ゴキブリ
ゴキブリ
・アメリカ、誰もが知る夢の国、僕はそこにいた。
といっても誰もが憧れるソコではない、スラム街の端、瓦礫に埋もれた廃墟ビルにひっそりと膝を抱えていた。 ときおり通る人の足音が聞こえるたびに、ササっと影を隠す。
誰かが言った。
「なんか今そこにいなかった?」
「ああ、ゴキブリでもいたんだろ。」
ここに住んで(?)1週間になると思う。 家はあった、でもそこに僕の居場所がなかった。 父のことは知らない、母は外から帰ってくると、口癖のように毎日僕がいなければ幸せだとつぶやいていた。 だから10歳の誕生日(といってもいつ生まれたかなんて知らないから、勝手に自分で決めたんだけど)に家を出てあげた。 すごく暑い夜だった、母が行き先も何も言わず外に出て行ったのを、いつものように部屋の影から見送ると、自分用の薄い毛布を持ち自分も外に出る。 寄せ集めの木でできた最後のボロ家の姿を目に焼き付けることもせず、意気揚々と敷居を踏み越える。 不安なんてなかった、なんていうつもりはないけど、だからといって何か困る事があるか?と考えたら、特に何も思いつかなかった。 (メシは?)家にいてもなかったし、(寝るのは?)どっちにしろ地べただったし、(一人じゃ危ない)家にいたら母が守ってくれるとでも?(友達は?)・・・いないし・・・。 家からここまで歩く間にいろいろな不安が僕の足を止めようとよぎっても、いとも簡単に打ちのめす事ができた。 夜になると明かりがほとんどないこの町では、闇に身を隠すのに造作もなかったし、夜に子供が歩くのは別に普通のことだったから、まあずっと家にいた僕の事を知っている人なんていなかったし、2時間ほど歩いたら思っていたより簡単に今の場所に着いた。 といっても、目的地を決めて歩いてたんじゃなくて、ただ歩いていたらたまたまこの場所がみつかった。 スラムの周辺にはこんな場所がいくらでもあるから、先客がいなけりゃ問題はない。 だから、自分のテリトリーにはそれぞれ「しるし」を残していく、夜、調達に行ってる間に場所をとられたのでは元も子もない。 あの町ではそれは常識だった、算数や国語よりも先に、誰とでもなく教えてくれる。 僕には母が教えてくれた。 出て行って欲しかったのか、万が一のためなのか、・・・たぶん前者だったのだろう。 そう思わなければ報われない。
1週間、昔と変わらない暮らしが続く。昼間はビルの陰に隠れ、夜に、食糧の調達。 ただこの繰り返し。 いつからか自分の事がそう見えてしょうがない。 誰かが言った【ゴキブリ】に。
【ゴキブリ】なんだかそのフレーズが気に入った僕は自分の事をこれからもそう呼ぶ事にしている。 実際ゴキブリと一緒に生活しているし、かっこ悪いかもしれないが、ヤンキーが自分の事を「悪魔」だとか名乗ってるのと同じ感覚で、そう名乗る自分がちょっとカッコよくも思えた。 周りは普通のスラム街だ、そうだれもが知っている普通のスラム街があるだけだ。
だからチーマー、ギャングの類も多い、そこを普通に歩けるのもストリートチルドレンの特権でもある。 もちろん節度をわきまえればの話。 そこを間違えたやつがどうなるかなんて、想像もしたくない。 いじめの類はあるかもしれない、でも殺されはしないのは分かっている。 僕を殺しても一銭の得にもならない、それ以上の理由なんてあるのか。 どうせ後始末とかあれこれ考えて実行するなら、それ相応の見返りを求めなくちゃね。
今のところソッチ側にいくつもりはまだない。 憧れはあるけど、毎晩どっからか聞こえてくる銃声に膝を抱えて震えている僕には、まだソコには。
さて、メシメシとすっかり夜が更けたのを見計らって、立ちあがりつつ膝と尻についているホコリを落として伸びをする。 ウーンっと! この生活にも慣れたといったらおかしいだろう、でもずっとこんな生活だったんだ。 昼間外に出るのは家の周りだけ、誰かがきたらサッと家に隠れる。 母からそう教えられていた。 メシの調達方法も昔となんら変わらない、ただコンビニやファミレス、メシ屋の裏にあるゴミ箱をあさればいい。 もちろん誰かのテリトリーを侵さずに。 そういった生きていく術は母から実習を受けていたようなものだから。 ものごころついた時には、僕は母の後ろを少し離れて歩いては、それを真似ていた気がする。 母がついてこいといった記憶はない、だがついて行かなけりゃ僕にメシはなかったはずだ。 そう思うと人間意外と賢いんだなっと自分に感心したりもした。
ぶちっ、昔拾ったサンダル、紙一枚と対等を張れたゴム底がついただけの寿命がきれた。 拾った時はすごくうれしく、ずっと履き続けてはきたが、はっきりいって不便この上なかった。 走る事も出来ず、石を踏んだら裸足よりも痛いんじゃないかってゆうくらいに意味をなさなかったそれも、いざ切れると少しさみしくもなり、解放された嬉しさもあった。 なんでもっと前に捨てなかったか?って、野暮な質問だね、貧乏性だからさ(笑)。 そうやって集めれたものは意外と少ない、みんながそう、貧乏性だったから。 ゴミのない町として表彰してもらいたかったよ。 だからあのサンダル(さすがに捨てたけど)が拾えるなんて、初めて神に祈ったよ。「たまには仕事するんだな」って。
昔の町とは反対方向に、廃墟ビルから二時間ほど歩けば、繁華街にでる、数キロ先からでも見えるまぶしいネオン、太陽も夜は寝かせてあげろよって言いたくなるほどの。 車の通りも激しくなる、さっきまで一台も通らなかったゴーストタウンのひび割れたアスファルトを横目に、車はメイン通りに続く道を派手な音楽と派手なスーツを乗せて目指していく。 これこそが、そう、アメリカさ。
この生活を始めてから、こんな世界を知った。 最初この場所を見たときは少し、いやかなり怖かった。 こんな大勢の、しかも多種多様な人間を見た事がなかったからっていうのもあるし、・・・後は何となく、そう、何となく。 うまく言い表せないけどひとつは言える、僕にとってここは楽しむ場所ではない。 【ゴキブリ】には眩しすぎた、それだけだ。
でもここで新たな発見もあった、元々ゴミを漁る事しか考えていなかった僕に、それはゴミ箱をあさるより効率もよかった。 僕と同じような子がそれをしていた、別にもったいぶる程の事じゃない、ただの乞食だ。 その子は見るからに金持ちそうな白髪の肥えたじいさんに話しかけていた。
「お金ちょうだい」
この町ではよくあることなのかもしれない、その金持ちそうなじいさんは笑顔で渡すと、一緒にいた若い女と、黒い車の後ろに乗り込み、走り去って行った。 ショックだった。 道行く人に、しかも声をかけるだけで金をもらえるなんて、前の家にいた時に攻めていた町では想像すらしなかった。 いやもしそんなことを言ったら、間違いなくぼっこぼこだっただろう。 でもいいものを見れた、とニヤリほほ笑む。 それはすごく順調だった。 パンチパーマの黒人、元が白なのか茶色なのかわからない半そでシャツに身をまとった、いかにもという僕が声をかける。 周りに人が多く、女を連れている白人男に声をかければ驚くほどひっかかる。 その時は同類のやり方をこっそり真似ては経験で学んだが、思春期を越した時その理由も学べた。 まったく男ってさ。
日々の平均収入は3ドルほど、もちろん一日で使い切る程の少額だった。 でもそれで十分、人があふれる華やかな店の中に入って注文する勇気はなかったけど、入ったところでこんな汚いガキつまみだされるのが関の山だし。 だから路上販売の、僕と同類出身のにおいがするレゲエな格好をしたドレッドヘアの黒人の兄ちゃんに売ってもらえるようにはなっていた。 最初会ったときはチラッとも見ず無視されたが、お金があるとわかると普通に接客もしてくれた。
「おっ坊主、何が欲しい? 金もってりゃ客だ、その金の出所までは追及したりしねえから安心しな。」
親からもらったおこづかいじゃない事はバレバレだったらしい、文字は読めないから、指を指す。
「OK、特製オリジナルホットドッグだ! 冷めねえうちに食っちゃいな。」
アツアツのそれを受け取り、陽気な音楽がかかるその屋台の隣にちょこんと座って食べようと思ったが、
「そんなところにいたら邪魔、邪魔」、と兄ちゃんに怒られたので、少し離れたベンチに座り、包み紙を破り捨てる。 においを嗅いだだけでよだれがでる。見たことがあった、だから選んだんだけど。 よく覚えている。 ファミレスのゴミ箱からこれを見つけ、頬張った時の至福感を。 でもこれはそれとは比べ物にならない。 熱い!だからおいしい! そういえばあったかいものを食った事自体初めてかもしれない。 ゆっくりゆっくり一口一口楽しむ、1週間毎回これを頼む。 昼間コンクリートにかこまれながら膝を抱え思うのは、一日一回あるこのホットドッグの事だけだ。
「よく飽きねえな、ほかにもオススメあるぜ」
すっかり顔なじみになった兄ちゃんにあきれながら言われても、ほかのを試す気はない。 これ以上にうまいものなんてありえない、将来はホットドッグ屋さんになろう!とまで妄想したりもした。 現実という状況はそこまでおいしくはなかったが。
いつものようにホットドッグを思い浮かべながら、今日もネオン街への境目をまたごうとしたとき、急にまわりが闇に覆われた。 目を上に向ける事ができなかった。 つまりそれが何だったかすぐに理解できたから。 今思えば軽率だった。 テリトリーのルールは知っていたのに、あのきらびやかな世界と、多くの笑顔にその警戒が薄まっていたんだろう。 今それを反省しても、もう遅い。
「おいっ」
ビクッ、わかりやすいほど体が反応した。 恐る恐るこわばった顔とうるんだ眼を上にあげる、予想通り、自分より五つくらい年上の同類たちに四方を囲まれていた。 たぶんチーマーだ。 目の前に立っている頭にバンダナを巻いた男が鋭い眼光で僕を見下ろしていた。
「ちょっと来い、意味はわかるだろ。」
静かにドスの効いた声でそういうと振りかえり、歩きだした。 その意味はわかるが、思うように足が進まない僕は、後ろからドンと押され、前を歩く男の足元を追いながらそろそろ歩きだす、今押してきたのは誰なんだろうって確認する事なんてできるわけもなかった。
「でっ」
その一言にまた体がビクッと反応する。
「お前は何なんだ?」
思っていた通りの問いかけ、あそこからここまで5分くらいだろうか、前を進む足が止まったら終わる、(止まるな、止まるな)そんな願いは叶うわけもなく、予想されていた問いに答えをまとめる時間はすぐに消えた。
「えっと、あの、」
着いてから初めて視線を少し上げる。 どっかの駐車場っぽい、明かりはなく、昔の町を思い出す。 手の居所がうまく見つけられず腹の前で泳いでいる。 震えたままの足を止めようと意識しても、さらに震えが増してしまい逃げる事なんて絶対無理だ。
