8 魔導オンチの弊害
私は昨日のことを思い出しながら、ベッドで横になったままぐだぐだしていた。
行きたくねー仕事行きたくねー。
そういうことである。
昨日は、半日くらいかけて床にこぼれた館長の血を雑巾で必死こいて拭き拭きしていたが、なかなか血が取れなくて大変だった。自分が殺人犯で、人を殺した証拠を隠滅しているような錯覚に陥りながら掃除をしていた。風呂で手についた血を落とすのにも苦心した。
今日もまた館長死んでたらどうしようかと思うと、二度と布団の中から出たくなくなる。
そうだ惰眠を貪ろう。
そういうことである。
「リリィ、朝ー」
起き上がらずにいると、無慈悲な同居人が布団を剥ぎにやってきた。
「うげえっ」
布団ごと私の体は宙を舞い、床に転がった。肩と頭をしたたかに打った。痛い。
しぶしぶ起き上がると、一三〇センチにも満たない小柄な体躯の女の子が涼しい顔で私を見下ろしていた。体は小さいが、顔つきは私と同じ二十歳相応で、肩くらいで切ったセミロングの金髪は少し癖っ毛である。
この一見小さいだけのように見える妖生種系の女の子は、布団どころかベッドごと私のことを持ち上げられるほど強靭な筋力を持つ。ただ、全力の半分も出そうものなら腕や足が少しムキムキになるのが本人は気にしていて、夏でも長袖や裾の長い服を着ている。
今日はグレーのポンチョみたいな服を着ているようだ。春らしくて今はいいが夏でもこんな感じである。
「リリィ仕事でしょ? もう朝ごはん食べてる暇ないよ」
私のことをリリィと呼ぶこの女の子――アタリァ・リガルディは、私と違い暇な大学生なのでかなり余裕である。
しかし昔からいろいろ雑で困る。
床に転がる私は、それでも布団にくるまった。
「……あーちゃん」
「何?」
「私の代わりに働いてきて」
「はよ行け」
無慈悲な同居人は無慈悲に私を送り出した。
「…………」
州立魔導図書館までやってきた私は、再び従業員用の出入り口の前で立ち往生した。
手には昨日もらった魔導ICカード。
カードの中には“アレイスタ導版”と呼ばれる、魔導を伝達する導体がマイクロチップ化して入っている。
――魔導書の記述に従ってチョークで魔導陣や魔導式を引き、魔導石を用いることによって様々な現象を起こしていたのも、今は昔。
技術の発展した現代では、このアレイスタ導版によって魔導のプロセスが簡略化。魔導陣も魔導式も描かなくていいし魔導書や魔導石を常に持ち歩かなくても念じるだけで魔導を使えるようになった。
史上稀に見る魔導オンチを自称できる私は、この技術がいまいち理解できなかった。
ただでさえ魔導オンチなのに現代の魔導技術の発展ときたら、目まぐるしすぎて完全に時代に置いていかれている。
このカードだって、ただ念じて魔導ICカードリーダーにかざすだけだ。オートロックの鍵を開けるにはそれだけでいい。ほんの一手間で目の前の扉は十全に開かれる。
でもそんな簡単なことでさえ、私は手間取る。片道十キロの険しい山道を徒歩で挑むがごとく、私には感じられる。
「こ、こんなことなら、昨日帰った後もう少し魔導の練習しとくんだった……」
カードをリーダーの前にかざすも、何も反応はなし。
魔導は発動せず、ドアのロックは開かない。
原因は、たぶん魔導の練習不足。
……私だって扱えなくはない。扱えなくはないのだが、そこにいたるまでにものすごく時間がかかる。他人が一瞬でできるようなことに一晩も二晩も要するのだ。
「クロユリ、おはよ」
後ろから静かに声をかけたのは、涼しい顔をした少女のような女性。尖った耳に空色の髪。昨日知り合った依子・ウェイトコットさんだ。
「あ、おはようございますウェイトコットさん」
「依子でいい」
依子さんは魔導ICカードを取り出しながら、中に入ろうとしない私のことをいぶかしんだ。
「立ったままでどうしたの?」
「えっと、じつは、魔導の扱いがちょっと苦手でして、カードの使い方に戸惑ってしまって」
「そうなの」
「まったくできなくはないんですが、時間がかかるので」
「大変ね」
言うと、依子さんはカードリーダーにカードを掲げると、ドアを開けてくれる。
「はい」
「あっ、ありがとうございます……っ」
依子さんはドアノブを掴んだまま私を招き入れようとして、
「あ」
何かを思い出した。
「どうしたんです?」
「タイムカードもこのカードだから」
「あ」
そうだった。勤務の出勤退勤もこのカードで同じように行うのだった。
「やってあげる。事務室行ったらカード貸して」
「ありがとうございます、お願いします……」
「慣れないうちはしょうがない」
優しい。なんて優しいんだ。
かなり無表情で感情があまり入ってない感じで、どう見てもジト目で睨まれているように見えるが、言葉はなんて温かみがあるのだ。人徳が滲み出てくるようだ。
今朝も無慈悲な同居人に追い出されるようにして仕事に行かされたので、余計依子さんが大きくみえる。
感動していると、依子さんは無表情で私の肩をポンポンした。
なんか仕事はすごくブラックなんじゃないかと疑っていたが、こうしていい人に出会えてよかった。私は恵まれているのかもしれない。
もう血は拭きたくないけど。もうね。もう本当に血を拭くのだけはカンベンしてください。
「おい詰まってんぞ早く入ってくれ。なんだここは行列のできるラーメン屋か?」
「すす、すいませーん!」
背後にむすっとしたジップさんが立っていて、私たちは慌てて中へと入った。