2.週末
「おはよう、圭ちゃん」
光の中で、優月が笑った。
花を持ってきたのか、花瓶には真新しい花がいけられ、窓が少し開けられて窓辺のカーテンがゆれている。
6月の風が心地いい。
風が入れられたことで、独特の病院臭さはいくらかいいようだ。
週末、いつも俺たちはこの病室で顔を合わせる。
そういうことになってから、もう8ヶ月近くが経とうとしている。
毎週、土曜日と日曜日、特別な用事でもない限り、優月はこの病室にやってくる。
だいたいいつも、朝の10時頃から夕方の4時頃まで優月はここにいた。
ここ、兄貴の病室に。
「圭ちゃん、今日は早いんだね」
優月はベットサイドのイスに腰掛けながら言った。
「ああ、今日は何だか早く目が覚めたから」
俺も優月の隣に腰掛ける。
優月との距離はほんの1メートルもない。
柔らかな香りに、俺は軽いめまいを覚えた。
ここが病室じゃなければ、理性を保てるかどうかは謎だった。
「最近学校はどう?」
俺の方を見る優月。
頼むから、そんな至近距離で俺を見ないでくれ。
俺は優月から目を逸らして、自分の足元を見た。
汚れたスニーカーを見つめる。
「別に変わったこともないよ。優月は?」
声が上ずったりしないように、慎重に言葉を吐き出す。
一瞬の沈黙の後、優月は静かに笑っていた。
「なに?」
「ううん、別に。ただ、圭ちゃん、昔は私のこと『ゆう姉』とかって呼んでくれてたなって思い出して」
「そうだっけ?」
「そうだよ。いつ頃から私のこと優月なんて、生意気に呼び捨てするようになったんだっけね」
「…忘れた」
俺はただ汚れたスニーカーをじっと睨み続けた。
本当は覚えているよ。
優月を意識し始めた中3のあの頃から、俺は優月を『ゆう姉』って呼ばなくなったんだ。
ちらりと隣の優月の足元を見る。
綺麗な色の、ヒール。
いかにも大人の女が履いているような。
自分の汚れたスニーカーと見比べると、それが俺と優月の絶対的な距離のような気がしてくる。
ハタチの大学生の俺と、24歳のOLの優月。
優月にしてみれば、俺は未だに出会った頃のまま、ガキなんだろう。
そんなことを思ったら、無性に腹が立ってきた。
「ねえ、圭ちゃん」
「ん?」
スニーカーを睨みつけた厳しい視線のままで、優月を振り返ってしまった。
優月は俺の意味不明な厳しい視線と出会い、驚いた顔をしている。
「…どう、したの?」
「あ、いや、何でもない」
俺は慌てて笑顔を作ってみたけれど、それが成功したかどうかは分からない。
「で、優月は何?」
「え? うん。今日は拓ちゃんちょっと顔色いいなと思って」
俺は目の前に横たわっている兄貴を見た。
「そうか?」
俺には分からない。
俺の目の前にいる兄貴の顔色なんて。
もう8ヶ月も言葉を発しないどころか、俺たちを見ることも無い兄貴。
ただ、存在しているだけに過ぎない。
俺たちを、優月を苦しめ続ける兄貴。
もう兄貴は、昔の面影もほとんどない。
24歳のはずの兄貴は、20歳以上老け込んだように見えた。