部屋を広くしようとしてるんだ
音がでかすぎるな、とは思っていたのだ。いくら深夜の三時で人の気配もないからって言っても、マンションの一室で真夜中に大ボリュームでスラッシュメタルなんて聞いていたら。そしてそれが他人の耳にも入ってしまっていたら。そらまずいよ、って話にもなる。ヘッドホンは壊れかけ。心なしか耳も痛い。ああこれ、もしかしたら漏れてるかも、という予感はあった。ただ、スラッシュメタルに夢中な自分は、その現実から目をそらしていただけだ。
でも、ちょっと待ってほしい。満員電車の中なり〇〇なりで、音漏れしたヘッドホンでスラッシュメタルを掻き鳴らしたというならまだしも、ここはマンションの一室で、僕の部屋だ。洗濯機を回しまくったというわけでもないし。僕が私生活のどこかで粗相をしたと言うならそれは謝るけれども、振り返ってみてもここ最近でそれほど何かをやらかしたりした記憶はない。そもそも、そうやって人様に迷惑かけたりしないよう、神経配りながら家の外で今日も一日頑張ってきたからこそ、そのガス抜きとして家の中では流行りもしていない獣性溢れる音楽にのめり込む羽目になっているのだ。
なのに、どうしてこんなにも壁をガリガリされないといけないのか。
ガリガリ・・・・・・。ガリガリ・・・・。
壁の向こうからこんな音が断続的に聞こえてくるのだ。何のつもりかは知らないが、部屋の向こうからこんな物騒な音が聞こえてくるものは聞こえてくるのだ。うるさい。とにかくうるさい。壊れかけのヘッドホンでスラッシュメタルを聞いていてもしっかりはっきり聞こえてくるわけだから、うるさいなんてもんじゃない。騒音だ。これはれっきとした騒音である。まったく、これが僕じゃなかったらとっくに騒音騒ぎだ。いますぐ部屋を飛び出して隣の部屋に押し入って文句言うところだ。
ああ、そうか。音で迷惑しているのは相手じゃなくて僕か。あまりの事態に冷静じゃなかった。だって、普通の人は真夜中にマンションの一室で壁をガリガリしたりはしないもの。ヘッドホン付きでスラッシュメタル聞いてるだけでも大学でちょっと浮くんだから間違いない。そもそも、いくら音がうるさいからって、隣の部屋から壁をガリガリして圧力かけてくるような奴に、礼節を説教されるいわれなんてないのだ。僕は大したことしてないのだ。大したことしてるのは間違いなく向こうだ。
とりあえず、僕はヘッドホンを外して首にかけ、壁に耳を近づけた。音はさっきよりも大きく聞こえてくる。壁を削っているとしか思えないような音だ。できればそうであってほしくはないのだけれど、時間がたつにつれて音は大きくなっているから、残念ながら間違いない。
壁の向こうから声が聞こえてきた。息遣いは激しく、マラソンしてる最中みたいだ。よし、とか、くそ、とか言ってるように聞こえる。どうやらこれは冗談じゃなくてマジみたいだ。あー、気のせいにできないかなこれ。気のせいにしたい。全部気のせいにしてスラッシュメタル聞きたい。
そう思った矢先、徐々に削れていく壁が「もう少しだ!」と叫んだ。まったく。もう少しだじゃないよ。このバカ野郎が。
「あのー」
たまりかねた僕は、弱々しい口調で壁の向こうに声をかけた。しかし、壁を削る音が大きくて聞こえないのか、返事もなければガリガリも止まらない。
「あのー!」
僕はさっきより大きな声を出した。ガリガリという音が止んだ。
「なんだよ?」
壁の向こうに居る人が返事をしてくれた。なんだか嬉しかったが、その声はどうしてかキレてた。明らかに、大事な仕事を邪魔されて憤慨してる声だ。まったく冗談じゃないよ、邪魔されてんのはこっちなんですけど。
「そこで何をされてるんですか?」
湧き上がる義憤を全部呑み込んで、僕は質問した。
「ああ? 見てわかんねえのかよ。削ってんだよ、この壁をよ」
見えねえんだよ。ここに壁があるから。いや、隣のこいつの部屋のことなんて全然興味ないけど、ありがたいことに壁があるから見えねえんだよ。
まあでも、とりあえず壁の向こうのこいつが冷静じゃないのだけはわかった。それだけはわかった。そうかそうか。ならとりあえず、事態が収束するまでは僕は冷静を貫こうじゃないか。そうでないと問題がまた面倒な方向に行く気がする。壁に穴が開く以上の面倒事なんて想像したくないから、とにかく僕はそのスタンスで行こうじゃないか。
「なるほどー」抑揚の無い声で僕は相槌を打つ。「一体どうして、そんなことをされてるんですかね?」
「広くしてんだ」
「・・・はい?」
「広くしようとしてんだ、部屋」
あー、なるほどね。部屋を広くするために部屋の壁削ってんのね。いや確かにねー、マンションと言うには狭いよね部屋。七畳くらいだったかな覚えてないけど。必要な家具置いたらすぐ場所なくなっちゃうし、かといってものおかないわけにもいかないからねー。そしたらねー、まあそうだよねー。壁削るしかないかー。そっかー・・・。
って、バカ!
