4
突撃する小鬼の奴隷兵一〇〇〇は異様な雰囲気に包まれていた。
こんな小城を、攻めあぐねている。
どころか後背を新手に攻められ、陣は大混乱だった。
隊を束ねる中隊長たちは斥候に罵りをぶつけ、部下を足蹴にしながらも踏み止まっている。
先手大将である<先触れ>のギイグルはそんな部下たちの様子を頼もしく見ていた。
女だが、髭が濃い。典型的なゴブリンの女将軍だ。
矮躯は分厚い筋肉に鎧われ、革鎧から覗く褐色の肌には傷が生々しい。
その百戦錬磨の勇将であるギイグルは、常に無い苦戦に得も言われぬ昂りを感じていた。
この冬の戦いは、例年通りの単なる略奪ではない。
小鬼の女王による親征だった。
北方十三氏族の内の八つまでを糾合しての大南進政策は、毎年餓死者を出す小鬼族にとっては宿願であり、成さねばならない種族の悲願と言える。
所詮はこの一〇〇〇、先発の威力偵察隊に過ぎない。
数万を数える女王の軍勢は、まだ猿共との境界を越境すらしていないのだ。
「堅いな」
「よほどの守り手を据えたのでしょう。無毛猿にしてはよく守ります」
脇に侍する雄の副将もギイグルと似たような感想を抱いるらしい。
つまり、この大作戦が事前に猿共に漏れていた、ということだ。
小鬼族と無毛猿族の間にも通商はある。
豊かな山の幸を渡す代わりに、小鬼族は塩や海産物を猿共から得ていた。
「商人ども、かな」
「恐らくは。いずれにせよ今回の御親征で我らは海を得ます。煩わしい取引無しでも塩が得られるようになれば武技の拙い商人共など奴隷にしてしまえば良いのです」
それは小鬼種族全体の共通した認識だった。
阿漕な猿の商人たちは、何かと理由を付けては塩の値段を上げに掛かる。
製造の手間賃、輸送費ならまだ分かるが、小鬼族には塩税というものが理解できない。得体の知れない詐術で以って塩の値段を吊り上げる猿商人たちは、次第に憎悪の対象となっていった。
<先触れ>ギイグル率いる威力偵察隊は中隊長以上を除いて、単なる雄の農奴の寄せ集めだ。
言わば使い捨ての戦力であり、口減らしにも丁度よい。
大親征で新たな縄張りが貰えるにしても、増え過ぎた氏族の農奴は少し減らすくらいがいいのだ。
ギイグルの氏族を束ねる氏族長は、親征が成功した暁には無毛猿の奴隷を幾らか買い求めるつもりだという。ならば農奴の数は減らして構わないはずだった。
「それにしても、よく守る」
まるで石臼のようだ。
農奴階級出身のギイグルは子どもの頃、石臼で木の実を挽くのが仕事だった。
無毛猿の砦は巧く機能している様で、磨り潰されるように雄が死ぬ。
ゴブリンにとって、雄の損失というのはあまり大きく見られない。
最悪の場合、健康な雄が一人残ってさえいれば子孫は増やすことが出来るからだ。
とはいえ、小癪ではある。
雄が幾ら死んでも構わないが、栄えあるゴブリン軍が無毛猿風情に後れを取るというのは度し難い。
「一度、退くか」
「よろしいので?」
問いかける副将にギイグルは微笑みを返す。
綻んだ口元から黄ばんだ乱杭歯がこぼれる。
「雄は消耗品だがな、私は負け戦が嫌いなんだ」
○
あちらこちらで勝鬨が上がっていた。
快勝、といって良い。
縦横無尽に駆ける騎馬の一群に追い散らされ、小鬼の軍は潰走を始めている。
追撃は義父に任せ、ジャン=ジャックは早速砦の修理に人数を差し向けた。
これほど見事に撤退すれば、よもや偽装ということもないだろうが、次の戦に備えることは大切だ。
勝利に酔いながら、ジャン=ジャックの気持ちは晴れない。
戦場の狂気に身を委ねていた時は、良かった。
だがそれも終わってしまえば次への不安が頭をもたげる。
