20.そばにいたい
自分でも、どうしてこんなに走っているのか分からないくらいに走った。
息は苦しいし、横っ腹も痛い。
でも足は俺の意思とは別物のように、走ることを選んでいるようだった。
映画館に置いてきてしまった赤城のことが、気にならないわけじゃない。あんなに水族館も楽しみにしていたのに、俺に気を使って、アクション映画を選んでくれたのに、それなのに、ろくに言い訳もしないまま、その場に残してきてしまった。
後悔の思いが何度もよぎったけれど、俺の視界を過ぎ去っていく景色のように、またその思いもよぎってはあっという間に消えていった。
どれくらい走ったのか分からない。
ただひたすら走って、優月のアパートの前まで来ていた。
膝のところに手をやって自分の体を支えながら、息を整える。そんな中でも、俺の左手は携帯電話のリダイヤルを押していた。
冷たい携帯を耳に押し付ける。
聞こえてくるのはやっぱり機械的な呼び出し音だけで、優月の声を聞くことはできない。
部屋にはカーテンがされている。
やっぱりいないんだろうか。
俺はふらふらと階段を上り、優月の部屋の前に立った。
自分でもどうしていいか分からない。
でも、優月がどうしているのか分かるまでは、気持ち的に帰れそうもなかった。
いないと分かっていても、チャイムを押す。
勿論反応はない。
でも、なんだろう。違和感がある。
違和感の理由はすぐに分かった。
部屋の中から、かすかにだけれど、テレビの音らしきものが聞こえてくる。
考えるより先に、ドアのノブをつかんでいた。それは簡単に動き、かちゃりという音と、ドアの開いた感触を伝えてくる。
自分で優月の部屋のドアを開けたくせに、俺は思ってもいなかった展開に立ち尽くしていた。
頭の中に、ありふれた刑事ドラマのワンシーンが浮かぶ。
鍵のかかっていない部屋の中には、既に呼吸をしていない人間が…。
…って、そんなわけないだろう!!
すぐさま自分のわけの分からない思考回路に突っ込みを入れながらも、背中にはじっとりと冷や汗をかいていた。
「優月…?」
囁くような声で呼びかけ、靴を脱いで優月の部屋に上がりこむ。部屋の中からは、確かにテレビの音が聞こえる。カーテンをしてあるから、部屋の中は薄暗い。
居間のドアをそっと開け、覗き込むように部屋の中を見る。
この間来た時よりも、部屋の中は散らかっていた。いつから付けっぱなしなのか、到底優月の興味を引くとは思えない番組が、テレビでは流れている。
「優月?」
もう一度呼んで、居間の中に入った。
大きなクマのぬいぐるみの足に顔をうずめるようにして、ベットに横たわる優月をすぐに見つけた。
急いで駆け寄る。
「生きてるじゃん…」
バカみたいなことを口にして、それでも心底ほっとしている自分がおかしかった。
優月は生きてることは生きているけれど、呼吸も荒くて、苦しそうだ。
そっと額に手を当ててみる。
ひどい熱だ。
額に当てた手をずらしたとき、優月の視線とぶつかり一瞬時が止まる。
「…っうわ!!」
思わず声がでてしまった。心臓が今までに経験したことがないくらいに、物凄いスピードで動いている。
「なに、大きな声、出してるのよ。私のほうが、叫びたいくらい。ここで、何、してるの?」
苦しそうな呼吸で、顔の半分を布団で隠した優月が、不満そうな声を出した。
「何って…」
そう言われると、どう答えたらいいか分からない。
「どう、やって入って、きたの?」
「鍵、開けっ放しだったよ。無用心。中で殺されてるかと思った」
俺の言葉に、優月は微かに笑った。笑ってるけど、本気で心配してた。何てことは言えない。
「いつから?」
「何が?」
「いつから寝込んでるの?」
話の方向性を変えることに成功した俺は、ベットのそばに座り込んでそう聞いた。
「金曜日」
優月は布団から顔を出して、ほうっと、息をついた。
「病院は?」
「行った。近くの、内科。薬もらって、飲んでるよ」
「熱、下がんないの?」
「上がったり、下がったり。それの繰り返し。今、何時?」
「3時過ぎ」
「そっか」
そう言うと、優月は体を起こして伸びをした。顔も髪もずっと寝てたから、ぐちゃぐちゃだ。
でも俺は、そんな無防備な優月の姿が見れて、妙に嬉しい。
きっと、優月のこんな無防備な姿を、兄貴はいつも無条件に見ることができたんだろう。
こんな姿を見ることができるのが最後にならなければいいと、俺は心の中で密かに願った。
