第四小武装化学校 〜 4th primary armed school 〜
ゾッとするのは、俺が生きてるって事。
タバコ屋の角を曲がると、ハイツ家垣野のコンクリート階段が見えてくる。その入り口は、積み上げられたバリケードで封鎖されていた。
全力で駆ける俺の右手には、紐で結ばれたハンマー。左手には大きめのエコ・バッグが握られている。
その中身は道向かいのコンビニで入手した缶ビール、ペットボトルの他、菓子類、そしてありとあらゆる種類の煙草とライターが入っていた。
先端を削って尖らせた右手のハンマーから滴り落ちるのは、赤黒く半ばゼリー状に固まりかけた血と肉。その持ち主はタバコ屋の角を曲がると、お仲間を連れて追いかけて来る。
いわゆるZOMBIE、ブードゥー教的なあれではなく、ロメロの作り出した方の例のアレだ。
噛み付くと感染する能力そのままに、日本中、そして世界中に広まったゾンビ・パンデミックは、俺の町内をも汚染した。
先頭にいるのは、近所の幼馴染だった広瀬香奈。在りし日の美少女は、今や半腐れのモンスターと化して、折れた左足を引きずりながら、俺を捕食しようと追いかけて来る。
少し前なら俺から飛び込みたかった胸は、血がこびり付き、腐り落ちた腕には蝿が飛び交っている。
全く世界は腐った沼の様に臭くなってしまった。俺の鼻は数日前から全く効かなくなっている。これは不幸中の幸いか?
走る俺は目の端にロープを捉える。避難はしごが屋上から垂れ下がっている所へ飛びつくと、エコ・バッグを肩にかけ、急いで登り始めた。
全身の力を振り絞ってしばらく登ると、下方に垂れ下がったロープを引き上げてそれも肩に掛ける。
追い掛けてきたゾンビ共も、それ以上は追いかけようが無く、上を見上げて恨めしそうにうめき声を上げた。
『香奈の胸、でかいなぁ。こんなに育ってたのか』
上から見るゾンビ香奈のはだけた胸元は、相当深い谷間を見せている。こんな事なら少し位揉んどけば良かった、それが命がけだろうと、そうまでして守る価値がこの先の生にあるとは、到底思えない。
だが、やっぱり痛いのは嫌だ。無駄に高い身体能力が、俺を生き延びさせる。
屋上に辿り着いたおれは、温いビールを開けると、一息にあおった。
〝ベ〜〜ッフ〟
盛大に上がるゲップが、燦々と照り付ける真夏の青空に拡散する。
早速拾得物の煙草に火を付けると、すごすごと日陰に向かって、地べたに腰を下ろした。
「あ〜あ、今日も生き延びちった」
血みどろのハンマーをぼろ切れで拭き取ると、ウエスト・ポーチに差した金属ヤスリで研ぎなおす。そのヤスリの根元も、尖らせて焼きを入れており、いざという時はゾンビを貫く、もしくは自分を貫ける様にしてあった。
目の端には七輪と練炭が置いてある。これは三階の鈴木さん宅から回収した戦利品で、一家心中したバスルームから引き揚げてきた物だ。
俺も何度か自殺を考えて、実行しようとしたが、何故か死に切れなかった。何故なら俺の心も体も強過ぎたからだ。
高校では陸上部に入り、棒高跳びの選手として活躍していた。そして勉強もそこそこ頑張ったから、志望大学もストレートで入り、後はどこに就職するか? は後に置いて、遊べる内に遊ぼうとした矢先の出来事……まあ今じゃ大学や就職どころの話じゃないが。
吸い込んだ煙を肺の隅々にまで巡らせてから、魂と一緒に吐き出す。鍛えた肺活量が長い煙を生み出す様を、俺は虚しい気持ちで眺めた。
『死にたい、けど怖い。けど生きる意味が無い』
人生で始めて感じる虚無感に目眩がする。無気力になるには体が疼く。だけど外は奴らでいっぱいだ。奴らに食われてジワジワ死ぬのだけは勘弁してもらいたい。死ぬなら一瞬、事故死なんてのが理想的だな。だが、ここ最近動いてる車なんて見たことが無い。
それどころか生き残りなんて、三日前に五階の遠藤さんが逃げて行くのを見送ったのが最後だった。
あ〜あ、本当に香奈の胸はおっきいな〜。
屋上からも伺える香奈の胸を見下ろしながら、自然と零れた涎が落ちると、香奈の隣で蠢くおっさんゾンビの顔にべチャリとかかった。
「かな〜! 胸揉ませろ〜!」
たまらず叫ぶ俺の声が街に響く。だがそれを聞くのはゾンビ共のみ。ガシャン、ガシャンとバリケードを打つ奴らの物音だけが跳ね返って来た。
*****
いつの間にか寝ていたらしい。久振りのビールが効いたか? 手すりに背もたれていた俺は、背中の痛みに目が覚めると暮れなずむ夕日を見ながら、気の抜けたビールを飲み干した。
〝ビーッ! ビッビーッ!〟
