一六〇〇年前の話
※本エピソードは創作であり史実に忠実ではありません。また学術的な仮説を提唱するものでもありません。
ずっとずっと昔。
一六〇〇年くらい昔。
私は当時、海の向こうの大陸にいた。
狩猟の時代が終わって農作の時代がはじまると、多くのヒトが豊穣を願うようになっていった。その想いの集合体として私は生まれた。
私はある小さな集落で豊穣の神として崇められていたのだ。
当時の私は、現在よりはるかに弱い力しか持っていなかったし、飢饉を招いてしまったこともあった。
それでも、人々の想いに応えようと必死に力を振う。
基本的にはヒトの前に姿を現すことはなかったが、ときおりヒトの前に姿を現し、神としての助言をした。
集落の外れにある小高い丘。
切株に腰かけて見渡すと、広がる田畑で住人たちが農作業にいそしんでいる。
今年は豊穣のようだ。
私はホッと胸をなでおろした。きっと今年の冬は集落から餓死者は出ないだろう。
「お姉さん、なにやってるの?」
ふと声がして顔をむけると、一人の少年が立っていた。
そうえいば、姿を隠すのを忘れていた。私は少年に笑顔をむけた。
この少年は集落の長の息子だ。
「仕事を手伝わされるのが嫌で逃げてきたのですか?」
図星のようだ。少年の表情がそう語っている。
「お姉さん、見ない顔だね。誰?」
「私は、あなたが生れるずっとずっと昔からここにいましたよ。あなたのことだって、あなたのお父さんだって、あなたのお爺さんだって知っています」
私はちょっとからかってやろうと、イタズラっぽい笑みを浮かべた。
「この前、一人で山に入って、小鹿に驚いて腰抜かしてたでしょ。後で恥ずかしくなってみんなには秘密にしているみたいですが、私はちゃんと見てましたよ」
少年は顔を真っ赤にする。
「お、お姉さん何者だよ」
「大丈夫ですよ。あなたのお父さんも、お爺さんも、似たような感じでしたから」
私はそう言いながら姿を消す。
そこにはただ、驚きの表情をうかべる少年一人が残された。
十年後。戦がおこった。
村同士の小競り合いだの、盗賊の襲撃だのとは違う、国と国とのとても大規模な争いだった。
それまで住んでいた土地も戦火に焼かれ、人々は故郷を捨て、旅立つこととなった。私もそれに同行した。
神とは、崇めてくれる者がいるからこそ神となる。崇めてくれる者についてくのが道理だ。
難民たちの指導者はあの少年だった。もっとも、もう青年と呼ぶべき年齢になっていたけれど。
次第に、別の集落の難民も合流し、旅の一団はどんどん大きくなっていった。
彼は、自分こそかつてこの地にあった国の皇帝の子孫であると主張し、様々な集落から集まった様々な思想のヒトをまとめ上げた。
やがて海に辿りつた私たちは、この海を越えたむこうにあるという島国へ行くことになった。
外交上の事情で海を渡るのに相当苦労したようだけど、彼は相当努力し、最終的には一団の全員が島国へ渡ることを許された。
弓月君。
島国で彼はそんな名で呼ばれた。
弓月君と、彼が連れてきた民は渡来人と呼ばれ、この島国に多くの知恵を技術をもたらした。
蚕を育て、絹糸を生産できるようになった。
河に堰を造って大地を潤し、荒れ地を田畑に変えた。
弓月君は領地を得て、政治的にも力を持つようになっていた。
融通王。それが彼の二つ名だ。
私は大陸の時と変わることなく、彼や、彼の領地の住民から豊穣の神として崇められていたし、私も神として力を尽くした。元々この地にいた小さな神々と融合し、以前よりも強い力を持つようになっていた。
平野に広がる田園地帯。稲穂は順調に育っている。
弓月君は太い木の根元に腰かけ、その様子を見渡す。
彼は当時の感覚で老人と呼ぶべき年齢になっていた。
「ここまで、付いて来てくれていたんだね。女神様」
私は彼の横にそっと座った。
「蛇に腰を抜かしていた頃とは見違えるほど立派になられましたね」
弓月君は少しうつむく。
「立派。そうか。祖先から守り抜いてきた土地を捨て、民には多くの苦労をかけた。私のしてきたことは立派なことだったのだろうか」
風が吹き抜け、稲穂を揺らした。ざわざわと心地よい音がする。
「愚かな君主なら、民は海の向こうまでついてきませんよ」
弓月君は満足げにうなずいた。
そのとき、むこうから一人の男の子が走ってくるのが見えた。
「お爺様、お父様が探していますよ」
その男の子は弓月君の孫だった。
「女神様、どうか、私の願いを訊いてくれないか?」
私は小さくうなずく。
「はい。なんなりと」
「どうか私の子孫と、それに仕える者たちを守り、未来永劫、決して飢えることのないよう、豊穣をもたらしてくれませんか?」
私はそっと、弓月君の手に自分の手を重ねた。
「その願い確かに聞き届けました。神として力の及ぶ限り、恵みをもたらします」
私が言うと、弓月君は口元に笑みを浮かべ、眠りについた。
そして、おおよそ一六〇〇年後の現代。
「ウカさん、大丈夫ですか?」
私はコンちゃんの声で我に返った。
ここは『和食処 若櫻』の店内。少し時間ができたから様子を見に立ち寄って、コンちゃんと雑談をするうちに回想に浸ってしまった。
「ねえ、コンちゃん。なんでもいいから美味しいものつくって」
私が言うと、コンちゃんは笑顔でうなずき、冷蔵庫の中を調べはじめる。
「なに系がいいですか?」
「う~ん、そうだね――」
私は返事をしながら自分の手を見つめた。あのときの弓月君の手の感触は今でも思い出せる。
【参考資料】
・お稲荷さんの正体(著:井上満郎 株式会社白泉社 2018年3月19日初版発行)
・カラー版 イチから知りたい! 神道の本(著:三橋健 株式会社西東社 2014年8月20日初版発行)
・京都市歴史資料館情報提供システム フィールドミュージアム京都 都市史01 秦氏(https://www2.city.kyoto.lg.jp/somu/rekishi/fm/nenpyou/htmlsheet/toshi01.html)