「おいっ答えろよ!」
右から怒声が飛ぶ、そこには自分と変わらぬ歳らしき子がいた。
「あの、ごめんなさい、この街に来たのは初めてで・・ごめんなさい」
なんとか震える声を押し殺して出せた、的を得ない答えに、もちろん納得してもらえるわけもない。 むしろヤル事ヤラレテ早く終わらせたいと、諦めも尽きつつあった。
「この街が初めてだ?」
さっきから5歩ほど離れた正面から話すこの男がきっとリーダーなんだろう。
「だからといってルールを知らないわけじゃないだろう。 どう見ても昨日までおぼっちゃまでした、と正反対のお前が。」
そう、だから言い返せる言葉なんてなかった。 ただ自分と同じ歳くらいの少年に怒鳴られビビった拍子に、考えもなくでただけの返答だった。
「まあいいや、ルール違反の制裁もわかるようにしておいてやれ」
以外と早くその時が来た事に正直ホッとした自分がいた、恐怖の中での言葉攻めは思った以上に痛かったから、それでも、迫ってくる周りの少年らの顔を見る勇気はなかった。 胸に衝撃がくると同時に気づいたら僕は真上を見ていた。 さっきまで見ていた地面とは真逆の、月も星も見えない真っ暗な夜だった。
「イッ」体に走る激痛で目を覚ます。 ゴロンと仰向けになった場所から見えるのはいつもの無愛想な灰色の天井だった。
「わかったか?二度目はないぞ」
最後に聞いたのは確かそれだったと思う。 その後ぞろぞろとみんなの気配がなくなるのを待って、腕で踏ん張り起き上がる。 尋常ない痛みが走るが、そんなこと気にしている場合じゃない、とりあえず早くここを去りたかった。 幸い、目も見えたし骨折もないっぽい。 たぶん手加減してくれたんだろう。 ひょっこりひょっこりと帰り道を歩く姿は、生まれたてのなんとかって言葉がピッタリだ。 復讐なんて考えはない、ルールを侵したのは僕だし、むしろこれで済んだのを感謝してるくらいだし。
「さすが【ゴキブリ】しぶといな」
独り言をつぶやき、切れた唇がそれを許さない中ほくそ笑む。 闇夜に映えないこの生物は夢も希望もあるわけじゃなく、その時はただ生きてることに感謝していたんだ。 気づいたらいつもの場所で体を丸めうずくまっていた。
「おなか減ったなー?」
何度か起き上がろうと挑戦するも、体から反応がない、そういや昨日はあのホットドッグ食べれなかったんだよな。 今は朝なのか、夜なのか、何日寝ていたのか、瓦礫でかこんだ自分専用のスペースからは外の様子はわかりづらかった。 記念日のつもりで記していた石で刻んだコンクリート壁への×印も意味をなさなくなったかな。 とりあえず今日もこのまま寝ていよう。 何も食わずに三日以上なんて今まで何度も乗り越えてきたんだから。 後は体の許しをもらうまで・・・目をつむった瞬間に意識は飛んだ気がした。
テーブルの上には山盛りのホットドッグ、大喜びの僕にそれを笑顔で見つめハッピーバースデイと唄う母。 わかってる、これは夢の中だ。 神様も残酷だな、どうせ楽しい夢見せてくれるなら、もっと現実に近付けてくれなきゃ。 ううん、むしろ夢の中だからできた神様からの贈り物だったんだよ、それを妙にクールぶって気づいた僕が馬鹿なだけなんだ。 それでどうする?このまま夢の中で楽しむ?それとも目を覚ます?夢の中で意識を持つと意外となんでもできる。 きっと夢の中でしか見たことない母の笑顔と、大量のホットドッグ。 名残惜しいけど、さよならしなきゃ、それが僕の選んだ道だもん。 なんでもできても、そこで僕の望む事はない。 決意した瞬間その甘美な景色は遠く離れ、眩しく白い光へと消えていった。 ハッと目を覚ます。 そこには変わらぬ灰色の天井が同じく灰色の壁と相まって雨の音を伝えてくれた。 どうやら外は降っているらしい。 仰向けのまま一筋の涙がほほを伝う。 やっぱり神様は残酷だな、夢の余韻が現実の今に小さな針を突き立ててきた。 それと同時に現実も知る事になる。 相変わらず体はいうことをきいてくれそうにもない、それより何より、空腹感が異常なほどに襲ってくる。 今まで味わったことない辛さから、ああったぶん3日以上経ったんだろうな、と無意味な結論もでてきた。 このままではダメなんだと頭では考えるも、体がまるでこのまま死んでいくのを願っているかのように動かない。 しまったなーあのまま夢の中にいたら良かった、と思ってもどうやらもう一度寝るのはちょっと厳しそう。 鳴ることさえしない腹は痛みを伴ってきて余計に苦しい。 ほんとやべーよな、独り言をつぶやいたつもりが口すら動いてくれず、言葉として外には出て行かなかった。 なんでもいいから口にいれたい! 昔ファミレスのゴミから回収した赤茶色い生肉、匂いに少しためらいながらも飲み込み、一日もがき苦しんだあれも今は愛おしくてしょうがない。
パラパラパラ、四方八方からコンクリートを反射してくる、けっして強くない雨音に、イライラがつもる。
カサッカサカサカサ、そんな中雨とは別の音に気付く、ゴキブリか・・・。 だんだんこっちへと近づき、自分の体に這ってきたのもわかった。 (そうか、僕が死んだら食うつもりだな)、とうとう顔にまで上ってきた。 傷跡もあって、こそばさと痛みがさらにイライラを増させる。 いやな考えが頭をよぎる。 でもそう思った時にはもう遅かった。
ジャリ、一噛み目いけるかも、ジャリ、二噛み目、僕は痛みなどなかったかのようにとっさに上半身を起こし体をひねり、それを盛大に吐いた。 もはや何の異物も含まれていない黄色の液体がその引き裂かれた物体に降り注ぐ。 ゲホゲホッ、オゥエ、嗚咽はでるがもう何も出てこない、これで胃の中は本当に空っぽになったんだろう。
その上から透明な滴がポツリポツリ落ちていく。
「・・・ヒック・・・ヒック、ママ~」
自分でもどうしてでたのかわからないその単語と共に、この滴は止まる事なくそこに落ちている。 きっとこれがこの旅の本当の洗礼なんだ。 僕はまた崩れるように仰向けに倒れた。
あの夢のせいだ、あんなことを口走ったのは。 現実の母は僕に向かって笑いかけることなんてなかったのだから、その夢の母に思いをはせたんだろう。 そう自分に言い聞かせるようにする。 そうしなければ、このままくじけてしまうのが目に見えていたから。
頭を横に向けさっき吐きだした物を改めて見る。 4つに分かれたその黒いかたまりはもう動いてない。 人間なんかに捕まるくらいだ、あのゴキブリも相当弱っていたに違いない。 (僕もこんな風に、こいつの隣で死んでいくのか)、そんなの死んでもヤダ! もう起き上がれる事を知った上半身を腕で踏ん張り起こし、まだ知らない下半身に無理やりいうことをきかせる。 痛い痛い、なによりボーっとしていた頭が急に鳴り始めた。
「ああっくそ!」
今度はちゃんと言葉になった独り言を足にむかってつぶやき立ちあがり、勢いで後ろへ体を反らす。 もう一度、今度は遥か上からそれを見下ろす。
「ありがとう、この事はきっと忘れない。 僕は生きていくよ」
自分で殺しておいて何を言っているんだか、なぜかそのゴキブリには感謝の念があった。その中から足を一本もらい、穴があいてないポケットを確認しそっと入れる。 これがあればこの先も生きていける気がする。 そんな願いをこめ、【ゴキブリ】はまた歩き出した。 今夜はどうやら満月のようだ、あたかも新しい出発を祝福してくれるかのような光に照らされながら。
あれから新しい寝場所もすぐにみつかっていた。 あの後正直あの街に向かうのが怖かった俺は、いつもとは別の方に探索にでかける事にした。 一歩歩くたびに体のどこからともなく痛みが走り、汗が伝うと傷にしみた。 季節はまだ夏、ここで倒れたらまたしばらくは起き上がれないこの体にムチ打って歩かせた、夜の間にせめて影をつくれるところへ行かなければ、このまま野垂れ死にだけは避けたい。
肩から下げた拾ったコーラのペットボトルから水を一口、腐ってもここはアメリカ、そこらへんの水道から水を出したってだれもとがめやしない。 水でたぷんたぷんになった胃がもう水はいいと拒否はしてくるが、何かを口に持っていかないと気が済まない葛藤の中、それでも歩みを止めることなく、まだ舗装されていない土の道の上を何もない景色を横に、目だけは常に前を向く事でゆっくり確実に前へと歩けた。
その甲斐あって素晴らしいものと巡りあえた、あれはもしや農園畑、胸から沸き出る何かをなしとげたかのような高揚感、自然と足どりが軽くなり、気付いたときにはその中にいた。 木から垂れるオレンジの丸い物体、その通り、まさしくオレンジだ。
夢じゃないだろうか、そう思う前に垂れている枝からむしりとり、少し厚いオレンジの皮もなんのその、2.3個一気にほおばる。 最高だ、同じ水ものでもこれには胃も満足なようだ。
満腹になりぐるっと農園を一周すると、少し離れたところに、木でできたちょっと古めの小屋をみつけ、中に入ってみる。 中は真っ暗だ、一昔前のランプみたいなものが天井からつりさがっているが、さすがに点けると、自分が中に入っている事をわざわざ知らせているようなものだから、それはできないので、窓から差し込む月の光に任せなんとか目を凝らす。 大股で歩いて5歩ほどの広さに鋏やカゴといった収穫用の道具、そして茶色いビンに入ったなんかの液体、多分これは飲まない方がいいな。 机の上に紙が何枚か束ねておいてあるが文字を読めないので何とも、ふと目線をあげると壁にカレンダーが張ってあり、赤いペンで○がふってある。 (もしかしてこれが収穫日?でも今日が一体何日なのかわかんないし) 気にはなるも、ま、明日じゃないことを願って、と楽天的に考え小屋の端に陣取り、木でできた床の上に寝転がる。 (そういや毛布持ってくるの忘れたな)不思議なものであの恐怖が逆に変な自信をつけさせていたのもあるのかもしれない。 警戒していたはずが、俺はまたすぐに落ちるのが感じれた。
小屋に唯一ある窓から差し込む光が、小屋の中を反射して顔に当たる。 相変わらず体は痛むものの、起き上がるくらいの痛みには慣れ始めていた。 さてと、とりあえず今日からの目標が一つできた。 この丸印がいつかって確かめることだ。 明るい中で改めてそのカレンダーを見てみると、大きく7と書いた見出しの下に並べられた31までの数字の中で、7.14.21.28の縦一列に○がふってあるのがわかった。 もしこれが予想通りの印なら大して苦労はしなくていいんだけど。 痕跡残してないよな、と小屋を見渡してはいったん外に出る。 見た目より軽い木のドアを開けオレンジ畑の方を見ると、何だか昨日と違う雰囲気がしたが、(朝と夜じゃ印象も変わるよな)と納得した。 明るいところで周りを見ても特に町がある気配はない、ってことはここの主は車で来るはず、道路とは逆の方向にある岩陰から小屋の様子をうかがう。 時折サーッと草が流れる音と共に連れてくる風が、体を優しく触り気持ちよかった。