その時、それ程遠くない位置から車のクラクションが聞こえてくる。それはどこか古めかしい様な、普通ではない感じの音だった。
俺が慌てて周囲を見回すと、筋違いの道を中型トラックが爆走しているのが見えた。それはいわゆるデコトラと呼ばれる、加飾された車体で、薄暗い街並みに浮き上がって見える。
そいつは何故かふらつきながら、反対車線の並木道に激突すると、
〝ビーーーッ〟
というクラクションを上げ続けて止まった。それは丁度見え辛い角度で、俺が見物のために水タンクのハシゴを登ると、
〝パンッ、パンッ〟
と乾いた音が響いてくる。どうやら生存者が居るらしい、しかも鉄砲を持っている様だ。
俺は努めて目立たない様に、身を屈めて様子を伺っていると、悲鳴と共に、こちらに走って来る足音が聞こえてきた。
その足音が俺のいるアパートの筋に向かって来る。どうやら走って来るのは女性が一人らしい。まだ電気の通った街灯が、その影を長く伸ばす。その後からは、ゾンビ共の蠢く影が、壁の様に追い掛けて来た。
「きゃーっ、きゃーっ」
とヒステリーを起こしながら走り来る女は、見たところ無手である。こんな世の中で無防備な、と思いながら見ていると、アパートの角を曲がって、バリケードで固められた入り口に来た。
『しょうがないなぁ』
俺は助かるチャンスを与えようと、縄梯子を投げ降ろす。
「助かりたかったら、それ登りなよ」
上から声を掛けると、縄梯子に気付いた女が慌ててすがり付いた。
だが中々自重を引き上げる事ができない。よく見ると、結構なお年なのか、生え際には白い物が目立っていた。
「助けて〜」
なおもヒステリックに叫ぶ女は、もはや登るのを諦めたのか、こちらを見上げて懇願する。
『助けても何も、あんたが頑張らないと』
と思いながらも、
「引き上げますから、あなたも頑張って登って下さい!」
と声を掛けると、縄梯子を少しづつ引き上げた。通常ならば人一人を引き上げるなど困難だろうが、この避難梯子には滑車が取り付けられている。
それに全体重を掛けると、少しづつ引き上げる事が出来て、一段一段手すりに取り付けた物干し竿の端に引っ掛けると、何とか女を引き上げる事ができた。
「はぁ〜っ、はぁ〜っ、た、助かったわ」
四つん這いになって脱力する女の言葉に、
「もうちょっと頑張ってもらわないと」
と言うと、心外そうな顔で、
「だって、突然まさやんが発作を起こすんだもん。私だって怖くって。警官のなるちゃんも食べられちゃうし、本当に怖くってん」
と、最後はしなを作って一気にまくしたてられた。
「私たちこの先の第四小学校に戻る所だったんだけど、困ったわ〜。旦那が待ってるのに……あのトラックに積んだ食料がないと、皆飢えちゃう」
なんだか一言も喋らない間に、どんどん喋るなこの女。だんだんイライラして来たのを抑えて、
「第四小学校には生存者が沢山居るんですか?」
と聞くと、
「ええ、もう町内の皆が立てこもって頑張ってるわよ、そうだ! あなた私を小学校まで連れて行ってくれない? そうしたら仲間に入れてあげる。こんな所で、あなたひとりなの?」
周囲を伺った女が聞いてくる。それに、
「ええ、僕一人ですよ、初めは沢山居たんですが、今は僕一人です」
と言うが、聞いてるのかいないのか、女は俺のエコ・バッグを漁ると、
「わあ、私の好きなリンゴウォーターがあるわ。これ、のんでいいでしょ?」
と言って、返事も聞かずに蓋を開けて飲み出した。
「ああ、やるよ。末期の水になっ!」
〝ゴンッ〟
と鈍い音を立てて、女が倒れ伏す。手に持ったリンゴウォーターが飛沫を上げて転がった。倒れ伏すその頭からは鮮血が零れ出て、リンゴウォーターと交じり合っていく。
「もうこの避難所も食い尽くしたしな、ご町内の皆さんにも挨拶しに行かないと」
ペロリとハンマーに付いた血を舐めて呟くと、そこら辺に散らばる荷物を集め出した。ふと思い付いて倒れ伏すおばさんを仰向けさせると、その胸をガッと握って揉む。だが肉の流れた乳房は、何の性的満足感も与えない。
『だよな〜、やっぱり性欲は脳みそありきなんだよな〜』
と俺は一人納得して、
「かな〜! 胸揉ませろ〜」
と叫ぶと、縄梯子を降ろして、その場を後にした。
俺が第四小学校に着くのが先か、香奈が俺を食い殺すのが先か、そんな事はもうどうでも良い。出来る事ならば、自害用に警官の銃は手に入れたいなぁ、と思いながら、暮れなずむ町を走って行く。
『あ〜、つくづく思うんだけど、生きてるって本当にゾッとする。そう思わない?』