18 誰もいないはずの場所
午後はクラスBの魔導書を一冊、クラスAの魔導書を一冊、登録した。
そこで就業時間は終わった。
午前に一冊、午後に二冊。
一日かけても登録はたった三冊しか進まなかった。
所詮私はこんなものである。
人より何か進めるのが圧倒的に遅い。人前じゃ緊張しまくってメンタルも豆腐みたいなものだし、なにもいいところがない。
優しくしてくれる人の言葉に甘えて、現実を見ていなかった。まっすぐ前を見るだけでは、仕事はままならない。そんなのわかっていたはずなのに。
ジップさんの言う通り、自分の能力に見合わない仕事だったのかもしれない。
ため息をつき、進捗を忘れないように挟んでいたいらない紙を三冊分進める。
館長のことだってそうだ。
私がおかしいと思っただけで、みんなにとっては普通のことだった。
ただ余計なことに首を突っ込んで、時間だけ浪費していたのだ。
こんな無能に、給料なんてやっていいのだろうか。
税金から出ているんだ。いいわけない。
「でも……」
それでも、少し気になった。
館長が死んだ現場。
就業時間は過ぎている。残業代は、申請しなければ出ない。申請しなければいい。私が業務以外のことで勝手に職場に残るだけだ。
……辞めるにしても、せめて心のモヤモヤをとって、潔く辞めたい。
魔導書庫にはなにもなく、館長が変死するのも、ここではごく当たり前のことだった――退職するなら、そう納得して、退職したい。
私は、館長が探ろうとしていた右奥あたりに足を運んだ。
未登録の魔導書と違い、登録済みの古い魔導書が並んでいる。
やはり、とくになんの変哲もない書架だ。
書架に収まっていた魔導書を一冊手に取ってみる。
「ん? ……『おいしいパウンドケーキ』?」
書名を確認して、私は首をかしげた。
なんだこれ。
魔導書じゃない。
ただのレシピ本だ。
しかも表紙の写真は、メラニーさんが持ってきてくれたものに良く似ていた。
「なんでこんなものが、魔導書の本棚に……?」
誰かの配架ミスだろうか?
分類が魔導書の分類になっている。
料理はべつの分類のはずだ。
明らかに違う本が、魔導書として、書架に入れられている。
「これ、本当の所蔵場所はどこだろう?」
資料番号付きのバーコードがちゃんと貼ってある。
きっとシステムに所蔵情報が登録されているはずだ。
検索してデータをみてみよう。
タブレットの置いてある机の場所まで戻り、リンクスの蔵書検索画面で、本に貼ってある資料番号を調べてみる。
「あれ?」
バーコードリーダーは片づけてしまったので、番号を手打ちで入力し検索したところ、結果はゼロ件だった。
打ち間違いだと思って、もう一度検索する。でも結果は同じ。
資料番号で検索をかけて反応がないということは、それは登録されていない本だということだ。
おかしいな。
分類とバーコードだけ貼って登録し忘れたのだろうか。
数字の打ち間違いかもしれない。
次は本のタイトル――『おいしいパウンドケーキ』で検索してみる。
「…………!」
今度は、何件か検索に引っかかった。
リストを表示させる。
けど、並んでいるのは似ているタイトルやジャンルの図書のみだった。『おいしいパウンドケーキ』という書名の図書はリストに出てこなかった。
明らかに違う本が、魔導書として、魔導書の分類で書架に入れられていた。しかも登録もされていない。
明日依子さんたちに心当たりないか訊いてみよう。
私は机の上に『おいしいパウンドケーキ』を置く。
少し、得意げになる。私だって、誰かの間違いに気づくことはできる。ジップさんにいろいろ言われたが、そのへんは誇ってもいいはずだ。
「ほかの図書は、大丈夫なんだよね……?」
私は、ほかにおかしな本はないかと同じ本棚へ戻って確認した。
「あ、あれ……?」
紙。
進み具合を忘れないように未登録ゾーンの本棚に挟んでおいた紙が、『おいしいパウンドケーキ』のあった書架に移動している。
そこは登録済みの図書が置かれた書架のはずだ。未登録ゾーンとは関係ない。
未登録ゾーンのところに挟んだのは、ちゃんと覚えている。だってまだ数える程しか魔導書の登録は進んでいない。
それに、今さっきの出来事だ。何日も前の情報ではない。
私は、こんなところに挟んだ覚えはない。
なんでこんなところにある?
「……誰が、こんなところに?」
紙に書いてある「登録ここまで終了」というメモは、私の字だ。手に取らなくてもわかる場所に書いてある。別の違う紙ではない。
いつだ。ついさっき私が触ったものだ。誰も移動させられるはずはない。
ここには私しかいない。
移動させられるとしたら、私しかいない。
夢遊病か何かだろうか? 無意味な場所に移動させてたのを忘れていたのだろうか?
とにかく、取らないと。
紙を取って、正しい場所に戻さないと。
私は背伸びをして、挟んである紙に右手を伸ばした。
紙を取る前に、手首が、突然切断された。
「――あっ、ぐっ!?」
一瞬、何が起こったのかわからなかった。
激しい痛みとともに手首が私から離れ、床に落ちた。
本棚に注意を向けていた、その刹那に。
「あああああ……っ!」
手を押さえながら、呻く。
激痛に、上体が床に吸い寄せられるように曲がる。
血に濡れて床に落ちている、私の手首から先。
鋭利なもので切断されたかのような切り口から、血に濡れた骨や筋繊維が確認できた。
左手で押さえている右手首のあたりから、とめどなく血が溢れている。
痛い。痛い。痛い。
うめいていると、後ろから、誰かに頭を掴まれたような感触がした。
「!」
私の体はびくりと反応して、動けなくなった。
細く固い指に、ものすごい力で後頭部を鷲掴みにされている感触がする。
ぶちぶちと、髪の抜ける音がする。
振り向こうとしても、恐怖で体が動かない。
心臓が早鐘を打つ。息が荒くなる。呼吸が、いまだかつてないほど苦しい。
誰もいないはずだ。ここには、私以外には。
入り口は一つしかない。入ってくればすぐにわかる。
誰も、いるはずがないのだ。
――さらに首筋に、冷たくて固いものが押し付けられた。
ぞわりとした恐怖が這い上がってきて、私は総毛立つ。
それは湾曲する、鋭利な草刈り鎌のような刃物に思えた。
「えっ、ちょっ、ちょっと待って……」
鋭利そうな刃は容赦なく、ためらいなく、私の首に食い込んでいく。
首にも熱い痛みが走る。
温かい血が胸元を流れる、きもちのわるい感覚。
涙が流れた。
それだけで私は、何もできない。
「なにこれ。嘘、いや、待って」
なにをするつもりなんだ。
後ろの誰かは、私に、なにをするつもりなんだ。
どうして、なんのために、私にこんなことを。
「やめて、やめて、やめ――」
なんで。
なんで私はこんなところに就職してしまったんだろう?
わずかな後悔のあとに勢い良く刃が滑って、声を上げる暇もなく、吹き出す赤い液体が涙と混ざって宙を舞うさなか――私の視界は真っ暗に染まった。