31.温かな思い
思ったとおり、帰りは重たそうな雲から雨粒が落ちてきた。
持ってきた傘をさして家に帰る。
思ったより降りが強くて、家につく頃には傘をさしていても服がしっとりと濡れてしまっていた。
家についてすぐに、熱いシャワーを浴びた。
色んなものを流してしまいたいような気がしたから。
じゃないと、とても課題だの勉強だのって手につかない気がして。
シャワーを浴びて出てくると、何だか少しすっきりした気がして、ソファーに座ってほっと息をつく。
このまま優月との距離はどうにもならないのかもしれない。
もう仕方がない気がする。
俺は、自分の気持ちに正直になることができた。それだけでもよかったのかもしれない。
ずっと抱え込んで、どうしようもなかった想いを、伝えることができて、それが例え優月の寂しさを埋めるためだったとしても、一時だけでも優月を自分のものにすることができたんだから。
絶対に届かないと思っていた優月の存在。
一瞬だけでも手に入れられた、そのことだけでももう、十分なんじゃないんだろうか。
本当は一瞬だけじゃなく、優月を手に入れたい。
でもそれは、高望みってやつなんだろう。
まだ濡れたままの髪の毛を、引っ掛けたままのバスタオルで乱暴に拭く。
そうだ、いつまでもこんなふうに休んでもいられない。
課題も終わってないし、やらなきゃいけないことはいっぱいあるんだった。
自分に言い聞かせるようにして、ソファーに沈み込んだ体を引き上げた。
どれくらいの時間がたったのか分からない。
空腹で、手を止めた。
課題は半分くらいまで進んだ。これなら何とか終わらせることができそうだ。
時計を見ると、夕方の6時になろうとしている。
時計を見た途端に、さっき感じた空腹感は急にリアルになって、胃の辺りで音を立てた。
そうだ、病院に行く前、昼には早いと思いながら軽く食事を済ませたまま、それからは何も口にしていなかったんだ。
自分の部屋を出て、台所に向かう。
母さんが「今日は適当に済ませて」と言ったとおり、食事の支度は何もされていない。
それでも出かけるのも面倒だから、何となく自分で作ってみようなんて気になった。
ご飯くらいは炊ける。
米を研いで、水を入れて炊飯器に入れるだけだ。
おかずは…?
冷蔵庫を覗く。何かを作れそうなものは、それなりに入っている。
まあ、作れるものなんて限られているんだけどね。
米を研いで、水を入れて炊飯器のスイッチを入れる。
それから冷蔵庫から卵とハムを取り出して、目玉焼きとハムを焼く。
小鍋に水と味噌とわかめ、それからねぎを入れて火にかけた。
「何してるんだ?」
背後から声をかけられて、驚いて振り返る。
仕事から帰ってきた父さんが、珍しいものでも見るように、台所に立つ俺を見ていた。
「ああ、お帰り。見ての通り夕食の支度してるんだけど?」
「みたいだな」
ソファーに鞄を置いて、父さんも台所にやってきた。
「母さんは何も用意していかなかったのか?」
「ん? ああ、何も」
きゅうりを切っていた俺は、父さんを見ないで答えた。
「そうか」
「父さんは食事したの?」
「いや、まだだよ」
「じゃ、俺の作ったものでよかったら食う?」
顔を上げて父さんを見た。父さんの顔は穏やかに微笑んでいた。
…父さんのこんな顔見るのなんて、物凄く久し振りな気がする。
「ああ、もらおうかな」
「じゃ、着替えてきたら?」
何だか照れくさいような気持ちになって、口調が急にぶっきらぼうになってしまった。
それでも父さんは、全く意に介さないように微笑んだままで「そうしてくるよ」と言うと、自分の部屋へと去っていった。
俺は慌てて夕食作りの手を早めた。
ご飯も炊き上がり、何とか夕食の準備ができた。
準備が整うまで、父さんはダイニングで新聞を読み、俺は出来上がったものをテーブルに並べる。
見た目だけならば、何とか食べられそうな夕食メニュー。
いやいや、メニューとか言えた物でもないか。
「父さん、できたよ」
「ああ」
声をかけると新聞をたたみ、二人で向かい合って食卓に着く。
こんなふうに父さんと二人で食卓についたことなんて今まであっただろうか。記憶を探ってみたものの、思い当たる記憶はなかった。
「いただきます」
とりあえず機械が炊いたのだから間違いのなさそうな、ご飯に手をつける。
「…!!」
どうなってるんだ?
