32.悪化
課題は何とか提出することができ、テストも良かったとは言えなかったものの、多分赤点ってことはないだろう。
そんなこんなで、ほっとした月曜日の昼を迎えていた。
昨日、一度家に帰ってきた母さんは、ひどく暗い顔で「拓斗の調子が良くならないの。熱も全然下がらなくって、点滴だけじゃ間に合わないからって、今日また肩のところから管を入れるんですって」と言った。
肩のところから管…。
これまでも何度か入れたことがあった。
栄養のある点滴をしようとすると、腕からの血管じゃもたないから、肩の辺りから太い血管に点滴の管を通すとか言うあれだろう。
ってことは、またしばらくの間24時間点滴の状態なんだ。
思ったよりも今回は長引くかもしれないな。
優月の顔が浮かんだ。
母さん同様、状態の悪化している兄貴を見ることは辛いに違いない。
昨日だっていつものように兄貴のところにいたんだろうから、暗く沈んだ母さんと二人で兄貴に付き添っているなんて、正直苦痛以外の何者でもないに違いなかっただろう。
それでも、優月は兄貴のそばを離れはしないんだろうな。
「圭太〜、今回の課題はきつかったなあ。でもこれでしばらくは楽できるかな?」
呑気な声で和馬が話しかけてきた。
「どうかな? 甘いんじゃないの?」
俺の言葉に、肩をすくめて苦い顔をする。
「ところで、今週末は行ってきたの?」
なんでもない風な顔でさらっと言ったので、和馬が最初何を言っているのか分からなかった。
「ああ、病院に? 行ってきたよ」
「そっか。で?」
「で?…って、特に何も。ちょっと兄貴の具合が悪くてさ、それどころじゃないんだ」
「兄貴、悪いの?」
「ちょっと熱が下がらなくってね。時々肺炎起こすんだ」
「そっか、大変だな」
和馬は申し訳なさそうに目を伏せる。余計な事を言ってしまったと思ったんだろうか。そんなことまで気にしなくってもいいのに。
なんだか俺の方が申し訳ないような気分になって、とりあえず話を変える。
「そういえば、和馬の方こそどうなの? えっと…なんだっけ、名前?」
「瑠未ちゃん?」
「そうそう、瑠未ちゃんとはどうなってんの?」
その話題に変わった途端に、和馬の顔はニヤニヤしだす。全く、本当に正直な顔だ。
「どうって…時々遊んでるよ?」
「それだけ?」
「それだけ…?って、圭太と違って、俺はじっくりと責めるタイプなの!」
それはそれは…いつも先走ったご意見を口にするお方の言葉とは思えない。誰よりも先に手を出してしまうタイプのくせに。
ってことは勿論言わない。
あのおしゃべりな和馬が、瑠未ちゃんとのことを全然俺に話さないのは、最近俺がごたついてるのを知っていて気を遣ってのことだろうし、何よりも、うまくいっているならそれでいい。
「まあ、頑張れよ?」
「おう」
和馬がうまくいっていてよかった。
和馬にすばらしい結末が用意されていることを、切に願った。
「ただいま」
こんな時間に母さんの声がするなんて、びっくりして玄関に出た。
間違いかと思ったけれど、荷物を抱えた母さんが、玄関で靴を脱いでいるところだった。
「どうしたの?」
「どうしたのって…?」
「いや、こんな時間に帰ってくると思ってなかったから。兄貴の熱下がったとか?」
言ってからしまった、と思う。
母さんの顔は、悲しそうにしかめられた。
「下がってないよ。それどころか…今日から酸素マスクつけてる」
くたびれたようにそう言うと、荷物を持って居間の方に入っていく。
その背中は、いつにも増して小さい。
「母さん、ちょっと休みたいから、今日は何かとって食べよう。また行かなきゃならないから」
「休んでからまた病院?」
「そう。今は優月ちゃんが拓斗についててくれてるから」
「優月が?」
「そう」
その事実を突きつけられて、自分の声がむきになるのが分かった。
「どうして優月が? 優月だって仕事あるはずだろう?」
