ディス・イズ・マイ・プルーフ
かなり前に息抜きに書き下ろしてみた短編小説です。実は友人からのリクエストで「幻想的な風景画」を過去に描きました。それで、気が向いたので、その風景画から受けたインスピレーションで作った物語がこれです。普通挿絵は物語ありきなものがほとんどですから、逆算で話を広げたこの物語は、実に面白い試みでした。よろしければ、読んでみて頂けたらなと思います。
私はこの人生に後悔など感じてはいない。
様々な場所に行き、空気に触れ、足を踏み入れ、素晴らしい景色を見た。
また、その数に比例して沢山の人達と出会い、語らい、そして笑ったのである。
はっきりと、胸を張って言える。この世のどんな人間よりも唯一無二の経験を、
誰もが理解する事ができないだろう視点で見据え、この世界で呼吸をしてきたと。
・・・・だが、もし、それでもこの世に後悔はないかと問われたら
私はこう答えよう。
後悔ではなく、「悔い」なら二つも作ってしまった。
一つは私の人生という旅の中で、ついに「神」とだけは会う事が叶わなかった事だ。
一体何が足りなかったのか、いつ終わるか分からないこの人生の中で、
その「答え」だけは分からなかった事が非常に残念だ。
神の歩くであろう道は、目の前に来ていたというのに。
---------------------------------冒険家 ヘンリー・アイゼンバーグ 著
「君へ贈る記録」より一部抜粋
**
どこからともなく、果実感を纏った甘い香りが漂っている。その香りに、おはよう、と
言われたかの様に鼻の先を軽く小突かれた気がした。ぼんやりとだが、朝が来たと彼女は
ようやく理解した。
2011年4月22日、キリスト教でいう聖金曜日である今日はエリシャ・アイゼンバーグに
とってまた別の意味でも特別な一日だった。胸まで掛かってた羽毛布団をずらして上半
身をベッドから離す。そのまま大きく伸びをし、一呼吸つくとカーテンを一気に開いた。
青空を期待してたのも虚しく、空は一面灰色の雲に覆われていて、エリシャは興ざめする
しかない。唇を尖らせて、眉間に皺を寄せた。
ふと視線を左に移すと、ベッド脇に本棚があり、その上には一枚の写真が入った写真立
てが目に入った。エリシャはさらに顔を歪ませ、溜息を吐く。
「もう、ママってば」
左足をベッドから下ろすとそのまま片足で立ち上がり、本棚上の写真立てを手前に伏せ
た。写真が見えなくなる。一仕事終えた、という感じにうなずくと、そのまま体重を後ろ
に預けて、どすん、とベッドに腰を下ろした。枕元にある丸みを帯びた赤い目覚まし時計
を見る。午前9時34分を指していた。
大人ってこんなものなのね、と思うと天井を仰いだ。
「何も変わらないじゃない」と蛍光灯を見て呟く。
甘い香りの正体をエリシャは分かっていた。寝起きで多少のふらつきを感じながら階段
をつたい下の階へ降りてゆく。一段、一段、と降りて行く度に、その香りは一層濃くなっ
ていった。
「おはよう、エリシャ。早いのね、今日位ゆっくり寝ていてもいいのよ」
ドアを開けた先のキッチンで、エプロンを身に纏った母・カレンが穏やかな笑顔をエリシ
ャに向けた。両腕の手首~二の腕位までが白い粉で覆われている。
「おはようママ!こんなに甘いお菓子の匂いがしたら、女の子として寝てられないわ。
ねぇ、今日は何の日でしょう?」
「今日は大事な復活祭の前の聖金曜日ね」
「ええ、そうね!そうだけど、それだけなの?」
「あら?他に何があったかしら」
「ひどい」
欲しい言葉をくれないカレンに、エリシャは頬を膨らませる。その仕草のあまりの幼さに
カレンは噴き出した。
「今日で20歳のレディがそんな顔したらいけないわね」カレンは片眼を閉じ、口元まで右
手を上げると人差し指をと左右に揺らす。ママは意地悪だ、と嘆き、エリシャは顔を洗い
に洗面台へ向かった。
エリシャと母親であるカレンは、カナダ・オンタリオ州のはずれにある住宅街で豊かな
生活とはいえないものの、力を合わせて二人で幸せに暮らしていた。
二人が住む木造二階建ての家の一階は、カレンが経営する洋菓子屋「SAY TRUE」になって
いる。今日、4月22日は記念すべきエリシャの20歳の誕生日で、さらに偶然にも今年の
聖金曜日と重なっていた。
聖金曜日は、復活祭直前の金曜日を指す。イエス・キリストが一度処刑で命を落とした
にも関わらず3日後に生き返った日、キリストが人々に「神」と認識された日を「復活祭
」と呼び、キリスト教徒たちはイエスの生き返った日、言い方を変えれば「神が誕生した
日」を祝福するのだ。
普段は大学に通いながら、商品の仕込み等カレンの仕事をエリシャは可能な限りで手伝
っていたが、「誕生日だしゆっくりしなさい」と今日はそれを免除されていた。朝から漂
っていた甘い香りは、エリシャの誕生日用の、カレンが準備していたタルトの材料だ。
カレンのタルトがエリシャの大好物だった。
「エリシャ、ジョシュ先生が来たから店内に顔を出して頂戴!」
洗った顔をタオルで拭いている時にキッチンから、カレンの声が聞こえたので慌ててカウ
ンターに向かうと、エリシャに気づいた栗色の髪の中年の男が、片手で被ってた帽子を外
し笑いかけた。
「おはよう、エリシャ。調子はどうだい?」
「おはようございます先生。曇ってるのが残念ですが、気分は良いですよ」
エリシャは首を傾げながら窓に目をやる。エリシャの視線に反応し、ジョシュと呼ばれた
その男も後ろを振り返り、窓の向こうに広がる空を眺めた。
「今にも泣き出しそうな空だ」ジョシュは肩をすくめ、持ってきた自分の傘を指差した。
エリシャの通う大学で、歴史や地理を専門で教える教授のジョシュは「SAY TRUE」の常
連だった。フランス人であるジョシュにとって、カナダ人のカレンの作るミルクレープは
本場のパティシエが作るそれに勝るとも劣らない程に格別らしく、週に1度は仕事終わり
等に一切れ買いに来た。
「頼んでた物は出来上がってるかな」
「もちろん、ちょっと待ってもらえますか」
ママ、用意はできてる?とキッチン入り口を覆うカーテンを覗きながらエリシャが尋ね
ると、白い箱に入った出来立てのミルクレープを持ってくるカレンの姿が現れた。
「お待たせしました、先生」カレンはミルクレープの入った箱を袋に入れてジョシュに手
渡す。
「おはようカレンさん。ありがとう。これが無いと新入生を迎えられなくて」
いつもは小さい箱に入る大きさの一人分一切れのタルトを買っていくジョシュだが、今
日は大学に行く前にホールで買った。毎年恒例だった。4月に入ってきた新入生でジョシ
ュの講義を熱心に受ける生徒達にティータイムを設けて購入したミルクレープを振舞うのだという。「糖分は脳の恋人だからね」と笑った。
「先生、今日は何の日か知ってますか?」
にっこり、満面の笑みのエリシャにジョシュも満面の笑みで返す。
「聖金曜日だね」
「みんな、そればっかり」
「はは、誕生日だね?20歳おめでとうエリシャ」
からかって申し訳ない、とジョシュは少し大げさに拍手しつつ笑う。
つい先程、母親とも同じやりとりをしたエリシャは、やはり頬を膨らませてしまう。隣の
カレンが、またこの子は、とでもいいたそうな目で見てくるので、すぐに顔を戻した。
「何かプレゼントを用意しておこう、好きな時間に大学へ来るといい」
左腕の時計を確認すると、存外時間が過ぎていたらしい。おっといけない、じゃあ良い
一日を、とだけ言い残し、顔だけエリシャの方を向きながら、ジョシュは足早に店を出て
行った。
カレンは、冷蔵庫にエリシャのお祝いの為に準備したタルト生地をひとまず入れた。
タルトは午後にでもデザートとして出すのでまだ焼かない。そのまま朝食の準備に取り掛
かる。「何か手伝う事は?」とエリシャが言うので「じゃあパンをトースターにセットし
て、テーブルも拭いて貰おうかな」とカレンも答えた。
ダイニングテーブルの上のトースターに食パンをセットすると、エリシャは濡れ布巾で
そのままテーブルを拭く。じゅうっとキッチンの方で何かを焼いてる音と共に卵と一緒に
