以心伝心
夏、セミの声がジー、ジーとどこからか響き渡る。そこいらの木で鳴いているのだろうが姿は見つからない。
生まれてから何年間、数えるのも億劫になる回数を聞き続けているため耳障りな鳴き声も、うっとうしいとは自然と思わない。この声がすると梅雨が明けて夏になったのだなと毎年自覚する。
今年の初夏はセミなんかよりうっとうしい者が、自分のすぐ後ろで泣きわめいていた。
「おい、聞いてるのか卑怯者」
顔を伏せたまま帰り支度をして廊下を歩く。その後ろを「バカ兄貴」だの「ガリ勉」だの自分を罵倒しつつ追いかけてくるのが、セミではなく双子の弟の森一朗である。もうすぐ夏だって言うのに、トレードマークの「NIKO」と書かれたブランド物のルーズワッチは耳と眉を覆うほど深くかぶったままだ。黒いから見ていてさらに暑苦しい。
今日は一学期最後の日で、二週間前に行われたテスト結果、総合成績の順位が本人に手渡される日でもある。他の学校はどうか知らないが、本校では本人のやる気に火をつけるためといって、成績に順位を付け本人に手渡す。上位何人かは職員室に張り出したりするわけだが、自分の名前が職員室に常に張り出されているのはあまりいい思いはしない。
はんたいに弟の名前はいつも出てこない。そんなわけだから、今年の夏はいつもの家族団欒ではなく僕一人きりになるだろうと、前々から予想はしていた。
「何で兄貴だけ行けるんだよ」
目の前で騒ぐ弟を邪魔だと追い払うと下駄箱の靴と上履きを入れ替えながら、相手の顔を見ずに理由を伝えた。
とても納得がいかない様子なので、理由を教えてやるために鞄の中から、今日貰った5番と書かれた順位の紙を見せ付ける。
何番かなんて、こんな紙で証明しなくても、職員室に張り出されている。この学校に居る限りは皆知っている事だったが、納得できる証拠を突きつけないと弟は黙りそうにも無かった。
「なんでって、僕の成績は上から数えて指折る間。おまえの成績はなんと僕の40倍。数字を見たら一目瞭然だろ」
森一朗の順位は知らなかったが、ほぼ最下位に近いところをウロウロしていることだろうと思い適当に掛け算してみる。図星だったのか、計算が出来ないのか知らないが、僕の思惑通りうるさい弟は黙りしかめっつらのまま一歩後ろに下がる。
下駄箱から取り出した下靴に履き替えたところで、森一朗は後ろからのしかかってきた。
「なんのつもりだ?」
いや、のしかかってきたというよりは、ぶら下がってきたが正解だろうか。両腕を僕にまわして抱きついている形になっているのだろう。声帯が押さえられるのと首の肉が後ろに引っ張られ軽く痛い。
「かわいい弟の頼みだろ。母さんに頼んでくれよ、塾に行かなくていいようにさ」
「い‥‥やだ」
首の皮が引っ張られたままというのは、絞められていると同じ効果のようで、声を出すのはかなり苦しい。かすれ声で拒否をする。
放せと言うのも辛いし、放せと暴れれば更に首が絞まりそうで、僕はこれ以上酷い状態にならないようにゆっくりと歩き始める。
森一朗をぶら下げた姿は、まるでおんぶバッタのようだった。
「うんっていわないと放さないからな」
自分に全く何も利益がないのに両親にお願いをすること、それがかなえられることによって弟には全くもってよい影響は無いと自分自身が思うこと、そんな願いは聞き入れたくない、っていうか面倒だ。
弟はびっくりするぐらい短気なので、すぐに放すだろうと黙って進むが、なかなか開放してくれない。
僕も弟も意地になっていた。
どうして自分の言うことを聞かないのだろうという意見だけは一致している。首から弟がぶら下がるという情けないかっこのまま、かなりの距離を歩いたのに周りの目は気にならなかった。
弟と言っても生まれる瞬間が少し後だっただけで、体系はさほど変わらない、そんな男をぶら下げて前に進むって事がどれだけ大変か‥‥。
結局弟は僕の後ろに首からぶら下がった状態のまま家までたどり着いていた。
「兄貴。ガリ勉のくせに根性ありすぎ、家帰ってきたよ」
