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21.それぞれの想い

優月のアパートから歩いて5分ほどのところにあるスーパーで、うどんの材料をそろえる。

かごの中には、思いつく限りの必要物品をそろえた。

もう一度かごの中身を確認する。

自分で作ったことなんて実はないから、どうしていいいかよく分からない。

それでも、優月のために何かできると思えば心底嬉しかったし、うどんだって根拠もないのに美味しく作れる自信があった。

…自分の不器用さもすっかり忘れて。

慎重にかごのものを調べ、自分なりに納得して、急いで優月のアパートに戻る。

さっきもあれほど走ったのに、少しも疲れを感じない。

っていうか、不思議なほどに足が軽く感じる。

誰かのために何かをするってことが、こんなにも嬉しいと思ったことはないかもしれない。


「ただいま」

弾むような気持ちで、優月の部屋に戻る。

「あ、圭ちゃん」

優月は散らかったままだった部屋の片づけをしていた。

髪も少し直したのか、さっきよりはましになっている。それでもやっぱり熱のある顔は変わらない。

「寝てなくていいのかよ」

「うん。いつまでも寝てられないでしょ? それに、少し動いた方が体も楽な気がする」

ゆっくりとした動作で片付けを進める優月。

俺はまた優月に「大丈夫だからもういいよ」って言われるような気がして怖くて、慌てて買い物袋の中をがさごそし始める。

それから、それらを台所に並べ始めた。

並べたのはいいけれど、いざうどんを作ろうと思ったら、さっきまでの自信はどこへやら。全くどれから手をつけていいか分からない。

とりあえず、買ってきためんつゆの瓶を見たけれど、うどんの作り方なんて書いているはずもない。

そうだ、とりあえずお湯でも沸かそう。

そんなことを思いついて行動を開始しようとしたとき、横から俺を覗き込んでいる優月に気がついた。

「なんだよ! そんなとこにいたらびっくりするだろ!」

びっくりして、よろめいてしまった。

優月は、見透かすような目で俺を見ている。

「…なんだよ」

「圭ちゃん、本当に作れるの?」

「作れるって! 多分…」

「多分?」

「…いや、作ったことはないけど、作ってるところ見たことはあるし…」

だんだんしどろもどろになって、声も小さくなっていく俺を、優月はため息をついて眺めた。それから、呆れたような顔でふっと笑う。

「私作るよ。できれば美味しいうどん食べたいしね」

「優月、でも俺」

作れるって。そう言おうとした俺に、優月が包丁を差し出す。

「できるまで待ってて、なんてことは言わないよ。ちゃんと手伝ってもらうから」

「分かった」

急に暖かいものが流れ込んでくるような気持ちになった。


それから二人で台所に立って、うどんを作り始めた。

優月の指示で、お湯を沸かしたり、具材を切ったりする。包丁を持ったのなんか、中学の家庭科の授業以来だ。何度も指を切りそうになったし、切ったものなんか、サイズも形もばらばらだ。優月が何度も恐怖に引きつった顔で(そんなに危なっかしかったんだろうか?)、「代わるよ」と言ったけれど、俺は真剣に作業を進めた。

優月が、うどんのスープを作っている。

味見に一口渡された。「どう?」と聞かれたけれど、そのスープは奇跡のように美味しかった。

暖かい湯気が立ち上り、夕暮れが近付いた頃にうどんは出来上がった。

優月の熱は落ち着いてるのか、数時間前よりも調子もよさそうだ。

「圭ちゃん、あとはいいから座ってて」

そう言われて、居間の方に座り込む。慣れないことをしたせいか、肩も腰もすっかり凝ってしまっている。包丁を持っていた手なんか、あんな短時間なのに、力の入れすぎで包丁の柄が当たっていたところがへこんでいた。

苦笑いで自分の手を見つめ、それからネギを切っている優月の背中を眺めた。

俺とは違って、軽やかな、慣れた手つきでネギを切っている。

上手だね、なんて言ったら、馬鹿にしないでよ、とか言われるんだろうか。

小さな背中だ。

俺がまだ小学生の頃から、いつも兄貴の隣にあった背中。

その背中も、ひとつに結んで背中で揺れる髪も、ネギを切る手も、俺が初めて会ったときから、その全ては兄貴のものだった。

あの頃から…今でも。

一度でいいから、その全てを兄貴から奪ってしまいたいと思う。

兄貴から奪い取って、俺のものにすることができたならどんなにいいだろう。

俺の中で、押さえ切れないくらいの想いが蠢きはじめる。

いつまで押さえられるだろう…でも、本当に押さえなければならない…?

もう、いいんじゃないか…?


