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ジャン=ジャックは小刻みに震える手に白い息を吐きかけた。
何も寒さからだけではない。
痩身のこの還俗僧は、正真正銘の臆病者だった。
今も鎖帷子の下で身体が震えるのを貧乏揺すりの振りで誤魔化している。
その一方で、妙に達観してもいた。
村を取り巻く戦況を、恐ろしく冷静に見つめている。
敵の数。自軍の数、配置。
全て把握して、算法にも明るいこの男の脳髄にはまだ余裕がある。
目の前には巨大な篝火が焚かれていた。
元々は新年を祝う火祭りの為に支度しておいたのだが、思わぬ処で役に立つものだ。
村の女たちは湖上の砦に下がらせ、ジャン=ジャックは此岸の村に残って震えながら指揮を執っていた。
周囲を固めるのは村の男たち、と言ってもただの平民ばかりではない。
ジャン=ジャックは財布の許す限り、傭兵崩れや元兵隊をこの村に受け容れていた。
戦慣れした男たちは自分のすべき仕事をてきぱきとこなす。
それはまるで正規軍のようですらあった。
顔に掛かる火の粉を払おうともせず、ジャン=ジャックは小高い森を見つめている。
闇に慣れぬ目ではよく見えないが、義父の援軍を無意識に探しているのだ。
いや、援軍が来ないことを確かめていると言った方が正しい。
この世とあの世の狭間に漂う謀略が凝り固まって人の形を取ったよう義父のことだ。この機に妻のアンヌ=マリーに取らせる新しい婿のことを算段しているかもしれなかった。
そんな義父のことが、ジャン=ジャックは堪らなく憎い。
勝手に跡継ぎと見込み、勝手に諦める。
傍若無人とはこのことだった。
信仰の道すら取り上げられて、今度は最愛の妻まで奪おうという算段か。
小鬼と手を組むほど人間を捨ててはいないとは思ったが、それも希望的な観測だ。
可能であればどんな汚い手でも使うのがユーグ・ダナンという男だった。
だが、そんなことは最早どうでもいい。
ここで死ぬことになってもジャン=ジャック・ダナンは一向に構わないと思っている。
たった一つだけ、心残りがあるとすれば。
「ジャン=ジャックの殿様、ゴブリンの第四波攻撃は終わったようです」
「うむ、御苦労。第三班は休息。第一班と交代しろ」
「御意」
あの老人を迎え撃つ為に練り上げたこの砦を見せつけることなく死ぬかもしれない、ということだ。
○
ジャン=ジャックの実家は、恐らく何かに呪われている。
上の兄二人は流行病でさっさと亡くなり、両親もジャン=ジャックの結婚が決まると早々に片付いた(もっともこの二人の死についてジャン=ジャックはユーグ・ダナンの関与を疑っている)。
還俗するまでは王都の大学で教会法を専攻していたジャン=ジャックはその道で立派に飯の種を稼げるだけの頭角を現していた。そこにこの結婚である。
信仰の道を諦めるのは辛かったが、運命を天与の物として受け容れるジャン=ジャックは貞淑な妻アンヌ=マリーを心の底から愛した。
素性と評判はともかく戦巧者と名高いユーグ・ダナンの跡継ぎと見込まれては、慣れない軍の作法や兵法も必死に学んだ。
根が真面目なジャン=ジャックに、ユーグは自身の分身となるべく様々なことを教育した。
城の攻め方は言うに及ばず、陣割り、野戦の駆け引き、撤退の心得、権謀術策、城の縄張り、天候の読み方に果ては周辺諸侯の弱みまで伝えて、ある日突然、ジャン=ジャックを突き離したのだ。
恐らく、飽きたのだろうとジャン=ジャックは見ている。
正規の教育を受けていないユーグの教え方は支離滅裂で、聞く方も難儀だが教える方も精力を使う。