見慣れた玄関の前にたどり着くと、呆れた声で相手は嘆き体から離れた。背中が汗ばんで気持ち悪い。張り付いたシャツを皮膚からはがし風を通しながら扉を引き自宅に入り込む。
「別に僕はガリ勉なんかじゃない。おまえがしなさすぎなんだ」
咳き込みながら鏡を覗く。玄関に置かれた大きな鏡に写った僕の首は少し赤くはれていた。少々頑張りすぎたか‥‥。
「だってさ俺だって行きたいんだよ」
毎年夏休みは、父方の祖父の家に家族で出かけていた。全てがアスファルト、コンクリートで覆われた暑い道路ではなく土の道と視界の半分以上を覆う林が印象的な涼しい田舎である。
森一朗は今年も当然遊びに行けるだろうと考えていたようだが、そうはいかなかった。好きなときに好きなことをして一日を過ごす、そんなあいつの日頃の怠惰が積み重なって僕の40倍なんていうあの成績ができた。去年までは『来年頑張れば』という簡単な逃げ道が用意されてはいたが今年は義務教育最後の年になるので来年はない。
というわけで、普段は笑って放置している母さん達も今年は森一朗を塾に入れることにしたようだ、高校生になる前に浪人なんてとんでもない。帰宅して順位を確認する必要もなく、母さんは一週間前に塾の申込み手続きを終えて森一朗に日程の説明をしていた。森一朗は将来的にはここで両親に感謝しなければいけないのだが、そんな気持ちがあいつにあるわけはなく、嫌がり続けていた。「学校で勉強」が嫌な子供に「塾で更に勉強」は確実に辛い。しかも塾は当然の事ながら夏休み期間ずっとある、祖父の家なんかに遊びに行っている場合ではない。
拒否し続けているのは塾で勉強するのが嫌だというのもあるが祖父の家に行けないというのが大きな理由らしい。
「一人で留守って訳じゃないだろ、母さんが残るっていってくれたし、ご飯の心配はしなくていいじゃないか」
嫌な勉強をさせられて、更に食事の心配させる両親では無い。母を犠牲者として森一朗と共に家に残らせるらしい。
「嫌みかそれは。全くむかつく兄貴だな」
乱暴に上履きを脱ぎ捨てると弟は二階に上がっていった。
「おい森一朗。靴は?」
普段森一朗が履いている、見慣れた運動靴ではなくて、汚いひらがなで「せた しんいちろー」と書かれている学校指定の白い上履きが玄関には散らかされている。色は白というよりも灰色に近かったが‥‥。
「学校においてきた。兄貴が『うん』っていってくれなかったから」
上の階から怒鳴る声だけが聞こえる。
上履きを下靴に履き替えなかったのは、僕のせいか?
確かにぶら下がったままでは靴など履き替える暇などなかったことだろう、汗まみれになっても承諾しなかった僕の根性のせいだって事なんだろうな。あいつの靴は夏休み中ずっと学校にあるわけだ。
右足の上履きの横に自分の靴を脱ぐと、僕は洗面所の方に歩いていった。
出発の日。
その日は朝から暑かった。
「森!幹と父さんが出かけるわよ」
玄関で母さんが森一朗を呼んだ、うざったそうに森一朗は外に出る。僕と目が合うと「裏切り者」と一言言う。
「だから自分のせいだろう」
引きつった眉を元に戻す努力をして双子の片割れにそう言った。
「でもな兄貴。俺の分まで楽しんでこいよ。そしたら俺も伝達して楽しくなる」
「はぁ?」
何をわけ分からないこと口走ってるんだ、こいつは。
僕が首を傾げていると父さんが通訳してくれた。
「昨日見てたテレビでな、インドかどこかの双子の兄弟がな、数百キロ離れたところで片方が見てた景色をもう片方も見れたっていう奇跡体験をやってたんだ。つまり以心伝心だな」
「そうそう。双子に備わるいしんでんしんって所だ」
偉そうに僕に指をさす。
昼の太陽が温めたアスファルトが鉄板のようになっていて、ただ立っているだけで暑い。これ以上、森と話をしているだけでにじみ出る汗がもったいなくて、ばかばかしいと僕は車に乗った。
「ああぁぁ。兄貴信じてないなぁ」
「はいはい。そんな非現実なことで楽しくなれりゃおまえは塾に行かなくたっていい成績がとれてるって」
