34.届かない祈り
それから俺は、毎日ではないにしても、優月のいる時間をめがけて病院に通うようになった。
いや、別にこれを機に優月ともう一度どうにかなろうなんて考えているわけじゃない。
下心が全くないのかと聞かれると、それは確かに『ノー』とは言えないかもしれないけれど…。
けどそんなことよりも、ただ優月のことが心配だった。
仕事もきっちり時間までこなし、その後自宅にも帰らずに毎日兄貴の元へ通ってくる優月。
それから消灯まで付き添い、母さんと交替して自宅へと帰っていく。
いつか倒れてしまうんじゃないかと思った。
そばにいたって何かできるわけじゃない事だって分かってる。
もしかしたら単に邪魔になってるかもしれない。
それでも俺にはそばにいることしかできないから。
日に日に悪化していく兄貴を見つめる優月のことを考えたら、それがおせっかいだとしてもどうしてもひとりにしておくことができなかった。
俺は毎日のように祈っていた。
兄貴が早く目を醒ますようにと。
本当に心からそう願っていた。
もしかしたら、事故当時よりも今のほうが切実にそう願っているかもしれない。
兄貴が目を醒ましさえすれば、もう誰も苦しい思いをしなくってすむ。
俺の周りの人間だけじゃない。
きっと、助けられなかった子供の両親も、あのトラックの運転手も、兄貴が目を醒ましたと聞いたなら、きっと救われるに違いなかった。
俺だってきっと、そのときにはすっきりできるに違いない。
兄貴が目を醒ましたなら、俺が優月と兄貴の間に割り込む隙間なんてなくなるんだから。
そのときにはきっと、兄貴と優月を祝福できる。
だから、兄貴。
目を醒まして。
きっと誰もがそう願っているよ。
そしてそれが一番いい事に違いないんだから。
数日が過ぎ去っていた。
兄貴の容態は相変わらず良くならない。
点滴の量も増えた。
薄暗い病室の中、毎日同じ場所に座り、今日も優月は兄貴を見つめている。
顔色が悪い。
こうしてみると、優月もまるで病人のようだ。
「なんか、化粧乗り悪いんじゃない?」
そう言うと、優月はもろにいやな顔をした。
「どうせ、圭ちゃんの同級生と違って、もうお肌も曲がり角ですからね」
「比べたって仕方ないでしょ? 年が年なんだから」
「あのねえ、年ったってまだ25になってないんだから」
不満そうな顔で膨れる優月。こういう表情のときには、ずっと幼く見える。
可愛らしくて、愛しくなった。
「そういうことじゃないって」
「じゃ、どういうこと?」
むきになってる。ホント、可愛いなあ。
「ちゃんと寝てるのかってこと」
「あ…」
どうやら自分がおちょくられているわけではなく、心配されているということに気がついた優月は、バツが悪そうに笑った。
「そういうことね?」
「そういうこと」
それから、確かめるように両方の手のひらで自分の頬を包み込んだ。
「大丈夫なつもりだったんだけど、圭ちゃんにそう言われると急に心配になってきちゃった」
「ちょっと顔色も悪いよ」
「それはきっと病室が薄暗いせい」
優月が苦笑する。
「大丈夫ならいいんだ」
「大丈夫だよ」
きっと優月は、倒れたとしても、目を醒ました瞬間に『大丈夫だよ』とか言うんだろうな。
だから、俺なんかが「無理するなよ」なんて言ったところでまるで聞きはしないだろう。
だから俺はこうして毎日優月が倒れはしないかと、見張りに来なきゃいられないんだ。
「バカ兄貴、さっさと目を醒ませ」
呟いてみた。
俺の呟きは、優月には聞こえていないようだった。
それから3日後のことだった。
兄貴の容態が悪化して、再び呼吸器をつけることになったと病院から連絡があったのは。
病院に駆けつけて、両親と一緒に医者からの説明を聞いた。
「肺炎が悪化して、自力での呼吸が難しくなってきています。抗生物質の点滴も行っていますが、効果が現れません。長期間寝たままの状態で、抵抗力も落ちてきていますし、もしものことも頭に入れておいて下さい…」
そんなようなことを、担当の医者は言っていた。
呼吸器は事故直後につけてから、一度もつけたことはない。
それだけでもショックなのに、もしものことなんて…そんなこと考えられない。
第一、そんなことを言ったら優月はどうなってしまうだろうか?
どうして俺の願いは届かないんだろう。
目を醒まして欲しいと心から願っているのに、兄貴の容態は俺の願いとは正反対の方へと流れてしまっている。
夕方になり、仕事を終えた優月が病室に入ってきた。
何も聞かされていなかった優月は、呼吸器をつけられた兄貴を見て、呆然と突っ立っていた。
医者からの説明を聞くために一時仕事を抜け出してきていた父さんは再び仕事に戻り、母さんと俺だけが病室にいた。
とてもじゃないけど母さんの口からこの状況を説明できそうもないので、俺が優月の服を引っ張って病室の外へと連れ出す。
よろよろと引っ張られて病室の外へと出てきた優月は、廊下で俺の顔を覗き込んだ。
ただ目だけが大きく見開かれているだけで、何を思っているのかさっぱり分からない。
「圭ちゃん…?」
落ち着いて、とか、大丈夫だからとかいう言葉をかけようと思っていたのに、そのどれも当てはまらないような気がして、戸惑う。
「えっと…、兄貴、ちょっと肺炎が悪化して、自分で呼吸するのが難しくなってるらしいんだ。それで、今日の昼頃からまた呼吸器つけてる」
「…大丈夫なの?」
「大丈夫だよ」
根拠もないのにそう言ってみた。
『大丈夫』と言うことで、俺自身が本当に大丈夫だと思いたかったし、優月に『もしものことも頭に入れておくように』なんて言えるはずもなかった。
「大丈夫」
もう一度、自分に言い聞かせるように言った。
「うん」
優月も頷く。
目は力なく伏せられ、きょろきょろと落ち着きがない。
きっとこの事実をどう受け止めていいのか、整理できないでいるんだろう。
俺だって同じだ。
どうしたらいいのか分からない。
目を醒まして欲しいと願ったって、祈ること以外何にもできない。
病室の外にまで、シューシューという、機械音が漏れてくる。
「戻ろうか、病室」
こくんと頷く優月の肩を抱いて病室に戻った。
優月は小さく震えていた。
寒くもない6月の終わりに、優月の周りの温度だけが、まるで真冬のようだった。