22.卑怯者
カシュ。
缶チュウハイを開ける軽快な音が、公園の湿り気を帯びた6月の闇の中に吸い込まれていく。
俺は350mlの缶を、息の続く限り一気にあおった。
炭酸で多少むせながら、半分ほど中身の減った缶をベンチの上に置く。
既に中身が空の缶が3本ほど転がっていた。
アルコールに弱い俺が酔うには、もう十分すぎる量だった。
さっきベンチの上に缶を置いたのも忘れて、ベンチの上にどっと横になる。左の肘に当たって、虚しい音を立てて缶が地面に転がる。残っていた中身が音もなくこぼれていくのを、俺はただぼんやりと見つめた。
「帰って」
頭の中で優月の声が響く。
受け入れてもらえるなんて、そんな甘いこと考えてなんかいなかった。
だけどあんなふうに、全身で拒絶されるとは思ってもいなかった。
あんなに激しい優月を見たのは初めてだ。
初めて見た激しさは、俺を拒絶するためのものだった。
「くそ…っ」
言葉も出ない。アルコールで頭の中は麻痺している。何も考えられないし、何も考えたくなんかない。
考えたって、頭に浮かぶことと言ったら優月のことばかりで、もうこれ以上拒絶されたときのことなんて思い出したくもなかった。
だから飲めないアルコールを買って、こんなところで一人で酔っ払っているんだ。
酔えば考えなくてすむだろうと思っていたのに…酔えば酔うほど、麻痺した頭に浮かぶのは優月のことばかりで…。
考えることを拒否した頭の中に、優月の映像は、まるで焼きついたように離れていかない。
「…終わったんだよ、もう」
自分に言い聞かせるように、わざと声を出してみる。
そうだ、終わったんだ。
ずっと隠し続けてきた想いを優月にぶつけて、見事拒絶された。
俺のこの何年もの思いは、もう優月によって終止符を打たれたんだ。
全部終わった、何もかも。
やっぱり俺には、兄貴から優月を奪い取ることなんてできなかった。兄貴には何ひとつかなわない。
ぼんやりと空を眺める。
星でも見えたら気が紛れたかもしれないのに、雲に覆われているのか、ひとつの星も見えはしない。
それどころか、酔いで空が回っているように見える。
大きく息をついて、目を閉じた。
横になっているベンチごと、ぐるぐると回って落ちていくようだ。
いっそこのまま、どこへでも落ちていけたならどんなにいいだろう…。
ブーブー…
ジーンズのポケットで震えている携帯で、はっとして目を覚ました。
一瞬なのか、それとももっと長い時間なのか、堕ちるように眠ってしまっていたようだ。
ごそごそと震える携帯を取り出すと、ディスプレイを確認する。
『赤城雛子』
その文字が、携帯の画面で光っていた。
何も考えることなく、通話ボタンを押す。
「もしもし、圭太君?」
「ああ、うん」
「あの、大丈夫だったの?」
「は?」
赤城が何のことを話しているのか、よく分からない。何が大丈夫だって? もしかして優月のこと? いや、知ってるはずないだろ。
俺がわけの分からないことをぐるぐる考えていると、受話器から赤城の声が聞こえた。
「あの…、今日お母さんから電話がきてから、慌てて帰ったじゃない。だから何かあったのかと思って…。何もなかったならそれでいいんだけど…」
「ああ」
そのことか。
やっと俺の中で話しがつながる。赤城と出かけていたのは、今日の出来事だっけ。なんだかもう何日も前のことのような気がするけれど。
「圭太君?」
「うん?」
「…なんか変」
「そーかあ〜? 大丈夫だよ。全部大丈夫」
俺は笑ってみたけれど、受話器の向こうの赤城は少しも笑ってはいなかった。
「ねえ、もしかして飲んでるの?」
「飲んでるよ」
「どこにいるの?」
「何で?」
「いいから、どこ?」
「公園だけど…」
「公園? 今日待ち合わせに使った? 今から行くから、そこにいて」
「は?」
俺の返事も待たずに、電話は一方的に切れてしまった。
「来るって…これから?」
もう誰ともつながっていない携帯電話を眺める。携帯の画面は、9時12分と表示していた。
横になったままで、乱暴に携帯をポケットに押し込む。
赤城に「そこにいて」と言われたからではなく、行く当てもないから、俺は公園のベンチに横になったままじっとしていた。手持ち無沙汰になり、起き上がって新しい缶を開ける。
やっぱりさっき少し眠ったんだろうか。
電話が来る前に比べると、多少頭がすっきりしているような気がした。
それと同時に、情けなさが急激に襲ってくる。
優月に拒絶されて、何もできなかった自分。
この何年もの想いを、遂げられなかった自分。
逃げるようにこんなところで、酔っ払っている自分。
…
色々なことが情けなくなって、そんな想いに押しつぶされそうになる。
「圭太君」
後ろから呼びかけられて、驚いて振り返る。
息を切らした赤城が、立って俺を見ていた。
「本当に来たんだ」
「行くって言ったでしょ」
ちょっと膨れた顔をしながら、赤城は俺の隣に座った。まだ数本アルコール飲料の入ったコンビニの袋から、一本取り出して「私も一本もらっていい?」と聞く。
俺が頷くと、ビールの缶を開けて、勢いよく一気に飲み干した。
「いい飲みっぷりだね」
「うん、ここまで走ってきたから喉が渇いちゃったの」
そう言うと、今度は勝手に袋から新しい缶を取り出して飲み始める。
