天界にて3
もう天界じゃないけどね
「こうちゃん、本当に大丈夫なのね?」
「大丈夫だよ、母さん。何もない、何もない」
「本当の、本当に大丈夫なのね?」
「だから、本当の本当に大丈夫だって。分かったら早く下に戻って」
部屋の入り口の前、光明は様子を見に来た母親を中に入れさせまいと必死だ。
「うーん、何か隠しているような……」
「そんなことないから。ほら、早く下に戻って、戻って」
「うーん、とにかくハルちゃんを頼んだわよ」
「分かってる、分かってる」
光明の母親は今来た階段を再び降りていく。とりあえずの安心感が光明の身体に満たされる。
母親に部屋の中を見られるわけにはいかない。
割れた窓、ベッドで横のままのハル、しかも天使の衣服のままで、しかもその腹部は……
光明は部屋の中へと戻る。当然鍵をかけた。しかし灯りはつけなかった。
「ハル……」
天窓から月明かりが入ってくる。淡い光りだ。それでもハルを照らすには十分だった。
おじいさまの力でなんとか塞がれた腹部の傷。しかし衣服の破れ方と傷跡が、与えられた一撃の重さを物語る。
「俺が……邪なる神アポロを……それでハルを……」 改めて感じる己の過ち。
透き通るような白い肌、白い衣服、白い羽、日本人離れした金髪の天使は今、傷を抱えて眠りについている。
「俺が……この傷を……」
光明はそっと手を伸ばす。月に照らされた傷跡を指先でなぞる。滑らかなはずの肌にできたおうとつが痛々しい。
天使、悪魔、天界、地界、獄界、神との対話、適性、……天邪鬼
光明からすれば全ての言葉が現実離れしていた。しかし傷ついたハルを見れば全てが現実だと認識させられる。
「俺が……ハルを……」
ハルの傷をなぞる。
己の力を思う。
傷をなぞる。
己の立場を思う。
傷をなぞる。
己の、
「こう……めぃ……?」
「……ハル!?」
思考の世界を抜け出して、視界を少し横にずらせばそこには目を覚ましたハルの顔があった。
「光明、ここは……って、きゃああぁ!? 何触ってんのよ!!」
「ぐげぇえ!?」
ハルの強力な蹴りが光明の脇腹にヒットする。ふらついた光明の手が壁についたスイッチを押して部屋は一気に明るくなった。
「ぐっ、いってぇ……」
「つー、傷がいたいーー」
「ハ、ハル大丈夫か? いきなり身体動かすから」
「光明が変なとこさするからでしょ! 傷で動けないいたいけな女の子を襲うなんてサイテー」
「なっ!? ばか、俺はただ、お前を心配して」
「ふーん。でも心配なんて要りませーん。この治り具合、おじいさまの力でしょ?」
「そ、そうだけど」
「なら大丈夫よ。光明みたいな無力あんぽんたんが心配しなくてもちゃんと完治してますぅ」
上体を起こしたハルが明るく元気に喋る。その様は負傷前のハルそのものだった。
「……よかった……」
「な、なによ、急に弱そうな顔になって」
「よかった……本当によかった……」
「ちょっとどうしたのよ。私のことがそんなに心配だったの?」
「だって、俺が……俺の力がハルを!」
光明の声が室内で反響する。駆られていた自責の念を吐き出したかのような叫び声。
「光明の力……か。あれ、邪なる神の力だったわよね……」
「ああ、……天界であの眼鏡の人……えっと」
「北村さん?」
「そう、その人に説明された。俺は邪なる神アポロを《降臨》させていた……って」
「天使が邪なる神をね……あっ、適性は? 調べたの?」
足をのばして壁に背を預けた楽な姿勢でハルは尋ねる。痛みはあるのかもしれないが、リラックスは出来ているハルの様子を見て光明は安心する。おじいさまの治療の力がいかに優れているのかをハルの状態が物語っていた。
「適性か……調べたよ」
「まさかアポロって出たの?」
「いや、天邪鬼って……」
