28.月曜日の屋上
下世話な週刊誌の『一夜の過ち』なんて見出しが目に入って、思わずため息をつく。
『一夜の過ち』ねえ…。
無意識にその週刊誌に手を伸ばしかけたとき、和馬の声が聞こえた。
「圭太〜、俺、これでよろしく。って、本でも買うの?」
とっさに伸ばしかけていた手を引っ込める。
バカだ。こんな本を見たところで、優月の気持ちが分かるわけないじゃないか…。
「いや、買わないよ。それより決まった?」
「うん。これとこれな。よろしく」
和馬は買い物カゴごと俺に渡した。
中には、とんかつ弁当と焼きそばが入っている。更にデザートだろうか、プリンも。
「お前、よく食うな」
中に入っている物を全部食べることを想像して、顔をしかめる。
「おごってやるって言ってもらった時は、普段の1.5倍は食うようにしているからね」
「…いい性格してるよ」
笑いながら俺は、自分のサンドイッチをカゴに放り込んでレジへ向かった。
「それにしても、何があったわけ?」
大学の屋上に向かう階段を上りながら、和馬がかなり好奇心を覗かせた顔で聞いてくる。
「うん。だから、屋上で話すって。俺も落ち着かないと、うまく説明できないし」
「ふうん」
買い物袋をがさがささせて階段を上る俺の後ろを、それから和馬は黙ってついてきた。
いろいろあって…時間がないとうまく話せそうもないから、飯おごるから聞いてほしいんだ。
そう言って和馬を誘ったのは俺のほうだった。
全く優月のことが分からない俺は、誰かに助けてほしかった。
和馬に話したところで、優月の心の中が分かるなんて思ってなかったけれど、それでも自分ひとりでぐるぐると考えているのは、もうこりごりだった。
昨日なんて、考えないようにしようと思いながら、結局朝までずっと頭から離れることはなかったし、このままじゃ、体を壊してしまいそうだ。
我ながら情けない…。
冷たいコンクリートの上に座り込み、買い物袋から、和馬の分を出して渡す。
「おう」
と言うと、和馬はとんかつ弁当を早速食べ始めた。
俺は、サンドイッチを包みから外したものの、それに口をつける気も起こらなくて手の中でもてあそぶ。
「食ってるけど、聞けるから話していいぞ」
迷っている気持ちを感じ取ったのか、口をもごもごいわせながら和馬が言った。
「うん」
手の中のサンドイッチを、口をつけないままで包みに戻す。
「実はさ…、優月を抱いた」
言った後、和馬の様子を伺う。いつもの和馬なら、食いついてくるところだけれど、和馬はただ黙って聞いていた。
「誰の代わりでもないって、そう言ってた。でも…次の日目が覚めたら、もう優月は兄貴のところに行ってたよ」
和馬はやっぱり黙って弁当を食べている。
「優月、俺とのことを、『寂しかったから』って言ってた。兄貴のそばにいなきゃいけないってさ」
去って行く優月の背中が蘇る。
最後まで振り返ることはなかった。
「俺、受け入れてもらえたんだと思った。でも、結局違ってたんだよな」
「ごち」
とんかつ弁当を平らげた和馬が、手を合わせている。
「焼きそばとプリンは?」
「ん? ああ、後で食うからいいよ。それより」
和馬が俺に向き直る。
「振り回されてんな〜、お前」
最初の一言がそれかよ。思わず苦笑してしまう。いや、深刻がられるよりも、こっちの方が気が楽かもしれない。
「だからやめとけって言ったのに。俺の言うこと聞かないから、そういう目に合うんだよ」
「いや、そんなこと言われても」
「大体圭太はさ、ずっと優月さんのことばっかりで、実は恋愛経験少ないもんなあ。やっぱそこがまずいよ」
…確かに。
付き合ってた女はいても、誰か一人として恋愛対象として見ていたかなんて、かなり怪しいものだ。その点では、和馬の言っていることは正論。
「でも、そんなこと今更言われても仕方ないって」
「それもそうだけどさ。…一夜の過ちかあ」
どうやら和馬はさっき、俺が手を伸ばしかけていた本に気付いていたらしい。
「まあ、結局はそういうことなんだろうな」
「どういうことだよ」
「だから、とにかく寂しかったんだろ? だからお前とやったってことじゃないの?」
和馬の言っていることを理解するのを、脳みそが完全拒否している。
俺は優月が欲しくて欲しくて、だから抱いた。でも優月は、誰でもよかったなんてこと、考えたくもない。