そりゃそうだな、と父さんまで笑い出すと、森一朗は頬を膨らませて怒り出した。
「もうお前ら帰ってくんなー」
そんな態度にも笑顔を崩さず、父さんはハンドルを握る。
見送る二人に手を振ると僕らは家から出発した。
「なあ。幹」
見慣れた町の景色があまり通らない道の風景に変わった頃、父さんが話しかけてきた。
「何」
「森はどうしても行きたかったんだな」
出発したときにしっかり左の鏡に写っていた森一朗と母さんの姿は小さくなって消えてしまった。写真じゃないんだから当たり前だが、サイドミラーは、今は家族じゃなくて空を写している。
「あいつが僕の楽しみを感じ取れるんなら、僕はあいつの苦しみを感じてやらないといけない。ほんとうに以心伝心できるならこれは僕にとっては不公平だ」
「おや。幹は勉強が好きなんじゃないのか」
頭のいい子はみんな勉強好きと勘違いする人は多い。必要だから覚えているだけで、覚えているからいい成績が取れるだけだ。
「そんなもの好きな人間なんか一握りしかいないと思うよ」
「そうだな。私も嫌いだった気がする」
対向車も来ない道の信号が赤から青に変わると、車はさらに細い道に進んでいく。
気がつけば車はアスファルトではなく土の上を走っていた。でこぼこの整備されていない道が小刻みに車に振動を与える。
あたり一面、草が大量に生えていて、目前のタイヤの跡だけが雑草がない。ここを通る車達が地面を踏み固めてくれたおかげで道だと分かる。タイヤ跡がなければ、ここが祖父の村に続く道だとは誰も気づかないことだろう。
「ある意味森には同情するけれど、それはあいつの自業自得だからね」
「得じゃないけれどもな」
父さんは声を出して笑う。
僕は素直に笑えなかった。
祖父の家は、二階は無いけれど結構な広さで一人だととても退屈だった。
家とは違い暑いと感じない気候の中、落ち着いて読めるだろうと持ってきた本も読む気になれず、ベッドに転がって天井を眺める。ちょうどベッドの上の天井には蚊帳を引っ掛けるための金具が出っ張っていて、庭からの夕方の光を反射して赤色に光っていた。目を閉じると、ここでも遠いところで鳴いているセミの声が聞こえてくることに気が付く。
いつも森一朗と一緒の部屋も一人だと広すぎて寂しくなるほどだった。
いや実際に二人だったとしても広すぎる。部屋の端に僕と森一朗のためのベッドがおいてある、そのベッドから対角線の角まで行くのにはゆっくり歩いて20秒、自宅では考えられない広さだった。そういえば森一朗はこの畳が敷き詰められた部屋で一人ボール遊びをしていた。靴下のまま遊ぶものだから、よく滑って転んでいたっけ。
「今頃何してるんだろうか」
おそらく塾で昼寝してしかられてるはずだろうが、何となく自分の片割れが気になった。
「幹。もうすぐ日が暮れるぞ。はやく夕食食べなきゃ祭りに間に合わないぞ」
実家に帰ってきた父は、さっきまで着ていた洋服ではなくて、浴衣に着替えていた。ぼさぼさ頭と小さなめがねがねずみ色の麻の浴衣に良く似合っている。普段着ない、ここでの父の普段着である。
「分かった。今行く」
そう言えば祭りなんて、そんなものが今まであっただろうか?などと首をかしげたものの、一人退屈な思いをしていたので、父の誘いにベッドから立ち上がる。
外に出たときにはあたりは夕暮れじゃなくって真っ暗闇だった。祖父の家に来て、夜に外に出たのなんか記憶の中にある限りでは初めてで、夕刻から夜にかけての暗闇に少しからだが震えた。
いくら祖父の家が大きいからって、まわりは田舎だ、街灯さえない。
都会っぽさを漂わせる屋敷から外に出て、街灯もない真っ暗闇にはやはり驚く。僕が普段住んでいるところは二十四時間何かしら灯りがあって真っ暗闇なんかまったく知らない。
「幹は大きくなってもまだ暗がりが怖いんだな」
小さな提灯をもって父さんが歩いていく。