その日も、次の日も、また次の日も誰かが訪れる気配はなく、車も一日に一回通るくらいで、ここだけ時が止まったかのように平和なまま1週間は過ぎた。
(なんかおかしいな)木の枝に上りいつものようにオレンジをほおばる。 もう体は十分回復していてこんな木のぼりくらいは文字通り朝飯前だ、実際は夜飯前だけど。 全然収穫に来る様子がない、食べ終わった皮を土の中に埋めながら考えていた。 収穫の時期がいつかなんて知らないけど、これだけきれいなオレンジ色をして、こぶし二つ分大きくなったオレンジは一番食べ頃に思えるのに。 まー来ないに越した事はないんだから、本来は喜ぶべきはずなのにこんな心配してしまうのは、昔の町で学んだ「自分が食う分を取ったら後は次の人のために置いておきなさい」といった所からきているのかもしれない。 もちろんそれはゴミ箱の話だけど、なんでだろうか、やっぱり自分一人で独占している感じは好きになれなかった。
一か月が経ち、オレンジも半分以上が下に落ち腐り始めている。 ここの主はとうとう来なかった、そしてあのカレンダーは多分役に立たない事はわかった。
この時季しかここは使えないのは、おおむね予想はしていた。 この一カ月遊んでいたわけではない、痛みがとれた頃から今度はこの小屋を中心に探索は続けていた。 道路の造りは本当に複雑なもので、あの時別の方向に向かって歩いていたつもりが、この場所を発見せず、痛みに我慢しつつやっとたどり着いたのがまたあの街になるなんて、その時の俺ならその場に崩れ去り発狂していただろう。 そうこの道路を行くとまたあの街に辿りついてしまった。 遠目でもそれがわかった瞬間その日は逃げかえってきた。
なにより凄いのがこの小屋周辺2時間ほどは、あの街以外見当たらないという事。 何が凄いってそんなのわからない、ただその事実がわかった時に皮肉も込めてそう思ったに違いない。 ほんとにただただ凄い。
その残念な事実がわかった時、それからどうするかなんて腹の中では決まっていた。 あの時、ゴキブリの残骸を見ながら決意したのは逃げぬく事じゃない、この道があの街へ続くのもきっと俺が進むべき運命なんだから。 ポケットにまだ残るお守りを眺めては再び誓う。 俺は生き延びてやる。
それから2年が経った。 俺は相変わらずの生活を送っていた。 オレンジ小屋からの往復の日々、やってる事は以前とまったく一緒だ、もちろんもうあのルールは破らない、つもりはない。 そのためにいろいろと勉強をした。 おそらく人生で初めての勉強というのを、といっても机に向かってペンを走らせてたわけじゃない。 ただ見ていただけ。 昼間にも街に足を運び、人をひたすらみていた。 そうすることによって何となくこの街のルールも分かり始めてきた。 テリトリーは昼と夜できれいに分かれている、昼間はまさしくホームレス(人の事いえないけど)といった老人が路上に座り物乞いを行い、夕刻、多分この街の名所っぽい赤茶けた古いレンガで造られた、いつ倒壊しても不思議でない時計台が出す18時のボーンという報せと共にその老人たちはどこかへとはけていく。 みんなどこに行くんだろう?そう思った事もあるけど、行動にはださなかった。 もし自分がそっちの立場なら好奇心でつけてきたガキなんて殺したいくらいだから。 街を歩いていると誰かの声が聴こえた、歳をとったホームレスはプライドだけは一人前だから困ると。
それから街は、20時までそういった類の者は姿を現さなくなる。 なぜかはわからないがこれもルールの一つらしい、そして20時の報せと共に、今度は俺の同業者やチーマー、ギャングが動き出す。 これまたどこから沸いてきたのだろうかというほどに。 その中であいつをみつけた、あの時リーダー以外で唯一顔を見たあの俺と歳が変わらないらしき子が、数人の少年らと一緒に闊歩している。 チャンスだった。 俺はあいつの行動を遠巻きに観察することにした。 万一見つかって追いかけられても50Mは離れたこの距離からならば、物心ついた時から毎晩数時間歩いて鍛えられた自慢の足なら、優に逃げ越す自信はあった。 もちろんその時にはあの怪我は完治して万全の状態でいたからでた自信だ。
ビルの陰に隠れ、決して近づきすぎずあいつと判断できる距離を保ちながらその背中を追い、今日はあの角まで、今日はあの店まで、それを一月ほど繰り返しようやくやつらのテリトリーが把握できた。 見ていた限りあいつらがおそらく下っ端で、見回りを行っているのだろう。 あいつらの後に回ってくるやつらはおらず、一周回った後はチームのやつらと合流し酒やたばこをふかし、くっちゃべっては、しばらくしてまた見回りを開始するみたいだが、最初の一回目の見回り以外は特に時間を決めているわけではなく、いつもバラバラだった。
おそらく俺が最初にこの街にきた時は図らずもその空白の時間に行動していたのだろう。 それが運がよかったかどうかなんてわからないけど、少なくとも1週間は、今も同じ場所であのレゲエな兄ちゃんが屋台を開いているホットドッグを、食えていた事は感謝すべきなんだと思う。
そしてあの時の俺に見本を見せてくれたあの子もいまだに健在である。 一体どうして?答えはすぐに分かった。 見回りのやつらが来た時にその子はすぐに近づき挨拶をすると、何かを手渡ししていたのが見え理解した。 (そうか金か)その金が見回りへのものなのか、そこのテリトリーを統べるチームへのものなのか、まあ後者なはずだ。 それを行っている子は何人もいた、そこから少しがめるくらい容易だろうけど、そんな馬鹿な事俺でもしない。 たった一度しか会っていない俺が、あのリーダーはすべてを見通せる、そんなオーラをだしていた彼が、かなり聡明に思えたからだ。
あの日その場で捕まらず、次の日待ち伏せされたのは、あの同業者の中の誰かが見回りに密告っていたのかもしれない。 別に恨んではいない、遅かれ早かれバレていたし、あのリーダーがいない場所であいつらにからまれていたら、もっと危険だったかもと思うと、俺はつくづく運がいいんだなとすら思えた。
夜も明けてくると今度は夜の集団がまたどこかへとはけていく、この時間になると時計台もあの音をだしていない、夜9時から朝7時まではストップするようだ。
だがこれが大きな発見だった。 夜の集団がはけるのに規則性はなく、みな思い思いといった感じがあの朝のホームレス達の規則性を引き立たせたからだ。 ホームレス達が集まるのが大体7時過ぎくらい、こっちもバラバラだった。 つまり、この時間帯にはルールはない!はず、それに気付いたのが大体1週間、もちろんそれは前にターゲットにしていたお金をくれる大人達もいない時間ということだけど、じゃーどうする? 簡単さ、昔からの十八番のゴミあさり以外何があるっていうんだ。 だからといって大抵の物は先客に取られている、これだけ物が豊富な街で俺らみたいなのがそれを放っておくわけがない、そいつらは一体なにをテリトリーの主に渡しているかは知らないが、あれだけ堂々とみんなの前でやっているからには何かはあるんだろう。
でも、それでもちゃんと探せば、少しは残っているのはさすがこの街、としかいいようがない。 前の町のやつらに教えてやりたいくらいな出来事だよ、ここに楽園があるぞ、ってね。 いやあの町だってスラム街だ、生まれてからずっとそこで同じ暮らしをして過ごすやつなんてきっといないだろう。 この街に住んでいたやつが何らかの事情であんなスラム街に住まなければならなくなった奴だって少なくはないと思う、だからこそルールの厳しさを人一倍知ってるからこそ近づかない奴、自分のように制裁を受けて近付けなくなった奴、そうなると数人でひとつのゴミ箱をテリトリーにしていたあの町は以外といい町だったのかも、と少し苦笑してしまうのには困った。
この街にはほかにもたくさんのチームとテリトリーがあるが、あえてあのチームとそのテリトリーにのみ絞って調べ上げた。 ただあいつらに一矢報えればそれでいい、実際テリトリー内で黙ってゴミを漁っている自分が少し優位に立ってるつもりでいるくらいだ。 でもそれだけじゃない、この戦いで勝手に自分が決めたもう一つの勝利条件、もちろんそれはあのホットドッグを食ってやる事他ならない。
そして2年の月日は重ねた今日それを決行する。 さすがにもうぼろぼろになって、粉みたいになってしまったお守りを、ポケットの中で手にこすり腹をくくる、不思議と心は落ち着いていた。 あの日と同じくらい暑い夏、月も星も見えない、【ゴキブリ】には最高の夜だった。
調べに調べ抜いたこの時間、見回りも来ず周りの同業者も消える空白の時間がある。 あいつらのテリトリー内に足を力強く静かに踏み入れる、自分の中にだけ大きくドンと響くように。 何度もシミュレーションしたこの風景もいざ目の当たりにすると、その空間の大きさに圧迫されそうな勢いで迫ってくる。
でもそんな感慨にふけっている場合ではない、この空白の時間は余裕をもって20分といったところだ。 ターゲットは三人いる、一人目、黒のスーツに身をまとった20代といった金髪の白人兄ちゃんに声をかける、なにも言わず手で振り払われた。 二人目、女連れの太った親父に、こいつなら100%だと思っていたが、まさかの女の方から拒否をされ、男はされに準じて行ってしまった。 くそっビッチが! 気を取り直し三人目、あれっ三人目は・・・やられた、振り向いた所にそいつは見当たらず、どっかに行ってしまったみたいだ。 (くそっ、いや焦るな焦るな)そう自分に言い聞かせるも心音だけは上がっていく。 時計台の針はタイムリミットまで刻々と進んでいる。
そこへ目の前に黒塗りの車が止まり、運転手がいかにもといった夫婦を降ろす。 今度こそは、声をかけた瞬間冷や汗が流れた、その夫婦越しに同業者の姿が、こちらには気づいていない、けどここに向かってきている。 夫婦は突然しゃべりかけた俺を見たまま次の言葉を待っているかのように止まっている、これはいける。
「お金を下さい」
いつものセリフ、慣れているんだろうポケットから数枚のドル札に感動すら覚える。 お礼をいい踵を返してすぐさま移動する。 (気付かれたか?)後ろを振り向けばばれる確率が高い、そのまま平然を装い歩く、目的地はそうあのホットドッグ屋だ。
昔と変わらず陽気な音楽を流すその屋台の前に立ちお金を渡す。
「OK、特製ホットドッグだな、熱いうちに食っちゃいな」
うたい文句も昔とほとんど変わっていない、どうやら俺の事は忘れているみたいだけど。 紙を破り一気にむさぼり食う。 (この匂い、この味、やっぱ最高だー!)
