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宵闇の森を十数騎が疾駆していた。
冷たい風は容赦なく一向に霙混じりの雨を叩きつけるが、怯む様子はない。
冬の広葉樹林を縫うように走る街道を北へ北へと進む。
馬上の男たちはいずれも軽装だ。
所持品は僅かに長剣と弓、それと背嚢に三食分の糧食のみ。
鎧櫃さえ後続に託し、集団の頭である老将ユーグ・ダナンには急ぐ理由がある。
「……厄介なことになった」
同行の部下に聞かれぬように口の中で同じ文句を転がす。
白い物の混じり始めた濃い茶の髪に、老いたりと言え精悍な顔つき。
<破城槌>のユーグ、と言えば近隣に知らぬ者の無い梟雄だ。
素性定かならぬ傭兵から身を起こし、胡乱な男爵夫人の寝室に潜り込んで誑し込んだ男は今では付近に九も十も荘園を取り纏める貴族さまだった。
戦も滅法巧い。
麾下の傭兵隊を率いて転戦を重ね、<破城槌>の仇名も伊達や酔狂ではなかった。
分捕った領地に勝手に“アナン男爵領”と名前を付け、自身はアナン男爵を自称して早三十年。
今や王国の君侯諸賢からも一目を置かれる男は、沈着冷静を常とする。
そのユーグが焦りを隠そうともしないのは珍しいことだ。
苛立ちから零れそうになる罵りを鍛えた自制心で抑えつけ、ユーグは馬に拍車を入れる。
小鬼共に領内の城が襲われていた。
それも娘婿の城が、だ。
人間は冬の間に戦争などしない。骨折り損だということを知り抜いているからだ。
泥濘み、或いは凍結した糧道は維持が難しく、騎馬も荷駄も簡単に腹を下す。
馬がいなければ人様の糧食も運べるはずもない。となれば自然と戦意は衰えるものだった。
だが、道理を弁えない小鬼共は夏でも冬でも食い扶持が無くなれば氏族単位で南下してくる。厄介極まりないのだが、根絶するほどの軍を発することは王と言えども難しい。
なればこうして山から降りて来たところを一々追い払うしかないのだが、今回は場所が悪かった。
小鬼共のが囲んでいるのは、ユーグの娘婿の暮らす城なのだ。
娘は、そこにいない。
今はそれがせめてもの救いだ。
ユーグの命で若夫婦は別居の憂き目を見ているのだった。
「――厄介なことになった」
ユーグは繰り事のように呟く。
実を言えば、娘婿には死んで貰った方が有り難いのだ。
仮にも義理の息子に“死んで貰いたい”というのも剣呑な話だったが、故無きことではない。
全ては梟雄ユーグの野望の為である。
だが、今ここでというのはいささか拙かった。
元々が政略結婚だった。
身代金代わりに分捕った飛び地を纏める為に、娘婿のジャン=ジャックの父が持っていた領地はとても魅力的だったのだ。僧籍に在ったジャン=ジャックを無理矢理還俗させて自分の一粒種である娘のアンヌ=マリーを宛がった。
話は上手い具合に転がり、あっという間に回廊状の領地はユーグの手に落ちた。
元々学僧だったということもあり、この義理の息子は物覚えが良い。
初めこそ後継者として仕込む心積もりであったユーグだが、次第に期待は諦念に置き換えられた。
所詮は坊主、ユーグの先進的な戦術を理解はしても体得は出来ないだろうと早々に見切りを付けた。
ならば気になるのは自分の次代だ。
手札の娘は一人きりとなれば、もっと有望な男を婿に取らねば道理に合わない。
幸いなことに<破城槌>ユーグ・ダナンと縁続きになりたいと願う貴族には事欠かなかった。
邪魔な娘婿さえ排除すれば未亡人となった娘に新しい婿を取ることが出来る。
但し、謀殺は出来ない。
ただでさえ悪評高いユーグにとって、これ以上の不穏な噂を付け加えるのは得策ではなかった。