ろうそくの小さな光が道を照らす、ろうそくなんかがこんなに明るかったのかと新しい発見をして僕は心の奥底で何か変な気がした。
ただ一つの明かりで、こんなにも安心できる。
「そういえばさ、去年まで祭りなんかなかったよね」
祭りが神社であるのはさっき聞いて知った。
神社が近くにあるのは昔から知っていた。そこで森一朗が「田舎っていえば祭りだよな。何でないんだろう、つまんねーの」といっていたことを覚えている。なぜないのだろうとは不思議と思わなかったけれども、今は何故今年はあるのだろうという疑問はわき上がる。
「うん。ああ、何か神社の御池で大きな鯉が発見されたらしいんだ」
「こい?」
「池の主様というところだろう。たぶんだれかが逃がした魚なんだろうけどな」
それをにぎやかに『まつる』ということなのだろうか。
こい‥‥水族館で見たことがあるような気もするけれど、何だろう長い金魚の事だった気がする。
でも、池の主っていったら、ナマズか何かじゃないのだろうか。金魚の長いのじゃ弱そうだ。
ゆらゆら揺れる提灯の明かりが何だか人魂に見える、昔の人はこんな暗闇の中何を思って歩いたんだか。
遠くに祭りの灯りが見えた。暗い夜はそこで終わりで、ろうそくでできた外灯が神社の境内まで案内してくれた。乳白色の蛍光灯みたいな赤いような黄色いような明かりが周りを明るくしている。トントンと祭り特有の太鼓や笛の音がどこからかする。
灯りの下には虫が集まるとはよく言ったものだ。
さっきまでの暗がりには人の姿なんて全くなかったのに今はいっぱい人がいる。売る人、買う人、大人から子供まですれ違う、肩がぶつかるほどでは無いけれど、たくさん人がいた。
だいたいの人間は浴衣を着ている、僕だけがいつも着ている洋服で、たった一人昔の日本の祭りにタイムスリップしてやってきたような感じだった。
「森一朗も連れてきてあげればよかったね」
自分と父だけにはこの光景はもったいない気がしてそう言った。
「そうだな。母さんもつれてきてあげれば。喜んだだろうにな」
父さんもいった。要するに僕らの気持ちは家族で来たかったというわけだ。
「父さんと二人っきりの旅だなんて、つまらなくて何の楽しみもないよね」
「どうせなら、幹と二人より、母さんと二人の方がよかったな」
僕と父さんは二人で嫌みを言い合う。こういう関係は友達どうしみたいで僕は好きだった。
「父さん僕。一人で歩いてくるよ」
「ああ」
父さんをいろいろ歩き回る僕につきあわせるのは何だか悪い気がして、僕は父と別れることにした。父さんといても、母さんと弟の話題しか出ない。
本当は置き去りにする方が悪いのだけれども、父は困っている様子でもない。故郷なんだから大丈夫だろう。
短針が八を指す、右腕の腕時計に無意識に目をやる耳に父さんと同じような男性の声がする。
「池には近づくなよ」
「分かった」
僕らのような親子連れが同じく僕らのように別れるようで、父親らしき人が注意していた。子供はよい返事をすると、人込みの中に消えていく。残された父親も別方向の人込みの中へ。
一人残った僕は、あの父親が行くなと言った池の方向に歩みを進めていた。
だって、「行くな」なんて注意されたら、行きたくなるじゃないか。
注意は僕にじゃないけれど。
チリーン‥‥
つい、買ってしまった鯉の絵柄の風鈴を左手の小指にぶら下げて僕は池の畔に座っていた。風鈴は小さくて、本物の三分の一の大きさしかなかった。
父と別れた場所から、池までたどり着くのにたくさんの出店を横切ってきた。
りんごあめと焼きそばの間に、風鈴が並んでいて、風が吹くと一斉に音を鳴らしていた。金魚だのトンボだのとびっきり珍しい柄でもなく、珍しい音でもない、何の変哲もないガラス風鈴が並んでいた。
決して同じ音色では無いばらばらな音が耳には心地よい。自然と足が止まり、欲しくもないのに見てしまう。その中に、ミニ風鈴は飾られていた。普段見ている物のミニサイズはなぜかかわいいと心が躍る、どうせ後でいらなくなるだろうが欲しいという誘惑に勝てなかった。