水もちゃんと入れたはずなのに、米の中心に芯があって硬い。
ちらりと父さんを見ると、苦笑している。
「圭太、ちゃんとこれ、給水させたか?」
「給水?」
「そう、米は研いだあと、1時間くらい水に浸しておかないとダメなんだぞ」
「いや、してない。知らなかった」
ダメなのはご飯だけじゃなかった。
だしの入っていない味噌汁は味気ないし、目玉焼きは何だか苦いし、ハムは硬い。まともなものと言ったら、ただ切っただけのきゅうりくらいなものだ。
それでも父さんは、文句のひとつも言わずに、黙々と出来損ないの夕食を平らげていった。
「…父さん、無理すると腹壊すよ?」
俺の言葉に、父さんは微笑む。
「これくらい大丈夫だよ。圭太の作ったものなんて初めて食べるな。初めてにしてはましなほうなんじゃないか?」
そう言われて、また何だか照れくさくなる。
「そういえば兄貴は色々作ってたね」
「ああ、そうだな。それでも初めて作ったときは圭太よりもひどかったと思うぞ」
そういえば優月も言っていた。兄貴も始めは全然ダメだったと…。
それでも俺の記憶の中では、兄貴の作ったものは相当美味しかった。多分、俺の知らないところで色々と勉強もしたんだろう。
でも兄貴はそういう姿をほとんど見せなかったから、俺はいつも才能なんだと思っていた。
本当はいつだって何だって、努力の上に成り立っていたかもしれないのに。
それを俺は俺にない物を持っていると、妬んだこともあった。
努力もしないでそんなこと思ってる時点で、やっぱり俺は兄貴にはかなわない。
「兄貴も色々と努力したんだね」
「ああ」
父さんと二人、兄貴の話をするなんて何だか不思議な気持ちだった。
いや、父さんとこうしてゆっくり過ごすこと自体が不慣れだから、何だか変な感じがするのかもしれない。
食事を終えた父さんが、ゆっくりと立ち上がる。
「お茶でも飲むか?」
「あ、俺が…」
「いや、父さんが淹れるよ」
父さんが台所に立ち、やかんを火にかけるのをぼんやり眺めていた。食事は美味しくなかったけれど、それなりに腹の足しにはなったようだ。
しゅんしゅんとお湯の沸く音に混じって、「圭太」と父さんが俺の名前を呼んだ。
「何?」
「…お前は、お前の好きなようにしていいんだぞ」
急須にお湯を入れながら、俺に背を向けたままで父さんが言った。急にそんなことを言われて、どう答えていいのか分からない。
「好きにしてるよ?」
「それならいいけど…。拓斗のことがあってから、圭太には色々我慢させてることもあるんじゃないかと思って。母さんのこともそうだ」
自分と俺の前に、お茶の入った湯のみを置く。それから再び俺の前に座った。
「いや、別に…」
「母さんは拓斗が事故に遭ってから、特に神経質になってしまって。圭太が母さんを刺激しない様に家に早く帰ってきたり、週末必ず病院に行ったりしてるの、知らないわけじゃない。でも、お前はそんなこと気にしないで、自分の好きにしていいんだ」
言葉が出なかった。
まさか父さんがそんなことを考えているなんて思ってもいなかったから。
「母さんも本当は分かっているんだ。でも今は母さん自身、どうにもできない。圭太には申し訳ないと思っているって、言っていたから」
「…うん」
やっとの思いで口から出た言葉はそれだけだった。
父さんの淹れてくれたお茶を一口すする。
今日口にしたものの中では、だんとつで一番美味しい。
熱い液体が、胃の中に落ちて、体中を満たしていく。
自分の中で凍り付いていた何かが溶かされて、涙になって目から落ちてきそうな気がして、ぐっと眉間に力をこめた。
「お茶…美味しいわ」
「そうか」
静かで、温かな時間が流れているのを感じた。