「圭太君、ぼやぼやしてると、私全部飲んじゃうけど?」
「…別にいいよ」
言葉は素っ気無かったけれど、でも、赤城が来てくれて、正直さっきまでのあのつらい気持ちは多少和らいだ気がした。
二人、しばらく無言のままで飲み続けた。
数分して、赤城が空になった缶をベンチの上に置く乾いた音がした。それを合図に決めていたかのように、赤城が口を開いた。
「で、何かあったの?」
「何かって…?」
「お酒飲めない人が、こんなところで一人で飲んでるんだもん。何かあったんじゃないかって思うじゃない」
俺も缶の中に残っていた分を一気に飲み干して、空の缶をベンチに置いた。
大きく息をつく。
全部話してしまったら、きっと楽になるんじゃないかと思った。
自分勝手な俺は、そうすることが一番いいような気さえしてきた。
ただ、楽になりたかった。
吐き出してしまいたかった。
「優月はさ、兄貴の彼女なんだ」
「…優月…さん?」
俺は兄貴が初めて優月を連れてきたときから、ついさっき優月に拒絶されたことまで、思いつく限りのことを話した。こんなにも誰かに自分のことを話したのは初めてだ。
赤城はただ黙って俺の話を聞いているようだった。
俺の話が終わるまで、じっと、身じろぎひとつしなかった。
「…全部、終わったんだ。さっき、全部終わった。でも、あんなふうに拒絶されるなんて考えもしなかった。やっぱり俺じゃ、ダメなんだよ」
話し終えて、赤城の方を見た。
赤城は俺じゃなくて、真っ直ぐ前を見据えたまま、表情のない顔をしていた。何を考えているのかつかめなくて、袋から新しい缶を取り出して口をつける。
「それで」
顔を上げると、赤城が無表情のまま俺を見ている。「それで、圭太君は落ち込んで、こんなところでお酒飲んでたわけだ」
どう答えていいか分からなくて、無言のままで缶に口をつけた。
「で、吹っ切れたの?」
この質問にも答えられなくて黙っていると、赤城はすっと立ち上がった。
「じゃあさ、私とホテルでも行く? なんだったら、私の部屋ででもいいけど」
「は…? 何言ってんの?」
立ち上がった赤城の顔は、俺からは見えない。どんな顔をしてそんなことを言っているのか、全く分からなかった。
「だって、昔の女を忘れるには、新しい女が一番だって言うでしょ? だったら、私のこと抱いたら少しは気も紛れるんじゃない?」
「…自分、何言ってるか分かってんの?」
「分かってる。私とエッチしようって言ってんの」
「酔ってんの…?」
「酔ってない!!」
ドキッとした。
振り返った赤城の顔は怒っていて、大きな目に、今にもこぼれそうな涙が光っていた。
「本気だよ。誰かの代わりでもいいの。圭太君が好きだから、誰かの代わりだって構わない」
「赤城…」
真剣な眼差しに、圧倒された。
「でも俺、そんなつもりじゃ…」
「ずるいよ、圭太君。言ってなかったけど、私が圭太君のことを好きなのなんて、もう分かっていたでしょ?」
「…」
分かってた。赤城の気持ちは。その上で甘えてた。
「何が終わったて言うの? 優月さんに拒否されたから、それで全てが終わり? じゃあ、私も今終わったのかな? 圭太君が優月さんのことを好きだって事実を知ったから、私の想いも終わり? でも私はそんなのイヤ。私なら優月さんの代わりになったって構わない。自分の想いをこんな風に終わらせるなんてイヤだもん」
どう、答えていいか分からなかった。
真っ直ぐすぎる赤城の想いを受け止めきれないでいた。
「私は便利な女にされたって構わない。今はダメでも、いつか私のことを見てくれるようになるまで、できる限りのことをする」
真っ直ぐな想い。
俺にはない、真っ直ぐ向かっていくもの。
「圭太君の気持ちが弱ってるときに、こんなこと言うのは卑怯かもしれない」
卑怯…? こんなに真っ直ぐな気持ちが…?
卑怯なのは…。
「違うよ、赤城。卑怯なのは俺だよ。赤城の気持ち、分かってて甘えてた。利用してた。楽な方に逃げようとしてたくせに、それでもやっぱり優月を諦められなくて、そっちが失敗したらまた逃げて甘えようとした」
右手がふっと、温かくなった。いつの間にか隣に座った赤城が、俺の右手を包むように握っている。
「…だから、いいんだよ。私に逃げて来ていいんだよ。甘えて、いいんだよ?」
右手のぬくもりと、赤城の優しい囁きがすうっと、染み込んでくるようだ。
それでも、このぬくもりに甘えていてはいけない。
赤城の想いが真っ直ぐであればあるほど、俺はそれを利用してはいけない。
逃げてしまえば、甘えてしまえば、もう俺はずっと卑怯者のままになってしまう。
きっともう、優月に顔を合わせることもできなくなる。
「…ありがとう、赤城。ごめんな」
重ねられた手を、そっと離した。
「圭太君、私」
「ごめん」
赤城の伏せた瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちた。
「…分かった。でもね、私諦めたわけじゃないから。いつでも私のところに来ていいから」
無理に笑顔を作ってそう言うと、赤城は俺から離れて行った。
公園を出て行くまでその背中を見送る。
「ごめん」
届けるべき相手に届くことなく、無人になった公園に、俺の声は吸い込まれていった。