第43話、これぞ『いつかは消える定めの記憶喪失中の仮人格憐憫物語』だ⁉(その3)
なっ、『自分の肉体こそを、愛していただきたい』、だって⁉
「──お、オードリー、そ、それって……ッ」
「……ええ、有り体に申せば、『王子様のお情けを、頂戴したい』という意味でございます」
「──ぶっ‼」
思わず吹き出しちゃったよ⁉
やんごとなき、公爵令嬢が、「お情けを、頂戴したい」って、あんた!
──いや、ちょっと、待てよ。
「……あの、オードリーさん?」
「はい、何ですの、王子様?」
「ええと、少々、言いにくいのですが」
「はい?」
「もしかして、あなた、すでに記憶が完全に、戻っていらっしゃるのでは、ないのかなあ…………なんてね! あはははは」
そうなのである、最近の『絵に描いたような淑女』そのままのオードリーの口から、とんでもなくはしたない言葉が飛び出してきたものだから、びっくり仰天したけれど、記憶喪失になる前の『本来の彼女』であれば、むしろ『平常運転』とも言えよう。
しかし目の前の『淑女』さんのほうは、しばし本気できょとんとした顔をしたかと思えば、すぐさま何かに気づいたかのように、おずおずと口を開いた。
「……あー、以前の私の所行からすれば、ヒットシー様の御疑念もごもっともかと思われますが、神に誓って、すでに記憶が戻っているのに、あなたのことを欺いているわけではございません」
「だったら、現在の『完璧なる淑女』状態にある君が、どうして『肉体こそを愛せ』なんていう、ある意味『淑女にあるまじきこと』を言い出すんだよ?」
「確かにこれは、『淑女』的には間違っているかも知れませんが、『論理』的には間違っていないのです」
「……論理、だと?」
これまた『淑女』の口から飛び出すには意外すぎるお言葉に、訝しげに唇を歪める僕を尻目に、敢然と言い放つ公爵令嬢。
「──なぜなら、私たち人間にとっての『本質』というものは、『人格』や『精神』などといったあやふやなものではなく、『肉体』にこそ基づいているのですから」
………………は?
「人間の本質が、人格や精神ではなく、肉体に基づいているだってえ⁉」
「そうなのです、現代日本が存在する『あちらの世界』における、量子論を中核にする現代物理学は言うに及ばず、遙か昔の古典物理学の時代から、『人格』とか『精神』とか『意識』といったものは、脳みそによって物理的につくられた、肉体にとっての『付属物』的なものに過ぎず、言わば物体としての人間を動かすための『OS』のようなものでしかなく、けして我々人間という存在の根幹をなすものではないのです。──それなのに、文字によって構成されている、小説の類いにおいては、今回の私のように記憶喪失になった途端、あたかも別人のように描写し始めますが、これは大きな間違いでしかなく、いくら『記憶』が失われたり、その結果『人格』がまったくの別人のようになっても、肉体が同一であれば、同一人物に他ならず、それこそSF小説やラノベのように、『記憶喪失中のみの仮の人格』が生み出されたわけでも、『二重人格化』したわけでもなく、あくまでも同一人物でありながら、『性格』が少々変わっただけに過ぎないのです」
「──ちょっ、いきなりなんてこと言うんだよ⁉ それってある意味、これまでのSF小説やラノベにおける、『記憶喪失』系の作品の全否定のようなものじゃないか⁉」