「あとちょっとなんだ」壁の向こうのバカが言った。「あとちょっとで、俺の部屋広くなんだ」
「なるほどー・・・」僕は少し言いよどんだ。「でも、このままだと壁に穴開いちゃいません?」
「穴あ?」男が言い返した。「穴開いたら塞げばいいだろうが!」
何言ってんだ、こいつ。
「でも、穴塞いだら、また部屋が狭くなっちゃいますよー?」
僕は当たり前のことを言った。
「そしたらよ、また広げりゃいいだろうが」
「そしたら、また穴が開いちゃいますよ?」
「そしたら」男はイライラした声で言った。「また閉じればいいだろうが!」
何言ってんだこいつ。埒が明かないってこういうこと言うんだろうなきっと。いや違うか。そんな一般に知れ渡ってるような日本語は、こんな事態を想定して作られたりはしないはずだ。でも落ち着け。冷静でいるって、僕は誓ったじゃないか。
「うーん、でも、困るんですよ正直」僕は言った。「僕は、この壁を挟んだ隣部屋に住んでるから、壁に穴が開くと困っちゃうんですよね。部屋を広くしたい気持ちはわからないではないんですけど」
「そうかよ・・・」壁の向こうの男は少し言いよどんだ。「そしたらよ、壁に穴開けてよ、塞ぐときに俺の部屋ちょっと広くするからよ。それでいいだろ?」
「なるほどー」
よくねえよバカ野郎。
「名案だろ?」
壁の向こうの男はなぜか得意げだ。
「でもそしたら」僕の声が少しだけ尖った。「あなたの部屋は広くなるかもしれませんが、その分、僕の部屋は狭くなりますよね?」
「ああ?」壁の向こうの男は怪訝そうだ。「そうかよ?」
「そうですよ」僕は言った。「僕とあなたの部屋が隣同士で、壁を壊した後にあなたの部屋を僕の部屋の方に向けて拡張したら、拡張した分だけ僕の部屋が狭くなりますよね?」
一応、自分ではわかりやすく伝えたつもりだ。
「そしたらよ」男はまだ言い返す。「俺が部屋広げた後でよ、お前も反対側の部屋に穴開けてよ、縮んだ分だけ部屋広げりゃいいんじゃねえの?」
「でもそうすると、反対側の隣部屋が狭くなってしまいますよ?」
「そしたらよ、その部屋でもまた同じことすりゃいいんだよ」
「そしたら、その隣の部屋がまた狭くなりますよ?」
「そしたらまた同じことすりゃいいんだよ」
「隣の部屋がまた狭くなりますよ?」
「広くなるまでやりゃあいいんだよ!」
「そしたら、そのうち一番端の部屋まで行っちゃいますよ?」
「そしたらまた壁に穴開けりゃいいんだよ」
「でも、一番端だから、穴開けたらもう外出ちゃいますよ?」
「そしたらよ」壁の向こうの男はまたイラついてきた。「反対側の壁に穴開けりゃいいんだよ!」
そっかー、そうだよねえ。壁の向こうが外になってるなら、反対側の壁に穴開ければ部屋広がるよねー、いや広がらないけど別にー。散々壁ぶち壊しておいてまたもとに戻っただけだけどー、その調子で壁に穴開けてたら、むしろあなたの部屋が縮まるけどー。
あーもう、この単純な原理をどうやって説明しようかなこれ。この、はた迷惑のイカレポンチの、サイコパスで、頭悪い隣人に。
「そうですねえ」僕は一旦話題を逸らすことに決めた。「でも、そんなに壁に穴を開けてしまうと大変だし、工事に時間かかっちゃうと思うんですよ。だから、もう少し別のやり方を模索した方がいいんじゃないですかねえ?」
「時間がかかる?」壁の男が問い返した。「そうか?」
「そうですよー」
「そうかあ・・・」
