26.優月の温度
疲れたような表情で消えそうに微笑む優月は、俺が見た中で、一番近い存在に思えた。
どうしてこんな表情をしているんだろうか?
こんなカオをされたら俺…
「あんまり私のこと、困らせないでよね」
抑えのきかなくなりそうな衝動を見抜いたかのように、優月はいたずらな笑顔で俺を見た。
もうその顔に、さっきまでの疲れた影はない。
いつもの遠い存在の優月のようだ。
近付いたかと思ったら、一瞬で元通り。でも、もうこのまま遠のく優月をただ見ているなんてことはできそうもないし、したくもない。
「そんなに困るの? 俺が好きって言ったら」
優月を見つめた。多分、今までで一番真っ直ぐに。
「…困るよ」
優月はココアの入っているマグカップをぎゅっと握り締めた。
「どうして? 俺が『拓ちゃんの弟』だから?」
「…」
「だから困るの?」
ふうっと、ため息が聞こえた。伏せたままの瞳は、俺を見ようとはしない。
「ちょっと…違うかな? 圭ちゃんが『拓ちゃんの弟』だからじゃない。私が『拓ちゃんの彼女』だからだよ」
「え?」
優月の言いたいことが、俺にはイマイチ理解できない。どちらも同じことのように思えた。
「どういう意味?」
「分からなくてもいいの。でも、そういうこと」
どういうこと?
聞こうと思ったけれど、やめておいた。多分、優月なりの想いがそこにはあるに違いないし、今それは重要なことじゃない。
「優月、俺、困らせてるのは分かってるよ。でも…どうしようもない。おれ、兄貴の代わりにはなれないのかな?」
「圭ちゃん…」
瞳は伏せたまま、横目で俺を見る優月。
「兄貴の代わりでいい、優月のそばにいたいんだ」
ああ、つい最近こんな台詞を聞いたな。
そうだ、俺はついこの間今の俺と同じような言葉を赤城からぶつけられた。
あの時もこの言葉の意味は分かっていたつもりだったけど、俺が理解していたのは『言葉の意味』だけだったんだな…。
こんなにも切ない想いで、赤城もきっとこの言葉を俺にぶつけてきたんだ。
今、初めてこの言葉の本当の意味が分かったような気がする。
俺は随分、赤城を苦しめたに違いない。
赤城の顔がよぎって、俺は酸っぱいような気持ちを飲み込んだ。
人の気持ちが分かれば分かるほど、俺にはもう逃げ場はない。
この想いを今度は俺が優月にぶつけるだけ。
優月は再び俺から視線を外して、自分を抱くように、膝を抱え込んで小さくなっている。
「優月」
ほんの少し、優月に近付く。
「圭ちゃんは、圭ちゃん。拓ちゃんじゃない」
「そんなこと分かってる。でも、代わりとして見られたっていいんだ」
抑えきれず、じりじりとその距離を詰める。優月は膝に顔を埋めたままで目を閉じている。
「代わりだなんて、そんなこと思えないよ」
手を伸ばせば、触れられるところに優月がいる。
「圭ちゃんは、圭ちゃんだもん」
この衝動を抑えるなんて、もう無理だろ?
ぐっと、片手で優月の手首をつかんだ。
もう片方の手で、ぎっちりと握られていたマグカップを優月の手から離してテーブルの上に置く。そうして、両方の手首をしっかりと握った。
体を引き起こされた優月は、驚いて目を見開いている。
「じゃあ、俺を見てよ」
その瞳に、俺が写っている。
「兄貴の代わりじゃなく、俺を見て」
優月は固まったように動かない。じっと俺を見ている。
その唇が、やっとの思いで言葉をつむいだ。
「…どうして…」
「理由なんてどうでもいい。俺、ずっと優月が欲しかった」
右手でつかんだ手首を引き寄せ、左手を優月の背中に回す。
そのまま小さな頭を、俺の胸に押し付けた。シャンプーの香りが、ふわりと漂った。
「ずっとこうしたかった」
逃げられると思っていたのに、優月は俺の腕のなかでじっとしていた。まるで息を潜めるように。
右手でつかんでいた手首も離し、両腕で優月を包み込む。
薄い服を通して、ダイレクトに優月の体温が伝わってくる。温度だけじゃない。柔らかさも、それに反する骨の質感さえも、そしてその息使いさえも手に取るように伝わってきた。
自分の中の理性がばらばらに砕け散るのを、一歩手前のところで何とかこらえていた。
このまま押し倒したら、めちゃめちゃにしてしまいそうで。
優月が嫌がっても、抵抗しても、止まらなくなってしまいそうで。
その恐怖心が、何とか理性をつなぎとめている。