「……何それ?」
「……やっぱり例外?」
「例外っていうか……どうしてそんな神でもなんでもないのが出てくるのよ。天邪鬼ってあれでしょ? わざと逆のことする人を指す言葉でしょ?」
「そうなのか……? ハルって見た目のわりに日本語詳しいんだな」
「はっ? 私はばりばりの日本育ちよ。たしかにこの髪とかは、まあ……、地界にいたときからよく誤解されていたけれど、ただのハーフなだけ」
ハルは指先で自身の金髪をくるくると巻きながら少し懐かしげに話す。
「そうそれだ、ハル」
「何が?」
「ハルは俺みたいにおじいさまの力で天使になったんだろ?」
光明の言葉にハルの動きが止まる。
「……なんで光明が知ってるのよ」
「さっき天界で聞いたんだ。おじいさまの力で天使になるのって普通の方法じゃないんだってな」
「ちょっと待って光明。天界でいったいどんな話をしたのかをまずは教えてよ」
「ああ、えっと…………」
光明はおじいさま、北村、つばきの三人との話をハルに伝える。
十一の天なる神、適性、対話、下位天使の天心開放、降臨、おじいさまの力…………ハルに確認をとりながら、光明は聞いたばかりの内容を繰り返す。
「なるほどね。たしかに最初は私も光明と同じように、おじいさまの力で天使になったよ」
「最初は、か」
「そ。でも実際のところはほとんど意味なし。地界に戻ったら悪魔にすぐに殺されちゃって……今度は普通の天使と同じようにアルテミスの間って場所に気がついたらいたの」
「アルテミスって北村さんのところか?」
光明の質問にハルは首を横に振る。
「違う、違う。北村さんはアテナの間の上位天使。アルテミスの間の上位天使はコルハさんっていう女性の人」
「わかんねぇ……」
「そのうち覚えれるよ。で、流れるようにすぐにアテナの間で適性を調べたらアポロンって出たからそれからはずっとアポロンの間に属しているの」
「え~~と、アルテミスの間で天界に入って、アテナの間で適性を調べるのが普通の天使のなり方なのか」
「そ。まあ私もそれなりの長さ天使やってるけれど他は聞いたことないね」
「それなりの長さって?」
「 八年、ん? いや、九年ね」
「えっ!? じゃあハルは子供のときに天使になったのか」
「違う、違う」
ハルは一瞬きょとんとした後すぐに否定する。
「天使は歳をとらないの。だからみんな地界で亡くなったときの姿のまま」
「そうなのか!?」
「うん。つばきさんなんて明治生まれだから同じ二十代後半で独身なのが許される今の子が……って、いけない、いけない。今、天界で聞かれているのかもしれないのよね」
「明治……」
「これぐらいで驚いてちゃだめよ。最長はおじいさまで、三百年以上前の人らしいんだから」
「………………」
「どうしたの光明? まあたしかに長いけれどそんなに、」
「違うんだ」
光明はかぶりを振ってハルの言葉を否定する。
「長さに驚いたわけじゃないんだ」
「じゃあ……」
「俺、もう歳をとれないのか……?」
「あ…………」
それは光明の極当たり前の素直な疑問であった。
「それって生き返ったって言えるのか……? 普通の人間と同じだって言えるのか!?」
「そ、それは……でも、光明は普通の天使とも違うわけだから歳をとれないと決まったわけじゃあ、」
「そもそもなんで俺が天使なんかになってんだ!? それで戦いにまで巻き込まれて…………だいたいお前が俺を刺さなければ……!」
事が落ち着き、顧みる己の流れ。失われた平凡。否応なしに迫る悪魔との戦闘。光明は声を荒げてハルと向き合う。だがそこにいるのは傷を抱えた一人の少女だ。
「…………わりい……」
「……いや、たしかに光明が正しいよ……いきなり天使になって、はいそうですかとはならないよね……巻き込んじゃってごめん……いつっ……」