肉肉しい匂いが漂う。ハムかベーコンだ。椅子に腰掛け、エリシャは窓に目を向けた。
何度見ても、ジョシュの言う「今にも泣き出しそうな空」の状態は変わる気配が無い。
奮発して、朝食のデザートにハーゲンダッツでもあげるから機嫌直してくれないかな、と
考えてみる。が、当然Mr.Skyは何も反応してくれなかった。そんなんじゃ女の子にモテな
いよ!とエリシャは窓に向かって舌を出す。
目の前に、カレンがグラスを置きミルクを注ぐと、次に焼き上がったらしいスクランブ
ルエッグと、ベーコン、ポテトサラダが盛り付けられた皿を置いた。自分用の皿も置く。
カレンの皿には目玉焼きとベーコン、ポテトサラダが盛られている。エリシャは目玉焼
きが苦手だ。少しして、トースターからパンが飛び出たのでそれをエリシャが皿に乗せ、
自分とカレンの前にそっと置いた。
「さ、お祈りをしましょう」カレンも、全ての用意を終えるとエリシャの対面側の椅子に
腰掛ける。カレン、エリシャ共右手中指を、額、胸、左肩、右肩へと振り十字を切った。
カレンに至っては「神よ、あなたの慈しみに感謝してこの食事を頂きます。ここに用意
された物を祝福し、私達の心と身体を支える糧として下さい」と実際に声に出した。
さらに十字を切る時に、カレンは「父と、子と、聖霊のみ名によって、アーメン」と神に
祈りを捧げ、合掌する。本来、カトリック協会では聖金曜日は断食する事を習慣としてい
るが、今年はエリシャの誕生日と被る為、アイゼンバーグ家では例外という形を取った。
食事中、ふと気づくとエリシャをカレンが寂しそうな目で見つめていた。「ママ?」
「あなたの20歳の誕生日、パパが生きてたらきっと喜んだろうなって思って」
「そうかな」意識してそっけなくトーストを齧りながらエリシャは言う。「パパが生きて
たとして、今日この部屋で3人揃って朝ごはん食べてるとは思えないけど」パンを歯で齧
ったまま、手のひらを見せる様に両腕を肩まで上げた。
エリシャの父親であり、カレンの夫であるヘンリー・アイゼンバーグは冒険家として、
世界各国を旅する男だった。1961年にフランスで生まれたヘンリーは、読書が趣味の勤勉
な人間で、将来は学者になるという夢を抱きながら生きていたが、様々な書物、文献に触
れていく内に「もっと大きく広大な世界をこの目で見たい」という気持ちが大きくなり、
夢を現実にする為25歳で大学をやめ、世界を股にかけるようになる。様々な土地、国を転
々とした。
後に、カナダでの旅の途中に出会ったカレンと28歳の時に結婚。翌々年30歳の時、1991
年4月にカレンとの間に一人の女の子を授かる。それがエリシャである。
冒険家という職業柄、ヘンリーはほとんど自宅にいる事は無かった。初めの内は最低一
ヶ月に一度は家に顔を出し、娘の成長を確かめにも来ていたが、旅がカナダから大きく離
れた場所になると、それも叶わなくなっていった。それ故にエリシャも父親に関しての記
憶はかなり曖昧だった。顔もおぼろげにしか覚えてない位だ。
顔を思い出す為のピースは、部屋の本棚の上にある写真立てに入った、まだ赤ん坊だっ
た自分と一緒に映った若かりし頃のヘンリーとの写真しか無かった。だから、エリシャは
殆ど顔を見たことも無く、電話で何度か話した位しか関わりを持てなかった父親、ヘンリ
ーに良い印象を抱いてはいなかった。嫌っていたと言う方が正しいかもしれない。
ヘンリーはその後、旅の途中で事故に遭い、1999年に38歳の若さでこの世を去る事にな
る。エリシャが8歳の時だった。
「あなたがパパを良く思っていない原因はママにもあると思ってるの。ママは、夢に向か
って真っ直ぐ進むパパをとても愛していたし、誇りに思っていたから。旅であった色々な
出来事を目をキラキラさせながら私に話してくれるパパをママは応援したかった、見守り
たかった。でも冒険家なんて仕事は、私は我慢できても子供の貴女には、ね。子が父親と
会えない事がどれだけ辛かった事か、想像できなかった。そういう人を愛してしまったマ
マにも責任があると、ずっと思ってたの。今日みたいなおめでたい日に言う話じゃないか
もしれないけど、謝らせて。ごめんね、エリシャ」
「そんな」エリシャはフォークとナイフを皿に置くと体を前のめりにし、嘆くカレンに訴
える。「ママは何も悪くなんか無いわ!今日、この瞬間までずっと一緒にいてくれてるじ
ゃない。毎年誕生日に私の為にタルトを焼いてくれて、おやすみのキスだって」目頭に熱
いものが込み上げて来るのを感じたエリシャは精一杯平静を保とうと努めるが、声はどん
どん震えていく。「人はどんな夢があっても、結婚して守るべき人が出来たり、子供が出
来た時点で自分の夢を一旦捨て家族の為だけに生きていくものだと私は思ってる。人生と
言う物語の”主人公”を自ら降りるの。パパはそれを放棄したんでしょ?パパをこんなに
愛してたママを、娘である私を放ってやりたいこと優先して。言えるものなら本人に言っ
てあげたいわ!あなたは」
そこまで言うと、エリシャは口をつぐんだ。目の前の母が、さっきの謝罪の時以上に、
悲しそうな顔で俯いているのにやっと気がついたからだ。
そして、黙って椅子から立ち上がる。「ママ」感情に任せて言い過ぎてしまったのかも
しれない、とエリシャは思い、そのままその場から離れるカレンを呼び止めようとするが
、ダイニングを出た後数分してカレンはすぐにまたダイニングに姿を現した。だが、変化
があった。手に何やら少し分厚い紙袋を持っているのが見えた。
「ママ、それは何?」エリシャは重い空気と沈黙に耐えられず、率直な疑問を口にする。
「パパから、20歳の誕生日にあなたに渡してくれと頼まれていたの」
「え」
目の前に差し出された紙袋にはここの住所と、ヘンリーの名前しか書かれておらず、エ
リシャは訝しげに恐る恐る紙袋を受け取ると、すでに封が開いてるのを確認して腕を突っ
込んだ。手ごたえを感じ中身を出すが、中身もブルーの包装紙で包まれており、さらにリ
ボンで留めてあった。触り心地から見ると本や冊子のような印象を受ける。心臓の鼓動が
早くなるのをエリシャは感じた。中身を知る事に対し、抵抗と恐れを覚えるが、それ以上
に中に何が入ってるのか、ヘンリーは自分に何を贈ったのか、興味が恐れを上回った。
包装紙を、上品さとは正反対の手つきで破いていく。
中身は、やはり本、だった。ノートだ。表紙には何やら記述がされてるが、普段英語で
会話するエリシャもカレンも、文字を読む事が出来なかった。多分、フランス語だろうな
とエリシャは思う。ヘンリーの母国語だったからだ。
簡単に中を確認する。中身も表紙と同じ言語で書かれており、何枚も写真が貼ってあっ
た。様々な景色や人物と映るヘンリーを確認できたが、それ以上にエリシャは写真に写る
、ある事柄に衝撃を受ける。
「ママ、ごめんちょっと外に出てきて良い?」
「ど、どうしたのエリシャ」カレンは、今まで見た事も無いエリシャの必死な表情に不安
を露わにする。
「このノートの内容を、私は知らなくちゃいけない気がするの」
そう言うと、エリシャは2階の自分の部屋へ駆け上がった。寝起きであまり纏まってい
るとは言えないブロンドの髪をゴムで一気にポニーテールに結び、パーカーとジーンズに
着替え、バッグにヘンリーからの本を入れると、帰ってきたらすぐ食べられるようにタル
ト焼いておいて、とだけカレンに伝え、家のドアを開ける。
そうだ、天気が悪いんだった、と空模様を目にして思い出し、玄関に戻って赤い傘を抜
き出す。そしてドアを飛び出し自転車にまたがった。
生暖かい風が、エリシャの体も気持ちも包んでいくようだった。
**
凄い勢いで図書館のドアを開け、目の前に汗だくの女性が大慌てで現れたものだから、
大学内の図書館がマラソン大会のゴール地点にでもなってるのかとジョシュは錯覚しそ
うになった。
図書館にいた人間全員が反射的に彼女の姿を目で追う。「良かった、ここで合ってた」
と、何とか声に出し、息を切らしながらその場で倒れこむ彼女に、「ゴールおめでとう
ございます!」と、拍手の一つも鳴らない事に一瞬ジョシュは違和感を覚えてしまう。