後悔するって分かっていても、自然と笑みがこぼれる。
海のように池から涼しい風が吹いていて、ぶら下げた風鈴の音を鳴らしている。小さくても、音は悪くはない。
魚がいるなら何で生臭くないんだろう。
海も川も魚のいる水のにおいは魚臭い、でもここはそんな嫌な臭いはしない。主なんていうのはでまかせなのだろうかと少し疑う。
チリーン‥‥
風鈴の音が、池の水面の波に合わせて鳴った。
ぱしゃん、と何かが跳ね上がる感じの音がして、大きく水面が揺れ、波が広がっていく。これが池の主かもしれない。
僕の目に映る部分には何も変わったことはなく、波紋も中心ではなく、半円しか確認できていない。池は向こう側のはじが茂みに隠れていることから、もし主がいるのなら茂みの奥しかないだろうと安易に推測が出来た。
そう思って祭りの灯りから離れるように茂みに入った。風鈴の音が震動で鳴る。
茂みの中は思った以上に薄暗くて、ろうそくぐらいの光じゃここまで届かないということが実感できた。
手探りで茂った枝をどけると、だんだん目が慣れたのか足下が見え始めた。少しぬかるんでいる、水分を含んでいる証拠だ。浴衣に草履なら素足が汚れてしまったことだろう。ここは運動靴で正解だ。
少し進むと隠れていた池の続きに出た。暗さもあって外よりもこっちは大きくて深そうに見えた。隠れている部分のほうが大きくて、神社の小さな池としての顔はこいつの一面でしかない。
「これは。確かに子供が近づいたら危険だな」
自分も子供の内だということはこの際おいて僕はつぶやいた。
チリーン‥‥
風に揺られて風鈴が鳴いた。
池の水面も揺れる。
何となく、こういう状況で風鈴に鳴って欲しくはない、かくれんぼしているときに話をしながら隠れているのと同じような状況だ。何かいたら見つかってしまうことだろう、そんな恐怖心で左指にぶら下げていた小型のそれを僕は慌ててポケットに隠した。
「これで風が吹いても安心だ」
‥‥?‥‥
僕は自分の考えをおかしいと思った。音がしないといったい何が安心なのだろか。見えない何に不安を感じているのだろうか。
「風鈴‥‥。なんでしまうんですか?」
安心に疑問を抱いていた僕は、その声に驚いて、静止した。悪いことをして見つかったときのようだ。
背中を冷や汗が流れていくのが分かった。
「せっかく綺麗な音がしていたのに」
声は高い。女性には間違いない。
ゆっくり声のする方を見た、目視しないで何かを特定は出来ない。
池の中から首が出ている。顔の形はどうやら人間のようだ。
少し安心した。
「何で‥‥そんなところにいるんです?」
質問には答えず質問で返す事は失礼だと知りながら聞き返さないといけない気がした。
「池の中に大事なもの落としてしまっただけです。だから潜って捜していただけ」
そんなに驚かないでくださいと聞き覚えのない発音で彼女は続ける。
「何をなくしたんですか」
「指輪」
目線を下にし、少し顔を赤らめて彼女はいった。
「で、なんで風鈴しまったんですか」
素直に怖いから、安心できるからといった理由を語ってしまうと僕はただの弱虫になってしまう、なんとか納得させられる理由はないものか。
「何だか音がもったいない気がして」
少し悩んで答えた回答に、我ながら綺麗な理由を思いついたものだと満足した。
「そうなの」
彼女は怪訝そうな表情で僕を見た。
「指輪捜すの手伝いましょうか‥‥」
僕はそんな雰囲気から話題を変えようと彼女の困っていることの手伝いを申し出てみた。
「水は冷たいですから、結構です」
そう言って水の中に潜っていった。
結構だと断わられると、わざわざ水の中にまでもぐって手伝おうとおせっかいを焼く気にもなれず、ただ、はいそうですかと帰ることも出来ず、池のほとりで彼女の行動を見守る形となった。
頭から水中に潜る体、彼女もやっぱり浴衣を着ていた。浴衣はまるで三毛猫の模様のような柄で一瞬見た感じ大きな鯉に見えた。
ここの主とは、潜っていた彼女の事じゃないのかと僕は思った。