「おいっ」
聞き覚えのある声が後ろからした、あの見回りのあいつだ。 と同時に振り返ることもなく一目散に走りだす。 (まだ見回りの時間ではないはず、ってことはやっぱり密告りか) 人ごみをかきわけ逃げる、逃走ルートなんて真っ先に下調べ済みさ。 加えて毎日数時間歩いて鍛えた脚にはあいつらも追いつけるはずもなく、気がつくと郊外へと逃げ切り後ろを振り向く。 誰もいない、(勝った、俺は勝ったんだ!)歓喜に浸りたいがそれは後のお楽しみだ。 いつ追いかけてきてもおかしくないこの道を外れ、道なき道を遠回りして小屋へと向かう。 喜びのおかげか、遠回りしたはずなのに、いつもよりも早く小屋に着いた気がする。 小屋には入らずあの岩陰から様子をうかがう、これなら万が一あいつらがあの小屋に気づいても、生活臭のしないあの小屋ならスルーするだろうし、冬の間に使っていた毛布とかも全部この岩陰に隠しておいてある。 それはあいつらのためだけではなく、小屋の主対策でもあったんだが。
ふうっと腰を下ろす、手と足がまだ震えている。 恐怖からじゃない、やり遂げたという達成感からだと自分でも実感していた。 ポケットに手を入れお守りに触れる、「やってやったぞ、【ゴキブリ】が机の上のメインディッシュを食ってやったんだ」 「くくくっあははは」こらえきれずに体全体で笑いだす、地面の上を、体をうずくませ、声を殺しながら、転がりまわる。 その日は眠れそうになかった。
きっと夢を成し遂げた人っていうのはこういう気分を味わったんだろうな。 結局一睡もせず、むしろ来るなら来いと興奮やまぬ状態で岩の周りを右往左往して時を過ごしていた。 朝日がゆっくり目に入り、ふと我に返る、(さーこれからどうしよう?)もうあの街には行けないし、今はまだ自然にオレンジが生るこの場所も、あの街にしか行けないんでは新しい寝場所を探さなければいけない。
この事について考えてなかったわけではない。 でも正直あの作戦がうまくいけば、見つからずにずっとできるだろうという甘い考えも持っていたのは否めない。 考えてても埒があかないや、と覚悟を決める。 今回の一連の発端となったあのやり方も、街で誰かがやっているのを見て学んだんだから、また次の街に行けば新しい何かを見つけられるだろう。 もとより人生経験の少ない俺がこんなとこで考えてたってわかるはずないのだから。
オレンジの生ってる間くらいはまだいてもよかったかな、歩きだしてすぐに弱気な意見が出てきた。 思い立ってすぐに行動にでたはいいがこれじゃ先が思いやられる。 持ってきた物は水とオレンジ数個と毛布一枚だけ、毛布だけはかさばっても持ち歩きたい、それほど重要なものだと思ってる。
前にも探索していたのでしばらくは街が見えてこないのは覚悟済みだが、4時間ほど歩いて何も見えてこないとなると少し気がめいってきた。 「あちー」それに加えてこの夏の日差しの暑さ、節約はしているもののペットボトルいっぱいにしておいた水も半分を過ぎていた。
昨日の今日ともあって、道路より少し離れた所を道なりにひたすら歩いている。 (メンツをつぶされたんだ、車使ってでも追いかけてくるかもしれない) その分、舗装されてないでこぼこした道が、さらに体力を消耗させてきている。 何で夜にしなかったんだよ、また弱気な意見がでたところで、近くにあった木の陰で休憩をとることにした。
夏の日に木陰で、一陣の風がサーっと体と耳を抜けていくのは、ほんとになんとも言えないくらい気持ちいい。 その心地よさに疲れと昨夜寝てないのも効いてつい眠りについてしまった。 まあ少しくらいは・・・。
ブロロロッ、心地よい空間ににつかわしくない音が大地を伝う。 ハッと目を覚ますと、道路から離れてはいるものの、見えないわけじゃない木の裏に隠れるようにはりつく。 珍しく通った車の音が、忙しく過ぎ去っていくのを聞いて、パンとほほをたたいて気合いを入れ直す。
ダメだ、休むのはもっと安全な場所を探してからにしなければ。 高鳴った心音とは違い、休息から急に目覚めさせられた、けだるさを残したままの体に喝を入れもう一度歩き出すと、緩やかな風がそれを応援してくれるみたいに後ろへと吹き抜けていった。
その甲斐あってようやく街が見えてきた、何時間歩いたんだろうか、朝にでたはずなのに、もう陽は暮れる方へと傾き始めていた。 とりあえず水を補給しよう、節約しておいた水も口かりこぼれるほどにその場で一気に飲み干す。
前の街ほどの華やかさはないがこの街もなかなか立派なものに感じれるのは、やはり車や人の多さからなんだろう。 逆に同類も少なく感じるのは汚れのない街という雰囲気をかもしだしているからと、いい意味で金持ちが遊ぶために集まって来そうには見えないのを、街に入った瞬間なんだか感じ取れた。
水補給のためさっそく自由に使える水道を探す、ランニングしているお姉さんや、大きな犬を子供と一緒に散歩しているおばさん等、自分には似つかわしくないアットホームな感じの割と広い公園が街の真ん中にあった。
公園ならどこにでもあるような水飲み場から、蛇口をいっぱいひねり、水を補給した。 できれば体も洗いたいけど、さすがに人が多すぎる。 足も疲れていたが、そのための時間潰しも含め、寝場所として利用できる所があるかもしれないから、ぐるっとまわってみることにした。
木や池などがところどころにあり鳥のさえずりが聴こえてくる、やっぱりここは憩いの場としてみんなが集まってくるのもわかる気がして、関係ないのに少し嬉しい気分にもなれた。 そんな中、そこに似つかわしくない?同業者?いや違う、自分と同じ感じを受けた気がしたけど、むしろそこにピッタリだと思ってしまうほど不思議な感覚をだす老人が池の前に座っていた。 不思議な感覚を覚えたのは、今まで見た彼らとは違い、彼は空を見て堂々とその場に陣取っていたからなのかもしれない。
(何をしているんだ?)ゆっくりと近づいて行く。 近くに行くと紙の束とペンと小さな椅子が置いてある。 何だこれは?気にしてない振りをして通りすぎようと思ったが、つい目があってしまった。 思わず足が止まる、しまった、と思いつつも足が前へ行かない。 目が、あの時のリーダーとは違う、結果は一緒だけれども、あの時とは正反対の穏やかな目が俺の足を動かしてはくれなかった。
「座りなさい」
長い、いや実際はほんの少しの沈黙の後、老人が椅子へと促してきた。 言われるままに座った自分に、くだらない敗北感を感じ、つい強めに口を開く
「何だよ一体、あんたここで何してんだ」
「いいから黙って座ってなさい」
地べたに座りながらも自分より優位に進める感じもまた癇に障った。 横に置いてあったペンと紙を取り出すと、老人はまたこっちをじっと見てきた。 「同類じゃよ」えっ、と聞き返す
「さっき質問しただろ?わしもお前と同類じゃ」
「いや違う、あんたは俺らとは違う。 うまく言えないけど、あんたは何か違う」
言われた通りじっと座ったままで反論する。 ジッと俺の顔を見ると老人はペンを走らせた。 それからしばらく沈黙が続く、最後に言葉を発したのは自分なのに、勝った気がしないのは癪だった。
10分後老人がペンを置く、やっとか、言うことを聞いてジッと座っていた自分に、今更ながらため息がでた。
「ほれ」
渡された紙を見ると黒一色でやけにリアルな顔が描いてある。
「なにこれ、俺の顔じゃん」
あまりにもうまいそれを見て当然の感想を出す
「わしがやっているのはこうやって、望む人の顔を描いて商売にしているだけ、後はお前らと一緒じゃ」
商売と聞き、金はないぞと咄嗟に紙を返すそぶりをする。
「わかっとるわい、それはお前へのプレゼントじゃよ、ようこそこの素晴らしき街に」その時見たその老人の笑顔はとても優しく穏やかだった。
とりあえずこの街のゴミ箱のテリトリーや、同業者のやり方を学ぶために、前の様に街を徘徊する。 公園なら寝泊まりするのに全然問題はないことをあの老人に教えてもらい、公園の中にある木々の隙間に自分の場所を作り、そこに荷物は置いてきた。 毛布もあの絵も。
思っていた通りここに同業者は少ない、その分得るものも大きいが、ひとつ今までにはないやっかいな問題が現れた。
「君、見かけない顔だけど何してるんだい?パパやママは?」
街を探索しているとふいに男から声をかけられた
「ちょっと買い物をママに頼まれたんだけど、引っ越してきたばかりでスーパーの場所がわからなくなっちゃって。まったくママは人使いが荒いったらない」
うまくごまかせれたかはわからないが、その男はスーパーの場所を教えてくれると、遅くならないようにと念を押して帰って行った。 驚いた、まさか警官に声をかけられるとは思ってもみなかった。 確かに天敵みたいなものだったけど、俺らみたいな小者、今までの街でならスルーされていたはずなのに。
何にしろ、これから少しやりにくくなった、引っ越してきたなんて嘘、警察に二度も三度も通用するなんてありえないし、この旅の終焉が家への強制送還って・・・。 どうせもうあの家と町には俺の居場所はここよりないんだから。
公園に戻りあの老人を横目に、周りの視線がないことを確認し隠れるように自分の場所へ戻ると、戦利品を出した。 賞味期限が切れただけの未開封のホットドッグ。 この街もあの街もなんでこんないい物を捨てるんだろ? 俺が店員なら持って帰って食うな。 一気に食っては、これが暖かければ言うことないんだがな、と、この街の居心地の良さに贅沢を言えるほど心に余裕が出来てきていた。
でもあの老人はあれで商売が成り立っているんだろうか?一か月ほど経ちふと疑問に思う。 街の公園に来るメンツなんて大概同じ人だから、一回描いてもらえば似顔絵なんてそうはいらないだろうし。 それでもいつもあの老人の前には人が座っていた。 今までほかの同業者の素性なんかまったく興味がなかったのに、不思議なほどあの老人に惹かれている。 ある雨の日、何の役にも立たない一枚の紙に描かれた自分の顔の絵を、雨に濡れないようにしている自分が滑稽とはおもいつつ、その動きを止めない自分の意味が見いだせなかった俺は、もう一度彼の前へと向かっていた。
「久しぶりじゃな、前あった時より元気そうで何より、もう一度描いてほしいのか?今度は金をもらうぞ」
前と同じように、促されるがそれを無視し老人の隣に座りこむ。
「あの時はどうも。 今回はあなたの隣であなたの事をただ見ていたいんです」
この老人には虚勢を張って自分の立ち位置を創る必要がないのはもうわかっていた。
「はっはっはっ、これまた珍しい。 はっきりいってこんな老人の一日なんてつまらんぞ。 それよりあそこでキャッチボールをしている男の子達に混ぜてきてもらったほうがよっぽど人生の役に立つぞ」
開けた芝生の上でキャッチボールをする同年代くらいの少年達がいる。 でも
「いいんです、あなたが思っているほど子供は子供じゃないんだ。 俺とあの子達ではきっと・・・」
うまくいかないのは知っている。 まだそれがわからぬ子供のころ、俺はそれを試し後悔した嫌な思い出もある。 その頃から俺は人がきたら隠れるようにして過ごしてきた。 あの頃に比べ、俺は強くなったけれどそれでも・・・。
そうか、と老人は黙ってまた前を向いた。 暖かい日差しの下、風が深緑の木々を演奏し、後ろの池からは魚の跳ねる音、そして自分とは別次元の人々の笑い声が奏でるこの公園の音色。 その中で過ごす時間の流れはとても穏やかに感じれた。
老人はおもむろにペンをとると紙に走らせた。
「お客さんいないよ」
「いや、いつもの常連さんじゃ」
ふっと紙と老人の視線を覗き込むとどうやら前の木の枝にとまった小鳥を描いているように見える。 けれどその小鳥はすぐに飛び立ちどこかへと行ってしまった。 俺はそれを首が動くとこまで目で追っていく。
「あ~あ、いっちゃったね」
残念という感じに振り返る、だが老人は手を止めることなく、さっきまで小鳥がとまっていた枝をずっと凝視してはペンを走らせ続けている。 (何だ描いていたのは鳥じゃなかったのか)気になってはいたもののとりあえず完成を待つ事にしよう。
落ちている小石を目標もなく前へと放っていると老人のペンがとまった。 ほれっと渡された紙を見てみると、なんだやっぱりさっきの小鳥じゃないか。
「うまいですね、でもどうやって?すぐ飛んでいっちゃったのに」
さすが出来栄えはすごかった、自分の似顔絵の時と同じで黒のペン一色で、小鳥が枝にとまって首をかしげている様子が忠実に再現されている。 紙をめくっていくと、確かに常連さんらしい。
「どうやって、か?」
いろいろなシチュエーションで描かれた、多分同じモデルだと思われる小鳥の絵をパラパラ見ていると老人が聞き返してきた。
「今いいですか?」
その答えを聞く前に一人のスーツ姿の女性が椅子に座って尋ねてきた為、中断されてしまった。 大丈夫ですよと老人がジェスチャーをするので、紙を返して待つことにした。
「今日はかわいいおぼっちゃんがいるのね、お孫さん?」
目を見てかわいいと言われたので、なんだか恥ずかしくなって目を背ける。
「まーそんなもんじゃ」
ウフフといっては世間話を二人で始めだした、どうやらこの女性もここの常連っぽい。
10分くらいして老人はペンを置き、紙を一枚破って彼女に渡した。
「いつもありがとう、おじいさんの絵を見るとなんだかすごい自分に自信が出て、仕事の嫌な事も頑張れる気がするの」
はいっと終始笑顔だった彼女は10ドルほどわたして去って行った。
「今の絵おかしくない?」
隣でずっと見ていた俺には少し納得しないものがあった。
「いくらなんでもキレイに描きすぎだよ、あの人そんなに」
ブロンドのロングヘアーに白い肌と青い目がまさしく白人女性という彼女だったが、お世辞でもそこまではいえない女性だったのは間違いない。
「めったなことは言うもんじゃない。少なくともわしにとってはあの人はとてもキレイじゃよ」
俺が首をかしげる
「さっき聞いてきた質問があったな、つまり今のがその答えじゃ」
「さっぱりわかんないよ」
お姉さんにお世辞で絵を描くのと、鳥が飛び立つ事に意味なんてあるのか?