ジョシュはいつもより10分ほど遅れて大学へ着いて、食堂脇のドリップコーナーでコーヒ
ーを楽しんだ後、午後からの講義に備えて図書館で予習をしていた。
状況が飲み込めなかったが、とりあえず席を立ち自分の対面側の席の椅子に手をかけて
、女性に着席を勧める。「あ、ありがとうございます」差し出された椅子に、女性は藁に
もすがるような必死さで腰かけた。ジョシュはやっと顔を確認出来た。顔周りの髪を全部
後ろに束ねていて、いつもと雰囲気が違っていたせいで分からなかったが、確かに顔見知
りの生徒だと理解した。
「エリシャ?エリシャじゃないか」どうしたんだ、そんなに慌てて、と口から出そうにな
るが、一つ心当たりがあった。罰が悪そうに眉を下げてジョシュはエリシャに言う。「こ
んなに早く来るとは!実はまだプレゼントを用意してないんだ」
「そんな事はどうでもいいんです」エリシャは切実な表情で、首を横に振る。
「何だ、その話じゃないのか」それは良かった、とジョシュは胸を撫で下ろした。
もう一度、エリシャの顔を見る。汗が額から鼻筋近くまでつたい、白い肌が血管の膨張
により少し赤らんでいた。色素の薄い睫毛が頬に影を作っている。年頃の若い女性が化粧
も満足にしないで外に出るというのは、相当切羽詰った状況にいるのだろうか、とジョシ
ュは思った。
「大学着いて、でも先生がどこにいるか分からなくて、通りすがりの生徒に聞いたら、ジ
ョシュ先生なら図書館じゃないか、って」まだ少し息切れ気味に、エリシャは呟いた。
「それは大正解だった。プレゼントの話じゃないなら、一体どうしたんだい?今、講義の
予習をしていたんだが、講義は幸いにも午後からだから時間は空いてるよ。テキストに分
からない問題でもあったかな?」
ん?と、いつもと同じ様に穏やかに微笑むジョシュに安堵を感じると、エリシャは早速
本題に移るべくバッグから、紙袋を取り出した。
ジョシュは無言で受け取ると、エリシャの顔を伺う。小刻みに頷く彼女を見て、中をま
さぐると水色の表紙の分厚いノートが出てきた。
「これは?」
「父が私の20歳の誕生日に、って残していたらしいんです。母から渡されました」
「それは大事な物じゃないか」驚いて手に持ったノートからエリシャに視線を移す。「私
が中を見ても?」
「カナダ人の私と母じゃ、その表紙に書かれた文章さえ読めないんです。先生、分かりま
すか」
「これは、フランス語だね」表紙を指差すジョシュに、やはりか、とエリシャは思う。
「表紙の文章は『君へ贈る記録』と書いてある。君と言うのは、エリシャのことだろう」
「中に何が書いてあるのか、教えてもらえないでしょうか」
「もちろん、いいとも」
では拝見するよ、とエリシャに一言断ると、ジョシュはノートをめくる。
目が左右に激しく動き始めた。
時々、驚きの声や感嘆の言葉が漏れる。写真も見ているので、時々目はそれをじっと捉え
たまま動かなかった。しばらく、そんな時間が続いた。エリシャは落ち着かなかった。
手持ち無沙汰で、周囲を無意味に眺めたりする。
「確か、君は父親の事をあまり好いてはいなかったよね」ジョシュはノートを見つめたま
ま、エリシャに言う。
「仕事にばかり目を向けて、幼い頃に全然構ってくれなかった事が嫌だったんだろう。
自分の事なんかきっと気にもしていないって」
そう言うと、一旦ノートから目を離しジョシュはエリシャを見た。
「このノートは云わば君のお父さんの『冒険日記』のようだが、新しい場所に行く度に、
書かれてるのは君とカレンさんの名前ばかりだよ」ページを指で示し、そのまま文章に沿
ってなぞった。「『この景色をエリシャに見せたい』、『この花の匂いはエリシャのイメ
ージにピッタリだ、カレンもそう思うだろ?』などと。とにかく君たち家族に語りかける
様に書かれている」
エリシャは、その想定外の事実に驚きのあまり声が出せない。でも一つだけノートを見
た時「まさか」と思ったことがあった。ジョシュに会いに大学へ来た理由がそれだ。
日記の所々に説明と一緒に貼られている数々の写真。旅の途中で出会った人々と一緒に
映ってる物もあれば、景色だけの物、また景色と一緒に、笑って立っている写真など、見
たこと無いヘンリーの姿が沢山確認できたが、そのほとんどの写真のヘンリーの片手には
一枚の写真が掲げられていた。それは、エリシャの部屋の写真立てに入っていた、幼き日
のエリシャとヘンリーの写真だった。まるで、一緒に旅をする家族のように、顔の横に掲
げている。もしかしたらお守りのような役割もあったのかもしれない。その写真と共に笑
うヘンリーの顔は危険な冒険をしている最中とは思えないような、安心に満ちた表情だっ
た。そう、ヘンリーは、エリシャをカレンを、心の中に連れていた。
エリシャの目の前に深く暗い渦の様なものが現れ、それが体を飲むように感じた。昨日
までの無知だった自分を「最低だ」と心の中で罵った。私はなんて愚かだったのだろう。
嫌いだった父親。その父親と一緒に映る、これからの事を全く知る由も無い無垢な表情で
カメラを見つめる幼少の自分の写真。エリシャはなるべく見たくなくて、その写真が入っ
た写真立てを常に本棚の上で伏せていた。
時々、母親が既に眠ってしまったエリシャの部屋におやすみのキスをしに入る度、倒さ
れたそれを立てた状態に戻していった。その行動がとても嫌で、その度に幾度となく写真
立てを伏せる日々を過ごしていた。
父親はそれをこんなに大切に持ってくれていたと言うのに、だ。
「今にも、泣き出しそうなエリシャだ」
ははは、と優しく笑ってジョシュはエリシャの頭を軽く撫でた。
まずい、泣くものか、と口を固く閉じて感情を、押し殺す。それからも、ジョシュはエリ
シャの望みどおり、ノートに記されたヘンリーの冒険の記録を、テーブルに置いて写真を
指差して説明も交えながら読み上げていった。
始めのうちは意気揚々と語られていた冒険譚に、年月を増すごとに『君達は今どうして
るのだろう』、『色々な人に会うけど未だにカレンとエリシャに敵う美人を見た事が無い
んだ。エリシャは今まだ5歳だけどね』などと、残していった家族への気持ちをぽつりぽ
つり、と文章の間に挟むような弱い一面も書かれていた。
『男は一度決めた道は振り返れないから、進む。自分がしてきた経験をこの記録を通じて
エリシャが知ってくれたら、それだけで私が生きてきた事に意味が生まれる。いつか電話
で何度かエリシャと話した時、受話器の向こうで君は「パパ、わたしもつれてって」って
泣いたね。私は「ああ、きっと一緒に世界を見よう」と言うしかなかった。とても会いた
かった。けど、旅は経験してみてわかる。冒険と言うのは、字で書くように険しい事のが
あまりに多いんだ。楽しいだけの旅なんてただの観光さ。そうだろ?そんな危険な場所に
、私の選んだ決して容易ではない人生の大海原に、世界一大事なベイビーを連れて行くな
んて出来っこなかったんだよ。代わりにこうやって精一杯、世界の魅力を写真に、君の為
におさめてきたから楽しんで、感じて欲しい。私もきっと大人になったエリシャの隣で、
一緒にこれを眺めている事だろう』
ジョシュの読み上げる内容にただ黙って耳を傾けるエリシャは、物心がようやくついた
頃に電話でヘンリーと言葉を交わした事を思い出していた。近所の同い年の友人は、公園
で父親と砂場やブランコで遊んだり、三輪車で走ったりしていてそれをとても羨ましく思
ってた。だから電話で「わたしもいきたいの!」と感極まり泣いてしまった事があった。
それを聴いたヘンリーも「そうだな。エリシャも一緒に世界に行こうか」と約束をする。
でも、それは結局は守られなかった約束となり、幼いエリシャを悲しませる事となって
しまった。父の死を知った当時8歳のエリシャは、墓前で泣きながらこう呟いた。
「パパのうそつき」
そう言わないといけない父の気持ちを、まだ幼すぎた彼女は理解できないまま成長し、
今日20歳の誕生日を迎えたのだ。
ジョシュが読み上げる父親の言葉に、絵本を読み聞かされる子供のような面持ちで心を
