27 幻覚の元凶(※イラスト)
「…………!」
視界いっぱいに一瞬で広がる、幾何学的な模様のような構造体。
壁にも、本棚にも、床にも同化するように模様が浮かび上がってくる。
床は床でなくなり、平面は平面でなくなり、すべての境界線をあいまいにしながら模様が広がっていく。それが生きているかのように、ときたま蠢いてガサ、ガサ、と虫のような音を立てる。卵のような物体が膨れながら次々現れる。魔導書も同様に奇妙な模様になってうごめくが、クラスSを中心とする一部の魔導書は模様が出なかった。
乗り物酔いに似た感覚。まるでこの世界のすべてを構成しているとでも言いたいような、自分がどこにいて何をしようとしているのかわからなくなるくらいの、異様な構造体が視界いっぱいに広がっている。
この魔導を使った際の副作用によるものだと、魔導書には記されていた。見たら正気ではいられなくなる危険があるから、暗くすることを推奨していた。
見たいのは、こんな副作用ではない。さっさと真実を見せろ。
副作用の模様は、やがて薄れていったが、それでもうっすらと見えるような気がする。
魔導石は、まだほのかに光っている。古代魔導は、使う魔導石の質によって、効果の程や持続時間が変わる。今回は安物の魔導石のさざれを使っているから、持続力はあまり期待できない。
今のうちに、私は目的の右奥に目を向ける――
「――!?」
そこにあったはずの書架は消え失せていた。やはりそこだけ幻だったようだ。
そして書架があった場所――その隙間には、誰かが隠れていた。
ぼろぼろの黒いローブを羽織って、体育座りをするように丸くなっている。
まだ若い、十代前半くらいの女の子だった。猫のような耳がついているが尻尾はない、獣生種系の女の子だった。細い手足は白く綺麗で、透き通った海のような色の長い髪を三つ編みにしている。女の子は涙ぐみながら、怯えたような表情でこちらを見据えていた。
見えない隙間の主は、間違いなくこの子だろう。
隠し部屋とか、変な魔導陣が隠されていると思っていた。
まさか人が隠れているなんて、思いもよらなかった。
女の子の足元には、お皿とメラニーさんが作ってきてくれたパウンドケーキの食べカスが残っていた。よもやここにずっと引きこもっていて、たまにメラニーさんが持ってきてくれるお菓子だけで凌いできたのではあるまいか。
でも、見えたのはこの子だけじゃない。
魔導書庫に潜んでいる何かは、右奥だけではなかった。
机のある位置には、霧のようにその場にとどまっている暗い闇のような影。本棚と本棚の間には、巨大な芋虫のような何か。猫の瞳のような光が監視カメラの中に潜み、そこかしこに鱗のようなものと黒い鳥の羽根みたいなものが散乱している。
……見えたのは一瞬だけ。私がその存在に気づくと、それらは逃げるように本棚の隙間や私の視界の死角に隠れた。落ちていた鱗や羽根も風に流されるようにしてどこかに消えていく。
ほかにも何かがいる。
それがこの魔導書庫の雰囲気を形作っているとでもいうように。
ここには何か、人知の及ばないような異様な何かがいくつも潜んでいる――?
