12.静かな炎
次の日、目が覚めるともう10時を回っていた。
カーテン越しでも、今日も晴れていることが分かる。
起き上がって大きく伸びをした。
どうやら、二日酔いは免れたみたいだ。
昨日、この部屋に着いたのは2時少し前だった。
何だか異常に疲れてしまっていて、着替えることもなく服のままで眠り込んでしまった。
もう一度時計を見る。
この時間なら、もう優月は病院に着いているだろう。
いや、昨日あれだけ飲んだし、今日はもしかしたら来てないかもしれない。
来ていなければいい…
そんなことをふと思った。
一日くらい兄貴の所に通うのをサボってくれた方が、何だか付け入る隙があるような気がして。
付け入る隙って…。
俺ってやっぱりどこか卑怯だよな。
そんなことを考えながらも、体はもう病院に行く支度を始めていた。
鏡を覗き込む。
よほどぐっすり眠っていて、寝返りも打たなかったのか、思ったよりもぐちゃぐちゃにはなっていない。
それでも、昨日居酒屋で飲んでいたから、タバコのにおいやら、何だか焼き鳥のようなにおいやらが服にも髪にもついてしまっていた。
面倒だけど、シャワーを浴びることにする。
病院という場所には、あまりにも似つかわしくないにおいをさせていくのは気が引けるから。
シャワーを浴びて、用意を済ませると、俺は家を出た。
11時を過ぎたところだった。
病院に着いたら11時半くらいになるだろう。
優月は来ているんだろうか。
今まで優月が休日に兄貴の病室にいないことはなかった。
…いなければいいのに。
またそんなことを考えていた。
「圭ちゃん、今日は遅かったんだね」
優月のそんな一言で、俺の儚い願いはあっさりと消されてしまった。
白い病室の中で、優月はちょこんと兄貴のベットのそばに腰掛けていた。
「昨日、誰かに付き合ってて遅かったから」
そんなつもりはなかったんだけれど、ちょっとだけ嫌味な言い方になってしまう。
正直、優月がここにいないことを願っていたから、優月の笑顔がつらかった。
「昨日はごめんね、圭ちゃん。鍵までかけていってくれたんだね。もう私、全然覚えてないの」
「どの辺から?」
「多分…家に帰ってきて、ビール何本か空けた頃から…変なこと言わなかった?」
変なこと…ね。
急に笑ったり、怒ったり、最後は泣いてたけど。
それから…変に遠い目なんかしていた。
どこかに行ってしまうんじゃないかと思うくらいに。
「圭ちゃん?」
黙りこくった俺の目を覗き込む優月の視線とぶつかった。
優月はいる。
俺の目の前に。
「うーん、秘密。知らない方がいい事もあるかもよ」
「うわ、やっぱり私変なこと言ったか何かしたんでしょ。本当にごめんね、圭ちゃん。そうだ、今日お昼おごるから」
時計を見た。
もう少しで昼になる時間。
「ほら、時間もちょうどいいし。拓ちゃんのご飯始まるの確認したら、一緒にご飯食べようよ」
そんなことを話していたら、顔馴染みになっている看護婦の広田さんが病室に入ってきた。
「あら、今日も二人揃ってるんですね。そろそろ藤本さんの食事、始めてもいいですか?」
「お願いします。今、ベット上げますから」
「すいません。いつもどうもありがとう」
広田さんはにこやかにそう言うと、点滴台にドロッとした液体の入った袋をぶら下げる。
その間に優月は、慣れた手つきで兄貴の膝の下や体の横にクッションを置き、それから足元のレバーをくるくると回した。
ベットの頭側がゆっくり上がっていく。
「優月さん、もうプロ並みね。これからでも看護師になったら?」
広田さんは、準備の手を止めることなく、感心したようにそう言った。
「いやだなあ、見よう見まねですよ。これで大丈夫かしら?」
広田さんは、上体の起こされた兄貴を色々確認しながら、「ええ」と頷いた。
「じゃあ、そろそろ始めますね」
何やらてきぱきとこなす広田さん。
この動きはもう何度も見ているけれど、素人の俺には何をしているのかよく分からない。
最後に広田さんは、ドロッとした液体の入った袋から伸びる管を、兄貴の鼻に入っている管とつなげた。
それは点滴と似ていた。
ドロッとした液体は点滴のような仕組みでぽたぽた落ち、ゆっくり兄貴の鼻につながっている管の中を流れていくのが見えた。
「はい、後は終わるまでちゃんと見に来ますから、ご心配なく」
広田さんはそう言って、病室を出て行った。
『経管栄養』と言うそうだ。
兄貴の鼻に入っている管は、胃まで届いていて、あの袋の中の液体は栄養剤なんだそうだ。
兄貴はそうやって栄養を取らないと、自分では食事することさえできない。
兄貴は本当に生きてるんだろうか。
それとも生かされてるだけなんだろうか。
生きたいと思っているんだろうか、それとも終わりにしたいと思っているんだろうか。
どっちを望んでるんだろう。
今はもう、答えられないのは知っているけれど、話ができたとしたら兄貴はどっちを望むだろう。
「圭ちゃん、ご飯食べに行こっか」
優月が微笑む。
「うん。うまいもの奢ってくれるんでしょ?」
「そうだな、何にしよう」
二人で病室を出た。
『食事中』の兄貴を残して。
ねえ、兄貴。
本当にこのままなら、俺、優月のことどんなことしても手に入れようとするかもしれないよ。
優月の気持ち無視しても、自分気持ち、押し付けるかもしれないよ。
仕方ないよね。
俺は生きているんだから。
優月は俺のそばにいるんだから。
俺は優月が欲しいんだから。