浸らせてたエリシャだったが、流暢に話すジョシュの声がぴたりと止まった事に気づき、
首をかしげた。
「どうしたんですか」エリシャは、尋ねる。
「いや、最後に記されたこの記録だけ、他と違っていてね」
ジョシュが指したページを見てみると、確かに他と違っていた。文章は走り書きで、写
真も貼られていない。代わりに、何か景色を描いたと思われる鉛筆によるスケッチがあっ
た。とても絵が上手とは言えないスケッチだった。海のような、広い場所に宙に浮くよう
な長い足場。その上に太陽のような丸いものが描かれている。ように、なんとか見える。
「絵、ですね」スケッチをみて呟き、文章に目を落として尋ねた。「なんて書いてあるん
ですか」
「l'or arc-en-ciel」
「え」
「ロール・アルカンシエルさ。フランス語で”金色の虹”という意味だよ」
「金色の、虹」
「記された文章を読もうか。『”金色の虹”を私はついにこの目で確認する事ができた。
ずっと探していた、言うなれば私の中での最大の夢が眠るパンドラの箱である。なぜなら
、この金の虹は私の敬愛すべき父である、神と会う事ができると言われた幻の場所であり
景色だからだ。幾つかの条件が見事に結びつき、その虹が姿を現す時天の使いに導かれ、
神は虹を目の当たりにする私たち、即ち偉大なる神の生んだ「子」と対面を果たす事にな
る、と私は冒険の初期に出会った老人から聞いた。それ以来、ずっとずっと探して念願に
もその神の歩く道を見ることに成功したのに、結局私は神に会うことは出来なかったので
ある。条件は満たしていたと思っていた。一体何が足りなかったというのだろうか。』」
読み終わるとジョシュは、どういう事だ?とでも言う様な面持ちでエリシャと顔を見合
わせた。
「君の父親は、神に会おうとしていた、という見解で正しいのかな」苦笑気味にエリシャに意見を求める。
「金色の虹で、という事ですよね」エリシャもジョシュとほぼ同じ様に、その文章を受け取っていた。神だって?
「神、とは」
「イエス・キリストの事でしょうか」
考えれば、考えるほど冒険譚の中でいきなり出てきた「神」という現実味の無い単語に
二人の頭は混乱する。確かにキリストは処刑され、息絶えたと思われたその三日後、人々
の目の前で生き返って見せたと言われている。
でも、それは過去の言い伝えだ。
キリスト教信者でさえ、信じてはいるが、この世にはもうイエスは生きてはいないと誰だ
ってわかっていた。信者なら、崇拝をしてる主人に会ってみたいと考えるのは普通ではあ
るが、それを行動に移すというのはきっと傍から見たら狂気を感じざるを得ないだろう。
正気ではない人間の狂言だと、後ろ指を差されるに違いない。
考えてみた。イエス・キリスト。今日はエリシャの20歳の誕生日であり、聖金曜日だ。
そしてその2日後の日曜日、4月24日には復活祭が控えている。
----------------------------まさか。
「「復活祭!」」
極めて静粛な空間を保った大学内図書館に、ジョシュとエリシャの発した言葉が同時に
放たれた。周囲の数人が振り返ったのに気づき、二人ははっと口をつぐむ。まさか、ヘン
リーはそう言いたいのだろうか。
「20歳の誕生日に、このノートをパパは私に残した。パパは私に自分の夢を託したかったのかもしれない」
「金色の虹を見て欲しいと?」
「いいえ、神に会って欲しいって。その伝説が幻じゃないことを確かめて欲しいって」
一瞬、ジョシュは目を大きく見開き、きょとんとあっけに取られた表情になるが、その
ままとても申し訳なさそうに控えめに、エリシャに言った。
「エリシャ、残念だが虹は金色にはならないよ。なりえないんだ」テーブルに置かれたノ
ートに手をかけ、ページを少し戻す。「君の父親は事故で亡くなったそうだが、その体は
38歳にしては随分弱っていたと聞いている。ここだ。このページに『旅の途中でどうして
も食料が手に入らず、仕方なく木の側の地面に生えていた木の実やキノコ類を食べたが、
それからとてもだるくて参っている。今までで、一番今家族に会いたいと願う自分がいる
』と書かれているんだ」
「仰る意味が理解できません」
「君の父親は幻覚を見たんだ、と私は思う。食べてしまった食物の毒で」
「もし、幻覚なら会いたかったイエスときっとその時会えてると思いますけど」
「幻覚で、自分で見たいものをコントロールできる訳ではないよ」
二人の意見と意見は対立し、しばし沈黙がその場を覆った。何訳の分からない事を言っ
てるのだこの男は、とジョシュに敵意を感じてしまうエリシャだが、我に返り首を振る。
神に会おうとしていた、意識さえ正常に働いてなかった恐れのある父の言葉を鵜呑みにし
ている自分の方が、傍から見ればよほど気狂いじゃないかと自覚する。
しかし、もう湧き出た気持ちに後戻りは出来なかった。
「ごめんなさい、ジョシュ先生。変な事言ってるのは分かってます。でも、父の夢が叶う
日が近づいてるのなら娘の私は、それを果たしてあげたい。遅すぎたかもしれないけど、
やっと分かった父の愛に、応えなきゃ。じゃないときっと私は、後悔してもしきれない」
エリシャの目は、困惑に顔を歪めたジョシュを真っ直ぐに見つめる。俯き、右手で後頭
部をがしがしと掻くと負けたよ、とでもいうように短く溜息を吐いた。顔を上げ、エリシ
ャを見ると片眉を上げて、言う。
「復活祭までは、まだ時間があるね。この周辺で比較的虹が現れやすい場所を調べておこ
う。場所が分かったら、店の方に連絡を入れるから、当日その場所へ行ってみるといい。
だが、可能性は低いよ。これから私は予習の続きをするから、君はゆっくり誕生日を楽し
みなさい」
「本当ですか!ありがとうございます!」
全く若い子は勢いがあって羨ましいよ、と少し呆れ気味に笑うジョシュに、エリシャは
笑顔で握手を求めた。
「あ」エリシャは窓に目を向ける。今にも泣き出しそうだったMr.Skyは午前11時46分、つ
いに大号泣し始めた。窓に大粒の雨が打ち付けられる。ザー、っと音も伝わってきた。
空はとても暗く、相当な大雨だ。
「傘を持ってきて、正解だった」ジョシュは雨で濡れる窓を見ながら腕を組んだ。
「私の勝ち!女だって泣くの我慢できるの」
エリシャは胸を張った。Mr.Skyは悔しそうにも、開き直ってるようにも見えた。
それほど、激しい雨だった。
**
想像していた以上に、持ってきた傘が役に立たなくてエリシャは面を食らった。雨に濡
れて、ピタピタと生き物のように足に纏わりつくジーンズは、永久に体の一部となり離れ
ることは無いんじゃないか、と感じさせた。降り出した雨は、容赦なく街をもずぶ濡れに
し、エリシャが自宅に着く頃にはパーカーの裾から足のつま先までの水分含有率を5割は
増やした。人間の体の水分が70%を上回った歴史的瞬間ね、と現在の哀れで、情けない自
分の状況を見て、エリシャは自虐した。
家に着くと、カレンは「あらあら」と微笑みながらすぐにタオルをエリシャに渡した。
後ろに縛ったポニーテールの半分は雨水が染み込み、画家が絵の具を含ませすぎた筆の穂
先のようにも見える。髪全体をタオルで覆うと、軽く水気を切りドライヤーで乾かした。
「どうしよう、ママ」
「何かあったの?」
「誕生日だけど、特に何もすることが無いわ。外は雨で、外出する気にもならないし」
とても残念そうに嘆くエリシャに、うーん、と同調してカレンは顎を手で支えた。
「部屋でゆっくりしたら?例えば、読書とか。雨の降る音を聞きながら本を読むの、ママは好きよ」
雨の降る音は、人間の気持ちを安らかにする効果がある。少なくとも、屋内にいる人間
にとってはそうだ。今の今まで外で雨に打たれてきたばかりのエリシャは、その部分で引
っかかりを感じ、母の提案に素直に賛同できなかった。これは結局私の負けみたいなもの
だ、と思った。大自然には勝てない。
帰宅してさきほどまで張り詰めていた気持ちが緩んだからか、エリシャは少し心身共に
疲れを感じた。だから、少し横になろう、という考えになるのに時間は掛からなかった。