「ではこれならどうじゃ?もしあの鳥が飛び立たずにあの場所にいてくれたとしよう。 この絵の形でずっと待っていてくれると思うか?」
答えを誘導されると腹が立つもので、黙って首を振る。
「その通りじゃ。 ならどうするか?簡単じゃ自分が描きたいと思ったその一瞬のシーンを頭に切り抜くのじゃ。 それを紙に写すだけ、お前はずっとわしの絵を見ていて彼女を見ていなかっただろう?今度よく見ていなさい、彼女の笑顔はとてもキレイじゃ」
わかったようなわからないような顔をしていると老人は更に続けた
「世の中には二通りの人間がおる。 人のキレイな部分を見つけれる人間と、人の汚い部分を見つける人間じゃ。 どっちが正解とはいわん、わしも多くの人間を見てきた、お前が生きている世界ではむしろ人の汚い部分を見つけていかなければ生き残れないのもあるだろう。 後は自分で経験しなさい、そしてよかったらその答えをいつか教えてくれないか」
それから陽が暮れて老人が帰るまで隣で絵とモデルを見比べてはみたものの、どうも商売のために少し美化して描いているようにしか見えなかった。 でも確かにみんな笑顔で帰っていく。 老人の描いた絵や楽しそうな会話、そしてそこから創られる雰囲気に自分の居場所がないみたいで、少し怖かった。
「さてと」
陽も傾きその日最後のモデルにお別れをいうと老人は立ちあがった。
「どうじゃった?何かいい発見はあったかい?」
「うん、そうだね・・・」
いい発見はあった、けれどそれをうまく言葉には表せない。
「そうか、それは良かった、役に立てて光栄じゃ」
折りたたみの小さな木製の椅子を片付けると老人は背中を向けた
「待ってください!」
とっさに声が張った。
「よかったら俺に絵を教えてくれませんか?」
明日もここにくれば会えるのはわかっていた。 それでも今言わなければダメだと、いやむしろその一言が今日学んだ事のすべてを物語ったんだと思う。 しばらく黙って立ちつくす老人、わかっている、どうやって断るかを模索中なんだ。 俺みたいなストリートチルドレンを下に置く理由があるなら、逆に聞いてみたい。
「わしの名前はスミス、明日からはスミス先生と呼ぶように」老人、いや、スミス先生は満面の笑みで顔を振り返る。 ウソだろ、ありえない、でもありえたんだ。 スミス先生の気が変わらないうちに返事をしないと。
「俺の名前はジャンです、よろしくスミス先生」
その日の自分も仕事の最中は不思議な高揚感に包まれ、何か、なんでもいいからとにかく叫びたい気持ちの中にいた。 明日という日が待ち遠しい、月の光や街灯をさけながら歩いていても目の前が明るくも見えた。 (でもひとつ嘘ついちゃったんだよなー)俺の名前はジャンじゃない、というか教えてもらった覚えがない、ママが呼ぶ時はいつも“おい”くらいだったし、だからといって【ゴキブリ】ですなんて名乗れないだろ。 そう思うと人から名前を聞かれたのは初めてになるのかー。 ま、でも名前なんてなんでもいいか、俺の名前はジャン、【ゴキブリ】・ジャンだ! 月に向かって自己紹介している自分が恥ずかしいよりもなぜか少し誇らしく感じた。
「おはようございます、スミス先生」いつもより早く起き、というより勝手に目が覚めたというべきか、いつもの場所で先生がくるのを、今か今かと待っているところだった。 先生は椅子を広げると、昨日と同じ配置に座りペンと紙を渡して、くれなかった。
「おはようジャン、いい天気じゃな」そういって先生は空を見上げた「あの、先生今日はよろしくお願いします、それで、あの、俺の紙とペンとかは・・・?」差し出した手には見慣れた自分の掌だけ見えた。
「ジャン、今から言うことがこれからの授業で一番大切な事じゃ、よく覚えておけ」
行き場のなくなった手を下に降ろしまっすぐ見つめてくる先生の次の言葉を待つ。
「先生と生徒の契りを結んだら、その先生の言うことは何があっても守るんじゃ。 先生の言うことが、正しいとか、間違ってるとか考えてもダメじゃ。 ただわしを信じろ」
正直納得できる話ではない、だけどここでこのつながりを切ってしまったらきっとダメなんだ。
「はい、先生を信じます。 たとえ何があっても」
俺は目でその決心を先生に突き刺した。
「よし、じゃあまず最初のレッスンは、見る事じゃ」
「見る事?」
「その通り、前にも言ったが人間には二種類の人間がいる、だが絵描きを目指すなら、キレイな所を見つける人間にならなければならん。 だからしばらくはモデルをよく見ておけ、わかったな?」
約束通り素直に、はい、とだけうなずく。
先生の教え通りひたすらモデルを見続けた。 あの常連の小鳥も、スーツのお姉さんも、家族が散歩している犬に至るまで。 一度先生に注意されたのは、
「お前のそれは睨んでるように見える、それじゃーお客さんはいい笑顔になってくれんぞ」
それからは満面の笑みでモデルと顔を合わせるようにしたが、それはやりすぎだ、とまたもや注意された。 まさか見る事より見ている時の顔から学ばなければいけないとは。
「注意されるということは素晴らしい事、人よりひとつでも多く注意されるのはむしろ誇るべきことなんじゃ。 最初からできている人間はその重要さに気付かない、だからある程度のレベルになると必ず息詰まる。 まさかそんな初歩的な事で、人が転ぶ時はいつも足元に何かあるもんじゃ」
何日か経ち、色々注意を受けて少しひねくれているのが先生にはまるわかりだったようだ。
初日から給料はもらっていた。 一日に来る人なんてもちろんバラバラだし、お金はその人の気持ちの額らしいので、自分には先生がいくらもらっているかは知らない、けれど決まって10ドルは渡してくれた。 これで食べ物を買いなさいという意味なのだろうけど、それについてだけは、守らなかった。 お金を貯めておきたいというのもあったけど、なによりこの街では、まだ食べれる物が放置されたまま捨てられていくのに、なんだか無性に腹が立った。
ある日、まだ最初のレッスンを継続中の俺は、食糧の探索中にもちゃんと周りを見る事を練習していた。 そんな時、路地裏に子猫を見つけゆっくりと後ろをついて歩いていると、つい街灯のついた道へとでていっている事に気付いた。 あ、しまったと周りを見渡したが、よかった誰もいない。 元の道へ戻ろうと振り返った時、ビルのガラスに誰かが映った。 ビックリして声にだしそうになったが、よく見ると街灯で反射して映った自分だった。
「驚かせやがって、ビックリしたじゃないか」
ガラスの中の自分に怒ってみると、ふと思い出した。 (そういえば俺、自分の顔見たの久しぶりだな)あの街ではそんなの気にする事なかったし、なにより見た目がよくない方が、同情をひけてよかったし。 そうだ!俺はあることを思い出すと急いで帰る。
(自分の顔、最近見たじゃないか)なぜかあの日、捨てずに持っていた自分の似顔絵、あれを見れば何かわかるんじゃないか、路地裏を駆け抜け、公園に戻り自分の絵を手に取ると、もう一度さっきの場所へと戻った。 俺のキレイな瞬間、そんなの考えたこともなかった。
街灯の下、周りに誰もいないのを確認しながら、ガラスに映る自分と「キレイな自分」が描かれているはずの絵を何度も交互に見比べる。
(わからない・・・何度見ても、そもそも俺にキレイな部分なんてあるのか?)それでも先生はこれに何かを表現しているはず、だからこそ自分は本能的にこの絵を、メシの種にも金にもならないこの一枚の絵を捨てずに取っておいたんだろう。 結局その日は最後まで答えが見つけられなかった。 けれどこれが一番簡単な問題のはずなんだ、何だって自分の顔のことなんだから。 その日からそうやって自分の顔をひたすら見るのが日課になった。
「ジャン君はいつも真面目ね、あまりにも見られるから意識しちゃってお化粧のスキルがあがっちゃったわ」
「俺もお姉さんの顔を見ているとドキドキします」
「あら、じゃあ私たち両想いね」
公園の木々が赤や黄色に変わり始める頃、いつものスーツのお姉さんともすっかり仲がよくなっていた。 そしていつものように先生の絵をもらって笑顔になる彼女を見ていると、不思議と自分も気分がよくなった。
「最初のレッスンはどうじゃ、何かわかってきたかい?」
お客さんがいない間をぬって、目を見て聞いてくる先生に、ううん、と首を横に振り答え下を向く。
「正直わからないです。 ただあのお姉さんや、よく話すお客さんを見て、最初に会った時よりキレイに見えるっていうのはあるんですけど、でもそれは、何ていったらいいのかわかんないですけど、違うんですよね。 好印象になったからキレイに見えるじゃ、先生はどんな嫌な客でも、必ずキレイな部分を描いている。 そこがわからないんじゃまだ・・・」
(何より、自分の絵のそれすらいまだにわからないんだし) 呆れたのか、先生は前を見て黙っている。 (しまったなー、嘘でもわかるって言っとけばよかったのかなー、でもそれで次にいっても嬉しくないしな。 しょうがない、破門になったらまた別の生き方を考えよう)
「よし、次のレッスンへいこう」
驚いて顔をあげると先生はペンと紙の束を手渡してくれた。
「騙したようで悪かったが、実はその問題はそんな数カ月、数年ではわからん、一生かけて見つけ出すものじゃ。 だからわしもまだまだわかっとらん。 でもそれが最初のレッスンなのには訳がある。 それは、一番長い時間をかけて学ばなければいけないものだからじゃ。 だがそれは一生をかけるに十分値する、とても素晴らしいものじゃよ。 そんな難問をお前はよく見て、よく考え、それを正直に答えた、だから次のレッスンじゃ」
戸惑っている暇もなく、さっそくといった感じで、絵の描き方について基本的なことを淡々と説明してくれた。 輪郭、遠近法、ピント、背景、濃淡等、たった一枚の絵にも様々な技術が含まれているみたいで、言ってることも意味もある程度理解はできた。 けれどいざペンを走らせると、まったく子供の落書きだ。
「最初はそれでいい、その基本の描き方を精進しつづければ必ず最後には形になる、間違っても、この描き方の方がいいんじゃないか?なんて自己流には走らないこと」
「はい!」
教えてもらった事を頭にいれながら、先生の横でお客の絵を自分も描く。 先生が一枚の絵を描き終わっても、まだ輪郭の位置決めすら終わってない事が続く。 確かに、先生の言うとおり、こうやったらもっと早く描けるんじゃないかっていう言葉が頭の中をひたすら駆け巡る。 早く描けない苛立ちから少しでも雑になると、すぐに先生から叱咤がとんできた。
お金もそこそこ貯まってきた頃、シャツやパンツ等の替えも充実してきた。 普段から客商売をするにはまず身だしなみだと先生に言われているので、公園の水から街のコインシャワーへと移り、お湯の温かさに感動した。 服もゴミから漁ったものじゃなく、新しいものに買い替えた。 お守りはコンビニで見つけたジッパー付きの透明な袋にいれ、大事にズボンのポケットにしまってある。 どんなにボロボロになっていても、それを見るとあの日の光景がよみがえり、自分の気持ちを奮い立たせてくれた。
