第41話、これぞ『いつかは消える定めの記憶喪失中の仮人格憐憫物語』だ⁉(その1)
「……本当に申し訳ございません、何から何まで、王子様のご厚情に、甘えてしまって」
天蓋付きの瀟洒なるベッドの上で上半身だけ起こしたその少女は、心の底から申し訳なさそうに、そう言った。
頭を下げるとともにふわりと揺れる、普段の縦ロールをほどくことによって、ほどよくウエーブのかかっている長いブロンドの髪の毛に、いつもはそんなに気にならないはずの、豊満なる胸元。
「……王子?」
「あっ、い、いやっ!」
ついまじまじと見つめてしまったことをごまかすかのように、僕は続け様にまくし立てる。
「こ、困っている時は、お互い様だよ! 何せ僕らは、親が決めたこととはいえ、れっきとした婚約者同士なんだかね!」
「まあ!」
すると心底嬉しそうに、コロコロと上品な笑声を漏らす、真珠のような艶めく唇。
彫りが深い端麗な小顔の中で、神秘的に煌めいている、翠玉色の瞳。
……その『可憐』極まりない有り様に、完全に目を奪われていたら、
──不意を突くように繰り出される、最高の『殺し文句』。
「私本当に、ヒットシー殿下の婚約者であって、良かったと思っておりますわ♡」
──うっひいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいっ!!!
☀ ◑ ☀ ◑ ☀ ◑
「──お願い、何か塗り薬、プリーズ! 蕁麻疹が、蕁麻疹があああっ!」
「──王子、こちらに、これをお使いください!」
「──誰か、殿下に、薬湯をお持ちしろ!」
「──ええい、薬師はまだか⁉」
オードリーの部屋を後にしてから、取るものも取りあえず貴賓室へと飛び込めば、メイドさんや執事さん総掛かりで、僕の『治療』に取りかかってくれた。
「な、何なの? あの『綺麗なオードリーさん』は⁉ あまりにも違和感が大きすぎて、僕の世界観そのものが、ぐっらぐらに揺らぎ続けているんですけど⁉」
「わ、わかります、殿下! 側仕えのメイドである自分としても、綺麗は綺麗でも、人やその他の生物が一切生きていけない、『真空』や『純水』タイプの、『不純物の存在を許さない綺麗さ』であり、何だか、お嬢様のお側で呼吸をすることすらも、だんだんと苦しくなってきて……」
「だよね! 何といっても、これまでとの落差が巨大すぎるもん! レベルが違いすぎて、ギャップ萌えとか、楽しむ余裕なんかないもん!」
「ほ、ほら、あれじゃないですか? アニメとかで、今回か次回で死ぬことが決定しているキャラが、何かこれまでになく、『いいやつ』として描かれるってパターンですよ!」
「「「それだ!」」」
「……え、ということは、オードリー死ぬの? 今回か次回とかに」
「いえ、お嬢様は、『殺しても死なない』と、思っておいたほうがよろしいでしょう」
「執事長さんの的確な分析として、それはどうなんだろうか? ──というのは、脇に置いていて、オードリー自身に、事が起こらないとすると…………」
「よくて、この王都全体、悪くて王国全土、下手すれば世界そのものが、滅んでしまうかも知れませんな」
「「「あり得る!!!」」」
「……何て人騒がせな、お嬢様なんだ。真人間になったらなったで、周囲にこれだけの動揺を与えるなんて」
「殿下、それが『悪役令嬢』というものですよ」
「うん、何度も言うけど、そのことについては、一度、この作品の作者を問い詰める必要があるよね」
「とにかく我々は、心の底からお嬢様にお仕えしながらも、いったん事が起これば、刺し違えてでもお止めする覚悟でおりまする」
「……ああ、それについては、公爵家に対して唯一監督権限を持っている、王家も同様だよな。そもそも僕がオードリーの婚約者になったのも、その一環と言えるし」
「──ところで殿下は、今回の件を、どう見ておられます?」
「う〜ん、『半々』かなあ……」
「良いお心掛けで、ございますな。たとえどのような場合においても、『悪役令嬢』に関しては、油断は禁物ですからな」
「見ている分には、到底『お芝居』には見えませんけどねえ……」
「甘い! 相手をただの人間の少女と見てはならぬ。人智の及ばぬ、魔物や、自然災害の類いだと、見なすべきであろう」