「たとえそうなったとしても、論理上間違っておりませんので」
「理屈的に間違っていなかったって、何言っても許されるわけじゃないんだよ⁉ それに、今回の記憶喪失は、『少々性格が変わっただけ』なんてレベルじゃないだろうが? むしろまったくの別人になってしまったと言っても、過言じゃないよ⁉」
「──そうでしょうとも、いくら理屈をこねたところで、皆さんから見れば、『現在の私』と、この先『記憶を取り戻した私』とは、まったくの別人になるものと思われ、たとえ『現在の私』を愛してくださっている殿下におかれても、心変わり為される可能性が、非常に高いかと思われるわけなのですよ」
「──うっ」
……そうか、最初からここに、話を繋げたかったわけか。
「だから、僕が心変わりをしない証しを立てる意味からも、君の言うところの、『記憶』や『人格』などと言った『内面』に左右されることのない、真に人間の本質を司っている、『肉体』こそを愛して欲しいと、言っているんだね?」
「──ええ、殿下が本当に、たとえ私に元の記憶が戻っても、変わらず愛してくださるという言葉を、私に信じさせたいのなら、それ以外の方法は無いかと思われます」
「……ううむ、確かに直截的かつ短絡的であるゆえに、むしろ肉体関係こそが、男女の間に確固たる絆を生み得るとも言えるし、しかも君の言うように、『肉体こそが人間の本質』というのなら、なおさらだろう。──しかし、僕がそれを実行するには、非常に重大なる問題が存在するのを、忘れてもらっては困るんだけど?」
「は? 問題って、何かありましたっけ?」
「──あるよ! 決定的なのが、でーんと立ち塞がっているよ! いいかい、僕はいまだに年齢が、十歳に過ぎないんだよ? それなのに女性と身体の関係を結ぶなんて、『論理』的にはどうあれ、『倫理』的には、完全にアウトじゃん⁉」
一瞬にして沈黙に包み込まれる、公爵令嬢の寝室。
「おおっ、やったぞ、これぞ『ダン○ンロンパ』だ!」──と、内心ぬか喜びにわく僕であったが、すぐさまいかにもあきれ果てたかのような、大きなため息が聞こえてくる。
「……ヒットシー様?」
「あ、はい」
「それってむしろ、『現代日本』における、『倫理観』ですよね?」
「う、うん」
「この世界であれば、十歳で婚姻を結ぶゲースも、別に珍しくもなく、しかもあなた様は、この国の第一王子であらせられるのだから、すでに『女性の扱い』についても、『手ほどき』を受けておられるのではありませんか?」
「……あー、一応『世継ぎの王子』としては、いつどのような陰謀の下に、女性からの誘惑があるかも知れないからって、七、八歳の頃にすでに、基本的な性の知識は叩き込まれているけど、生憎と『実技』のほうは、まだ受けたことはないよ」
「知識さえあれば十分です、後は女でしかも年上である、私がリードいたしましょう」
「そりゃあ、王家並みの権勢を誇る、公爵家の御令嬢なら、僕と御同様に必要な知識を授けられているだろうけど、そんなに僕って信じられないわけ? たとえ記憶が戻って、また前の人格──じゃなかった、前の『性格』に戻ろうとも、僕は態度を変えたりはしないよ!」
「王子のことが信じられないのではなく、私自身が自分を信じられなくて、不安なのです。──そしてこの不安さえ取り除けば、『以前の私』に戻ることを押しとどめることすらも、十分に可能なのです」
………………へ?
