30.違和感は感じても
この一週間、和馬は顔をしかめていたけれど、ありがたいことに、レポートやら課題やらが山のように出された。
そのおかげで俺は、優月のことを考えなくてもいい理由に困ることはなかった。
毎日、夜中までかかって課題をこなし、それが終わったら、普段使っていない脳みそをフル回転させるものだから、あっという間に眠りに堕ちることができた。
それでも、いつも携帯はそばにあった。
鳴ったとしても、いつも一番連絡の欲しい相手からの物ではなかったけれど。
母さんは案の定、病院に泊まりこんでいるようだった。
日中帰ってきては、家のことを片付け、またすぐに病院に向かっているようだった。
「向かっているようだった」って、何だかすごく他人事みたいだけれど、ここ数日母さんと顔さえ合わせていないんだから、仕方がない。
まあ、俺の顔を見たところで、癒されるわけもないだろうとは思うけど。
今週末は気合を入れて課題に取り組まないと、とてもじゃないけれど全てをこなせそうにはなかった。
しかも来週にはテストもするという。
赤点なんて事態は避けたいから、テスト範囲も勉強しなければならなかった。
支度を済ませて、俺は思わずため息をついた。
何をやってるんだか…。
土曜日、今日はゆっくり眠って、昼から進んでいないレポートを完成させるつもりでいた。
そのくせに…これだ。
すっかり出かける用意ができている。
行かないつもりでいたのに、気持ちとは裏腹に俺は病院に向かおうとしていた。
この一週間、優月のことをなるべく頭から追い出すようにしてきた。
それを可能にするだけの、暴力的な量の課題もあったのだけれど。
支度を整えた今でも、行くべきかどうか決めかねている。
なのに迷いながらも、結局靴を履いている。
どれだけ迷ったところで、多分俺は病院に向かうんだろう。
そうだ、兄貴の様子も気になるし、やっぱりここは行くべきだろう。
玄関のドアを開けた。
空はどんよりと曇っている。
今にも小さな水の粒を落としそうな空だった。
俺は傘を持って歩き出した。
「あ…おはよう、圭ちゃん」
そう言って病室で俺を出迎えたのは、優月だった。
多少戸惑った顔をしたものの、優月はいつもと…何もなかった頃とさほど変わりはなかった。
いると思っていた母さんは、病室にいなかった。
「母さんは?」
「ああ、おばさんなら一度家に帰るって…。会わなかった?」
「会わなかった」
母さんがいると思ってばかりいたから、思いもよらず二人きりになってしまって、どうしたらいいものか戸惑う。
じっとりと手のひらに汗をかいてきた。
「座ったら?」
優月が椅子を勧める。
以前のように自分の隣じゃなく、ベットを挟んで向かい側の椅子を。
小さな変化。
でもその変化は俺にとっては大きい。
「ああ」
寂しいような、痛いような、そんな気持ちで優月に勧められた椅子に座る。
体を重ねる前よりも、優月が遠のいてしまったようで、やりきれない。
何か話そうと思っても、何を話していいかも思い浮かばなくて、ただ沈黙するしかできなかった。
兄貴を見る。
まだ熱があるのか、氷枕に、腋の下にはアイスバックを挟まれている。
呼吸の音は、痰の絡んだようなぜいぜいとしたものだ。顔色も良くない。点滴の量も今まで肺炎になったときよりも、心なしか多いような気がする。
「拓ちゃん、熱が下がらないんだって」
優月がぼそりと言った。
「解熱剤使えば一時は下がるんだけれど、すぐに熱上がってくるんだって」
「そう」
なんて答えていいのか分からない。
優月がどんな気持ちでいるのか、全然つかめなかったから。
「圭ちゃん、拓ちゃんどうなっちゃうんだろうね…」
どうなって欲しいの?
そんな意地悪な質問が喉元まで出掛かって、それを飲み込むのに一苦労した。
どうなって欲しいも何も、どうして優月が兄貴がどうにかなることを望むだろうか。
こんな子供じみた質問、優月を無駄に苦しめるだけだ。
それでも『どうなって欲しいの?』そんなことを聞いたら、優月はなんて答えるんだろうか?
そんなことを聞く俺を軽蔑するだろうか。
それとも俺にそんなことを言わせている自分を恨むだろうか。
この前からずっと、俺の中に渦巻く相反する想い。
優月を想うとき、俺の中にはいつも正反対の二つの想いがある。
今は優月を苦しめたくないって想いと、傷つけたいって想い。
それでも俺は偽善者だから、傷つけてしまいたいって想いをぐっと押さえ込む。
「兄貴は期待を裏切らない奴だよ。そのことは優月だって知ってるでしょ?」
優月を元気付けるように言ったつもりなのに、それなのに優月は俺の言葉に苦しそうに目を逸らした。
それからそっと兄貴を見つめる。
「そう…だよね。拓ちゃんはきっとみんなの期待、裏切らないよね」
違和感を感じた。
どこにってわけじゃない。
ただ、優月の言葉に変な違和感を感じた。
でも結局、その違和感がどこから来るのもなのか分からなくて、俺は曖昧に微笑む。
「そうだよ。兄貴はいつもみんなの期待に応えて来たんだから」
「うん」
一瞬、雲の切れ間から陽光が差し込んで、逆光になった優月の顔は、笑っているのにひどく暗く見えた。
泣きそうにも見えた。
でもそれは逆光のせいなんだろうと思った。
だって、次の瞬間、優月はいつもと同じ顔をしていたから。
その時の俺はそう思ったんだ。
優月はいつもと変わらないって。
その時の俺は知らなかったんだ。
優月がどんな想いを抱えているのかなんて。
…知るはずもなかったんだ。
「あら、圭太来てたの?」
疲れた顔の母さんが病室に入ってきた。
着替えを済ませて、今晩も泊まるつもりなのだろう、弁当を手にしている。
「兄貴のことが気になったから」
「拓斗のことはお母さんが見ているから大丈夫。優月ちゃんもいてくれてるし。それよりも圭太、来週テストって言ってなかった?」
「うん」
きっと父さんから聞いたんだろう。
「勉強、しなくて大丈夫?」
「いや、兄貴の顔も見たし、そろそろ帰ろうかと思ってた」
テストがなかったとしても、母さんに言われなくても、すぐに帰るよ。
心の中で呟く。
「そう、今晩の夕食はお父さんと適当に食べてね」
「分かったよ」
じゃあ、と言って病室を後にする。
病室から出る間際、ちらりと振り返ったけれど、優月は俺の方を見ることはなかった。
じっと兄貴の顔を見つめていた。
優月との間が、これ以上変化するなんてことはもう、ないのかもしれない。
いや、きっとないんだろうな。
諦めにも似た気持ちで、俺は病院を後にした。