やはり人は見た目なんだろう、最初俺の事をあからさまに避けていた服屋の店員も、いまではおススメを紹介してくれるし、その逆に警官は声をかけてこなくなったし、でもそれも完全な夜中になってしまえば話は別なので、相変わらずこそこそメシを漁ったり、ガラスに映った自分との格闘を続けている、今はそこに、アホみたいにニヤニヤしている自分の顔を描くという日課も加わった。
お客がこない時には先生は文字や算数といった、日常生活で最低限これは必要だというのまで教えてくれた。 文字を覚えると世界が一気に広がった、街にあふれる文字が少しずつ読めていくことがこんなにも嬉しいなんて。 そのおかげで買い物もスムーズにできるし、算数のおかげで値札も読め、相手の言い値だけを素直に払っていたあの街の頃とは比べものにならないほど、生活も充実してきていた。
廃棄が始まる夜中になるまでは、街の中をブラブラ歩いては、世の中にはいろんな店があるんだなーっと感心している。 身なりに自信がついて自分にも似つかわしくない店に入っていく事もたまにあるが、キレイなネオンに誘われて入ってみたら女性用下着店だった時には、店内を一周グルッと回って、用があってきたんですよみたいな顔をして外にでると、顔から火がでそうなくらい恥ずかしくてそこからダッシュで離れた事もあった。
最近のお気に入りは「エレクトリカル」という名の凄く大きな電化製品屋だ、あそこにいると本当に驚きの連続で、いつかはここにあるものすべてに囲まれた家に住みたい、と夢見るほどそのすべてが魅力的だった。 なかでもテレビが最高の楽しみで、いつもアニメが流れているテレビの前で閉店までいる自分はきっと店員に覚えられているんだろう。 最初は先生の絵と違って雑に描かれたアニメの人間や動物達に嫌悪感もあったが、見ているうちになぜか実際の人間よりキレイだったり、かっこよく見えたりして不思議とはまっていった。 特にヒーローの男が必殺技を使って、かっこよく悪役を倒しているシーンは日課の合間、一人で真似しては楽しんだ。 (あんなかっこいいヒーローの絵も描いてみたいけど、まだ早いって先生に怒られるかな) レッスンが全部終わってからだな、必殺技を出し切るとガラスに向かって決めポーズをした。
(そういえば、先生はどこでどんなふうに生活しているんだろう?)今まで日が暮れれば帰っていく先生の姿を見ては、自分の生活に戻っていくだけの繰り返しだったが、ふと思い出したかのように、頭に沸いて出てきた。 家はあるのか、家族はいるのか、それとも同業者と最初に言っていたくらいなので、どこかに自分のテリトリーを持っているのか? いやそんなふうには見えない。 それを知ったからどうにかなる訳じゃないけれど、気にはなる、ちょっと明日聞いてみようかな? (別に怒られるほどのことじゃないし)
「わしの事などそんなに気になるか?」
はいもちろんですという感じに強くうなずく。
「そうじゃなー、まー前に言った同類というのは最初から否定していたくらいじゃからな、正直にいえば同類といえば嘘かもしれんな。 けれど所詮こんな公園で絵を描いて生計を立ててる老いぼれじゃ、後は察しておくれ」
結局何もわからなかったが、それ以上聞いても答えてくれなさそうなので、それ以上は追及しなかった。 確かに先生は俺の事は何も聞いてこなかったな、お互い今の関係を続けるのにはそれが一番なのかもしれない。
でもやっぱり気になる。 だからといって後をついて行って見つかってしまったら、今のすべてが壊れてしまいそうで怖いし。 (でも気になる)夕暮れになるにつれその疑問も膨らんでいっていた。
「それでは、また明日」
「はい、先生」
いつものように日が暮れ別れると、街へと向かっていた。 結局つけて行くのはやめておいた。 懸命な判断だったと思うが、やっぱりちょっとは残念な思いもあったが、気持ちを切り替え、いつもの街の徘徊をしていると後ろから珍しく声をかけられた。
「あら、ジャン君こんなところで何しているの?」
振り向くとやっぱり、いつものスーツのお姉さんだ。
「こんばんは、ちょっと買い物に来ました」
一人で来るなんて偉いわねと褒められ、普通の同い年の子なら子供扱いするなと思うかもしれないが、俺にとってそれはものすごくうれしかった。
そうだ、このお姉さんなら何か知ってるかも、でもそれを聞くには最初に作った家族っていう設定を壊さなきゃいけないし、下手すれば、俺だけならまだしも先生にまで迷惑がかかる可能性はあるし、例えば警察とか・・・。 いやこの人ならわかってくれるはず、人のキレイな所をみつけるコツはまずその人を信じる事じゃ、って先生も言っていたし、
「あのちょっと今いいですか?」
思い切って聞いてみる事にした、それはつまり自分の過去を話す事も加えて。
「そうなの、大変だったわね」
何て言ったらいいのかわからないっていう顔で見つめられる。 予想通りではあったが、ちょっと心が痛んだ。 よく考えてみたら誰かに自分の過去を話すのは初めてだ、といってもそこそこ省いて大雑把に、まさかゴミを漁ってるとか、チーマーに襲われたとか、しかもゴキブリまで食ったなんてとても言えやしない。 都合上ママには死んでもらっておいた。
「でもいい所にたどり着いたわね、ここは本当にいい所よ。 あの先生に出会ったことも含めて。 警察に言って欲しくないなら言わないわ。 私もあの先生がいなくなるのはさびしいから。」
「それでなんですけど、スミス先生の事について知りたいんです。 何か知っていることありませんか?」
「それはスミス先生には聞いてみたの?」
「はい、聞いてはみたんですが、何だかうまくごまかされました、というより特には教えてくれませんでした」
お姉さんはしばらく黙って、ここじゃなんだからと言って、近くのカフェへと促された。
一番奥の席につき、お姉さんがアイスコーヒーを二つ頼む。 一度こことは違う場所で飲んだ事はあるが、こんな苦いもの大人達はよく飲めるな、とシロップとミルクを大量にいれては飲み干した思い出がある。 けれどお姉さんの手前、男の本能か?何もいれずにそのままちびちび飲んでは、顔にでそうなのを我慢した。
「それで先生の事だけど、私は知っているわ」
「ほんとですか?!」
とっさに前のめりになってお姉さんに詰め寄るが、ハッと我に返りまた椅子に腰を下ろした。
「でもね、私はあなたに教えられないわ、残念だけど」
「えっ」(もしかしてそんな壮絶な過去があるのか)俺の驚いた顔にあせったのか、あわてたように手を横に振った。
「違うのよ、あの人はとても立派な人よ。 今すぐにでもその素晴らしさをあなたに語ってあげたいくらい」
「じゃあどうして?」
「先生はあなたに言わなかったんでしょ、じゃあ私からは言えないわ。 だってそうでしょ、あなたの過去も今日教えてもらったけど、正直とても興味深かったわ、今すぐ誰かに話したいくらい。 でもあなたはそれを先生に言ってない、先生もあなたに過去を言っていない。 それを私が言いふらしたりする事なんてできないわ。」
(確かに、俺の事、あまり先生に言って欲しくないな)
「でもね、さっきも言ったけどあの人はとても素晴らしい人よ、絵だけじゃなく人生についても、きっと最高の先生になるわ。 だから過去の事は気にせず、一日一日頑張ってついて行きなさい」
「うん、ありがとう。 なんだかスッキリした気がします」
先生は俺の事を何も聞かずに教えてくれる、それでいいじゃないか。 なんだか安心し椅子に深くもたれては、褐色のアイスコーヒーに映る自分の顔にほほ笑みが見えた。
「じゃあ次は私から聞いてもいい?」
「あっ、はい」
(俺の事?何だろ?)
「あなたはこれからどうするの?絵描きとして生きていくの?」
絵描きとして生きていくのは辛いのはわかっている、先生にもそれは何度も忠告されてるし、でもそれでも俺はこれに賭けるしかないんだ、何よりお姉さんがさっき先生について行きなさいっていったんじゃないか。
「はあ、そのつもりです」
ちょっと態度にだして返事をしてしまったのを少し後悔するが、いきなり笑顔になるのもおかしいし。
「そう、別に止めるわけじゃないのよ、本気ならこれに出展してみたらどうかなと思って、取っておいたの」
そういって、お姉さんのバッグから紙を一枚取り出してテーブルの上に置いた。
「U-15絵画コンテストといってね、15歳以下の子供たちから作品を応募してもらって、誰の絵が一番よかったかっていうのを決めるの。 つまりは将来の画家を探し出すコンテストよ。 実際これで優勝すれば賞金ももらえるし、何より、しばらくはみんながあなたの絵を買いにくるわ」
そんな凄いものがあるんだ、でも
「俺まだ人に見せれるような絵は描けないんですよ、多分先生もまだ早いって許可はしてくれないと思うんで」
「大丈夫よ、何も今すぐ出せって言ってるんじゃないわ、ジャン君は確かまだ12歳よね、なら後3年もチャンスはあるわ」
それは俺が勝手に作った歳なんです、とは目の前の笑顔を壊してしまうかもしれないと思うととてもいえなかった。
「ありがとうございます。 考えてみます、先生にも聞いてみないと」
「そうね、でも私はジャン君なら絶対いけると思うわ」
はいっと渡された紙を折りたたんではズボンのポケットに入れ、次にお姉さんの名刺を渡された。
「多分応募の際に連絡先を聞かれると思うから、そこに書いてある住所と電話番号を書いておきなさい、私の所に連絡がきたらすぐに伝えに行くから」
目の前のアイスコーヒーを一気に飲み干すと、さすがに苦さが顔にでてしまったが、お姉さんは終始笑顔でお勘定は私が払うねと言って先に出て行ってしまった。 (コンクール優勝・・・なんちゃって)透明になったグラスに映る自分の顔はまたにやけていて、グラスを下げに来た店員の女と目が合うと恥ずかしくなってすぐに店をでた。 いつの間にか外はもう暗くなっていた。
(明日先生に言ったらなんて言われるだろう?)夜、いつものようにガラスに映った自分の似顔絵を描いては、これじゃ無理だなっと苦笑いをする。 最近は描けば描くほど遠ざかっていっている気がする。 絵の中にある無表情な俺の顔に先生は一体何が見えたんだろう?
「その人のキレイな部分か・・・」
翌朝先生にコンテストの紙を見せ、昨日お姉さんに会って教えてもらった事を伝えた。 もちろんそれに至る経緯については伏せて。
「いいんじゃないか」
予想とは反して好印象の返事が返ってきた。
「でも先生、俺の絵なんてまだ全然」
「そんな事はわしが一番わかっとるわい、ただ目標はあったほうがいい、まだ、とか、全然、とかいっていたんではいつまで経っても次の目標へは到達できやしない。 いい機会じゃ応募してみなさい、きっと大きな発見がある」
先生がOK出すなら何も問題じゃない、よしやってみよう! ・・・ところで、いつ、何を描けばいいんだ?
