本当の幸いの話 前編
幼い頃、祖母に演劇を見に連れていったことがあった。
私がお芝居を見たのはその時がはじめてだった。
小さな舞台だったのに、そこに広がる世界はとても広く見えた。
舞台上は宇宙で、そこで演じる俳優、女優さんは輝く星のようだった。
私は思った。
星になりたいと。
舞台という宇宙で輝く星に、いつか、私も。
古い木造の校舎。その教室にて。
池田先生は黒板に正座の絵を描き、解説していく。
そして、チョークを横向きにして、太い線を引いた。
「これが天の川です。川という名前がついていますし、英語たとミルキーウェイ、ミルクの流れと言いますが、天の川の正体はなにかわかりますか?」
先生は教室をぐるりと見渡す。
「じゃあ、狩野さん」
指されたセツキは一瞬何か言いかけるが、すぐに自信なさげに目を伏せてしまった。
教室内は静寂に包まれる。
「狩野さん、どうでしょう?」
先生は再びセツキに質問を投げかけるが、セツキはもじもじとして答えそうにない。
すると、横の席のクミコが助け船を出した。
「天の川の白い線は、本当はお星さまが沢山集まっているんだよね。前そう教えてくれたよね」
セツキはうつむきながら、小さくうなずいた。
それを見た先生は微笑みを浮かべた。
「その通り。天の川が本当の川だとすれば、星は川底の砂や砂利の粒に相当しますし、ミルクの流れだと考えるなら、星は油脂の粒ということになります」
そこで学級委員のアケミが手を挙げた。
「で、先生はなんでいきなり天の川の話しをはじめたんですか?」
「はい。今度みんなで、星を見る会をやりませんか? 学校にみんなでお泊りして、星を見たり、お喋りしたり。楽しいと思いませんか? 青春って感じで」
先生はうっとりと語った。
「まあ、私たちはいいよね、キヨシ」
アケミは弟のキヨシに目をむける。
「うん。僕もいいよ」
そこでクミコが大きな声で言う。
「私も、参加したい。楽しそう! コンちゃんと、セッツンは?」
コンはうなずく。
「私も参加したいです」
「八重垣さんは、お家のヒトにも話してね」
先生の言葉に、コンはうなずいた。
「それで、セッツンは?」
クミコが再びセツキに話題を振る。
「えっと、私は……その……」
「いいじゃない。参加しよ。ねっ」
セツキは渋るそぶりを見せたが、クミコに押し負け、
「じゃあ、私も……参加します」
と、言った。
休み時間、コンは学校の廊下を歩いていた。
やがて、体育館へ続く渡り廊下との合流地点にさしかかる。
そのときだ。
ドンっ! という強い衝撃に襲われ、尻もちをついた。何かがぶつかってきたようだ。
「いてて……」
コンは見回す。もう一人倒れているヒトがいた。セツキであった。
セツキは慌てた様子で立ち上がると、落ちたメガネをかけ直す。
「セツキちゃん、どうしたん? そんなに慌てて」
コンが尋ねると、セツキはオドオドしたような様子で視線を左右に動かす。
「あ、あの……えっと……ごめんなさい」
セツキは早口で言い残し、小走りで去っていった。
一冊のノートが落ちているのを見つけた。セツキが落としていったらしい。
コンは床に座った態勢のまま、それを拾おうと手を伸ばす。
そこで、セツキの後を追うように、クミコがやってきた。
「ごめん、コンちゃん大丈夫?」
「あ、うん。平気やけど、何があったん?」
クミコに手を掴まれ、コンは立ち上がる。
校舎から体育館へと延びる渡り廊下。
コンとクミコは端の柵にもたれる。
「ごめんね、私が無理なお願いしちゃって、それでセッツン逃げちゃったの。セッツンのこと、悪く思わないであげて」
クミコは空を見上げた。ウグイスが鳴いている。
「私ね、演劇部なの。私一人だから、私が部長。それでね、セッツンに台本の読み合わせを手伝ってもらいたかったんだけど、無理に頼みすぎちゃったかな」
コンはそっと、手に持ったノートを開く。さっきセツキが落としていったノートだ。
劇の台本だった。
「私でよかったら、手伝いしょよか?」
コンが尋ねるが、クミコは首を横に振る。
「ありがとう。コンちゃんは優しいね。でも、本当は私が練習したいんじゃなくて、セッツンに舞台に上がってほしかったんだ。練習でもいいから」
「セツキちゃんに?」
「うん。セッツンさ、あんな性格だから誤解されやすいけど、とってもいい子だし、美人さんだし、もっと自信を持ってくれたら、生きていけるんじゃないかと思ってる。劇の練習が、なにかのきっかけになるかもって、思ったの」
クミコは「ねっ」と笑いかけた。
「セツキちゃんが、生きていくため……」
つぶやくコンの顔を、クミコが覗き込む。
「ねえ、コンちゃん。コンちゃんはどこまで知ってる? ううん。気付いてる? って尋ねた方がいいかな」
コンは少し考えて、ゆっくりとこたえる。
「全部、やね。この学校のことも、クミコちゃん達のことも、セツキちゃんのことも。神様に頼まれて、クミコちゃん達を迎えにきたのが、私やから」
クミコは一瞬驚いたような表情を浮かべる。
「そっか。そうなんだ。コンちゃん、神様のお遣いなんだ」
「うん。一応」
「じゃあなんで、私たちをすぐに連れていかないの」
「セツキちゃんだけは、帰してあげんと駄目やから。でも、本人が帰りたいって思わないと帰れへんから」
クミコはゆっくりと、つぶやくように口を開く。
「私はね。コンちゃん、私はね、今になっても、本当の幸いってなにかわからないの。セッツンも、ずっと私たちと一緒に居るのが幸福かもって思ったこともあった。でも、それもしっくりこなくて、やっぱりセッツンには生きていてほしいと思ってる」
「うん」
「私の“想い”を燃やして、夜空の星座みたいにセッツンを照らしていたい。だから、手伝って。コンちゃん」
コンは穏やかな表情で、でも、力強くうなずいた。
クミコは嬉しそうな表情を浮かべ、大きく息を吸うと歌いはじめた。
よく通る澄んだ声が、廊下に響く。
讃美歌320番『Nearer, My God, to Thee』
作詞:Flower Adams
作曲:Bethany
日本語訳:千曲 春生
Or if on joyful wing, cleaving the sky
(もしも私が喜びを翼にして空を切り割き)
Sun, moon, and stars forget, Upward I fly,
(太陽や月、星々を忘れて舞い上がっても)
Still all my song shall be
(たとえそれでも私の歌の全ては)
Nearer, my God, to Thee, Nearer, my God, to Thee, Nearer to Thee!
(私は神の御許へ もっと、神様に近いところへ)
本作は下記の書籍、HPを参考に執筆しています。
『銀河鉄道の夜』著:宮沢賢治 株式会社KADOKAWA 平成8年5月25日初版発行
Wikipediaより『主よ御許に近づかん』