27.夢の終わり
幸せな夢を見ていた。
優月の全てを手に入れる夢を。
優月を抱きしめたままで眠りに堕ちる夢を。
どこまでが夢で、どこまでが現実か分からない。
その境界線をさまようような、とろとろとした浅い眠りの中を俺は彷徨っていた。それはとても心地がよくて…。
でもいつもと違う布団の感触に、俺の意識は突然覚醒する。
勢いよく飛び起きた。
見渡すと、そこは確かに自分の部屋とは違う…そうだ、ここは優月の部屋。
昨日の記憶が一瞬にして頭の中に、ぬくもり付きで蘇ってくる。
何も身に着けていない自分の体を確認して、「夢じゃなかったんだ…」と呟いた。
急激に気持ちが満たされていく。
やっと自分の一部を手に入れたような、そんな満足感と充足感。
昨日、優月を抱きしめたまま、俺は堕ちるように眠ってしまった。
でも、抱きしめていたはずの優月の姿は、ない。
どこにも。
カーテンは開けられ、居間に日差しが差し込んでいる。
でも人の気配がない。
テーブルの上に、昨日優月が乾かしてくれた俺の服が、きちんとたたまれた状態で置かれていた。
のろのろと起き上がり、服を着る。
「優月?」
一応呼んでみたけれど、返事はなかった。
テーブルから最後の一枚を手に取ったとき、それは突然俺の目に飛び込んできた。
「は…? どういうことだよ!!」
まるで服の下に隠すように置かれていた紙を、握り締めて俺は声を荒げていた。
『病院に行きます』
たった一言。
たったそれだけ。
さっきまでの幸せな気持ちは、その一言に見事に粉々にされてしまった。
どうやってそこまでたどり着いたのか、もうよく分からない。よく辿り着けたものだと感心するくらいだ。
それくらいに俺の気持ちは混乱していたし、怒りに駆られていた。
昨日優月は誰の代わりでもなく、俺に抱かれた。
「圭ちゃん」
と俺の名前を呼んだ。
俺の気持ちを受け入れたんじゃなかったのか?
だから俺に抱かれたんじゃなかったのか?
だったらどうして、兄貴のところなんかに行っているんだ?
ぶつけるべき疑問は次々とわいてくるのに、ぶつけるべき対象は、今頃兄貴のそばに付き添っている。いつものように。いつもと変わらずに?
考えれば考えるほど、混乱も怒りも強さを増した。
でも…
ふと、楽観的な気持ちも浮かぶ。
優月はもしかしたら、兄貴と決別するためにそこに行っているのかもしれない。
この考えは、一筋の明光のように暗く沈んだ俺の心を照らす。
俺は優月に会うまで、この考えに必死に縋り付くしかなかった。
病院に着いたとき、何度兄貴と決別した優月にばったり会えないかと祈った。
でもその願いは、兄貴の病室の前にたどり着いても尚、果たされることはなかった。
病室の前に立つ。
足の感覚がしびれているようだ。
足だけじゃない。頭も、手も、どこも。
「ええ、風邪を引いちゃって、なかなか来られなくって」
病室の中から声が聞こえる。優月の声だ。
「そうなの。先週なんか来ないから、どうしたんだろうって心配していたんですよ」
こっちは看護師の広田さん。
「もう大丈夫です。私もここに来ないと何だか変な感じで…。習慣みたいになってるし、やっぱり私は拓ちゃんのそばにいないと…」
「藤本さんはいい彼女さんがいて、幸せよね〜」
「いえ…そんなんじゃ…」
「じゃ、また何かあったら呼んでくださいね」
「はい」
「あら、こんにちは」
病室から出てきた広田さんが、何も知らないにこやかな顔で俺に挨拶した。
「ああ、どうも」
声になっていたかどうか分からない。
入り口のカーテンが揺れて、中にいる優月と目が合った。
優月は一瞬俺を見た後、無表情なままで目を逸らした。
俺は、俺と優月の間にある国境のような薄いカーテンを乱暴に払いのけると、病室の中に入った。
優月は俺の顔をちらりと見ただけで、顔色一つ変えない。
その上、いつものように「おはよう」と言った。
ずきりと、胸の奥が疼いた。まるで「昨日は何もなかった」と言われているような気がした。
そんな気持ちを悟られないように、一気に優月のそばまで近寄って、兄貴のそばに座っている優月の手首をつかんだ。
「優月」
優月が俺を見てにっこり微笑んでくれることを、まだ心のどこかで期待している。
でも、現実は全く逆だということをすぐに思い知らされた。
「何?」
優月はにっこり微笑むどころか、全く感情のない顔で俺を見た。
「どうして? どういうこと?」
声が震える。
「どういうことって…」
「だって、昨日俺と…!!」
「圭ちゃん」
優月が立ち上がる。
「こんなところでその話はやめて」
そんなこと言われても、もう収まりがつかない。
「兄貴に聞こえるはずないだろ!? 俺は昨日のこと」
「圭ちゃん!!」手首をつかんでいた手を、ぎゅっと握られた。「やめて。私に言いたいことがあるんなら、別の場所にして」
兄貴の前で、たとえ聞こえてないにしても、全部ぶちまけてやりたい気もした。
昨日のことを。
昨日優月が俺に抱かれたことを全部。
でも、俺の手をつかんだ優月の手が震えていることに気がついて、そんな気持ちも小さくなった。
「分かったよ。じゃあ、別の場所で話そう」
病院の外にある庭のベンチに並んで座った。
病室からここまで、優月はずっと黙ったままだった。
俺も何も話すことができなかった。
「圭ちゃん、私に言いたいことがあるんでしょ?」
先に口を開いたのは優月の方だった。
「…どうして? どうして優月は兄貴のところにいるの?」
たったそれだけ口にしただけなのに、口の中はからからに乾いている。
「どうしてって…。さっき広田さんと話しているのを聞いたんでしょ? 私は拓ちゃんのそばにいなきゃいけないの」
「だからどうして!?」
「私がそうしたいから。それに決めたから」
「なにを?」
優月はさっきからじっと自分のつま先の辺りを見つめていた瞳を閉じた。
「だから…そばにいるって決めたの」
「じゃあ、昨日はどうして…?」
聞くのが怖くて、後回しにしていた質問。
「どうして俺としたの?」
それでも聞かなければいけない。聞かなければ、納得なんてできない。
はあ、と大きく息を吐きながら俯く優月。さらさらとした髪が、その表情を隠してしまった。
「…から」
「え?」
顔を上げて俺を見た優月は、きゅっと唇を結んでいる。それから、確かめるようにゆっくりと口を開いた。
「寂しかったからかな」
「寂しかったから…?」
「そう。圭ちゃんのこと、拓ちゃんの代わりだなんて思ってないよ。昨日だってそんなこと思わなかった。だけど、昨日のことは圭ちゃんのことが好きだから、とかそういうことじゃないの。きっと…寂しかったから。だから特別な意味なんてないの」
俺は、優月の頬にそっと触れた。
「じゃあ優月はどうして泣いてるの?」
頬を伝っている一筋の涙を、指でぬぐった。
「これも…特別な意味なんてないわ」
小さく微笑む優月。
「もう行くね。圭ちゃん、またね」
一方的にそう言うと、俺の言葉を受け付けないというように背中を向けて、優月はその場を去ってしまった。
最後まで振り返ることもなく。
もう、優月が何を考えているのか分からなかった。
ただ昨日のことをなかったことにしたいってことだけは、何となく理解できた。
全身の力が抜ける。
幸せな夢はあっという間に終わってしまった。