「ハル!?」
「大丈夫よ……」
ハルは傷を気にしながらゆっくりと動いてベッドから降りる。そして部屋の扉に手をかける。
「……だから許して欲しいってわけじゃないけれど……」
ハルは振り返り、光明をまっすぐに見つめる。
「私からすれば、地界で家族と会えているだけでも光明が羨ましいよ」
「ハル……」
「じゃ、お姉さんのベッド借りるね」
「ああ……」
九年間、家族と会うことも出来なかった寂しい少女の背中とともに光明の部屋の扉は閉じられた。
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獄界アポロの地。イジエムの前に伊比が現れる。
「どうだった伊比よ、一人で戻ってきたということはまた低級悪魔を失ったようだが?」
「はい、そのことで報告したいのですが」
「なんだ?」
「相手の天使が我々の邪なる神、アポロを《降臨》させました」
伊比の言葉にイジエムの目が微かに開かれる。
「 ……本当かそれは?」
「はい。間違いありません」
「そうか……伊比、少し離れろ」
イジエムの命令に対して伊比は即座に反応する。同じことを考えていたからだろう。ならばイジエムの近くにいる訳にはいかなかった。
「力を渡せ! アポロ《降臨》」
恐ろしい爆風を辺りに発生させながらイジエムの邪心が高まっていく。高級悪魔の黒き羽はより大きくなり、その手には少し小さめの漆黒のハープが握られた。
「ふむ、とりあえず私の力が失われたわけではないようだな」
イジエムは満足げに己のハープを見つめる。そして目を閉じて精神を集中させる。
明かりのない暗い世界。イジエムは闇に向かって神の名を呼ぶ。
「アポロ、出てこい……アポロ!」
するとたちどころにいくつもの灯りがともり、人の何倍もの背丈を持つ神、アポロが現れる。その身体構造は人のそれと同じだが、額の紋章や身に着けている装束、何よりその圧倒的な威圧感はどれも人とは一線を画するものだ。
[あぁ!? イジエムか?]
どすの利いた声でアポロは上からイジエムを睨む。だがイジエムは怯まない。
「天使に力を与えたらしいな、一体何の真似だ」
[……ずいぶんと偉そうな口調だな。勝手におめえの力だと思いやがって]
「質問に答えろ。なぜ天使に力を与えたかと訊いている」
[……簡単なことさ、面白そうだったからだ]
「面白そうだと……」
[そうさ、無知な人間の天使が俺様に力を求めるんだぜ? 愉快極まりねぇ]
アポロは口角を上げて不敵に笑う。それだけで低い笑い声が地を這うように辺りに響く。
「人間の天使……どういう意味だ」
[おっ? まあ分からねえか。そう、人間の天使だ。常識はずれだろ? 面白いだろ? 何かが起こりそうだろ?]
「何かではない。アポロの地の低級悪魔がやられている。これはお前にとってもよくないことのはずだ」
[知るかよそんなザコ。俺様はより面白いほうに動くだけだ。だから七年前にイジエム、お前にも力を与えた]
あくまでもアポロは笑みを絶やさない。当然不敵な笑みだ。
「ふん、ではその人間の天使とやらに力は与え続けるのだな」
[ああ、奴が望めば、だがな]
「……勝手にしろ。私は私の計画を進めるだけだ」
イジエムは後ろを向いてアポロとの対話を終わらせる。同時に灯りは消え失せ、再びこの世界は闇へと戻った。
[それはそれで楽しみにしてるぜ、イジエム]
イジエムの黒き羽が縮む。同時に手に持ったハープも消えていく。
「イジエム様、どうでしたか」
「ふん、アポロが力を与えたのは人間の天使だそうだ」
「人間の天使……」
「別に問題はない。それより伊比よ、地界で何が起こったかを聞こう。そして……天界への入り口の場所が分かったかどうかも、な」