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35.罪と罰…

もう、何と言うか、坂道を転がり落ちるような感じだった。

人間の生命力って、もっと力強いものだと思っていた。

それなのに、日々兄貴の容態は目に見えるように悪化し、点滴や機械類も増えていった。

昨日から心電図のモニターが置かれ、規則正しいリズムを空虚な空間に響かせている。

医者の言葉は「もしものことも頭に入れておいてください」から、「もしものことも覚悟してください」に変わった。

俺は普通に大学に通ったけれど、母さんは兄貴に付きっ切りになり、優月は今までのように仕事が終わるとすぐに駆けつけ、消灯を過ぎても病室に留まっていた。

いつも俺が病室に着くと、疲れきって病人のような顔をした母さんがいて、しばらくすると、疲れきっていても気丈な顔をした優月がやってきた。

ここ数日、優月は日付が変わるぎりぎりくらいまで病室に留まっていた。


「優月ちゃん、もう今日はいいわよ」

消灯時間を過ぎた頃、母さんが言った。

「え?」

「ここ数日、ろくに休んでないでしょ? 仕事もあるんだから。それに、あなたが体を壊したって、拓斗は喜ばないもの」

「でも…」

今夜の兄貴は落ち着いているように見えた。

熱もいつもよりは高くないし、そのせいか、脈も落ち着いているようだ。だから母さんもこんなことを言ったのだろう。

躊躇している様子の優月に、母さんが矛先を変えて俺に話しかける。

「そうだ、圭太。優月ちゃんと食事でもしてきたらいいじゃない。それから送ってあげて。そうしてもらえたら、母さん安心する」

「え…?」

ちらりと優月を見た。

母さんは俺と優月の間に何があったかなんて、勿論知らない。

でも、何となく優月はろくに食事もしてない感じがするし、夕食くらい一緒に摂ってもいいのかもしれない。

「優月、そうしない?」

「圭ちゃん」

「兄貴も今、落ち着いてるみたいだし、食事終わったら送っていくから」

「でも」

優月がちらりと母さんを見た。母さんはにこりと笑って優月に頷いてみせる。

「じゃあ…」

優月も頷いて、自分の鞄を取った。そして俺たちは兄貴の病室を後にした。



ファミレスにでも入ろうかと思ったのだけれど、がっつりと食事する気にもならなくて、居酒屋に入ることにした。ここならば、色々なものがつまめるし、俺の意見に優月も賛成した。