しばらくの間、男は押し黙った。マジで押し黙った。眠ったのかと思ったほどだ。この状況下で寝てくれるのが、ありがたいのかありがたくないのかは正直難しい所だけど、結構な長時間押し黙ったのは事実だ。あんまり長いから眠くなってきてしまった。いまさらながら、今が真夜中だということを僕は思い出した。僕も眠い。
ところが。
「そしたらよお」男が息を吹き返した(ありがたくないことに、僕の眠気も吹き飛ぶ)「俺はこっちから壁削るからよ、お前、そっちから削るの手伝えや。二人でやったら早く終わるだろ。それなら大丈夫だろ」
「えっと・・・」なんていえばいいのかわからない。「その場合だと、僕の部屋を広くする時には、あなたもちゃんと手伝ってくれるんですかね?」
「もちろんよ」
「でもですねえ」流石に僕もイラついてきた。「僕は自分の部屋には満足してるんですよ。別に超一流ってわけじゃないけど、少なくとも広さに関しては不便してないわけです。だから正直、そんなに手間をかけてまで壁を拡張したりとか、したくないんですよね」
「そもそも、なんでそんなに部屋を広くしたいんですかね?」あんまし興味ないけど、一応尋ねてみた。「今の部屋がそんなに不便ですか?それとも、何か他に、どうしても部屋を広くしなきゃいけない理由があるんですか? 僕も同じ部屋に住んでいるはずですけど、正直、あなたの気持ちがよくわからないです」
「でもよ、もう少しなんだよ」男が口惜しそうに言う。「もう少しでよ、俺の部屋広くなんだよ」
どうでもいいよそんなこと。ていうか答えになってない。
「でも、そしたら僕の部屋は狭くなっちゃうんですよね」
「そしたらよ、広くするの手伝うからよ」
「でもそれを続けていたら、誰かの部屋は必ず狭くなっちゃうんですよ」
「・・・」
「結局、どんなに頑張ってみても、どこかで誰かが損をしてしまうんですよ。そんなやり方をしていたら。マンションのスペースは限られているから、多少不便したとしても、自分に与えられた分でなんとかしていかないといけないんですよ。マンションはあなた一人だけのものではなくて共同で使うものですから。
部屋の狭さに不便したり不満を抱いたりしているのって、あなただけじゃないと思うんです。誰しもがそれは感じながら毎日暮らしているわけですよ。だから、そういうことをもう少し考えてくれると、同じ建物の隣の部屋で暮らしている僕としては嬉しいなあなんて思うんですよ」
言った。言いたいことやっと言えた気分だ。いや本当は、言いたいことなんて言わなくて済む方が全然いいのだけど、とりあえず言えた。さっきまで家で音楽聞いてただけなのに、なんだっていきなりこんな良識的な話をしなきゃいけないのかがわからない。全然わからないけど、今は考えない。今はもうとにかく、この隣人が諦めてくれること。事態が一応に終息してくれること。それだけを切に願うばかりだ。
互いに譲りあうことの大切さを説いたら押し黙った辺り、壁の向こうの男にも少しは利他の精神というものが残っていたみたいな。さすが日本人だ、こんなわけわかんないやつでも、少しは他人中心で物事を考えるってことができるらしい。もう夜も遅いんだ(元々遅かったけど)、そろそろ諦めて、今日は一旦眠りについてほしい。僕だって一介の大学生なのだ。明日だって1限から4限までしっかりあるのだ。頼むから今日は一旦寝かせてほしい。
「でもよお」
でもよおじゃねえよ。眠いって言ってんだろうが。
「このままじゃよお。部屋狭いままなんだよ。どうすりゃいいんだよ」
「我慢してください」僕ははっきり言った。「皆狭いんです。我慢してください」