そうね、いろいろあったからね、とカレンも頷く。
「夕方位まで休むから、起きたらすぐにママのタルトが食べたいな」と言うと、カレンは
快く「Okay」と言った。
おやすみ、と伝えるとリビングを出て、階段を上がり2階の自室へ戻った。部屋に入っ
たエリシャの目にすぐ飛び込んできたのは、写真立てに飾られたあの写真だった。部屋を
見渡すと、大学に行く前に急いで脱ぎ捨てたパジャマが床に見当たらない。部屋を片付け
た際に、カレンが写真立てを直したらしかった。
数時間前までの自分は、この写真に嫌悪しか感じていなかったのだな、と思うと不思議
な気持ちになる。ベッドに倒れ込み、左に視線を向けると、カーテンが半開きになった窓
が見えた。通り雨に近い雨だったらしく外を自転車走ってきた時より、勢い自体は随分落
ち着いたように見える。もう少しだけ、大学の中で待っていればこんなに濡れずに帰って
これたかもしれないな、と思い切なくなった。
「虹。金の虹。ロール・アルカンシエル」
何も考えずに呟くと、エリシャは仰向けで寝た体勢のまま、左腕だけベッドの端から垂
らし床に置いた鞄からノートを取り出す。金の虹についての文章とスケッチが書かれたペ
ージを開き、顔の上に掲げてみる。ジョシュにも話したとおり、エリシャは普段の日常会
話を英語で話しているため、フランス語で書かれた文章は読む事ができない。唯一、見て
わかるのは写真の代わりに描かれた、スケッチだけだ。文章を書いたのとおそらく同じイ
ンクのボールペンで描かれているようだった。
スケッチ自体は平面的な構成で、さらに線もかなりぶれていて、所々インクが擦れてい
る。第三者から見ると状況がとても判断しづらい。
「小学生が描いた様な絵ね」噴き出しながらエリシャは自分の絵心を棚に上げて、言う。
下部に波打たれるように引かれた線は、見たとおり「水」を意味するものだろう。「海」
か「川」あたりを表したものだ。その上に沿う様に横方向に引かれた1インチ位の幅があ
る線。虹、のつもりなのだろうか。その割には多くの人間が虹を連想する時に思いつく、
半円形の曲線表現はされていない。線が揺れてはいる。
そのさらに上、ページやや左側に描かれた大きい丸。これは「太陽」だ。その周辺には
申し訳程度に、正直な感想をいえば、あまりに描きたいものを表現するのが思い通りに行
かず、半ば自棄になってペンを走らせたような印象の細長いだ円が数個。これは「雲」だ
とわかる。
なぜ、”金の虹”だけ、写真が一枚も無いのか。
エリシャはそれだけが腑に落ちなかった。他はほとんど最低1枚は写真を残してくれてい
るのに。考えるほどに、自分の推測に自信がなくなっていく気がした。
何故写真が無いか。
それは、ジョシュの言っていた通りにキノコの毒に侵されたヘンリーの見た幻覚であり、
作り出した妄想だからではないのか。
また、ヘンリーが金の虹を見たのが事実だったとして、そこで彼が神と会う為に必要だ
った「何か」、神と対面を果たす為に満たす必要があった「条件」とは何だったのだろう
か。答えの出ない疑問に、エリシャの意識は毒に侵されたヘンリーの様に、思考する意思
を奪われていった。
目の前に蒼く深い、透き通るような水面が見える。湖のようだ。さらに水面と同化しそ
うなくらいに澄んだ青空が頭の上を覆っていた。このような綺麗な景色を、創造したのが
全知全能の神と言うのなら、彼に作る事ができない感動なんて無いのではないかとエリシ
ャは思い、まぶたを薄めて深呼吸する。はっと思い、周囲を見渡した。虹、虹はないか、
と空を仰ぐがそれらしきものは見当たらない。しかし、ある事に気づいた。エリシャは地
面では無く水面に立っている。試しに右足で表面を蹴ってみた。表面がえぐれて水しぶき
が飛ぶ。前髪に水滴が絡んだ。そのまま二、三歩恐る恐る歩く。ぴしゃり、と風呂場の濡
れた床を踏んでる様な感触が足の裏に広がった。
自分は今湖の上を歩いてるのだ、と理解する。
神になったような気分だった。神ならきっと水面だって歩けるだろう。
突然、目の前が光に満たされて、エリシャは目を瞬間的に瞑った。薄目で光の放たれて
いる方を、なんとか見てみると、光の中から人の影が歩いてくるのが見えた。逆光で顔立
ちなどはわからない。エリシャに気づいたその人は右手をこちらに差し出すと、頷いた。
何故かエリシャはその人と逢いたい、と本能的に強く思い、一歩を踏み出す。その瞬間轟
音がけたたましく空間に響いて、エリシャは悲鳴を上げ体をのけぞらせた。青く澄んでい
た空は燃え盛るような赤みを帯びていき、雷を作り出し、湖は所々に渦を作り、波乱し始
める。この世はもう終わりだ!と、自然の感情が剥き出しになっているようにも感じる。
それは、地震などの天変地異が、一気に目の前に訪れたかのような光景だった。
逃げなくては。エリシャは二歩目を踏むと、そのまま足は水面を捉えずに水の中に落ち
、湖に体の自由を奪われた。息ができない。沈んでいく中で、差しのべてた右手を膝に置
き中腰で水面に立ったまま、こちらを覗き込む人が見える。私も会えずに終わるのか、そ
う思った瞬間、
「エリシャ!」
目の前に、心配そうに顔を歪ませるカレンがいた。視界は自分の部屋の天井を映し出す。
「私、寝ちゃってたか」今まで夢の中にいた事にようやく気づいて、顔を両手で覆った。「会えなかった」
「店に、ジョシュ先生からあなたに電話よ。何だか慌ててるみたい」
ジョシュの感情が移ったのか、カレンも若干慌てながら一階の方を指差して、エリシャを
急かしている。
「どういうこと?」
復活祭は、明後日じゃない。そう疑問に思いつつ、目覚まし時計を確認する。午後4時
47分を指している。さっきまで見ていた夢の内容を頭で反芻しながら、寝ぼけなまこでふ
らふらと階段を下りた。店のカウンターに設置されている電話機の前で、小さくあくびを
する。「保留」のボタンを押して、受話器の先にある世界に呼びかけた。
「どうしたんです?プレゼントなら、欲しい物考えておくので」エリシャはけらけら笑いながら、言った。
「そんな事はどうでもいいんだよ、エリシャ」
ジョシュは確かに慌てていた。ただ事ではないらしい、と一瞬で悟り、同時に眠気は飛
んでいった。
**
空は、数時間前とはうって変わってすっかり雨は止んでおり、雲に覆われてかなり暗か
った表情は若干の雲を残しながらも夕焼けに半分は染まり始め、青から赤のグラデーショ
ンを自然に演出していた。頬は風を切り、結んだ髪は風と重力の影響を受け、予測不能な
動きで激しく踊る。
エリシャは自転車で街を疾走している。前衛姿勢で思いきりペダルを漕ぐ度に、腕の力
が入ってハンドルが左右に揺さぶられる。自転車の前かごに入った白い箱の入った紙袋が
自転車の動きに少し遅れて激しく上下し、その度に冷や汗が流れる。背中のリュックサッ
クも上下に暴れた。でも速度は下げられない。はぁはぁと息が切れる。呼吸をする時間さ
え惜しいほどに、とにかくペダルを漕いでいる。
時間があまり無い、らしい。ジョシュの言葉が脳裏に思い返される。
「急いで外に出掛けられる様に支度をしたほうがいい。さっき、今週の天気をたまたま確
認した、復活祭の4月24日は降水確率20%のほぼ”雨が降らない晴れた日”だそうだよ。
これがどういうことだか分かるかい? 復活祭の日に金の虹を見ることはできない!」
捲くし立てるジョシュに、エリシャは寝起きのぼうっとした頭で口を挟む。
「待ってください、でも今日は今も雨が降ってますよ!」
「君は今まで寝ていたんだったね、空を見てみるといい。もう、既に雨は止んでる」
嘘、と思いエリシャは店の窓に目をやる。空は雲の量を減らし、機嫌を直しつつあった
。店前に広がった水たまりは全く波を打っていない。
「図書館で私は君に『金色の虹はありえない』と話した。だがそれ以上に、雨が全く降ら
ない日に虹が出る事の方がもっとあり得ない!虹は空気中に漂う水滴に、太陽の光が反射
、屈折して七色の彩りを放って見える現象なんだから」
「でも、復活祭の日だからこそ”金の虹”を介して神は戻ってくるんじゃないんですか?