「うん?これはー」
「どうしました、先生?」
いぶかしげな目でコンテストの紙を見ている
「このコンテストはとっくに終わっておるなー、じゃが来年もやるみたいじゃから、その時に応募じゃな。 一年間か、それだけあればお前の絵も見れる物になっているじゃろ、ハッハッハッ」
高笑いする先生に少し拍子抜けするも、正直一年間の猶予には少しホッとした。 期限切れのコンテストの紙を渡してくる時点で、お姉さんはここまで予想していたのかもしれない、と思うとなんだか自分も笑いたくなってくる。 一年間というのが絵を描くのに長いか短いかはわからないが、その目標によって自分の中の何かが燃えているのは確かに感じ取れた。
「では今日のレッスンはそれじゃな」
と言うと椅子や道具を片付け始め、付いてきなさいと手招きして歩いて行くので慌ててついて行く。 ペンと紙を持って街の中を先生の後ろについて歩いている、そういえば昼間に街の中を歩くのはこの街にきた時以来だなーって、よく歩きなれたこの街もちょっと違う顔に見えた。 先生は立ち止まると、ここじゃと指を指す、真っ白なキレイな建物が街の真ん中に建っていた。 何回か見た覚えはあるけどいつも気にしてなかったような、一体ここは? 建物を見上げていると入口の前にいた黒服の男が近づいてきた。
「これは、ミスタースミス。 ようこそおいでなさいました」
そういうと男は先生と握手し入口につながる階段を上がっていく。 どうやら先生は本当にすごい人なのかも、黒服の男の態度からそう見えた。
「今日はどういったご用件で?」
「この子にこの前のコンテストの絵を見せてあげたくてな」
チラッと黒服の男が俺を見てはすぐに先生に顔を戻す。
「このお子様は? 確かお孫さんはいらっしゃらなかったはず」
思わぬ所から先生の情報が聞けたが、なぜかちっとも嬉しくなかった。
「この子はわしの一番弟子じゃ、かまわんじゃろ」
ええもちろんっと今度はおれの事はチラッとも見ず、先生のみを招待するかのようにその場所へ案内された。
彫刻や写真、何か訳がわからない形の物、そして絵画、廊下を歩いていると各部屋ごとに分かれていて、見た目通りかなり広い建物だ、なるほどこれが美術館というやつか。 通された部屋は途中見たのに比べ小さく、10枚ほどの絵が飾ってあるだけだった。 数組の親子連れがいるけれど、多分このコンテストに応募し、入賞したのがどんなのか見に来たんじゃないかな、と勝手な思い込みをするほどみんなは楽しそうに絵を眺めていた。
「ここにあるのが過去のコンテストの入賞作品です。 コンテスト終了後ひと月はこうやって歴代のを飾っておきます。 今年のは、そこの一番左に飾ってある高台から見たこの街を映した絵です」
四角い部屋をぐるっと一周して、自分より少し背の高い所に掛けられた歴代の入賞作品をじっくり見ていく。 見れば見るほど自分がさっきまで燃やしていたやる気が失せていく。 (俺にこれを超える絵が描けるのか?)今年の入賞作の街の絵は、まさしく先生の言うキレイな部分を切り出したものなんだろう。 あの公園はこの絵の中では小さな一部にしか過ぎない、けれどその木々の色は実際より少し鮮やかな緑をしていて、空の淡い青色と混ざり、澄んだ空気の匂いを届けてくれるような気がした。
「どうじゃ?」
「凄いです・・・」
いつの間にか後ろに立っていた先生に声を掛けられても、その一言しか答えれなかった。
外にでてもしばらく放心状態だった。 そりゃそうだあんなに大きな差をみせつけられたんでは、行きと違い歩く足も重く感じる。
「あれが美術館というものじゃ、世界の価値ある物が集まる所、凄いじゃろ?」
先生の明るい声にもとりあえずうなずく事しかできない。
「だがな、価値ある物イコール優れた芸術ではないのじゃ」
言っている意味がわからず次の言葉を待つように先生の顔を見上げると、先生はにっこりほほ笑んで。
「例えばな、わしがいくら気持ちを込めてあのお姉さんの似顔絵を描きました、と言っても他人には門前払いされるだけ、けれどどこぞの有名人が書いた落書きみたいなサインなら、数万ドルだしてでも欲しがる人間はたくさんいるのじゃ。 その集まりが美術館といっても過言ではないんじゃよ」
「別にすべてを否定している訳じゃないぞ、素晴らしいものもたくさんある、さっきの街の絵もそうじゃ。 だがそれくらい芸術の評価というのは難しい。 正直わしも、世界一有名な画家の、ピカソの絵っていうのがどうしても理解できんくてな、実は自分には絵を見る目というのがないのかもしれんのお」
「つまり、お前をあそこに連れて行ったのは、何もあの真似をしろといっとるんじゃない、世の中にはいろんな絵がある、その中であそこに掛けてあったものがコンテストを取れる絵であり、売れる絵というものじゃ。 この先どうしていくかの材料になればいいと思っての」
その日は公園に戻ることなく、街の途中でそのまま解散となった。
先生の言いたい事はわかった。 自分でもこのまま似顔絵だけで一生食っていくのは無理なんじゃないのかという葛藤もしていたくらいだ。 あの時お姉さんが言ったことや、さっきの黒服の男からわかるのは、やっぱり先生は俺とは違う。 何か他の事で財を成して引退後の余興みたいな感覚で似顔絵描きをやっているのじゃないか。 そう思っては先生へのむかつきも頭をよぎり、先生は絵で失敗しても生きていけるから、等と無駄な言い訳を口に出してしまいそうなのをこらえている。 今までも何度もこんな風に、特にこの街に着いてからは、せめて普通の家に生まれていれば、せめてあの、街を楽しそうに闊歩する集団のように学校にでも行っていれば、せめて・・・、無駄とはわかりつつも頭の中を前触れもなくよぎるそれらを、無理やり納得させている自分へさらに腹を立たせていた。 その度にアニメの必殺技を真似しては近くにある木を殴りながら自分に言い聞かせる。 (俺にはこの道しかないんだ、今はこれを信じて行くしかないんだ)と。 その日、葛藤は夜明けまで続いた。
翌朝目を覚まし、太陽の位置を見て遅刻だと気付いた。 慌てて池の向かいのいつもの場所へ向かうと、先生とお姉さんがそこにいた。
「遅いじゃないか、ジャン」
「すいません、寝坊してしまいました」
「あら、ジャン君にしては珍しいわね」
いつものようにロングヘアーがまぶしくスーツの決まったお姉さんに、朝から笑われて倍恥ずかしくなった。 さっさと自分の位置をつくってその場に座りペンと紙を持つ。
「スミス先生に聞いたわ、まさかコンクールが期限切れだったなんてごめんね」
申し訳なさそうな顔で見られるけど、むしろ一年の猶予がもらえた事に感謝したいくらいだ。
「それでコンテストの絵を見てみてどう?」
「凄いですね、とても今の段階じゃ太刀打ちできないです。 でも来年までにはあれ以上のものを描いてみせます」
口先だけは立派じゃな、という先生と、かっこいいと拍手してくれるお姉さん。 ほめてもらいたいんじゃなくて、ここで謙虚な言葉でごまかしてしまうのは逆に応援してくれる先生やお姉さんに失礼な気がしたし、たとえハッタリでもその自分で発した言葉がこれからの一年を支えてくれる気がしたんだ。
「それでジャン君は何を描くの?」
「似顔絵を、俺にはこれしかないんで、だから・・・先生の似顔絵を描きます!」
「何もこんな老いぼれの顔を描かんでも、もっといいモデルがおるじゃろ」
それは名案ねと茶化すお姉さんに少し照れている先生に詰め寄ると、半ば無理やり許可をもらう。 元々許可をもらわなくても、描くつもりだった。 今の俺には先生のキレイな部分が見えているはずなのだから。
一年という月日はあっという間だった。 あれからも先生のレッスンを一つずつこなしていき、絵のレベルは確実に上がっていっているのは見てとれた。 けれどやはり人のキレイな部分を見出す事はまだまだクリアできそうにもない。 その中で先生をモデルに選んだのは、いつも一緒にいるから似顔絵描けるしキレイな部分の一つや二つ知っているからってことではない。 それじゃ意味ない事は前にも学んでいる。 じゃーどうしてか、先生と初めて会った時、あの時の「この街へようこそ」と言ったあの顔がずっと忘れられなかった。
あの葛藤の夜も、その顔がどうしても離れなかった。 その時確信したんだ、これがきっとそのキレイな部分だっていうのを。 だからそれをずっと描き続けた、先生と向き合って描いた事はない、ただ自分の中にだけあるそのワンシーンを切り出し、ひたすら描いた。 陽が暮れてから始まるそのレッスンに、月の光も、12時には消える公園の灯りも、必要なかった。 ただ紙の上に創ったそのシーンに沿ってペンを走らせる。 雨の日や雪の日には一日休みをもらい、傘を木にひっかけスペースを作り描き上げた絵は、今日に至るまで何百枚と重なっていった。 納得のできる絵が完成したのは応募締切三日前の夜、出来た瞬間思わずペンを宙へと放りあげ、そのまま後ろへと倒れこんだ。 遠くに光る星の瞬きが疲れた目を癒してくれ、いつのまにかそれを胸に抱いたまま眠りについていた。
朝起きると、また寝坊した事に気づく。
「あーもう!」
自分に怒りをぶつけ、放り投げたペンの行方を探すのにてこずりながらも、何とか用意を済ませ急いでいつもの場所へ向かった。 しかしいざ着いてみるとそこに先生の姿はなく、遅刻は気のせいだったかな、と公園の時計を見上げれば、間違いなく遅刻だというのはわかった。 (珍しいな、先生も遅刻かな) 先生が遅刻したことなんて今までなかったし、天気は晴れ、休みのはずはない。 とりあえず怒られずにすんだとその場に座り先生を待つ。 先生がいなければお客が付く事はない、(付いた所でまだそれでお金をもらえる段階じゃないので断らなきゃいけないけど)
それでも先生目当ての常連客の小鳥が木にとまったので、今日は特別だぞ、と紙をとり描き始めた。 よく顔をだすこの小鳥も、先生が描いている時には、まだその前の客の絵を完成させる事で手がいっぱいの俺には、実は初めての挑戦だった。 人間と違ってちょこちょこ動く鳥を描くのは確かに難しく、シーンを切り取るといっても、鳥の造りがまだ理解できていないので、つい何度も見てしまう。 そうやっている内についには飛び立っていってしまったが、いつもより長く居座っていてくれた気がしたのは、やはり俺に対するあの小鳥の気づかいだったのだろうか。 その恩にも応えるべく何とか記憶を呼び戻し描き始めるが、完成した絵の小鳥はどうも何かパーツが足りていない感じがぬぐえなかった。
(ウーン、まだまだ自立は無理だな) ペンを置き空を見上げると、今日も青い空に白い雲がゆっくりと流れ、さっきの小鳥の仲間だろうか、チュンチュンと公園に響き渡り平和な時間が流れている。
「こんにちは」
いつも前を通る犬の散歩のおばさんともすっかり顔なじみになり、挨拶を交わす。 先生がいない事を聞かれることもなかったのは、まートイレにでも行っていると思ったんだろう、むしろそれが普通の解釈だし。
先生にもらったスケッチブックもパラパラと見直す。 この紙の束をスケッチブックと呼ぶことを覚えたのは、先生の絵のレッスンの合間にしてくれた文字の勉強のおかげだ。 それもあってスケッチブックはもう3冊目になる。 絵と文字、算数が混じったスケッチブックを見ていると、もっと整理して書けばよかったなと反省しつつも、その一枚一枚の中に自分の歴史があるようで誇らしく思えた。