野盗相手の実戦しかこなしていないジャン=ジャックがどこまで己の教育成果を身につけているかも確認しないままに、ユーグの目は次の婿候補に向けられていた。
それが、ジャン=ジャックの心を深く深くえぐる。
これまでの人生でおよそ学ぶことについては挫折を知らぬ秀才に、義父の仕打ちは余りに非情に映った。誉められることすらあれ、叱られることも貶されることも不慣れなジャン=ジャックに、“見放された”という事実はあまりに大きく、深刻な問題だった。
ならば。
歪んだ愛情は歪んだ憎悪に変わり、歪な自己承認欲求は篤実そのものの男を復讐鬼へと変える。
愛する妻と引き離されたことよりも、義父が自分を無視したことに対してジャン=ジャックは憤怒の情を抱いていた。
あの義父の最も得意とする分野で、義父に一泡吹かせる。
それが今の彼にとっての唯一無二の生きる望みだった。
学究の徒を志していただけあり、ジャン=ジャックの頭脳は明晰な部類に入る。
性格は基礎を重んじる性質で、愚直とも言える性格の持ち主だ。
こうした人間が、全力を持って砦を造る。
それはまるで一個の芸術作品のようであった。
ただの寒村に偽装して、その実この村は難攻不落の城砦だ。
後二年あれば、出城も含めて完全に機能するはずだったのだが。
義父のご機嫌伺いに訪れる度に聞かされる自慢話は、この要塞の随所に活かされている。
どんな城を落したかよりも、どんな城に苦戦したか。
旧友との手紙をやり取りしながら、旅の托鉢僧に旧跡に足を運ばせてジャン=ジャックの熱意は尋常なそれではない。
自ら図面を引き、大工の棟梁に並んで現場を監督する。
酒手を弾んでも、手抜きは決して許さない。
なにせチェス盤の向かいに座るのは、名うての<破城槌>だ。
並大抵の城では一捻り。
目指すのは難攻不落のみ。
しかもこの叛乱の準備を気取られてさえいけないとなれば、病的な集中力を要する作業だ。
女々しい男の箱庭いじりと義父に嘲られながら、ジャン=ジャックはこの要塞を造り上げていった。
その成果を見せるのが義父ではなく、単なる小鬼だというのが無性に腹立たしい。
(さて、どうなるかな)
負けるつもりは、無い。
たった三〇〇の立て籠もる城で、ジャン=ジャックは四倍する獰猛な小鬼を受け止める積りだった。
勝算がないわけではない。
亜人などと蔑称される小鬼にも考える頭くらいは備わっている。
この城を攻めても旨味がないと気付けば、別の場所に不幸な羊を探しにいくだろう。
ならばそれまで持ち堪えれば良い。
ここはその為に造られた場所であり、ジャン=ジャックはそれに備えて来たのだから。
ざっと一割。多くて、二割。
それだけの戦力を喪失すれば、小鬼は引き上げるはずだ。
なるべく速く決着を付けるべきだった。
余力を残さないと、“本番”に差し障る。
小鬼の襲撃を独力で退けたとなれば、ユーグのことだ、必ずこの砦の秘密に気付く。
そうなった時に悔いの残らない戦いをする為には、前座には早々にご退場願わねばならなかった。
で、あれば。
森から目を離し、手元の地図に視線を落す。
そこに描かれているのは詳細な村の地図だ。
自身が丹精込めて創り上げた村は、何も外壁が頑丈なだけではない。
(もし義父殿なら、どう出るこの一手)
脇を抜けて持ち場に向かう第一班一〇〇名に、予め伝えてある手信号を送る。
仕掛けられた罠の口を開く合図だ。
訓練を積んだ手勢の動きは大したものだった。
そのままユーグの軍に編入されてもやって行けるだろう。
<破城槌>の義理の息子は元僧職とも思えぬ残忍な笑みを口元に浮かべた。
見る人が見れば、猛禽を思わせるその笑みは義父にそっくりだと証言するだろう。
ジャン=ジャックは、自分がこの状況を愉しんでいることにまだ気付いていない。