「お前だって理解できるはずだぞ? 付き合ってきた女と、そんなに好きでもないけど、とりあえずやっちゃたろ? 優月さんの代わりにさ」
確かに…自分の中にある空洞を埋めたくて、やったこともあったさ。
優月の代わりとして、そのとき付き合ってた女を抱いた。完全に優月の代用品。
でも優月は、俺は代わりじゃないと言ってくれたんだ。
そう、兄貴の代わりじゃないって。
「でも優月は、兄貴の代わりじゃないってそう言ってた」
あの言葉だけが、俺を『圭ちゃん』と呼んだその声だけが、今の俺にとっては支えだった。
「でも…優月さんは兄貴のところに行ったんでしょ? 自分がそばにいなきゃならないってさ。それって結局は、圭太じゃなくて兄貴の方を選んだってことで、やっぱり優月さんは兄貴のことが好きだってことじゃないの?」
「違うと思う」
咄嗟に反論したけれど、どうして自分がこんなにもすぐに否定できたのか、すぐには思い出せなかった。
でも、そうだ。
ずっと引っかかっていたことを、記憶の沼の中からゆっくりとすくい上げる。
「そうだ…前に優月に聞いたんだ。『まだ兄貴を好きなのか』って。そうしたら優月…そう、優月は『そんなんじゃない』って言ってた」
「そんなんじゃない?」
「そう。単純に解釈すれば、兄貴のことを好きだからそばにいるわけじゃない、ってことだよな?」
「そう…なるな」
ずっと聞かなくちゃいけないと思っていた。でもいつも優月の顔を見ると、そんなことよりも自分気持ちが前面に出てしまって、そんなこと聞く余裕なんてちっともなかった。
でも、もし優月が本当に兄貴を好きだと思っていないんだとしたら…。
「単純解釈が正しいとしたら、どうしてわざわざ圭太とやった後に、病院なんか行ったんだろうな?」
俺の疑問を、引き取るように和馬がそう言った。
「行動の意味が分からない」
和馬に話したら少しは落ち着くんじゃないかと思っていた。
でも、逆に俺は混乱してしまった。
分からない。
ちっとも分からない。
「クソ、女って分からねーな」
「女がじゃ、ないでしょ? 優月さんが分からないんでしょ?」
突然割って入った声に、俺も和馬も驚いて振り返る。
座り込む俺たちの後ろに、ちょこんと赤城雛子が膝を抱えるようにして座り込んでいた。
「女全般を、そんなわけ分からないふうに言って欲しくないなあ」
そう言ってにっこり微笑んでいる。
「雛子ちゃん、いつからいたの?」
和馬は相当驚いたのか、声がひっくり返っている。
いや、俺は驚いて声もでなかったけどね。
「いつからって、最初からだけど? 男二人して、お弁当持って屋上なんかに向かうんだもん。きっと面白い話聞けるんじゃないかと思って。実際聞けちゃったけどね」
そう言って、いたずらな顔をする赤城は、やっぱり憎めない。
「もう、圭太君も振り回されちゃって情けないの!!」
「…そうだな」
苦笑いする。きつい事を言われていても、赤城のはそんなにきつく感じられない。赤城自身、俺を傷つけないように言っているのが分かる。
「でも、優月さんズルイよ」
赤城は口を尖らせた。
「聞いてたら、まるでナゾだらけ。言ってることもよく分からない。そんな態度、圭太君が離れられなくなるだけじゃん。私は、欲しい物は欲しいって言うし、中途半端はしない。欲しいもの以外はいらないもん。だから、あっちも〜、こっちも〜、みたいな態度、腹が立つかも!!」
いきなり登場して怒っている赤城を見て、和馬と二人、顔を見合わせて苦笑いする。
それでもなんだか嬉しかった。自分のために怒ってくれる存在が。
でもそれは言わない。もう赤城に甘えることは許されないから。
「でも…」
赤城がほう、っと息をついた。
「もしかしたら、その人すごく辛いのかも。辛くて、でもどうしていいのか分からなくてもがいてるのかもしれないね。もしかしたら、自分のやったことに、一番傷ついてるのは優月さんなのかも」
優月が一番傷ついている…?
「なーんてね! ちょっと思ったりもするけど、その人がズルイのは変わらないよ」
赤城が俺の背中を勢いよく叩く。
「圭太君、私いつでも待ってるからね」
なんて言って、ウインクして見せた。
これくらい逞しくなれたらいいんだけどな…。
優月が一番傷ついている。
本当にそうなんだろうか。
俺も結構、傷ついてたりするんだけれど。