「圭ちゃん、ちょっと、そっちに行っててもらえるかな」
「何で?」
「着替えんの」
「あ、ああ」
優月の言葉に慌てて居間の方へ行き、アコーディオンカーテンを閉める。
気にしないようにと思っても、アコーディオンカーテンの中で優月がたてる小さな物音にも、俺の心臓は即効で反応した。
優月が相手になると、俺は本当に中坊のようだ。
本だってビデオだっていくらでも見たことがあるんだから、女の裸を見たことがないわけでもないのに、しかも童貞でもなし、仕切りの向こうで着替えをしていることにこんなに反応する必要もないじゃないか。
頭ではそんなことを考えていても、心臓はまるで耳の近くにあるようにどくんどくんと響いた。
「覗いて、ないよね?」
着替えを済ませて、少しさっぱりとした感じの優月がアコーディオンカーテンの隙間から顔を出している。
「覗かないって」
普通の声、出せていただろうか。
多分、顔は赤いだろうから、優月の方は極力見ないようにしよう。
「ああ、体中が痛いなあ」
そんなことを言いながら、優月も居間の方にでてきた。それから、締めっぱなしのカーテンを開ける。
「…昨日も、今日も、拓ちゃんのところに行けなかったな」
その言葉に、俺の中のどこかがちくりと痛む。
こんなに調子の悪いときくらい、兄貴のことなんて忘れたらいいのに。
「母さんが心配しててさ、優月ちゃんが来てないから、何かあったんじゃないかって」
「ああ、そうか。それで圭ちゃん、わざわざ来てくれたんだね」
「ああ、うん…」
曖昧な返事をする。
ここに来たのは、母さんに言われたからなんかじゃない。赤城を置き去りにしてまでここに来たのは、間違いなく俺の意思だ。
「ありがとう。もう、大丈夫だから」
「は?」
優月は熱でふうふう言いながらも、そう言うとにこりと笑った。
「だから、もう大丈夫だから、圭ちゃんも帰って自分のことしていいよ」
…腹が立った。
何だか追い返されるみたいな気がして、無性に腹が立った。分かってる。優月がそんなつもりで帰っていいって言ったわけじゃないことくらい。
「熱があるんだったら、何で俺に電話してこないんだよ」
「え?」
優月がきょとんとしているのが分かる。そりゃそうだ。俺の言ってることはむちゃくちゃだ。
「動けないなら、俺に電話してきたらいいだろ。そうしたらすぐにここに来たのに!」
自分で言ってて情けない。これじゃまるでガキのわがままだ。
「だって…圭ちゃんには電話できないよ。迷惑かけていい相手じゃないもん」
「…」
分かってるさ。俺は単に拓ちゃんの弟の圭ちゃんなんだ。優月が困ったからって、頼る相手じゃない。
それでも…それでも俺は、優月に頼って欲しかったんだ。
「優月、なんか食べたの?」
「え? ううん。昨日の夜に食べたっきり」
「…うどんとかって、食べれる?」
「うん。うどんは好きだけど…」
俺は優月の腕を取って立たせると、ベットに座らせた。
「圭ちゃん?」
優月は不思議そうに俺の顔を見上げている。
熱でピンク色になった頬も、潤んでいる目も、いつもと違う彩りを優月に与えているようで、俺は真っ直ぐにその顔を見ることができない。
「ついでだからさ、なんか食べるもの作ってやるよ」
「え? いいよ、そんなの、私作」
「もうここまで来たんだから、ついでだって。うどんくらいなら俺だって作れるから」
言いかけた優月の言葉を強引に遮って、俺は一方的に続ける。
「これから材料買って来るからさ、優月は横になってたらいいよ。無理はよくないから」
「でも…」
「いいから、待ってて、すぐに帰ってくるから」
優月の反応も見ずに、俺は急いで部屋を出た。
あれ以上優月の反応を待っていたら、断られてしまうような気がして怖かったから。
確かにここまで来たんだから、ついでってこともあるし、それに病人だってことが分かったのに一人にしておけないってのもあった。でもそれ以上に、俺が優月のそばにいたかったから。
病気を言い訳にしているみたいで嫌だったけれど、それでも病気でも言い訳にしないと、優月のそばにいることなんてできない。
ああ、そういえば俺、いつも言い訳ばっかりだな。
あれ?
そういえばうどんの材料って、何入れたらいいんだっけ…。
鶏肉と、ネギと…それから?
妙にうきうきしている自分がいた。
優月にうどんを作ること以外、どうでもいい事のような気さえしていた。