2話
今日は都内のビジネスホテルに泊まることにした。私服なんて持ってないからBDUのままだったけど、特におかしな顔もされなかった。近くに国防省があるから軍関係者の宿泊客も多いからだろう。
翌朝、ホテルをチェックアウトした僕は国防省に向かった。除隊手続きを完了する為だ。大方の手続きは戦地で済まされていたけど、やはり最後はここで済ませなきゃならないようだ。
警衛の伍長に敬礼を返し、身分証を提示する。
駐屯地の中の建物はどこか時代に取り残されたような、妙に野暮ったい印象を受ける。建物自体は新しいはずなのだが。
手続き自体は五分も掛からずに終わった。いくつかの書類にサインをするだけだった。
「お疲れ様でした、少尉殿」
「もう少尉じゃないだろう」
手続きをしてくれた海軍所属の軍曹にそう言った。
「本日中はまだ少尉ですよ。どうです、最後に駐屯地内を見て回っては?」
「そうするよ。ありがとう」
僕の言葉に軍曹が敬礼をしてきた。うん、海軍の青い戦闘服も格好いい。
返礼し、事務室を出た。とてもじゃないが、あの軍曹に言われたように駐屯地内を見て回る気分にはなれない。大人しく帰ることにした。
ちなみにこのBDUはミリタリーショップで購入した私物だ。質のいい放出品だったので実際の業務に着用しても問題はない。宿舎にもほとんど私物はないからこの上ないほど身軽だ。
駐屯地を出てすぐに、誰かに尾行されていることに気づいた。おそらく六人以上のグループで、服装を変えたりいろいろと偽装工作に手を入れているようだ。だが見た目や歩き方などの動作を偽装することはできても体格の根本的な印象を変える事は難しい。すぐに気付くことができた。
一応形式には則っているが、その分気付きやすい尾行だ。おそらく国防軍情報部あたりの工作員だろう。公安警察ならもっとうまくやるはずだ。
国防軍の諜報部隊は五年前のクーデター騒ぎの際に解体され、人員を一新して再建されたばかりだ。その為、知識や情報は豊富に持っていてもこういう「足で稼ぐ」実務能力が低いのが欠点だろう。妙な縄張り意識のせいでこの手のプロである公安警察とのパイプもうまく構築できていないようだから救いようがない。まあ、今後に期待ということだ。
公共機関を利用して早々に撒く事にする。一時間もうちに目的を完了し、昨夜泊まったホテルとは別のホテルにチェックインした。
ここには数日間滞在する予定だ。ベッドに横たわり、今後について考えることにした。
元々DGSE所属の僕が国防軍に入隊したのはフランス本国の意向だ。突然除隊させられたのも上の方でなんとかするのだろうから問題はない。次の活動拠点がどこになるかは気になるが、恐らくは日本国内だろう。それもどうでもいいことだ。
どうなるにせよ、どうせ向こうから接触することになる。その事を考えると、無意識に溜息を吐いてしまう。この国でDGSEの工作員を担当する管理官は裏が読めないから苦手なんだ。
僕は考える事をやめて眠る事にした。久し振りにきちんととれる睡眠だ。昨夜はなんだかんだと準備に手間取ってちゃんと眠れなかったし、今日こそしっかりと寝てやる。
†
「で、報告って?」
目の前に座るパンツスーツ姿の女が言った。艶やかな黒髪をアップにまとめ、なんの冗談かワイシャツの上にクリーム色の可愛らしいエプロンを着けている。エプロンについた名札には「店長」とだけある。
「はっ。例の、元国防軍少尉についてです。
指氏名は遠野悠希、年齢は二十四歳。略歴についてはお手元の資料をご覧ください」
前原……いや、今の名前は有田だったか。有田の言葉に店長は手元の藁半紙をつまらなそうに掴んだ。
「へえ、DGSEの。というかこいつは結局何人なわけ?」
「フランスと日本の二重国籍保持者です。十八年前の在仏アメリカ大使館爆破テロの際に両親を亡くし、父親の旧友であったDGSE高官のミシェル・ドゥ・ラ・フォントネイユの養子としてフランス国籍を与えられ、ジャン=ルイ・ドゥ・ラ・フォントネイユとしての身分を与えられました。彼の諜報員としての教育はこの時から始まったようです」
「じゃあスパイ歴十八年の大ベテランてわけ? 大したもんねえ、私なんてペーペーじゃないの」
「実際に諜報活動に参加したのは十五歳で遠野悠希名義で日本に帰国後ですが」
「ああ、日仏同盟の締結時ね。じゃあこの経歴は向こうから送られてきたもの?」
「ええ。軍情報部の書庫から引っ張って来ました」
元々有田もこの店長も軍情報部に所属していた諜報要員だった。五年前のクーデター騒動の煽りを受け解雇されたあとはこうして公安警察の対外工作要員としてなんとか生計を立てている状態だ。
「私のとこまで降りて来なかったのは一体なぜなのかしらねえ」
「……対処しておきます」
有田はそう答えるしかない。内心でため息を吐く。こう、強引な事をするから嫌われるのだ。
「ええ、よろしく。じゃ、この男は私の方で飼ってみるからDGSEとの交渉もよろしくね」
「はっ」
国防軍式の敬礼をし、有田は薄暗い部屋を出た。部屋のすぐ外は喫茶店となっている。
「あ、お疲れ様です。面接どうでしたか?」
この喫茶店で働いている女子高生が声を掛けてきた。和風のメイド服のような制服を着ていて、茶色がかったセミロングの髪にはヘッドドレスを着けている。この制服は店長の趣味らしい。
「いやあ、どうも手応えがなかったみたいで。やはり私のように図体のでかい男はこういう店には合わないようで」
ニコニコと、若干気落ちしたように応える。
「そうでしたか……。あの、再就職頑張って下さいね。きっといいお仕事見つかると思いますから」
純粋な励ましの言葉を掛けられても罪悪感を覚えなくなったのは随分昔の事だ。今は次の任務の事で頭がいっぱいだった。
有田は軽く会釈を返して店を出た。