「うん、執事長が、自分の御主人様のお嬢様に対する評価とは、とても思えないけど、『オードリー=ケイスキー』という規格外の存在に対する、客観的分析ということなら、100点満点の模範解答だね!」
「……しかし、本当に、何なんでしょうかねえ」
「うんうん、みんなが言いたいことは、十分承知しているよ?」
「「「記憶喪失になられただけで、世界の危機すらももたらしかねない公爵令嬢なんて、世界広しといえども、あの方だけだろうな!」」」
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──それからしばらくたっても、オードリーの記憶が戻ることはなかった。
そもそも事の起こりは、今から半月ほど前のある朝、いつものようにメイドさんに起こされた、オードリーの様子があまりにもおかしいので、公爵家お抱えの医師に診せたところ、なんと彼女がいわゆる『記憶喪失』状態にあることが判明したのだ。
──つまり、病気とか怪我とか事故とか言った、明確な原因が一切存在せず、就寝前の様子も別段変わったところがなく、ただ目が覚めた途端別人のようになっていたわけで、まったくの『原因不明』と言わざるを得ず、このことが適切な治療方針を決めかねる最大の理由となっていた。
一応医師の見立てでは、仮病や作為的な行動というわけではないようであるが、本当に記憶喪失であるのなら、まったく原因がつかめず、手の施しようがないといった現状は、かなり深刻なものと言わざるを得なかった。
そういうわけで、僕を始めとして、彼女のことをどうしても信じてやれなかった、周りの人々は、大いに恥じ入ることとなり、以来献身的に、彼女のお世話に邁進していくことになったのだ。
もちろん、その先頭に立って、オードリーに尽くしていったのは、言うまでもなく、彼女の婚約者であるこの僕、いまだ齢10歳とはいえ、れっきとしてヨシュモンド王国の世継ぎの王子である、ヒットシー=マツモンド=ヨシュモンドであった。
お世話をするとか尽くしていくとか言っても、彼女は別に重い病気で寝込んでいるわけではなく、大事をとって学園については休学させているものの、日中は当然ベッドを離れて普通に行動しており、僕を始めとする周りの者たちは、彼女が記憶喪失ゆえに生活上何か不便を来さぬよう、手助けをしてやればいいだけであった。
それに記憶喪失と言っても、言語能力自体を失ってしまうとか、動植物の区別が付かなくなるとか、食事や入浴の仕方がわからなくなるとかいった、人として有しておくべき『生きる知識』についてはまったくと言っていいほど損なわれてはおらず、むしろ公爵令嬢としての、行儀作法や料理や裁縫の腕や音楽芸術方面の嗜みや学業や魔法技術等に関しては以前同様に、人並みどころか他を寄せつけないハイレベルさを誇っていたのだ。
では、そもそも一体、何の記憶を『喪失』したかと言うと、有り体に申せば、『オードリー=ケイスキー』という、人間個人に関する『記憶と知識』のすべてと言えよう。
つまり、オードリー自身に関することはもちろん、僕やご家族や使用人等の身の回りの者を始め、彼女と関係してきた人々の『記憶』についても、一切失われていたのだ。
『オードリー=ケイスキー』であることを無くした、オードリー。それは以前の彼女とは、まったく別の『オードリー』であり、人としては、何も描かれていない真っさらなカンバスであるかのような状態とも言え、まさしく『ゼロ』からの再出発を強いられることになったのである。
もちろん何かの拍子に、記憶が元通りになってくれるのなら、それに越したことはないが、最悪の事態に備えて、周りのみんなで一丸となって、根気よくじっくりと、新たなる記憶を与えていったほうが、よりベストであろう。
ただし、公爵家お抱えのお医者さんからは、いくら『新たなる記憶』を与えるからと言って、以前の彼女とはまったく違う、こちらの理想を押し付けるようなやり方は、厳に慎むように指導された。
