25.もう一度
夕方から硬いベンチに座り続けて、もういい加減石になりそうだ。
空は夕焼けもとっくの前に消えて、既に真っ暗。
どれくらいの時間こうしているのかももうよく分からない。時計を見るのも面倒だ。
優月は俺からの伝言を聞いただろうか?
今日こそは来てくれるだろうか?
そんなことを、そんなことだけをずっと考えている。
ふっと、昔のことなんかが頭をよぎった。
初めて会ったとき、俺はまだ小学生で、優月からみたら本当にただのガキがったんだろうな。
考えてみれば、自分が高校生になったとき、小学生なんてガキすぎて眼中にもなかった。
そう考えたら、優月にとってもやっぱり俺はただのガキだな。彼氏の弟って肩書きのついたただのガキか。
でも今ではどうだろう?
俺は大学生になった。それでもやっぱりまだ優月にとっては、出会った頃のまんまだろうか?
どっちにしても、弟くらいにしか考えてなかった奴に「好きだ」とか言われたら、そりゃあ驚くだろうし、困りもするだろう。
俺やっぱり、好きになってはいけない相手を好きになってしまったのかな…。
ぽつり。
そんなことを考えていた俺の頬に、雨粒がひとつ、ぶつかって弾けた。
空を見上げると、細い糸のような雨が、次々と落ちてくるのが見える。そのいくつかが、俺の顔や髪や体を濡らした。
もういい加減諦めて帰れ、って言われているようだ。
そうだな、諦めてしまった方がいいのかもしれないな。俺の気持ちは優月を困らせているだけなんだし。
いつか言われたけれど、優月にとって俺は弟なんだし。
帰って、ベットで眠ってしまった方が、ずっと楽になれる。
自分の囁く声が聞こえたような気がしたけれど、それに従ってしまいたいと思ったけれど、俺の足は固まったように動かなかった。
髪の毛を伝って、雨粒が落ちていくのが見える。
Tシャツが、雨で張り付いてくる。
それでも動けなかった。
雨に打たれるまま、じっとベンチに座っていた。
雨音を聞いているうちに、甘い言葉を囁く自分の声も遠ざかり、だんだん空っぽになっていく。
だけど、何だろう。この妙に満足した気持ちは。
自己満足だよな、きっと。
くしゅん
ひとつくしゃみをした。
6月の終わりとはいえ、夜に雨に打たれているとなると、かなり体は冷えてくる。
風がない分、そんなに体温が奪われることもないけれど、指先なんかは冷たくなっていた。
木の陰で雨宿りしたらこんなに濡れなくて済んだのだろうけれど、優月の家からこの公園に来たとき、最初に目に付くのはこの場所だから。雨宿りなんてしていて、万が一優月が来てくれても、気付いてもらえなかったらどうしようもない。
…って、バカだなあ、俺。
優月が来るかどうか分からないのに。しかもこの雨の中、まだ待ってるなんて優月だって思わないだろう。
何だかおかしくなって、笑った。
そのとき、ふっ、と今まで俺に当たっていた雨が消えてなくなった。驚いてそのまま上を見る。視界いっぱいに花柄の傘が見えた。
「何笑ってるの? こんな雨の中で。バカじゃない」
「…うん。バカだね」
傘に隠れるようにして、怒ったような優月の顔があった。
傘に当たるパラパラという雨の音が、天上の音楽のようで、冷えた体も濡れた髪も一瞬で吹き飛んでいくようだ。
目の前に優月がいる。
「はい、バスタオル。ちゃんと拭いてね」
「…はい」
玄関に突っ立ったまま、渡された白いバスタオルで頭を拭いた。
ぽたぽたと落ちる雫が、玄関を濡らしている。
「はい、これに着替えて」
まだ怒ったような表情のままの優月から、押し付けるようにして服を渡される。
着替えろって…。
「上がっていいの?」
ここまで来てこの台詞もどうかと思ったけれど、思わず訊いていた。
「そんなべちゃべちゃなままで帰す訳にもいかないでしょ。服が乾いたら帰ってよね」
背中を向けたまま、不機嫌そうな優月の声。そのまま振り返らずに、居間に消えていった。
渡された服を見る。
これ、どう見ても女物だけど…。
大き目のものを選んでくれたのだろうけれど、渡されたTシャツもハーフパンツも、やっぱりどう考えても窮屈だった。
服の窮屈さと同じくらいに、気持ちも落ち着かず、窮屈な感じがした。
更に、服から香る洗剤と優月のにおいが、俺の理性をぐらぐらと揺さぶった。
着替えを済ませて居間のドアを開けると、不機嫌そうな優月が振り返り、俺を見た一瞬の後に「ぷ」と吹き出した。
「笑うなよ…」
「笑ってないよ」
優月はそう言って再び不機嫌な顔を作ったけれど、こめかみの辺りがヒクヒクしているのを、俺は見逃さなかった。
「はい」
と言って、マグカップを渡される。湯気を上げているココアは、見るからに熱そうだ。冷えた体には、ありがたかった。
「濡れた服は?」
「あ…玄関」
「そう、乾燥機にかけておくから」
そう言って優月は俺の服を取りに行った。
立ったままってのもおかしいので、とりあえずココアを一口すすって座り込む。ココアは想像以上に熱く、それでいて甘く、冷えた体にしみこんでいった。
優月は戻ってくると俺から離れた場所に座り込んで、ココアの入ったマグカップを大事そうに両手で包み込んだまま動かない。そのままじっとテレビを見ているようだ。
この間、ここで二人でうどんをすすっていたときのような気軽さはもうどもにもない。
でもこれは…そう、俺の望んだこと。
「こんな雨の中待ってるなんて、バカだよ」
優月がテレビを見たままでポツリと呟いた。
「バカでも何でも」
持っていたマグカップを、テーブルに置く。微かに俺の手は震えていた。
「どうしても優月にもう一回ちゃんと会いたかったから」
「バカだよ」
「そう思われてもいいよ。ホントに多分バカだから」
優月がココアを一口すすって、俺の顔を見た。
その表情はさっきまでの怒ったようなものじゃなくて、どことなく疲れたようなものだった。
そして、その顔でふっと笑う。
寂しげな、不安定な、悲しげな笑顔。
この間、俺を激しく拒絶したあの迫力はもうどこにもない。
弱々しい、今まで見たことのない、それは優月の表情だった。
「困った人」
小さく、目の前で弾けて消えそうな優月を、抱きしめたい衝動に駆られる。
理性の一部は、もう既にさっき脆くも崩れているというのに。