「お待たせ、できたよ」


何も知らない顔で、にっこりと優月が微笑む。

「ちょっと早いけど、食べるでしょ?」

「ああ、うん…」

できたばかりのうどんを入れたどんぶりがテーブルの上にふたつ置かれて、向かい合って座る。

「さ、食べよ。いただきます」

暖かな湯気の向こうで、優月が笑っている。

「うん、いただきます」

湯気の向こうの優月と、食欲に誤魔化されてしまった、さっきまでの激しい想い。

「ん、美味しいね」

「そうだね」

多分、20年生きてきた中で一番美味しいうどんを食べながら、相槌を打つ。

あの激しい想いは、誤魔化されただけで、俺の中に確実にあるんだ。



「今日はありがとう」

食事も終わり、とりあえずどんぶりを台所に片付けて、俺は優月の入れてくれた熱いお茶をすすった。

優月は数種類の薬を飲み下して、息をついた。

「心配してくれてありがとね、圭ちゃん」

「別に…。それより、もう熱ないのかよ?」

面と向かって「ありがとう」を言われるのは、照れくさいってよりも、何だかくすぐったい。

「うん。さっき計ったら平熱でもないけど、かなり下がってきてる」

「そっか」

ほっとした気分で、テレビの画面を見る。テレビでは、堅苦しい夕方のニュースをやっていた。

「何年か前にね」

「ん?」

振り返って見た優月の顔は、懐かしそうに優しい顔をしていた。

「何年か前、同じように私が風邪ひちゃったとき、拓ちゃんも今日の圭ちゃんみたいに来てくれて、おかゆ作ってくれたことあったんだ」

「へえ…」

思い出を話す優しい優月の顔とは裏腹に、俺の心は急速に凍り付いていくようだった。

「そのときの拓ちゃん、実はおかゆの作り方なんて知らなくって、結局私も一緒になって作ったの」

「…」

「やっと出来上がったんだけど、どこをどう間違えたのか、ちっとも美味しくなくて」

優月はくすくすと笑った。

「拓ちゃんって、本当に何でもできる人だったけれど、料理の方はさっぱりだった」

知らなかったよ。兄貴が料理できないなんて。って言うか、知りたくもなかったよ。

「今日の圭ちゃん見てて、ああ兄弟だなって思っちゃった」


ちりちりとした痛みが、全身を駆け抜けていくようだった。

聞きたくなんかなかったのに、兄貴の話なんか。

忘れ去って欲しいのに、兄貴の存在なんか。


「でもそのことあってからね、拓ちゃんたら料理の勉強を始め」

「優月」

なおも兄貴の話を続ける優月の言葉を、強引に遮る。

「な…に?」

さっきまで優しい顔をしていた優月の顔が、俺を見た途端に凍り付いたのが分かった。

自分がどんな顔をしているか、簡単に想像できる。

そしてそれは多分、間違っていない。

「…どうしたの?」

優月の声が、不安げに揺れている。

でも、だからといって、もう自分の想いを押さえつけるなんてできそうもなかったし、押さえつけようって気もなかった。


「優月にとって俺は、ただ、兄貴の弟ってだけ?」

「圭ちゃん?」

「ずっと俺にとって優月は、兄貴の彼女ってだけの存在じゃなかったのに。優月にとっては、俺はただの彼氏の弟? それ以外の何者でもないの?」

俺は優月の両肩をつかんで、正面から優月を見た。

優月は険しい顔で俺をしばらく見つめ、それから目を逸らした。

「何か言ってくれよ。優月。俺はずっと、優月だけを見てきたんだ。ずっと優月が欲しいと思ってた」

抱きしめようとした俺の手から、優月はするりと逃れた。

「…悪いけど、圭ちゃんの気持ちには、こたえられないから」

優月は俺の方を見ないでそう言った。

冷たい、突き放すような言い方だった。

俺はぐっと拳をにぎる。優月は目の前にいるのに、どうしてこんなにも遠いんだ。

自分の中に、火がついたのが分かった。

「あんな状態なのに、これからどうなるかも分からないのに、まだあんな兄貴のことが好きなのかよ!」

言ってからはっとする。こんなひどいことを言うつもりはなかったのに。

…いや、もう偽善はやめよう。これは正直な気持ちだ。あんな状態の兄貴を、いつまで想い続けるつもりなんだ。

優月を見る。

心臓が止まるかと思った。

見たこともないくらい鋭いまなざしで、俺のことを睨みつけていた。

「…そんなんじゃない」

鋭いまなざしに射抜かれて、一瞬思考回路が完全に停止していた俺は、優月の口から出た予想外の答えに気付くのに数秒の間を要した。

「…え…? そんなんじゃない…? じゃあ」

じゃあ、兄貴を好きでそばにいるんじゃない?

じゃあ、どうして?

「ゆづ」

「帰って」

「だって」

「帰っててば!!」

俺の質問に答える気はさらさらないことは、さっきからずっと変わらない優月の睨みつけるような鋭いまなざしを見れば分かる。

「圭ちゃんの気持ちにこたえる気はないの!! だから帰って!! もうここには来ないで!!」

いつも穏やかな優月から想像もつかないような激しさだった。

優月の存在全てが、俺を拒絶しているようだ。

さっきとは違って弱くなってしまった俺の視線を真っ直ぐに受け止め、尚も優月は俺を睨みつける。

それでも、最後の願いを託すように、その名を呼んでみる。

「優月」

「帰っててば!!」

目の前の糸が切れてしまったような思いだった。

落ちていくような感覚をこらえながら立ち上がり、なす術もなくふらふらと玄関へ歩く。

振り返ることもできないまま、俺はその部屋をあとにした。



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