天の使いに付き添われて、文字通りイエスは復活するんでしょう?」
「神だけに復活祭の日に奇跡が起きる、か。今回に限っては奇跡を起こすのは人間だよ。
神は人間の起こした奇跡にあやかるに過ぎないんだ。君がしなくてはいけない事は、奇跡
の起こる確率を1%でも多く上げる事。奇跡が起こる為の『条件』を可能な限り満たした
状況に身を置く事だ」
条件、と聞いてエリシャは息を飲んだ。ヘンリーが金の虹に遭遇しても、何かが足りな
かったから神と会うことが出来なかったと言っていたではないか。その満たされなかった
「条件」の正体を当然のことながらエリシャは未だ突きとめては、いない。
「で、でも」もし今、金の虹に遭遇できたとしても、父の二の舞になる事を避けられない
のではないかと感じた。
「私復活祭の日だって高をくくってて。最後の条件をまだわかってない」エリシャは半泣
きになる。父の夢を、叶えられるかもしれない状況で、自分の力不足と無知さを悔やむ。
「条件か」ジョシュは少し考え事をしているような感じに言い淀んだ。「もしかしたら、だが」
自転車は全力疾走を続けている。砂利や雑草が生い茂る荒れた道を、エリシャの力技で
大きな振動を受けながらも進んでいった。山道に入る。一瞬だけ視線を左腕手首に移す。
腕時計のデジタルはPM06:24を表示している。空はもうかなり夕焼けの影響で赤く染まっ
ていた。あと数十分もすれば日没だろう。体中から汗が噴出してる。その汗が風に当たり
体は思いのほか涼しかった。山道の通りを、緩やかな坂に逆らいながら上っていく。
「場所なんだけどね」ええと、と受話器から聞こえるジョシュの声が遠ざかる。なにか
書物をめくる音がして、数十秒の間が開いた。「地理学者の間では知る人ぞ知る泉がある
んだ。しかも、君の家からそう遠くない場所にある。急げば40分位で自転車でいけるよ」
「泉」
エリシャは「SAY TRUE」周辺の場所を思いつく限り脳裏に浮かべる。生まれてから、今
までの20年間の間、ほとんど家にいなかった父親の代わりに、母親のカレンには色々と連
れて行ってもらったが「泉」に該当するような場所に行った記憶は無かった。カナダで有
名な水場といえば
「ナイアガラの滝しか思い浮かばないです。でもとても自転車で行ける距離じゃない」
カナダ有数の観光スポットである、ナイアガラフォールズ=ナイアガラの滝。カナダ滝、
アメリカ滝、ブライダルベール滝の三つの滝で構成される滝で、カナダのオンタリオ州と
アメリカのニューヨーク州とを分ける国境になっている。滝の幅が広く、流れる水の量は
北米で最も多く規模が大きい。そのスケールの大きさから言えば、ナイアガラの滝こそ神
の歩く道を形成するに相応しい場所であるようにエリシャは思った。しかし、ジョシュは
受話器の向こうで、惜しい、と呟く。
「半分、正解と言ってもいい位だけど、違う。常に水が大量に流れている場所なら、き
っと君の父親は、その場所を探すのにそこまで苦労はしてないだろう。地理学者が密かに
『ナイアガラの隠し子』と呼んでいる泉があるらしいんだ。でも、その場所に普段、水は
存在しない」
「え?」エリシャは意味を理解できない。「水が無い場所に虹はできないし、そこを泉と
は呼ばないんじゃ」
そうだね、とジョシュも答える。
「君の店から自転車で数十分した所に山への入り口がある。そこは普段登山家にはお決ま
りのコースで、人間が踏むことで草が倒れ、自然と道ができたと言われるが途中道なりに
進んだ進行方向右側に2メートル間隔でジグザグに置かれたボーリングの玉位の大きさの
岩石があるんだ。そこは道として機能してないから岩は草に茂られて見えないし、神経を
使って探さないといけない。その先に普段は大きく窪んだ土地と、それに繋がるような大
きな柱がある広場のような場所が存在する。激しい雨が降った直後に水が溜まって、短い
間だけそこは滝を持つ泉となるんだ。遭難した登山者が運よく見つけたと云われる、命の
オアシスだよ。多分君の父親は、この場所がカナダにある事を旅の中で突き止めたんだ。
だから、カナダを拠点に世界を旅することを選んだ。 主に金の虹を探すために、金の虹
を探しながらも違う世界を旅できるように。そして、カレンさんと恋に落ちたんだね」
山道の入り口を見つけると、エリシャは急いで自転車を降りて鍵を閉めた。
どこにあるのだろう、と山道の進行方向右側を入念に中腰で草を掻き分けていく。
本当にあるのだろうか、と延々おい茂る草や小枝に腕や頬を引っ掛けられながら、思う。
そして、父親も生前は毎日こういった地道で先が見えない作業の繰り返しだったのだろ
うかと、着ているパーカーの右の袖で額の汗を拭い、思いをめぐらせた。彼はきっと、こ
の落としたコンタクトを見つけ出すような、数cmのズレが命取りのような作業の終着点に
壮大な夢を追い求めていたのだ。
冒険とは、ロマンに恋をした人間が恋人を見つけ続ける旅をするようなもので、冒険家
とは、人生と言う名の分厚い辞書の中身を、全て意味の異なった「発見」という単語で埋
め尽くそうとした人間の事をさすのだろう。エリシャは自分に心底絶望する。冒険家の娘
は冒険家ではない、という現実を、自分の行動のちぐはぐさと効率の悪さから痛感した。
自分は、本を読んで追体験できる「綺麗なロマン」は好きだけれど、危険な行動が伴う、
そのロマンに行き着くまでの「過程」を楽しむには向いてないんだ、と思った。
中腰の体勢をやめ、腰に手を当てて背筋を伸ばす。左右に体をひねると骨の軋む音が聞
こえる。放置していた自分の自転車がある方へ、引き返そうと一歩踏み出した。
「うわ」
踏み出した右足が何かに引っかかり、エリシャはバランスを崩してその場で体重を重力
のままに預けた。周りの小枝に支えられて地面に尻餅をつくことは無かったが、バランス
を保とうと大げさな動きで太股付近まで伸びた小枝を少し左足でえぐり、結果その部分の
地面が少し露わになった。
エリシャは目を疑い、大きく見開いた。自分が右足で小突いたものは、コケが生えて全
体的に緑色に覆われてはいるが間違いなく岩だった。ボーリングの玉より少し大きい、フ
ィットネスなどで使われるバランスボール大の大きさの岩だ。
ざっと、周囲を見渡した。----------ある。この周辺にこれと同じ位の岩が転がってい
るはずだ。目標は見えないけど、近い。
何かのスイッチが入ったような俊敏な動きで周囲の物を掻き分けて、エリシャは進む。
ひとつめの岩を見つけた方法で、移動を試みると1.5メートルから2メートルの感覚で、
確かに岩石は地面に転がっていた。道なりに、進むべき方向を指し示すようにジグザグに
並べられてるように感じた。
岩石の案内を経て辿り着いたのは、土で覆われた薄暗いトンネルだった。
大人が横に並んで5人位の幅の小さなトンネルで、もとから空には明るさがほとんど消え
てるので、トンネル入口から中を伺うと真っ暗だったが一番奥は外に繋がってるらしく、
赤い光は確認できた。
エリシャは背負っていたリュックから懐中電灯を取り出すとスイッチを入れてトンネル
の中へと進んだ。入り口付近はまだ外の日の影響で土の色が分かる程度に照らされてはい
たものの、奥に行くごとに光はトンネルに届かなくなり、エリシャを完全なる暗闇が支配
する。恐怖は感じた。でも今のエリシャがやるべきことは、暗闇の先に辛うじて見える赤
