36.白い煙
俺と優月が病院に駆けつけたとき、兄貴の体からは、色々な機械類が既に外されていた。
兄貴のベットのそばで泣き続けていた母さんは、俺を見るなり、俺にしがみついてきて声を上げて泣いた。
つい30分ほど前、突然に脈が乱れてそのままどうにもならなかったらしい。
泣きじゃくる母さんの肩をたたきながら、兄貴の顔を見た。
まるで眠っているみたいだ。
痩せてしまって、実際の年よりもずっと老けては見えるけれど、それでも兄貴はただ眠っているようで、もうこのまま目を醒まさないなんて嘘のようだ。
足音が聞こえて、入り口に立っていた優月が兄貴に近付くのが見えた。
思っていたよりもしっかりとした足取りで、ベットのそばに立ち尽くす優月。
「拓ちゃん」
そう言ったまま口をつぐんだ優月は、ただ、ただじっと兄貴を見つめ続けていた。
それからの日々はめまぐるしかった。
身内の死を悲しんでいる暇もなく、通夜だ葬式だと色々な段取りが進んでいった。
親戚も大勢駆けつけ、色々な人が入れ替わり立ち代わりお悔やみの言葉を述べていく。
一人になる時間もあんまりなかったから、悲しみに浸る時間も、優月のことを気にする時間もなかった。
やっと何となく落ち着いて、優月を見つけることができたのは、火葬場で立ち上る煙を見ているときだった。
他の参列者たちは、兄貴のお骨が焼きあがるまで、一旦火葬場から離れたけれど、俺は一人になりたかったのもあってここに留まっていた。
まさか優月が残っているとは思ってもみなかった。
優月は空に上る煙を見上げて、一人でぽつんと立っていた。
「優月」
声をかけると、驚いたように振り向く。
「圭ちゃん。圭ちゃんもいたんだ」
「うん。誰かいないといけないでしょ?」
「そうだね」
そう言って、二人で空を見上げる。
白い煙が、空に向かって真っ直ぐに昇っていく。兄貴が空に昇っていくのを想像した。
ちらりと優月を見る。
優月はじっと空を見上げていて、俺の視線には気付いていない。
あの夜、命を確かめ合うように求めあった俺たちの一方で、兄貴はその命の灯を消した。
それは俺たちの犯した罪に対する罰なんだと、父さんからの電話を受け取ったときに思った。
あの時は本当にそう思ったんだ。
だけど、あの時の俺たちの行為は本当に罪と呼ばれるものなんだろうか。
罪だったとして、いったい誰が俺たちに罰を与えられるっていうんだろう。
兄貴?
いいや、違う。
だって優月を不安にさせて、揺らがせていたのは兄貴なんだから。
人と人とが求め合ってしまうことを、例えどんな状況であったとして罪と呼んでいいのだろうか。
お互いに求め合うことはきっと罪じゃない。
そうじゃなきゃ、俺たちの命そのものが罪の上に成り立ってしまうことになる。
なんて、勝手な持論だけれど。
それどころか、兄貴が死んだという電話を受け取ったときに感じた罪悪感から逃れたいためだけの、自己防衛。
そんな自己分析はできていても、それでもあの夜の俺たちを罪とは思いたくなかった。
優月は相変わらずずっと空を見上げたまま。
喪服に包まれた優月は、こんな時になんだけれど本当に綺麗だ。
空を見上げる横顔も、今まで見た優月の中でも格段に美しい。
いったいどんなことを考えているんだろう。
兄貴に何を話しかけているんだろう。懺悔していたりするんだろうか。
横顔は、何だかとても静かだ。
「何を考えてたの?」
いつもならば聞くのを躊躇ってしまう言葉が、すんなりと口から出た。
「え? ああ」空から俺に視線を移した優月は、ほんの少し微笑んで、それからまた空を見た。「ごめんなさいって」
「ごめんなさい?」
あの夜のこと、やっぱり後悔しているんだろうか?
「そう。長い間ずっとごめんなさいって」
「長い間?」
あの夜のことを後悔しているんだと思っていた俺は、違ったニュアンスを持つ優月の言葉を繰り返した。
優月はゆっくりと頷く。
「長い間…ずっと。それから、さようならって」
優月の瞳は遠くを見つめた。
ずっとずっと遠くを。
「そっか…」
よくは分からなかった。
優月が兄貴に何を詫びたいと思っているのかなんて。
でも謝りたいのは、あの夜のことだけじゃないってことだけは、何となく分かった。
「大丈夫? 優月」
ぽつりと聞いた。
白い煙が絶えることなくことなく、ゆっくりゆっくりと空に立ち昇っていく。
色んな思い出だけを残して、兄貴は空気になっていく。
そんな感覚が、より一層俺と優月が生きてるってことを、鮮やかに思い知らせている気がした。
兄貴は消えてしまっても、俺たちはこれからもずっと生きていかなくちゃいけない。
もう何年も兄貴と時間を共にしてきた優月が、兄貴が消えてしまったこれからを果たして受け入れられるんだろうか。
「大丈夫だよ」
想像以上に力強い優月の返事があった。
本心なのか、強がりなのか。
ただ静かな顔で空を眺め続けている。
「圭ちゃんも、今まで色々ありがとう」
俺を見ないで優月が言った。
「それから、ごめんね」
真っ直ぐ真っ直ぐ伸びる視線。
空の向こうにまで。
どう答えていいか分からなかった。
何だか別れの言葉みたいだ。
でもそれを口にしたら、本当にもう二度と優月に会えないような気がして怖くて、口にすることができなかった。
あの消えていく煙のように。
消えていきそうで怖くて。
ただ、焼き付けるように優月を見つめることしかできなかった。
俺の目の前で、鮮やかな生を放っている優月を。