それとも、魔導書庫が特殊なのではなく、この世界にはそもそも人知の及ばないものが最初からどこにでも存在していて、普段私たちの目に映らないだけなのだろうか。
このずっと見ていると気持ち悪くなってくるような光景が、世界の本当の姿なのだろうか。世界は、本当は名状しがたい異様なものでできているのだろうか。それは答えを出してはいけない致命的なことのように思えて、私は首を振った。
――いけない。この考えは、少し常軌を逸している。魔導書の見せる異様な光景に、思考が引っ張られるところだった。
隠れた書架の間を覗いてみると、変な生物の影はどこにもなかった。
「すぐに消えたということは、これも魔導書の副作用……?」
思考を切り替えて、つぶやく。うん、普通に考えれば、そうだ。
右奥で丸くなったままの、女の子を除けば。
考えている間に、副作用は完全に消えた。魔導石が放っていた光も。
もうすでにこの室内の異物は、角に小さくなっているこの子だけだ。
そして、かなり警戒されている。
「こ、こんにちは」
「…………」
挨拶をしてみたが、返事は来ない。
「どうしてこんなところにいるの? 今までの幻は、あなたが?」
「…………」
女の子は、ゆっくりと警戒しながら顔を上げ、こちらを向いた。
おそらく、この子もさっきの魔導書が起こした副作用の幻を見ているはずだ。かなり恐ろしい思いをしたにちがいない。だから私は、すべて許すつもりで笑いかけた。
「大丈夫、怖くないよ」
「……怒らない?」
消え入りそうに小さい、少女の柔らかい声が漏れた。
「怒らない。名前は?」
「キア。……キア・ナシュ・イダース」
このへんじゃ聞かない名前である。
名前を言うと、またキアちゃんは俯いた。
埃が陽に反射して、きらきらと光っていた。
見ると、キアちゃんのいる壁側には窓がついていた。書架の幻があったときは見えなかった部分だ。なるほど、こちらの窓があったから、もう一方の窓を書架で塞いだりしていたのか。
「ご、ごめんなさい……ぼく、ちょっと前にここに来たんだけど、誰にも見つかりたくなくて、その……」
「今までのはやっぱりあなたが見せていた幻だったの?」
キアちゃんは小さく頷いた。
「うん、幻惑の、まどう」
聞いたことがない魔導だ。たぶん、言葉の感じからすると古代の魔導だろう。
「痛みも感じられたけど」
「五感ぜんぶ、錯覚させられるから……」
「もしかして、気分とかの感覚も?」
「ある程度は……」
メラニーさんがあまり右奥について気にしなかったのはそのせいか。
第六感を鈍らせて、思考を誘導したんだ。個人差があるというか、私みたいな奴には効きが悪かったみたいだけど。
「いつからここに?」
「六十日くらい、前」
聞いて、私は絶句した。そんな前からここにずっと潜んでいたというのか?
窓があってそこから出入りできるから、ずっとここで引きこもっていたわけではないのだろうけれど……。
だんだん思考が追いつかなくなってきた。
「ええと、お家は?」
「…………」
キアちゃんは気まずそうに目をそらす。
何か、事情がありそうだ。
「うん、まあいいや。悪いようにはしないと思うから、ちょっと館長たち――ほかの人たちともお話しよう?」
「…………」
キアちゃんは萎縮したように丸くなって、顔をさらにうつむかせた。
「私がついていてあげるから」
「……本当?」
「ちょうどそこに館長とジップさんが――」
言って私が入り口の方を見やると、
「って、館長!? ジップさん!?」
ジップさんは腰を抜かしたのか尻餅をついて震えながら虚空を見つめ、館長は俯いて倒れたまま動かなかった。
まずい、この二人も、さっきの副作用を見てしまったみたいだ。しかも私よりひどいことになっている。
「館長、ジップさん大丈夫ですか!?」
慌てて私が駆け寄ると、ジップさんはハッとしたように私に視線を合わせ、
「うわあああああっ!」
尻餅をついたまま手をやみくもに振り回し、わたしから遠ざかった。
勢いよく下がったジップさんは、どん、と思いっきり壁に背中をぶつける。
「ジップさん!?」
「寄るな! 化け物! やめろ!」
「ジップさん!」
「やめろおおおっ!」
「ジップさん! いつまで変なもの見てるんですか!」
私を化け物呼ばわりしている。これは、少し正気を失いすぎている。
