29.一進一退
正直、もうどうしたらいいのか分からなかった。
これ以上、優月に近付いていいものなのか、もう近寄らない方がいいのか。
勿論、気持ちが消えたわけじゃない。
そんなに簡単なものじゃないつもりだ。
でも、あの日のことを「寂しかった」の一言で終わらせてしまった優月のことを思い出すと、俺は完全に恋愛対象として見られていないと思い知らされたし、それに、赤城の言っていた「本当は優月さんが一番辛いのかも」と言う言葉を思い出せば、俺が近付くことは優月を苦しめるだけのような気もした。
なんて、全部言い訳なんだ。
本当はこれ以上自分が傷つきたくないんだ。
もうこれ以上、手に入れたと思った充足感から、一気に失ってしまう喪失感を、あの苦いギャップを経験したくはなかった。
だから俺の足は、もう優月のアパートに向かうことができなくなっていた。
会いたい気持ちと会うのが怖い気持ちがいつも鬩ぎ合っていて、いつもほんの少しの差で、会うのが怖い気持ちが勝ってしまっている。
携帯には誰からの着信もない。
ため息をついて、携帯を閉じる。
いや、ホント、バカだ。
来ないって分かっているのに、優月から連絡がくるんじゃないかと心のどこかで未だに期待している。
『ごめんなさい、この間のは本心じゃないの』
とか何とか、ありえない想像もしてみる。
なんて女々しいんだろう。我ながらうんざりするほどだ。
でも、そんな女々しい淡い期待も、沈黙した携帯が撃ち砕いてくれる。
何か別のことを考えようと溜まったレポートを思い出して、のろのろと机に着いたとき、ドアをノックする音が聞こえた。
「はい?」
「圭太」
ドアの隙間から顔を出したのは、母さんだった。
「お母さんちょっと病院に行って来るから、お父さんが帰ってきたらそう言っておいて」
時計を見る。
夕方の6時前だ。こんな時間に兄貴のところに行くなんて滅多にないことなのに、何かあったのだろうか。
「兄貴、何かあった?」
その問いに、母さんは疲れたように目を伏せた。
「拓斗ね、また熱が上がっているんだって。経管栄養も今日の昼から中止しているみたい。ちょっと状況の説明をしたいからって、病院からさっき電話があったの」
「そっか」
兄貴の熱が上がることは、そんなに珍しいことじゃなかった。
今までだって何度か熱が上がっては、栄養剤を流し込むのを中止にした経緯がある。
呼吸は自分でできる状態でも、自分で咳をする力はない兄貴。だから鼻の管から流し込んだ栄養剤が逆流して肺に流れ込んだとしても、咳をして出すことができないらしい。
それで肺炎を起こしやすいのだという説明を、俺も担当の医師から聞いたことがある。
その度に母さんや父さんは病院に呼ばれて経過の説明を受けていた。
「一応夜ご飯も用意しておいたけど、もしかしたら遅くなるかもしれないから」
「分かったよ」
「じゃ」
ドアがパタンと閉められる。
兄貴に何かあるなんて、母さんには考えられないことなんだろうな。
母さんにとって兄貴は全てなんだから。
今夜は病院に泊まって帰ってこないかもしれない。いつも大体、兄貴の熱が下がって症状が安定するまで母さんは、看護師や医者が「もう大丈夫なので一度帰って休まれた方がいいですよ」と何度勧めたところで、自分が納得するまで帰宅することはなかった。
結局、病院で体調を崩してしまって、兄貴の病室で点滴を受けていたこともある。
そんな母さんを見ているのは辛いけれど、もう気の済むようにさせるしかなかったから、俺も父さんも何も言わなくなっていた。
机に広げられたレポート用紙と、参考資料に目をやる。
色々なことが頭に浮かぶからってだけじゃなく、どうにも進まない。
兄貴だったらこれくらいのレポートなんて、簡単に済ませて、しかも簡単に済ませた割には高評価を取ったりするんだろうな。
いつだって、なんてことないって顔で、さらりとやってのけて見せた兄貴。
兄貴が、手に入れたくて、でも手に入れられなかったものなんてあるんだろうか?
勉強も、スポーツも、友達も、それから…優月も。
俺には全てを持っているように見えたけれど、本当にそうだったのかな?
今の兄貴には、聞くことはできないけれど。
優月なら知っているんだろうか。
一番そばにいた優月ならば。
ぶん、と頭を大きく振った。
目の前にある参考資料に無理やり視線を戻し、脱線してしまった思考をレポートへとむける。
考えても分からないことよりも、今は目の前の課題に取り組むしかないだろう、と自分に言い聞かせた。
そうやって、何かひとつひとつこなしていかないと、一歩も前に進めないような気がした。
これが現実逃避だってことくらい分かっているつもりだ。
優月のことから逃げるために、レポートだなんだって言っているって。
それでも、解決策なんて見つかりそうもないから、とりあえずできることをしようって、俺なりに前向きなつもりなんだけれど。
ばたんと玄関のドアの閉まる音が聞こえた。
どうやら父さんが仕事から帰ってきたようだ。
兄貴のことを伝えておいた方がいいだろう。
兄貴の体調は、事故の後から一進一退だ。
この家の中も、それに同調して動く。
先はまだ見えない。