ソファーに身を沈めていた母さんが、目を閉じたままで答える。
「そうなんだけど、優月ちゃん、仕事が5時に終わるから、それから消灯までの間拓斗に付き添っていてくれるって。そうさせて欲しいって昨日言われたの。その間おばさんは休んでいてくださいだなんて、本当に優月ちゃんて優しい子よね」
「そうじゃないだろ?」
思わず語気が強くなった。母さんも、気付いて俺のほうを見る。
「優月は家族じゃない。確かに兄貴の彼女かもしれないけど、付き添いとかしてもらうべきじゃないだろう? 仕事だってしてるのに、そんなことしてたら優月の方が体壊すって」
「でも優月ちゃんがそうしたいって言うんだもの」
精神的に参っていて、母さんは普通ならできる判断さえもできないのかもしれない。
「それでも、間違ってると思うけど?」
「優月ちゃんは、圭太なんかよりも、拓斗のことを本当に心配してくれてるからそう言ってくれてるのよ!!」
「俺が兄貴を心配してないとでも思ってるの…?」
「…!!」
母さんは慌てて口元を押さえたけれど、言ってしまった言葉は消しようがない。
「とにかく父さんは知ってるの? 知らないなら、相談してからの方がいいと思うよ? 優月は他人なんだからな」
『他人』
その言葉を強調した。
そう、母さんが縋り付いていい人間じゃないんだ。
俯く母さんを残して、俺は自分の部屋に戻った。
夕食時、案の定母さんから何も聞かされていなかった父さんは、俺と同意見だった。
「それは良くないと思うよ。いくら優月ちゃんがそうしたいと言っても、そこまでの負担を優月ちゃんにかけるべきじゃない。優月ちゃんに付き添いまでしてもらう理由はどこにもないんだから」
「でも、優月ちゃんがそうしたいって…」
「例えそう言ったとしても、優月ちゃんはうちの家族じゃないんだよ。頼っていい相手じゃないだろう?」
父さんの言葉に、母さんはもうそれ以上何も言わなかった。
「病院には後で車で送っていくから、優月ちゃんとはそのときに父さんも話をしてみるよ」
父さんの言葉に、母さんが小さく頷くのが見えた。
風呂に入り終わり部屋にいると、車のエンジン音が聞こえてきた。
父さんが病院に行く準備をしているのだろう。
母さんも相当精神的にも参っているようだった。
俺も付き添いを代わるって事を検討した方がいいのかもしれない。
でも、俺が付き添ったからって、いったいなんの役に立てるだろうか?
いや、そこにいるってだけでいいのかもしれない。
よく分からないけれど、そろそろ考える頃なのかもしれなかった。
明日にでも、俺が付き添いを代わるって事を話してみよう。
『トントン』
扉がノックされる音が聞こえた気がした。
微かな音だったから、聞き間違えかとも思う。返事を躊躇っていると、もう一度小さくノックする音が聞こえた。
「何?」
と、返事をすると、「母さんだけど」と、扉を閉じたままで扉の向こうから母さんの小さな声が聞こえた。
扉を開けようとした俺の気配を感じたのか、母さんは早口に要件だけを告げた。
「あの、圭太。さっきはごめんなさい。圭太が心配してないなんて思ってないの。分かってるのに、母さん…ごめんなさい」
それだけ言うと、母さんはばたばたと遠ざかって行った。
それから玄関を出る音がして、車のエンジン音が消えていった。
「…別に、気にしてないって」
独り言を言って、ベットに転がった。
父さんが一緒に行って優月と話をしたはずなのに、優月が兄貴の付き添いをすることを父さんも同意したと知ったのは、次の日の夕方だった。
優月は頑なで、どうしても兄貴の付き添いをすると言って譲らなかったそうだ。
どうしてそこまで優月が頑ななのか、その心の中を知る者なんて、誰一人いなかった。
父さんも母さんも、優月の兄貴を思う気持ちに感謝した。
俺さえも、それほどまでに兄貴のことが心配でならないのだと思っただけだったんだから。