とりあえずでビールを注文する。乾杯はしない。

二人、口数も少なく、運ばれてくる料理を何となく噛んで飲み込んでいた。

美味しいのかどうかさえ良く覚えてなんかいない。

そんなふうにして食事を終えて、居酒屋を出た。

そこから歩いて優月を家まで送る。

帰り道も、ほとんど口をきかなかった。何を話していいのかも分からない。

疲れてもいた。

だから、優月を部屋の前まで送っていって、「じゃあ」と言って背中を向けたときに、優月に腕をつかまれたときは、あまりの意外性に心底驚いた。


腕をつかまれて、自分が何か悪いことでもしただろうか、なんて咄嗟に考えていた。

それ以外に、優月が俺の腕をつかむ理由なんて考えもつかなかったから。

恐る恐る振り返り、優月を見る。

優月は、俺の腕をつかんだままで俯いていた。

「優月? どうしたの?」

「…」

優月は黙って、腕をつかんだ手に力を込めた。

その手が小刻みに震えているのが分かる。

「優月?」

優月が震えていることで、やっと冷静になってきた俺は、少しかがんで優月の顔を覗き込む。

必死に何かに耐えているような優月の顔があった。

「圭ちゃん…。お願い、一人にしないで」

弱っていく兄貴を目の前にして、色々なものが張り詰めているのだろう。それだけじゃなくて、兄貴を失うことに怯えているのかもしれない。

「大丈夫だって、優月。兄貴は大丈夫。だから心配ないって、な?」

俺の腕をつかんだままの優月の手を取って、優しくそう言った。

半分は優月に、半分は自分自身に向けたその言葉。

「お願い、圭ちゃん…。お願い」

優月は更に俺の腕をつかんだ手に力を込めた。

「分かってる。私が圭ちゃんにこんなこと言うべきじゃないって。圭ちゃんの気持ち分かっててこんなこと言うの、卑怯だって…」

「優月」

「でも、お願い。一人になりたくないの。一緒にいて、お願い…」

分かったよ。

そう返事する代わりに、優月の震えている体を抱きしめた。

兄貴の顔がちらつかないわけじゃない。それでも、俺にすがってくる優月をこのままにしておくわけにはいかなかった。

優月の肩を抱いて、まるで抱きかかえるような格好で、優月の部屋に入った。


優月の部屋は前と同じように、柑橘系の香りがした。

だけど前と違っていたのは、その部屋に、あまり生活の匂いがしないことだった。

そりゃそうだ。

仕事が終わったら真っ直ぐに兄貴のところに来て、ここには寝るだけに帰っているようなものだろう。生活の匂いもしないはずだ。

台所だって、最近使われた形跡もない。

なんだか胸が締め付けられるような気がした。

優月は生活の中で、自分の時間と呼ばれるもののほとんど全てを、兄貴のために費やしているんだと、今まで以上に思い知った。

「優月、大丈夫?」

俺の呼びかけに、こくりと小さく頷く優月。

震えたままの優月を、そっと床に座らせた。

「…ごめん、圭ちゃん」

「いいよ、もう」

長い長いため息が、優月から漏れる。

「私、どうかしてるね。圭ちゃんに甘えるなんて…。ごめん」

「兄貴のことで普通じゃないんだから、仕方ないって」

慰めるように言葉をかけたけれど、こういう時、きっと言葉なんて無意味なんだろうな。

でも、そんな言葉をかける以外にどうしていいか思いつかない。

情けない話だ。


どうしていいか、どうするべきか迷っていると、ふわりと優月が動いた。

俺の胸の辺りに、甘い香りを伴って、柔らかくて暖かい優月の重みが加わった。

一瞬、心臓が止まった気がした。それから激しく鼓動を打つ。

「優月?」

声が上ずってしまった。

動揺している。

俺の両手はどうしていいのか分からなくて、優月を抱きしめることもできずにただおろおろとするばかり。

「お願い」優月がぐっと体重をかけてきた。「お願い、このままでいて」

壊れ物でも包み込むようにそっと優月の背中に腕を回す。

「圭ちゃん…!」

優月はまるで子供が親にしがみつくように、がむしゃらに俺にしがみついてきた。

その反動で、まるで優月に押し倒されるような格好になる。

優月はそんなことかまわないように、ただ俺にしがみついている。

俺も強く、強く優月を抱きしめた。

お互いの隙間を埋め尽くすように抱き合いながら、どちらともなく唇を重ねあった。

強く抱き合いながら、何度も何度も唇を重ねる。

兄貴がこんな時に、不謹慎極まりないって人は言うかもしれない。

いや、多分俺たちの行為は、そう言われるべきものだろう。

でも命が消えていきそうなのを見守ってきた二人だからこそ、こうすることでお互いの命を確かめ合いたいのかもしれない。

こうやって抱き合って、キスをして、お互いの体温を感じあって…。

ただ俺たちは、夢中で求め合った。

すぐにでも優月の体温を感じたくて、ブラウスのボタンを外すのももどかしい。

優月の冷たい指先が、俺の素肌に触れる。

全てを、温めたいと思った。


『プルル…』


突然の電話の音に、はっとして優月を見る。

俺の下で優月の顔が不安そうに揺らいだ。

着信音を無視して、細い首筋に唇を這わせる。

優月から、声にならない声が漏れた。

スカートの留め金を外す。

着信音が途絶えた。

自分の着ていたTシャツを脱ぎ、素肌を合わせた。

体温が一つになっていく感じがする。

確かめ合うように唇を重ねる。


『プルル…』


無視できないほどの嫌な予感をのせて、再び携帯が鳴った。

「圭ちゃん…」

優月も耐え切れないように、投げ出されたままの携帯に目をやる。

優月に促されなくても、もう俺自身その着信音を無視できないと思っていた。

体を離して、携帯を拾う。

『着信 父さん』

携帯の画面には、父さんからの着信であることが示されている。

「もしもし」

嫌な予感で、携帯を握る手はじっとりと汗をかいていた。

「もしもし、圭太」

静かな声。静かに事実を告げる声。

「…ああ、分かった。これから病院に行くよ」

俺の手から、ころりと携帯が転げ落ちる。


「圭ちゃん…?」

ブラウスで前を隠して、上体を起こした格好の優月が不安げに俺を見つめていた。

事実を伝えなくちゃいけない。

俺の口から。

「どうしたの、圭ちゃん」

大きく息を吸い込む。


「優月、兄貴がさっき死んだ」




罪を犯した俺たちへの、これは罰なんだろうか。





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