「…圭ちゃんは、私のことを分かってない」
腕の中で、優月がぼそりと呟く。
その声は振動となって、俺の鼓膜と俺自身を揺らした。
「分かってないからそんな事を言うんだよ」
優月の声が震えているのか、俺が震えてるのか、もうよく分からない。もしかしたらそのどっちもかも知れないし、どっちでもないのかも知れない。
「俺はいいよ、どんなんでも。優月ならそれでいいよ」
それは紛れもない本心。
「何でもいいんだ、優月なら」
言い聞かせるように繰り返す。腕の中でじっとしている優月に届くように。
「私、圭ちゃんの思ってるような女じゃないよ?」
顔を上げて俺の目を覗き込むように見つめた優月の顔は、さっきと同じ疲れたような表情だ。
「それでも、いいよ」
必死に自分をこらえて、優月のおでこに軽く唇が触れるくらいのキスをする。
優月は、驚きもしないでただ静かな顔で俺を見つめていた。
今度はゆっくりと優月に顔を近づける。
優月はまだ今なら俺から逃げることができる。
俺の腕を振り解けばいいだけ。
まだ、まだ今なら自分を抑えられるから。
だけど優月は逃げようともせず、ただ黙って、俺を見つめ続けている。
ゆっくり顔を近づけて、もうあと数センチで唇が触れるときに、優月が瞼を閉じるのが見えた。
その瞬間、俺の理性は粉々に砕け散っていった。
唇を強く押し付けたまま、その場に優月を押し倒した。
優月は黙って、俺のされるままになっている。
たとえ今更抵抗したところで、もう理性なんて物は吹っ飛んでるから、止められないけど。
むしり取るようにして、優月の服を奪い取る。
奪い取る物がなくなって、煌々と点いた部屋の灯の下、優月の白い裸体がぼうっと浮かび上がっているようだ。自身を隠す物を全てなくしても尚、優月の二つの目は俺を捉えたままで動かない。
初めて目にする優月の裸体と、真っ直ぐに見つめる視線に、俺の方がひるみそうになる。
でもその思いと、俺の中で完全に目を覚ました欲望とは別物だ。
自分のTシャツに手をかけたとき、優月の声がした。
「電気、消してくれるかな?」
「…分かった」
入り口にある居間の電気のスイッチを消すと、部屋の中はテレビの灯を残して闇に堕ちる。
そんなわずかな光の中、優月がゆっくりと起き上がって奥に歩いていくのが見えた。
明滅するテレビの灯を頼りに進んでいくと、優月はちょこんとベットに腰掛けていた。
今度こそ着ているものを脱ぎ去って、優月の隣に腰掛ける。
優月はさっきと同じように見つめ返してきた。
冷たくなった体を抱きしめ、ベットに倒れこむ。
首筋に、耳たぶに、胸に、思いつく限りのところにキスをする。
優月の反応なんて、恥ずかしいことにそんなことまで考えている余裕はなかった。頭の片隅に冷静な俺がいて、「ちゃんと優月の反応を見ろよ」なんて言っている気がしたけれど、まるで心臓が耳のそばに移動したかのように鼓膜を震わせて、そんな自分の声さえも遮ってしまった。
時々優月は思い出したように小さく抵抗したけれど、その度に俺は、その両手首を押さえ込んで、深いキスで唇をふさいだ。
何か聞きたくないことを言われてしまいそうで、怖かった。
その恐怖心がまた、余計に俺から余裕を奪い、きっと乱暴に優月を抱いていたに違いない。
「あ…」
苦しげに優月が声を上げた。
優月と俺の体温が溶け合う。
愛しさが、一気にこみ上げてくる。
「俺は、誰?」
荒い呼吸の中で、優月にたずねる。
「ねえ、俺は、誰?」
こうしてひとつになっていても、まだ遠い気がする優月。もしかしたら、優月の心の中では、今、俺じゃなくて兄貴に抱かれているのかもしれない。
さっき「代わりでもいい」と言ったばかりなのに、今繋がってるのが俺じゃないと思われているのは、考えるだけで引き裂かれるようにつらかった。
ふっと、頬に冷たい指先が触れた。
その指が、俺の頬のラインをゆっくりなぞる。
「あなたは圭ちゃんだよ」
僅かに照らされる光の下、優月はうっすらと微笑んでいた。
「圭ちゃん」
頬をなぞる優月の細い指先を握り締めて、その手にキスをした。
「この手はきっと届かない」を読んでいただきましてありがとうございます。
やっとラストが見えてきました。
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