い光に全ての希望をゆだねて、ただ前へ進む事だけだ。
光は近づく。あまりに周囲が暗闇で頭も朦朧とし、もはや自分が光に向かって歩いてる
のか、もしくは光が自分めがけて近づいてくるのか、わからなくなってくる。空気が薄か
ったせいかもしれない。
トンネルの出口が目の前に来た。意識をしっかりしなければと、下唇を噛む。そのまま
トンネルを抜けた。
出口の足場はそう広くなく、地面は足場から約10フィート程度下に見える。
景色が目の前一杯に、広がった。夕焼けで真っ赤に染まった空が開け、奥に街が見える。
手前には周辺を青々とした木々に守られ、佇む堂々とした小さな山のような風格を持ちな
がらも、大量の水をゆっくりと、下へ余裕を持って送り続ける太い柱。柱に繋がった地面
に流れ、下に打ち付けられた水は、小さめの体育館位の大きさを持つ秘密の水辺を感じさ
せるような浅い泉の一部となる。静粛に広がっていた。
エリシャは言葉を失う。
そう、そこに虹は、あった。
日没直前で最後の力を振り絞るかのように、紅の空の中で、黄金色に輝く夕日に照らさ
れた本来は七色であるはずの虹は、確かに金色に染められていたのだ。
優しくだ円を描く、まばゆい光の帯が「いつでも準備は出来ている」、と腕を広げるよう
に、柱及び、泉を包んでいた。神がもっと広い視点でこの状況を眺めていたとしたら、生
命の泉が「あの世とこの世を行き来できる門」を開けている様にも見える光景だった。
------------------さぁ、降りてきて良いのですよ。
現実には起こりえない光景を、しかし実際に見ているという現実にエリシャは何も考え
られずにいた。これを神の奇跡と言わずして、何を奇跡と言うのだろう、と唾を飲む。
「こんな事、人間にできる訳ないよ、先生」
背負っていたリュックサックを肩から下ろすと地面に置き、中から一眼レフカメラを取
り出した。父親が出来なかった事を、私がやるんだ、と、足場ギリギリまで身を乗り出し
何枚もシャッターを切る。
ファインダーを覗きシャッターを切ると、カメラから顔を離し、直に目で見る。エリシ
ャはこれを何度も繰り返した。それほどに金色の虹、ロール・アルカンシエルの美しさは
、まさに未知の領域だった。
そして最後の仕上げ、だ。リュックサックの中を再度覗いて腕を突っ込む。自転車の前
かごに入れて持ってきた白い箱を取り出した。とにかく自転車でも揺れたし、型崩れが起
きていないか不安だったエリシャは箱を開けると恐る恐る中身を確認した。少し欠けた部
分はあったものの、さほど問題は無いように見えてエリシャは溜息をつく。
まだわずかに温もりを保った”それ”が入った箱を両腕を精一杯伸ばし、掲げた。
「もしかしたらだが、気に掛かった事があるんだ」
ヘンリーが神に会う為に満たせなかった「条件」を結局見つけられておらず半泣きになっ
たエリシャに、ジョシュは自信がなさそうに言った。
「日本の文化の一つに『ウラボンエ』、通称『オボン』と言われる行事がある」
「オボン?」
「ああ。あの世に旅立った故人が里帰りする風習だよ。現代日本では、夏にその期間が設
けられていてその期間亡くなったご先祖様がこの世に戻ってこられる。日本では各家庭で
、故人を迎える時に『ムカエ火』という焚き火を玄関先で起こすらしい。さらに家で『セ
ンコウ』という亡くなった霊達が好む香りを供えるそうだ。その香りに導かれ、霊達は家
に還って来る。もし、君の父親が言っていた『神』という概念が、実は生きた人間が心の
中にそれぞれ持つ”会いたい故人”だったとしたら、どうだろう。ヘンリーがイエスと会
う事が叶わなかったのは、彼の好きな香りを用意できてなかったからだとしたら」そう早
口で言うと、ジョシュは咳払いした。「分かってるんだよ、エリシャ。この日本の風習は
仏教のもので、君達の信教するものはキリスト教のカトリック。きっと他人が聞いたら、
私は笑いものにされるだけだろう。何が歴史専門の教授だと馬鹿にされるかもしれない。
でも、私は思うよ。故人に会いたいという気持ちに、そんなこと関係あるのかな。故人か
らしたら宗教の違いなんて関係あるのだろうかって」
ふと、エリシャは小学校高学年の時の母親とのやり取りを思い出した。
学校の宿題で、親の仕事を調べてレポートを書いてくる様に言われたエリシャは、先生に
貰ったプリントの内容通りにカレンに質問をした。
「『なぜママはおかしやさんをはじめようとおもったの?』」
カレンは、その質問を聞くと目を閉じ何かを思い出すように空を仰いだ。エリシャの肩に
手を置いた。
「お菓子を食べると人は幸せになるでしょ」と言うと、舌を出して笑う。「でもそうね、
それもあるんだけど、結婚する時にパパに言われたのよ」
「パパに?なにを?」エリシャは、質問をした。これはプリントには書かれていない。
「『僕は君の作るタルトが大好きでね、旅の時はそれが食べられないのが本当に辛いんだ
。だから、君は僕が居ない間、この地で洋菓子屋をやってみないか?なに、君の腕ならき
っとすぐに常連がつくよ!僕がいつ帰ってきてもすぐに君のタルトを味わえる様に、僕の
帰りをタルトを焼いて待っていて欲しい』」
当時を思い出してるのだろうか、カレンの目はじんわり涙で滲んでいる。硝子のように
透き通って見えた。
「エリシャもタルト大好きでしょ。そこパパとそっくりね」
天から伸びている金の虹は、堂々と滝の周りを囲んでいる。ただ、残された時間はもう
僅かだった。あと数分で、日没が訪れる。夕日は消えこの虹も消えると予想は付いた。
エリシャは、心の中で「届け、届け」と繰り返していた。繰り返しながら焼きたてのタ
ルト一切れが入った箱を空に掲げる。空気中にタルトの甘い香りが漂っていく。「届いて
、香りよ。天高く届け!」
滝となって流れていく大量の水の音に流される様に、目に見えないそれは空間に広がる。
夢で見た人の影が虹の先に居たように、エリシャには見えた。
左手で箱を掲げたまま右手で目をこすった。エリシャは心の奥底に眠っていた気持ちを思
い知った。我慢する時間の余裕も無く、目から頬を伝い顎を離れて落ち行く涙を、もう自
分の気持ちだけでは止められなかった。あふれ出る感情の洪水を、もう誤魔化すのは無理
だと悟った。
「私は、こんなにも、パパに」
金の虹をゆっくり移動してくるその夢の中の人は、見た夢とは違って顔をはっきりと確
認できた。写真に自分と写っていた人物と間違いなく同一人物だ。冒険でなかなか切る機
会が無かったのか、肩まで伸びた金の髪に、白い肌が虹に反射して眩しい。足はやはり無
いのだろうか。金の虹があまりに明るく照らすものだから足首から先は見えない。溢れ出
る涙も、それを見ることを邪魔していた。
神に会う為の最後の条件。それは「香り」だったのだ。
ジョシュの想定通りだった。タルトの「香り」に導かれ、彼は金の虹を経てこの世界に帰
ってきたのだ。日本のお盆とやらの行いを参考にしたのが正しかったのかどうかはわから
ない。しかし彼は姿を現した。それは事実だった。
エリシャは、たまらず大手を振った。ヘンリーは近づいてくる。虹からエリシャに一番
近い所で立ち止まり、やぁ、と微笑んだ。気がした。
「ねぇ、パパ。ごめんねパパ。今までごめんなさい」エリシャは号泣した。「すごく逢いたかった」
姿は見えるものの、エリシャのいるトンネルの足場と、虹は近い訳ではない。ヘンリー