空気を吸いに上へ、指輪を探しに下へ。
灯篭の明かりは届かない真っ暗闇、月の光だけがあたりを照らす。月の光がライトの代わりをして、池の中の、彼女の行動ははっきり見えていた。錦鯉模様の浴衣が水の上からでも目立っていた。
水と月の光の屈折と夜の闇で水面に出てくる彼女は綺麗に見えた、人じゃない何かほかの生き物のように思える。
まあ、たとえば人に化けた鯉とかね‥‥。
そうだとすると、頬を赤らめて、必死で探す指輪。大好きなだれかが、鯉の彼女にくれたもの、でも魚のままだったら拾えないし、人間に化けて探してみる。
「恋こがれる、池の主」
もし彼女が、池の鯉なのだったら、鯉の『こい』は『恋こがれる』から来てるんだな、なんて森一朗だったら思いつきそうなバカな想像をしてみる。
「みーきー」
遠くで父さんの声がした。そう言えば別れたままだった。腕時計が伝える現時刻は十時。
そんなに長い間見つめていたのかとビックリした。
もう帰るよと、お別れを言おうと顔を上げて池を見てみたが、あの目立つ鯉模様が消えている。彼女もいつの間にか帰ったんだろうか。そう考えて僕も茂みの外に出ていった。
明るい場所にでると浴衣姿の父が僕に気づく。
「幹。やっぱり池に居たのか。あそこは少し危険だから近づくなとおじいさんがいってただろ」
「ちょっと。鯉が見たかったんだよ」
素直にそう言うと父さんはそれ以上怒らなかった、代わりに「みれたのか?」といった。
人間は見たけれど鯉は見られなかったので首は横に振った。
「そうか残念だな」
父さんは空を見上げてつぶやいた。空には彼女を照らしていた月が同じようにそこにある。
「でもよく、茂みの向こうに池は続いていて、そこに僕がいるって分かったね」
「池っていったら、その奥しかないからな。しかも駄目だといわれれば、行きたくなるのが男だろう。昔父さんも、あそこ行っておじいさんに怒られたしな」
父さんは思い出を笑顔で語る。
提灯の光が何だか寂しげに池を照らしていた。
「何だそれ」
父さんは僕のポケットから風鈴の一部が出ていることに気づき言った。僕はそれを取り出して「ミニ風鈴だよ」というと、父は驚いて、懐から同じものを取り出してそして笑った。子供みたいな笑顔で。
家に帰ると扇風機を森一朗が狭い部屋で独占して塾の宿題をしていた。ぬるい風がただ循環しているだけで全然涼しくない。
ランニングシャツに半ズボン、暑さのため、体のほとんどが剥き出しになっているにも関わらずいつものルーズワッチだけは脱いでもいない。
暑い原因は、帽子ではないのだろうか。
「帰った兄貴に『おかえり』ぐらい言えよ」
祖父の家と違ってここは何だが嫌な暑さだ。
「遊びに行ってた兄貴になんか、言う言葉はない」
家で暑さと勉強に苦しんでた弟はかなりひねくれていた。でも遊んできたのには代わりはないので僕も言い返さない。
「おまえのために、風鈴まで買ってきてやったのに、やっぱりかわいくない弟だな」
あの小さな風鈴をつるして僕が言った。扇風機の風でチリリリとかわいい音を立ててそれは鳴く。
「そんな小さいものじゃ。兄貴の心の中が分かるな」
それは、『ケチ』ということか‥‥。
「ところで森一朗。おまえ、言ってた『以心伝心』はあったのか?」
僕自身森一朗の辛さを味わってはいないので聞いてみることにした。
「なんか、ムラムラはしてた記憶はある。これが伝わってたんじゃないの?」
「僕はムラムラなんかしてないぞ!」
そう言って森一朗の机を蹴飛ばし、イライラしながら階段をおりる。
全く何がムラムラだ。これで以心伝心がないという証拠ができた。
もし、以心伝心ができたなら、あの風景とか、祭りの雰囲気とかは伝わってては欲しかった‥‥池のこいを知っているのは、僕一人では、本当にもったいない。
本当に以心伝心しているのなら、一人という虚しさも伝心すればよかったのに。
一階では、父さんが買った、金魚の柄のミニ風鈴が同じように扇風機の風にあおられてチリリと鳴いていた。