大会も、一回戦敗退だった」
そのときだ、プールの中央付近で不自然な水しぶきがあがる。
「カノンちゃん!」
誰かが叫んだ。
カノンが、溺れていた。
アズサ先生は弾かれたように走り出すと、そのままプールに飛び込んだ。
そのとき、イマには見えた。
カノンの体を水中に引きずり込もうとする、真っ黒な腕を。
「あれは……」
イマの横で、ミキがつぶやいた。
休み時間になった。
イマは、そっと保健室の扉を開けた。その後ろからミキもついてくる。
「失礼しまーす」
カノンはベットに座っていた。
「カノンちゃん、大丈夫?」
イマが声をかけると、カノンは小さくうなずく。
「うん、大丈夫」
チエミ先生は、笑顔を浮かべる。
「大したことないわ。しばらく休めば、また授業にもどれる」
しかしそこで、カノンの表情が曇る。
「ねぇ、イマちゃん。幽霊って、信じる?」
「うん。いると思う」
イマは小さくうなずき、即答した。
「あの、信じられないかもしれないけど、声がしたの。『ここから出して』って女の子の声だった……はっきり聞こえたの。それで、ビックリして溺れちゃって」
イマは小さく「そっか」といった。
「ちょっと、出かけるわ」
ミキはそういって、保健室を出ていく。
「ごめん、カノンちゃん。また後で」
イマは慌ててそのあとを追いかけた。
廊下に出ると、イマは後ろ手で保健室のドアを閉める。
「先輩、カノンちゃん、黒い腕に引きずり込まれてました」
イマは、声を抑えながらいった。
「アタシも見たわ。アレは呪いよ」
ミキは、そっけなくいった。
「呪い?」
「そう。ヒトの中にある、負の想い。妬み、執着、恐怖。そういった“想い”があまりにも強すぎると、あんな黒い影として実体化しちゃうの」
ミキはわざとらしい笑顔を浮かべる。
「ちょっといって、やっつけてくるわ。対して力のない弱っちい呪いみたいだし」
「私も、一緒にいかせてください」
歩き出したミキを、イマは呼び止めた。
ミキがむけた顔は、不機嫌そうなものだった。
「カノンの敵討ち? やめておきなさい。友達思いなのは素敵だけど、あなたには似合わないわ」
「違います。そうじゃないんです。カノンちゃんのことがどうでもいいっていうわけじゃないんですけど、カノンちゃんが聞いた声、『ここから出して』ってことは、どこかに閉じ込められて、出られなくて困っているヒトがいるのかもしれないです」
イマは、寂しそうな顔でそういった。
「私に助けられるヒトなら、助けてあげたいんです」
ミキは大きなため息をつくと、いきなりイマのすねを蹴った。
「イタっ!」
イマはその場にうずくまる。
「先輩、どうして」
「まったく、アンタは……もうすぐ授業だから、放課後ね。一緒にいきましょう」
「うん」
イマはうなずいた。
そのとき、保健室のドアが開き、チエミ先生が顔を出した。
「イマちゃん、これ、持っていって」
そういって、ポケットから紙の小袋を差し出す。受け取って中を見てみると、白い粉が入っていた。
「お清めの塩。一つまみでも効くから、お守りに持っておくといいわ」
「ありがとうございます」
イマは小袋をポケットに入れた。
放課後、イマはミキと一緒にプールの前にやって来た。
『ここから出して』
カノンが聞いたというその声は、イマの脳内では自身の声で再生される。
「じゃ、いきましょう」
ミキがいって、イマがうなずく。
プールを取り囲むフェンス。その入り口にはダイヤル式の南京錠が掛けられている。
「イマ。ちょっとこの鍵、外してくれない? 番号は9・1・3」
いわれた通りダイヤルを回す。
鍵は、あっさりと外れた。
「先輩、どうして番号知ってたんですか?」
「チエミ先生に訊いたの」
ミキはいたずらっぽく笑い、柵の内側に入っていく。イマも誰かに見られていないか、周囲を気にしながらミキに続いた。
「なんにもヘンな感じはしないわね。」
ミキはキョロキョロと周囲の様子を見る。
イマも周囲を見回すが、特に気になるようなものはない。
「ここかな? イマ、開けてくれる?」
ミキは女子更衣室の前で足を止めた。
「え、あ、うん」
どうして自分で開けないのか。やはり不思議だったが、イマは素直に従う。
ドアノブを握り、力を入れる。しかし、扉は動かない。
「先輩、鍵がかかってます」
「そっか、じゃあ、仕方ないね。ちょっと待ってて」
ミキはそういうと、扉の前に立つ。
次の瞬間、ミキの体は扉をすり抜け、中に入っていった。
少し間があって、パチン、と鍵が開く音がした。
「お待たせ……入って……きて」
内側から、ミキの声がした。どこか、苦しそうな声だった。
「先輩っ!」
イマは慌てて扉を開けた。
そこには、苦しそうに胸を抑え、荒い呼吸のミキがいた。
「大丈夫ですか? 先生、呼んできます」
イマは更衣室を飛び出そうとした。
「待って」
ミキは、イマの手を掴んだ。
「待って。ちょっと休めば平気だから……」
ミキはわざとらしい笑顔で「ねっ」といった。