だからこその強行軍だ。
義理の息子を見殺しにする不実な義父、という評は耐え難い。
近在の郷士に非常の呼集を触れながら、ユーグの動きはまさに電光石火だ。
手元に置いてあった古参兵を十数騎伴ってここまで来たが、もちろんこの数では物の役には立たない。が、今のユーグに必要なのは小鬼相手の戦勝よりも篤実家という声望だ。
押っ取り刀で駆けつけて、まずは小当たりに様子を見る。
親子の情に篤い義父となれば、侯爵とは言わぬまでも伯爵の三男坊くらいは釣れるかもしれない。
それ故に、娘婿には“死んで貰わなければならない”が“早く死んで貰っても困る”のだ。
老将は腹立ち紛れに拍車を入れる。鬱蒼と茂る樹々が徐々に疎らになって来た。
いつの間にか雨は止んでいる。
娘婿の立て籠もる湖上の砦は、もう間もなくの距離だ。
見えた。
森の切れ間から眼下に見える砦は、予想外なことに未だ持ち堪えている。
囲む小鬼は、一〇〇〇から一三〇〇。
戦下手と思っていた娘婿が耐え抜いているのは、ユーグにとっては不思議なことでさえあった。
○
湖上の砦は縁起を辿ればこの区域一体を管掌する司教の館だ。
教区の統廃合で廃城となっていたものをユーグが若い娘夫婦の為に買い与えたものだった。
僻地に暮らすとなれば若い二人だけともいかない。
召使い、その家族、護衛が集えばそれに物を売りつける商人も集住し、最早それは一個の村だ。
本格的な城壁こそ持たないものの、百を超える人々が集えばジャン=ジャックの人柄もあって日々発展し、今では街道のちょっとした休憩所と言う有様となっている。
元学僧と言うだけあって娘婿はこの信仰の庭だった建物を甚く気に入ったようで、彫刻家が大理石に向き合う熱意で丹精している。北に向けて豊富な水量を湛える湖の南岸にへばり付くように浮かぶ小島を完全に覆うように築かれた砦は、増築に改築を重ねて今では立派な天守閣を備える城砦の風格だ。
小島の対岸、つまりは湖岸の小さな村を小鬼たちは包囲するように陣を敷いていた。
ユーグは驚きを禁じ得ない。
思いも寄らぬ義理の息子の敢闘に、である。
見れば、工夫が凝らされているのは小島の城砦だけではない。
城攻めの名手の目を通して見て、実に小憎たらしいのは村の縄張りだ。
村を囲むように外に背を向けて輪形に建てられた家々は外壁を連ねて城壁の代わりを成している。
この規模の村には多過ぎる櫓は矢を射掛ける塔を代替し、一箇所しかない門には鉄の閂まで用意してある始末だ。
(これはつまり、儂と事を構えることを考えていたか)
頭は悪くないジャン=ジャックのことだ。
妻と別居させられた時点で敏感に何かを感じ取ったに違いない。
となれば異常に豊富な矢玉にも得心がいく。
夜でも湖の漣の如く押し寄せる小鬼の群れに射掛ける弓手に躊躇いはない。
それは堅陣だった。
村の中央では篝火が焚かれ、戦意も高い。
後背に滔々たる湖を背負っては水の手に心配もなかった。
冬支度に糧食も蓄えているとあればこれはもう難攻不落と言っても言い過ぎではない。
であればこそ、ユーグには残念でならなかった。
<破城槌>の名を冠する老将でなければ見抜けない綻びが、この守りにはある。
言わば、繕い切れない綻びだ。隙、と言い換えても良い。
そこを突かれてしまえば、脆い。
このまま包囲が続けば如何に小鬼共と言えどもいずれは気付くはずだ。
(それまでに)
兵が到着すればいいが。
ユーグの麾下の兵団が到着すれば、逆に包囲してのけることも可能だ。
各地を転戦して場数を踏んだユーグの軍は精強さで知られる。
あれほど頭を悩ましていた謀略も何処へやら、老将はいつの間にかこの戦いを愉しみ始めていた。