ゴブリンから城を守り抜いたところで、本当の敵である<破城槌>ユーグと事を構えねばならないのだ。
小心者であるがゆえに、ジャン=ジャックは誰よりも次の支度を抜からぬ将へと育ちつつある。
自ら壁の補修を指揮していると騎乗の士が一騎、背後から近付いてきた。
ジャン=ジャックは振り返りもしない。誰だかは、よく分かっている。
分かっているからこそ、敢えて素気なく声を掛けた。
「義父上、増援痛み入ります」
「何、親子のことだ」
義父であるユーグ・ダナンの声は、不自然に優しい。
この声音の心地よさには、人の心を蕩かす魔力がある。
だからこそ、人を騙し誑かし続けても、この梟雄は男爵の地位に在ることが出来るのだ。
「いい砦を、造ったな」
「……<破城槌>のユーグ・ダナンに褒められるとは光栄です。まだまだの代物ですが」
「謙遜するな。儂が褒めている。素直に喜べ」
事実、ジャン=ジャックは沸き上がる愉悦を抑えるのに苦労していた。
あの<破城槌>が砦を褒めるなど、滅多にない。
しかもその賞賛は、他ならぬ自分に向けられたものなのだ。
ジャン=ジャックは、作業の手を止めて義父に向き直った。
「ジャン=ジャック。今日の敵、どう見た」
「いつもの略奪とは違うようです」
「そうだな」
ゴブリンによる略奪は、この地方では風物詩と言っていい。
北の山岳地帯から現れては、村々を襲う。そのゴブリンを追い払うことでユーグたち地方領主は住民にその地位を認められていると言っても良い。強いものに、庇護を求める。
であれば、ゴブリンを追い払うのは領主に取っては義務であり、権力を維持する為の示威でもあった。
「また、来るぞ」
「でしょうね」
ユーグも、ジャン=ジャックと同じ感想を抱いているらしい。
あれは、偵察だ。
本隊に先行して敵地に侵入し、相手とぶつかってその力量を計る。
そう考えれば中途半端な規模にも、略奪よりも戦闘を優先したことにも合点がいく。
「この砦で、防げるか」
「さて」
ジャン=ジャックは言葉に詰まった。
この砦はあくまでも、ユーグ・ダナンの軍勢を相手として想定している。
今日の寄せ手は練度が酷く低かったからこそ一〇〇〇でも防ぎ切れたが、次もそうとは限らない。
「とはいえ、この砦で守るしかない。ここを抜かれれば、まともな砦はほとんどないからな」
「アナン城が」
「あれは、儂が造った。儂が一番よく知っている。あれでは、支え切れまい」
「それは」
思わず、息を飲む。
沈黙が流れた。
それはつまり。
「お前の作った砦は、信頼に値する」
憎むべき義父から掛けられた言葉に、浮かんできたのは不思議と怒りだった。
鉛の煮えるような、粘性の高い灼熱がジャン=ジャックの肚の底で滾っている。
誉められ、貶され、見捨てられ、また認められる。
その毀誉褒貶に翻弄される自分への怒りもあるが、それに倍する義父への激情が胸を焼く。
結局、この義理の父はジャン=ジャックのことを一個の人間としては見ていないのだ。
道具か何かが、役に立つか立たないか。その程度の扱いなのだろう。
「だから」
「だから、私の砦に義父上の兵を入れろ、と」
ふざけるな。絶対に、容れてやるものか。
未だ馬上にある義父を睨みつける。敵意を隠そうともしない視線だ。
「違うな。それは違う」
だが、梟雄はそれを爽やかに受け流す。
「儂は、砦に入らない。入ってはならん。儂が入れば、この戦は負ける」
「ではどうなさるのです」
老将は傲然と嗤って見せた。
それは、底意地の悪い、だが見ているもの全てに頼もしさを感じさせる笑みだ。
「槌だよ、ジャン=ジャック。お前の砦は、金床だ」