「な、何で、不安を取り除けば、記憶喪失の快復がストップして、『現状維持』になってしまうんだよ⁉」
「これはもう、まさしく『鶏が先か卵が先か』といった話になりますが、私が不安であればあるほど、精神が不安定になっていき、どんどんと前の記憶が顔を出し始めますが、逆に言えば、不安要素を取り除けば取り除くほどほど、当然精神的にも落ち着いていき、現在のこの我ながら落ち着き払った性格のまま、徐々に記憶を取り戻していき、けして以前のような突飛な性格には戻ったりしないでしょう。──つまりこれは、記憶喪失の快復がストップするわけでも無ければ、現状維持でもないわけなのです」
「あー、なるほど、言うなれば、過去の『記憶』を掘り返すんじゃなくて、新たに『オードリー=ケイスキー』という個人を象るに必要な『知識』を積み重ねていくことによって、結果的に以前同様の『自分自身や身の回りに関する知識』レベルに到達させようってわけか。──確かにこれだと、あえて『以前の君』という寝た子を起こすことなく、『今のままの君』を維持させることができるかもな」
「──ということは、やっと納得いただけたわけですね? では早速、『実戦』と参りましょう! さあさあ、こっちは準備万端整っておりますよ? バッチ来いですよう!」
……うう〜ん、そう言われてもねえ。
確かに、記憶を喪失してから以降のオードリーに対しては、僕自身もけして少なくない好意を抱いているけど、こうして実際に男女の関係になろうと言われてみたところで、何の躊躇もなく頷けるわけでもないんだよなあ。
すると、そんな僕の優柔不断な心中を読み取ったかのようにして、目の前の少女の表情が、再び曇ってしまう。
「……やはり殿下は、再び元の傍若無人な有り様に戻ってしまうかも知れない私なんて、本気で愛してはくださらないのですね」
そう言ってうつむくや、翠玉色の瞳に、みるみる涙がたまっていく。
「うわっ、ちょ、ちょっと、泣かないでよ⁉ ──わかった、わかったから! 今日はとりあえず、『口づけ』だけで、勘弁してくれないか? 一応それを僕の『誠意の証し』として、それでも君が信じられないというのなら、後のことはまた日を置いて、二人で相談して決めようよ!」
そのように苦し紛れに、『折衷案』を提案するや、しばらく黙考した後で、若干苦笑気味になりつつも、答えを返してくる婚約者。
「……そうですね、確かにいまだ幼い殿下に、事の次第を明かしたばかりのまさに今日この時に、すべてを要求するのも酷というものかも知れませんね。──わかりました、『本番』は後日改めてと言うことで、本日はその『前段階』として口づけを交わすことで、『契約の証し』とすることにいたしましょう」
だ〜か〜ら〜、『淑女』が『本番』なんて言うんじゃないよ⁉
それに『前段階』とか『契約の証し』とかも、もう『身体の関係を結ぶ』のが、既定路線になっているように言うのもやめてくれ!
そのように僕がいまだ往生際の悪いことを思い巡らせている内にも、ベッドの上に腰を下ろし、目をつむりこちらへと見上げることで、『受け入れ体勢』を完全に整える、『恋する乙女』。
……くっ、こちらから言い出した妥協案なんだから、もはや躊躇することは許されないよな。
それに相手は、親が認めた婚約者なんだ。キスをすることくらい、何も問題は無かろう。
そのように僕が意を決し、同じくベッドのすぐ隣に腰掛けて、己の顔を彼女の花の蕾の唇へと近づけていこうとした、まさにその瞬間。
唐突に、寝室内に響き渡る、『第三の声』。
「──やめるんだ! ヒットシー王子! 君は『彼女』に、騙されているだけなんだぞ⁉」
思わず二人して振り向けば、寝室の入り口には、思いがけない人物が仁王立ちしていた。
「……大陸一の経済大国ブロードキャッスル王国の、フージン=3K=ブロードキャッスル王子?」
「久し振りだね、マイスイートハニー♡」
……だ、誰が、スイートハニーだ? 気色悪い!
突然のまったく見知らぬ闖入者の登場に、怯えるように僕の背中に隠れる、記憶喪失中の御令嬢。
「──ちょっと待ってください、フージン王子! 現在のオードリーが、嘘をついたりお芝居をしたりはしていないことは、我が国の名だたるベテラン医師たちによって、証明済みなんですよ⁉」
「うん、そこの彼女は間違いなく、以前の記憶を失うことで、まったくの純真無垢なる女性と成り果てているだろう。──しかし」
「しかし?」
ただ疑問を呈するばかりの僕に対して、まさしく驚天動地以外の何物でもない、本日最大級の爆弾発言を投下する、飛び入り王子様。
「君を騙して、今度こそ完全に自分のものにしようとしているのは、『現在のオードリー嬢』ではなく、記憶喪失になる前の、『元々のオードリー嬢』のほうなんだよ」