「ジップさん!」
私はジップさんのほっぺたを思いっきり引っ叩いた。
「ぐへっ!」
ばちーんと小気味のいい音が響く。
「……あ、なんか」
この前いろいろ文句を言われたせいだろうか、引っ叩いたら案外気分が晴れた。
ジップさんは殴られたまま放心している。取り乱すことはなくなったようだが、心ここに在らずといった様子だ。
「も、もうあと二、三発は必要だよね……?」
うん、必要だ。べつにヘコませられた恨みからではないのだ。これはジップさんの正気を戻すために仕方なくひっぱたくのだ。私はにやけ面になりそうなのをこらえた。
仕方ない。そうしないと目を覚まさないかもしれない。職員のジップさんが平静を取り戻さなければ、私もどうしていいかわからないのだ。
仕方がないのだ。私だって心が痛いのだヘヘッ。
そんなわけでジップさんの襟首を掴み、
「ジップさん、目を覚ましてくださいーっ!」
思いっきり往復ビンタをくれてやる。
三回バチーンと顔でいい音を立てたところで、ジップさんがハッとしたように正気に戻った。
「あ、あれ? ハイドレンジアさん……?」
ちっ、もう目覚めたか。
「……大丈夫ですかジップさん。古代魔導の副作用ですよ。変な模様とか幻を見てたでしょう?」
私は振り上げていた手をさりげなく戻して言った。
「幻覚、だったのか?」
「そうみたいですよ」
「ハイドレンジアさんを呑み込んでいた、変な鱗の化け物は?」
「私食べられてたんですか?」
「いや、そうか、恐ろしい幻を見た。やっと落ち着いてきた……」
頭を押さえて苦悶の表情をしていたジップさんは、それから赤くなった頰をさすった。
「なんか頬っぺたが痛いんだが」
「き、気付かないうちにどこかにぶつけたんですかね?」
私は苦笑して言いつくろい、
「そ、それより館長は? 無事ですか?」
ごまかしながら館長に目を向けた。
館長は倒れたまま、一向に起き上がる気配がない。
「館長!」
ジップさんは手馴れた様子で館長を仰向けにして、呼びかけながら脈をはかった。
「……死んでる」
またか。
館長は白目を剥き、開いた口からは泡が垂れて、何本も髪の毛が抜け落ちている、ものすごい形相をしていた。
「ショック死だ……恐怖で驚きすぎて心臓発作を起こしたんだろう」
「館長あんな自信満々にしてたのにすごく怖がりだったんだ……」
ちょっとかわいい。
ああ、でも、なんか、館長の死についてあまり心配しなくなっている自分がいる……。
「まあ館長は放っておけばどうにかなるだろ。それで、幻の方は?」
「ジップさん、それなんですが……」
私が右奥で小さくなって動かないキアちゃんに顔を向けると、ジップさんは頷いた。
「ひとまず、保護しよう。話はそれからだ」
「わかりました。……キアちゃん、おいで」
私が手招きすると、キアちゃんは耳をぴくりとさせ、書架につかまりながら恐る恐るこちらに歩いてきた。
「お前みたいな子どもが事の元凶だったのか」
ジップさんは容赦なくキアちゃんを睨みつける。
ただでさえ目つきが悪いのに、にらまれたキアちゃんは、
「…………っ!」
駆け足で私の背中に隠れた。
「ジップさん、女の子をそんな風に威圧しないでください」
「あ、いや、すまん……目つきが悪いのは、もともとなんだ」
ジップさんは困ったようにキアちゃんから目を逸らした。
睨んだんじゃなくて凝視していただけか。紛らわしい。
「ぼく……男だけど」
「!?」
私の背中に身を寄せていたキアちゃんが、驚くべき発言をした。
えっ、ちょっ、男の子なの?
「男なのか」
ジップさんは難しい顔をして確認すると、
「う、うん……」
キアちゃんは小さく頷いた。
整ったかわいい顔で、しかも髪が長い。三つ編みにしていても地面に届きそうなほどの長さだ。声も男の子にしては高い。見た目は完全に女の子だったというか、そのへんにいる同年代の女の子よりよほど女の子のようだった。
「そ、そうか、なるほど、わかった」
ジップさんはものすごく眉間にしわを寄せて、ぎこちなく頷いた。少し動揺しているようだ。
「…………?」
キアちゃん――もといキア君は、質問された意図がわからず首を傾げていた。
「ふぁっ!」
大きく痙攣して奇声をあげ、館長が復活したのはそんな時だった。