はエリシャの頭を撫でるような仕草をしている。泣かないで、と言っているようだ。
そして、時は来た。夕日は残酷にも地平線へと姿を消し始め、虹も手前から徐々に姿を
失くしていく。空も、赤から紫へとめくるめく表情を変えていく。ヘンリーはそれに気づ
いて、エリシャに手を振った。
えっ、とエリシャも状況を掴んだ。そんな、と首を横に振る。
そんなの、嫌だよ、パパ。もっと私と一緒に居てよ。やっと、やっと会えたのに。
「20年生きてきて私初めてパパに言うわ。パパ、愛してる!」
エリシャの叫びが伝わったのか、ヘンリーは写真と同じ不安の一つ無い子供のような笑
顔を見せて口を動かした。
「ベイビーはヴィーナスになっていたんだね」娘の成長を確かめられたからか、悔いはな
いといった面持ちで後ろを向く。「良かった。神は無理でも、女神には会えた」
彼がエリシャに背を向け、消えかかった虹を歩いて空へ上っていく姿は、まさに本物の
神のように見えた。そして、奇跡は姿を消していった。
**
2011年4月23日土曜日。翌日に復活祭を控えたこの日はジョシュが話していた様に、雲
はちらほら見えるものの雨が降る予感など一切感じさせない程の青空に迎えられていた。
エリシャは午後12時を過ぎても、1階に降りては来なかった。
日没を過ぎ、虹も無くなり周辺が真っ暗になった泉を、大急ぎで離れたエリシャは服や
持ち物を泥だらけにして昨日の晩の午後21時過ぎに自宅へ帰った。そんなエリシャの姿を
見て「どこに行って来たの?」とカレンが目を丸くしていた。エリシャは「夢を見てた」
と一言言うと、そのままシャワーを浴びる。
その後夕食も摂らずに「私急いでしなければいけない事があるの」とだけ、カレンに伝
えて部屋に閉じ篭った。結局エリシャが、再びカレンの前に現れたのは翌日の午後7時を
回ったところだった。夕食時に、ようやくリビングに顔を出した。シャワーを浴びてから
部屋に篭ったはずのエリシャの顔が、今度は茶色や赤、黄色などの鮮やかな色で汚れてい
たものだから、カレンは思わず「何をしていたの?」と再び驚いて、質問してしまった。
エリシャは2階を指差すと、晴れ晴れとした顔で言った。「ママお腹すいたわ!」
今日の夕食時の食卓及びアイゼンバーグ家の様子は、普段とは少しだけ異なる部分があ
った。夕食が並べられたテーブルの上には、父親の写真が立てられており、リビングには
夕食前にエリシャが壁に掛けた額が飾られている。
「お祈りをしましょう」エリシャの対面側の椅子に腰掛けているカレンが、いつものよう
に言う。
カレン、エリシャ共に右手中指を、額、胸、左肩、右肩へと振ると、十字を切った。
「神よ、あなたの慈しみに感謝してこの食事を頂きます。ここに用意された物を祝福し、
私達の心と身体を支える糧として下さい」今回は、きちんとエリシャも声に出して祈る。
「父と、子と、聖霊のみ名によって、アーメン」と神に祈りを捧げ、カレン、エリシャ共
に合掌した。
食事をしながら、エリシャは父・ヘンリーが自分たちの為に残してくれたノートに書か
れていた内容を、ジョシュに聞いたままにカレンに伝えた。この時初めてノートに貼って
ある写真を見る事になったカレンは、初めてそれを目の当たりにしたエリシャと同様に目
頭を熱くした。カレンは涙をぽろぽろとこぼしながら、それでも笑顔でエリシャの話を、
実に楽しそうにうんうんと聞く。もちろん昨日の事、金の虹を探しに行った事も話した。
「それが、あれなのね」
カレンは、席を立つとそのままリビングへ歩いていった。エリシャもカレンに続くよう
に席を立つ。クリーム色の壁を基調とした空間は落ち着き払っていた。木で出来た丸いテ
ーブルを囲むように、濃い赤色をした革製のソファーが2つ挟んでいる。テーブルの向か
いには液晶テレビがあり、液晶テレビの上には黒い枠の時計が掛けられている。エリシャ
が飾ったそれは、テレビと時計のちょうど中間位の高さで壁に存在していた。
実は昨日、泉を離れてトンネルを抜け、なんとか山道を下ってエリシャが自転車で向か
った先は自宅では無く街にあるカメラ屋だった。一眼レフに何枚もおさめた金の虹の写真
を、すぐに現像しようと思ったのだ。
しかし実際に現像した写真には、滝が流れ、その周りに出来た虹らしい色の帯は確認で
きるものの、暗すぎて目で様子を確認するには不確かな状態のものばかりだった。要する
に、金の虹、ロール・アルカンシエルを写真に収めることはできなかった。エリシャは気
づく。ヘンリーは金の虹だけ写真を撮らなかった訳ではない。金の虹だけ写真に収めるこ
とができなかったのだ。それは肉眼でしか存在を確認できない現象だった。
だからエリシャは帰宅後すぐに自室へ篭り、筆を握った。明日じゃ駄目だと思った。
あの金の虹が脳裏に焼きついてる今の内に、その記憶を描ききらなければいけない、と考
えた。使命だ、と感じた。
土地を、泉を描くのは下手でも「金の虹」は、出来るだけ自分がその目で見た色や形を
忠実に表現したいとエリシャなりに努めた。眩い光を放つ、父の夢。父が来て、帰って行
った道。
「参ったよね、私自分で思ってた以上に絵が下手なんだもの」
飾った絵を改めて眺めながらエリシャは苦笑いする。これは父親譲りの才能だ、と思っ
た。自慢にならない。
「でもママは好きだな。私も生きてる内にこの虹を見てみたいって思うもの」
カレンはエリシャの右肩に手を掛けると、次に左肩にも手を掛け、そのまま後ろからエ
リシャをハグした。エリシャの髪を優しく撫でる。カレンもエリシャも顔を見合わせて笑
った。「パパもきっと喜んでる」
壁に掛けられた額の中の「金の虹」は、描いたエリシャ本人が認めるように、決して上
手とは言えない出来の絵だった。しかし、おそらく世界でこの光景を見たことある人間が
ごく限られた数しかいないという事実の中で、この絵こそがその幻の現象であり光景を、
最も忠実に表した物だと言っていい。それが彼女の見た真実だからだ。
絵が下手でも、感動は伝わる。絵とはそういうものだ。そうでなくてはいけない、とエ
リシャは半ば開き直っている。
「この絵にタイトルはつけないの?エリシャ」
尋ねると、カレンは絵に近づき額の下側を左から右へと指でなぞった。さあ、教えて下
さい先生、とでも言った顔でエリシャを見た。その仕草を見て、やめてよママってば、と
エリシャは噴き出す。
「そうだなあ」エリシャは思いをめぐらす。腕を組み、ダイニングのテーブルでこちらを
見ているヘンリーの写真を見た。
目を細める。そのまま顔の前で人差し指を掲げて、言った。
「『これが私の証明』って言うのはどう?」
This is my proof.
ディス・イズ・マイ・プルーフ。
父の代わりに、私がそれを証明した。
THE END.
読了ありがとうございました。この小説の完成には、前書き通り「小説になる前の絵」を依頼してくれた友人の存在が大きく、友人を語るためのキーワードが所々に入ってたりします。冒頭の、ヘンリーの著書からの引用にある「二つの悔い」の最後の一つは、あえて引用に入れませんでしたが、読んで頂いたなら理解して頂けたのではないでしょうか。
もし、長編として加筆するなら、エリシャの大学での友達、その中で語られるエリシャの恋愛など他にも要素が入れられたと思います。しかし、家族愛だけを描いたこの作品は、誰にでも共感をして頂ける物語になったのではないかと思っています。