ずっと、ここにいる話 前編
中国地方では大山に次ぐ標高を誇る山、氷ノ山。
ブナ林は雪を被り、眩しいほどの純白の景色がそこにあった。
新雪に足跡を残しながらノウサギは駆けまわる。
木々の合間を駆け抜け、丘を駆け上がり、石を飛び越える。
ふと、足を止めた。
その瞳は遥か上空を見上げる。
雲一つない天色の空に、一つの黒い点があった。
その黒い点に見えたものは、大型の猛禽、イヌワシ。
イヌワシは二メートル近くになる大きな翼をめいっぱい広げ、氷ノ山の山肌を駆けあがってきた上昇気流を捕らえると、高く高く舞い上がる。
山頂を超え、稜線を超え、ふもとの町が見えてきた。
鳥取県八頭郡、若桜町である。
若桜町の小学校と中学校が一緒になった公立学校。
チャイムが鳴り、子供達は帰路に就く。
六年生の少女、サナも校門をくぐった。
ベレー帽にセーター、厚手のジャンパースカート。背中にはランドセル。
風が吹き、髪を揺らす。
家へむかって歩き出そうとしたそのとき、
「サナちゃーん」
後ろから声がした。
振り返ると、小走りで近寄ってくる少女がいた。
幼馴染、セリカだ。サナの一つ年上なので中学一年生。一から六年生は私服で登校だが、それ以上の学年は制服がある。
故に、セリカもセーラー服の上からコートを羽織り、リュックサックという格好だ。
「今日は一人? 珍しいね」
セリカが尋ねると、サナはうなずいた。
「ああ。アカリは用事があるとかで早退したし、リンコは日直で遅くなるって。セリカこそ、部活ないのか?」
「うん。今日は顧問の先生が出張で、お休みなんだ」
「そっか。久しぶりに一緒に帰るか?」
「そだね」
こうして、二人は並んで歩きはじめた。
若桜駅の前には、農協の運営するスーパーマーケットがある。
サナ達はその近くまで来た。
歩きながら、セリカはサナの足元から頭の上までを順に見ていく。
「どうかしたのか?」
サナが尋ねると、セリカは「ううん」と首を横に振ってから、
「サナちゃん、もうすぐ中学生なんだなって思っただけ」
「うちの学校だと七年生になるだけだから、あんまり何かが変わる感じしないけどな」
「う~ん。確かにそれはそうかも」
そんな話しをしながら歩いていくと、目の前に一人の女性が見えた。
女性はサングラスをかけて、白杖をついていた。
女性は困ったように同じ場所を行ったり来たりしたり、その場でクルクル回ったりしている。
そして、小石につまづいてこけた。
すかさずセリカが駆け寄り、サナもそれに続く。
「大丈夫ですか?」
セリカが声をかけると、女性は困ったように顔を右へ左へ動かす。
「ごめんなさい。私、目が見えなくて」
「あ、えっと、通りすがりの中学生と小学生です。立てますか? 体、支えてもいいですか?」
セリカは優しく声をかけながら女性を立たせる。
女性の腕には擦り傷ができ、血が滲んでいた。
「サナちゃん」
「うん」
サナはうなずくと、自分の指先をなめ、唾を女性の患部に塗った。
すると、傷はみるみる癒えていった。
「あ、あれ? 痛くなくなった」
女性は不思議そう。
「あの、道に迷ってたんですか?」
セリカが尋ねる。
「うん。旦那と一緒に買い物に来て、お店から駐車場の車に戻る途中にはぐれちゃって」
女性がそう言った途端、慌てた様子で一人の男性が駆け寄ってきた。
男性は手にパンパンのレジ袋を持っていて、日用品、そしてキャットフードが透けて見える。
「ハルカ! 大丈夫か?」
どうやら女性の名前は『ハルカ』らしい。
「うん、大丈夫だよ、ケンショウ。この子たちに助けてもらったの」
ハルカはそう言う。男性の名前は『ケンショウ』というようだ。
「そっか。本当にありがとう」
「じゃあ、そろそろ行くね」
ハルカとケンショウは駐車場の車にむかって歩いていく。
「ね、ちゃんとミーのご飯買った? 前買い忘れたでしょ?」
「大丈夫。ちゃんと買ったよ」
二人はそんな会話をしながら、車に乗り込み、走り去っていった。
「あっ!」
セリカが声を上げた。
「どうした?」
サナが尋ねると、セリカは地面に落ちていたそれを拾い上げた。
ペンダントだ。
金属の鎖の先に、小さな透明のカプセルがぶら下がっている。
カプセルの中には、灰色の毛が入れられていた。
「さっきのヒトが落としたのかな?」
もう車は完全に見えなくなっていた。
「どうしよう」
困った様子のセリカ。
「ちょっと貸して」
サナはペンダントを受け取ると、カプセルの蓋を開け、匂いを嗅いでみた。
「猫だ」
サナはそう言うと、毛が飛ばされないように気をつけながら蓋を閉めた。
「それ、なんとか返してあげられないかな?」
セリカが言った。
「大丈夫だ、セリカ。なんとかしてみる」
セリカと別れたサナは、家に帰らずある一軒の飲食店にやってきた。
店の建物はかなり年期が入っており、入り口は固く閉ざされている。ヒトの気配は感じない。
木製の看板には、かろうじて読めるくらい擦れた文字で『和食処 若櫻』と書かれていた。
サナはスカートのポケットから鍵を取り出すと、扉を開けた。
カラン。
扉に取り付けたベルが鳴る。
「あ、おかえり」
店の中にはテーブル席とカウンター席があり、カウンターの内側は厨房だ。
その厨房には、中学生くらいの少女がいた。
少女の左頬には大きな火傷の痕があり、左目は微かに白く濁っていた。
彼女の名前はコン。
サナに気付くと、コンは柔らかい笑みを浮かべた。
「ただいま、コン」
サナも笑みを返し、いつものカウンター席に座ろうとしたが、先客がいた。
猫。
灰色と黒のまだら尻尾。
猫。
黒い三角耳。
猫。
クリクリと動く金色の瞳。
猫。
ワインレッドの首輪に金色の鈴。
一匹のネコが、椅子の上にちょこんと座っていた。
「こんにちは、キツネさん」
ネコは鈴を転がすような声で言う。
首輪の鈴も、ネコの動きに合わせてリンリンと鳴いた。