以前の彼女の『行状』から、どうしても『性格の抜本的改変』を実現したいところであるが、小説や漫画でもあるまいし、記憶を失ったくらいで、人間がまったく変わってしまうことなぞあり得ず、あまりに以前と違った性格作りを無理強いしたりしたら、かえって深刻なる状況を招きかねないとのことであった。
そこで僕ら周囲の者たちは、あくまでも自然な形でオードリーの記憶の復元に努めていったのだが、それはそれで非常にやりがいのあるものであった。
それというのも、現在の『綺麗なオードリーさん』が、以前の『悪いオードリーお嬢様』とは同一人物とは思えないほど、素直でいじらしくとても放っておけないほど魅力的であったからである。
例えば──
綺麗なオードリーさんは、たとえ相手が婚約者とはいえ、盗撮やストーカーなんていたしません。
綺麗なオードリーさんは、相手の寝込みを襲ったりはしません。
綺麗なオードリーさんは、手作りのお弁当やお菓子の中に、自分の髪の毛や爪や体液なんかを混入したりはしません。
綺麗なオードリーさんは、婚約者の髪の毛や爪やその他下着等の私物を、コレクションしたりはしません。
綺麗なオードリーさんは、婚約者を無理やり女装させたりはしません。
綺麗なオードリーさんは、話し合いよりも真っ先に、暴力ですべてを解決しようとはしません。
綺麗なオードリーさんは、恋のライバルを物理的に排除したりはしません。
綺麗なオードリーさんは、一晩中、『愛している』とか『今すぐ会いに来て』とか『あの女は誰なの?』とか言った、同じ文章ばかりを何度もメールしてきたりはしません。
綺麗なオードリーさんは、電話しながらだんだんと近づいてきて、気がつけば真後ろに立っていたりはしません。
綺麗なオードリーさんは、血文字で書いたラブレターを送ってきたりはしません。
綺麗なオードリーさんは、血文字で書いた婚姻届を送ってきたりはしません。
綺麗なオードリーさんは、婚約者に発信器を仕込んだりはしません。
綺麗なオードリーさんは、婚約者の現在位置を常に把握していたりはしません。
綺麗なオードリーさんは、婚約者の現在過去未来を問わぬ、すべてのスケジュールを把握していたりはしません。
綺麗なオードリーさんは、婚約者の所有している衣服はもちろん下着の数や種類を、すべて把握していたりはしません。
綺麗なオードリーさんは、婚約者の好きな料理やお菓子を、すべて把握していたりはしません。
綺麗なオードリーさんは、婚約者の趣味や興味のあるものを、すべて詳細に把握していたりはしません。
綺麗なオードリーさんは、婚約者の身長や体重や病歴等、身体や健康に関することを、すべて詳細に把握していたりはしません。
綺麗なオードリーさんは、婚約者の『男性としての生理現象』の回数や具体的な解消方法等を、すべて詳細に把握していたりはしません。
綺麗なオードリーさんは………………………………………………いや、何か、虚しくなってきた。
これでは、『現在の彼女』についてと言うよりは、『以前の彼女』の『罪状』を、並べ立てているだけじゃないか?
──とにかく、記憶喪失となってしまったオードリーは、以前では信じられないほどに、『真人間』そのものとなり、まさしく公爵令嬢として──そして、第一王子である僕の婚約者として、真にふさわしい、おしとやかで気品にあふれて、しかもそれでいて奢ることなぞなく、常に他人を思いやることを忘れないといった、まさしく『淑女』を体現した理想的な女性となったのである。
そんな彼女との日々は、いつしか僕に、記憶喪失の解消などといったお題目を忘れさせるまでに、夢中にさせていった。
元々綺麗で、スタイルも良く、所作も上品で、衣装や宝飾類のセンスも良かった、オードリーは、外見上の『女性的魅力』に関しては、十分申し分がなかったところに、今回の予期せぬ記憶喪失によって、中身がリセットされてしまったことが、むしろ福となり、外見に負けず劣らず理想的なまでに女性としての魅力あふれるものとなったのだから、そもそも『年上の女好み』の僕が、惚れ直さないわけがなかったのだ。
そのように本来の目的を忘れ、ただただ『理想的な婚約者との日々』に溺れていくばかりの僕だったが、
──実は何と彼女の内面において、取り返しのつかない絶望的な事態が進行していたことに、まったく気づけずにいたのであった。