「俺の部屋だけよお、狭いんだよ」
「そんなことないです。皆狭いです。平等に狭いんですよ」
「そんなこと言ってよお、お前、俺の部屋見たことないだろうがよ」
「あなただって、僕の部屋見たことないでしょう」
「ないけどよお。でも狭いんだよお」
「皆同じ家賃で同じ部屋に住んでるんです。我慢してください」
「我慢できないんだよお」
「我慢してください」
「できないんだよお・・・」
「そしたらさあ」僕はキレた。「もう引っ越したらいいんじゃね?」
「引っ越す?」
男が問い返した。
「そうだよ」僕は言った。「引っ越しだよ、引っ越し。そんなにこの建物に不満があるならさあ、もうこのマンション住むの止めて、どこにでも引っ越しちゃえばいいじゃん。
出てきなよ。出てけよ。そんなに部屋に文句つけるなら、こんなとこ今すぐ出てけよ。お前が出てったって誰も止めないし、むしろせいせいするよ。マンションに住むのは初めてじゃないけど、お前みたいな非常識な隣人は初めてだよ」
「でもよお」壁の向こうで情けない声が返ってくる。「この物件、結構いい条件だったんだよお。駅近くて、コンビニもあるし、家賃もそんなに高くないしよお。外に出ても、こんな条件またとないんだよ」
いやいや、人様の家の壁を散々削っておいて、なんでそんなとこだけ常識的なんだ。いや、俺も同じ条件でこの部屋を選んでるから言いたいことはよくわかるけどさあ。
めんどくせえ。めんどくせえなこいつ。
「それによお」男は続ける。「その条件にしてはよお、この部屋は広いんだよなあ。この辺りの物件は住む前にあらかた探したんだけどよお、ここが一番いいんだよなあ」
「そうですよね」男が折れはじめて、僕はまた平静に戻った。「確かに、色んな条件面のバランスを考えると、ここは紛れもない優良物件ですよ」
「地味に広いですもんね?」
「そうなんだよお、地味に広いんだよ」
「ですよねー・・・」
そうだよ。広いんだよ。地味でもなんでも広いものは広いのだ。そうだ。
「広いんですよ!」思わず、僕は声を張り上げた。「長く住んでると忘れちゃうかもしれないけど、この部屋は広いんです。狭いように思えたとしても、この部屋は実は広いんですよ!
だから、文句言うの止めて、壁に穴開けるのも考え直しましょ?あなたが思ってるよりずっと、この部屋は広いんだから、それを大事にしましょうよ」
「そうだなあ」男は考え深げに言った。「でもそしたらよ、俺は引っ越さない方がいいのかな?」
いやそれは知らねえけど。好きにしてくれよって感じだけど。
「どうなんだろうな?」
男はもう一度訪ねてきた。
「わからないです」僕は言った。「僕としては、どちらを選ぶにしても、あなたが周りの人に迷惑をかけないようにしてくれれば、それでいいんです」
そこまで言うと、男は押し黙った。やがてごそごそと寝床につくような音が聞こえ、つられるように僕も布団に入った。少しの時間仮眠を取り、早朝から僕は大学に行った。家を離れた間に、男が壁に穴でもあけるのではないかと僕は懸念したが、幸い、家に帰っても壁は昨夜のままで変わりなかった。
数日後、壁の向こうからは人の気配が消えてしまった。どうやら男は、狭すぎるこの部屋から退去したらしく、長いこと向こう側から人の気配というものがなくなった。薄い壁は僕の私生活に何の不具合も与えなかったが、時折立ててしまう大き目の物音が、隣の部屋にまで聞こえてしまったらどうしようという、何の意味もない不安だけが僕の心の中には残されたのだった。