それにしても遅いなーと思っていると昼休みになったようで、お姉さんがやってきた。
「こんにちはジャン君、先生は?」
「こんにちは、それが今日はまだなんです。 おかげさまで遅刻がばれなかったですけど」
「こら、また遅刻したの、代わりに怒るわよ。 でも先生いないの、残念ね」
当たり前だがちょっと残念そうな顔をするお姉さんに、少し先生が憎らしく思えた。
「ところで絵は完成したの?」
「はい、それで今日美術館へ持って行こうと思ってるんですけど、先生が来るまでは待っていようかと、今度は俺がいない事を先生が心配するかもしれないので」
「それもそうね、代わってあげたいけど私も仕事に戻らなくちゃいけないから、ごめんね」
また明日くる事を先生に伝えてほしいとの伝言を預かり、手を振りながらお姉さんは帰って行った。 (まだ締切までは3日あるからいいかな) 結局その日先生は来なかった。
翌朝、今度は遅刻せずにいつもの場所で先生を待つ。 もしかして昨日先生に何かあったのか?なんて少し不安になりながらも、待てばなんてことはない、いつもの時間に先生は現れた。
「いやー昨日はすまんかった。 つい用事があることを伝えるのを忘れていての」
平謝りする先生に別に怒る気はない、むしろ少しよぎった不安が解消されてよかったくらいだ。 先生の持ってきた椅子を広げ、いつもの形をつくると先生に聞いてみる。
「昨日の用事って何だったんですか?」
「なに大したことじゃないんじゃ、知り合いの結婚式でな、途中でジャンに一言伝えなければと思い出しはしたんじゃが、なにぶんパーティの真っ最中でなかなか抜け出させてくれなかったもんでな、本当にすまなかった」
「それなら別にいいんです」
本当に申し訳なさそうな顔をする先生に首を振る。
「どうやら心配させてしまったみたいじゃな、ところで昨日は何かあったか?」
「あっ」
なんだかわざとらしそうな反応をしてしまったが、危うく忘れるところだったのはシャレにならない。
「コンクールの絵が完成したんです。 ちょっとしばらく抜けてもいいですか?」
「おー行ってきなさい、そんなに急がんでもいいからな、今日は罰としてわしが待ちぼうけをくらう番じゃ、はっはっはっ」
いつもの高笑いに安心し、ペンとスケッチブックをその場に置くと自分の寝場所に作ってある、貴重品置き場こと、ただ土を掘って、その中にゴミ箱で拾ったカンカンに入れておいた作品を、取り出しそのまま公園を出る。 先生は急ぐなとは言っていたが、早く戻りたいとかではなく、早くその作品を渡したいからである。 急いでも評価に変わりはないのはわかっているが、それでも早く提出することになぜか喜びを感じれた。
美術館の前に立つ前もいた黒服の男に挨拶をするも返ってこない、俺のことなんて覚えていないんだろうな、いや例え覚えていても俺にはしたくなさそうな雰囲気をかもしだしている男だった。 嫌われるのは慣れていたけど、そんなことが気になるなんて、よく考えたらこの街に来て俺に挨拶をしてくれる人がいる事が、普通になっていた事の方にいまさらながら驚いた。 (変わったのは俺の方なのかもしれないな) 受付のおねえさんに作品を渡し、名前と電話番号を聞かれ、お姉さんの指示通り名刺の連絡先を書いておいた。
帰る時も黒服の男に挨拶をしていく、返ってこなくてもいい、階段を下り振り返り美術館を見上げて思うのは、自分がこの街で人間として生きている実感だった。
でも所詮は【ゴキブリ】、世の中はそんな温かくはしてくれないものだ。
「よう」
聞き覚えがあったはずなのに、背中から聴こえた声に躊躇なく振り返る。 まさしく平和ボケというものだ。
「久しぶりだな、まさかこんな所にいるとは」
思わず体が後退る。 まさか、なんでここに、信じられない事態に頭が困惑するがそこにいたのは紛れもなく、あのリーダーだった。
「立派な身なりをしているじゃないか、最初は別人かと思ったが、やっぱりな、俺らと同じその臭いはどんな格好していても隠せねーよ」
リーダーの男を含め3人、みんな見覚えがある、あの街でこいつらの事を調べている時に何度か見かけた顔だ。
いわれるがままに裏路地へとついていく、地の利ではこちらが有利だ、逃げだそうと思えばいつでも逃げ出せる状況にいるのはわかっていた。 だけど逃げなかった、いいや逃げれなかった。 その理由は前とは違う、足が震えていたからじゃない。 もしあの美術館の前で助けを呼んだり、いきなり逃げ出した俺を捕まえようとするやつらがいれば、この平和な街の住人達は警察へと走るだろう。 運よくその両方を回避しても、こいつらはまた多くの仲間を連れてこの街にやってくる。 頭のいいこのリーダーがいるチームだ、きっと先生の所にたどり着く、それだけは何としても避けたかった。
「俺は意外と物覚えが良くてな、それに執念深い。 もしあれがたまたまだったというなら、さすがにもう放っておいたかもしれない、けれどあれは違う。 お前は俺らのテリトリーと知りつつ、更に俺らをコケにするためあの行動を起こした。 まさか気付いてないと思ったか?あの時お前が俺らの事を観察していることなんてわかっていた。 だが誤算だったのは、おまえには他にアテがないから、またやられるんじゃないかと俺らにビビりつつも、俺らがいなくなったらゴミでも漁ってるもんだとな」
三方を壁に囲まれた路地で、後ろの唯一の道の方に二人が腕をこまねいて立ち、前ではリーダーが積みあげられた箱に腰かけている。 逃げるつもりはないが、かなりのプレッシャーが襲いかかってくる。
「まさかな、あの制裁の後にそんなことをする奴なんて今までいなかった。 遅かれ早かれ、いつかはみんな頭下げてチームに入ろうとするのが普通だ。 そうしなければあの街では生きていけない、いや俺らみたいなモンはその生き方を学ばなければいけないんだ。 だからその報告をうけた時は思わず笑っちまったよ。 むしろそんな度胸のあるやつならぜひチームに入ってほしいもんだ。 でもリーダーとしてそういうわけにはいかない」
言葉通り笑っていたかと思うと、リーダーは立ちあがりズボンからバタフライナイフを取り出し近づいてくる。 本気の目に後退りすると踵が当たる程、後ろにいた二人は迫っていた。
「前にちゃんと忠告したな、二度目はないって」
いつかはこの日が来る、わかっていた。 覚悟もしていたが、なんでだろう、怖くてたまらない、刺されて死ぬ恐怖、そんなんじゃない。 情けなのか遊んでいるのか、ゆっくりと近づいてくるその男の目から視線は外せなくなっている。 怖いのはナイフ?怖いのはこの躊躇なく俺を殺そうとしてくるこの男?あの時計画を実行した時の自分に聞いてみる、なんでお前はあの時こうなるのも眼中に入れてあんな事したんだ?
あの時と今・・・。 そうか、わかった!
ナイフが首に近づけられた瞬間、自ら前に出る、首に冷たい感触が当たり、暖かい物が首をつたう。 予想外な獲物の動きに、リーダーはとまどい一瞬ナイフを引いた。 気が狂ったから前に出たんじゃない、前に出る事で自分が自分の心を理解したことを自分に証明したんだ。 それはナイフの恐怖に打ち勝つ程のものだと。
もしあのまま動かなかったらこの男は普通に刺しただろう、もし恐怖に負け後ろに体を反らせば、ナイフは勢いをつけ深く刺さっていた。 図らずも前に出ることが正解だった。 証拠にこのナイフを持った男は首にあてながらも、俺の次のアクションを待っている。 なら今この状況の中でリードしているのは、3人の男に囲まれ、首にナイフを当てられている俺以外の何者でもない。 だから伝えた、最期の言葉にしては少し情けなくなるかもしれないが。
「少し待ってくれませんか? 逃げはしません、必ずまた殺されにきます」
ナイフの先が首にさっきより強く当たる。 上から見下ろしてくる視線に、爪が食いこむ程拳を強く握り、強固な視線で返す、わずかでも離したらその瞬間に刺されそうな気がした。
「期間は?」
「1週間、1週間あれば」
思いは通じたのか、数秒間誰も動かず、静かな時間が流れた。
「ふん、わかった」
そういってリーダーはナイフをたたむとポケットにしまった。
「1週間後ここで待つ、来ても来なくてもおまえの最期だが、懸命な方を選べよ」
固まったままの自分の横を抜け、後ろの2人に俺を殺さなかった事を咎められながら去って行った。 ポツンと一人その場に立ちつくす、心臓は遅れを取り戻すかの様に鳴り響き、体はそれに合わせ震えだす、体ですら生きていることが信じられないんだろう。 小刻みに吐いては吸う空気の味に生を実感させていた。
1週間後、コンテストの結果が出る。 あの時死の恐怖に立ちあってわかったのは、俺の人生に目標が出来ていたことだ。 あの頃の俺が死んでもよかったと思っていたのは、その先に何も見えなかったから。 でも今は見えている、コンテストで優勝し、世界にも認められ、有名な画家になり、先生やお姉さんにほめてもらえる自分の姿を。 みんなに話したらきっと笑われるだろう、でもわかったんだ、こうやって将来の自分に希望を持つことを夢っていうんだなって。
それにしてもちょっと遅くなってしまった言い訳はどうしよう、首の傷は幸い浅く、血も拭き取れば消える程だったからなんとかごまかせるとして、こればっかは正直に話して謝るなんてばかげた事はできない。 まだ収まらない動悸をごまかすためにあれこれ考え、吐きそうになる呼吸の乱れを隠すために急ぎ足で街を抜けても、頭をよぎるひとつの事が離れて行ってくれない。 だって来週死ぬんだぜ、俺。
公園に着くころには汗だくになっていた。 それは急いできたからということでいいのだろうか、でもこれで少しはごまかすのに有利にはなった、この汗も激しい呼吸も急いで帰ってきた、この事実があれば少しくらいおかしい言い訳をだしてもそんなに先生も怒らないでくれるはず。 今日という日はもう忘れよう、そうしたかったんだ。
先生の所に急ぐも、そこに先生の姿はなく、お姉さんがしきりにきょろきょろしながら立っていた。
(朝はいたんだし、今度こそトイレかな、それにしても今日も先生のいない時に来るなんて、お姉さんもついてないな)俺の存在に気づくとこっちに高く手を振って走ってくる。 どうしたんだ、と思う間もなく不安が先に頭をよぎっていく、こんな嫌な勘なんて今冴えなくていいから、さっきそれを発揮してほしかったのに、近づいてくるお姉さんの顔は先生に会えなかった残念のそれではなかった。
「やっと見つけた」
ハアハア息遣い荒くも必死に何かを伝えようと呼吸を整えている間、俺は何も聞けずただ次の言葉を待っているしかできなかった。
「どこ行ってたの?・・・そっかコンテストの絵ね。 いい、よく聞いてね。 スミス先生が倒れたの、今救急車で街の中央病院に運び込まれているわ。 私も車で向かうからあなたを待っていたの、さあ行くわよ」
お姉さんは腕をつかみ、一歩も動こうとしない俺の体を強引に引っ張る。 だが俺はお姉さんの手をふりほどき、走りだした。
車に乗った方が早いんだろう、でも走って行きたかった、そうしなければこの胸の痛みが治まらない気がしたから、そして何より、俺の手をつかんだお姉さんの顔が怖かったから。
病院へと続く道を無我夢中で走りぬける、信号の間は足踏みして、そうやって余計な事を冷静に考える時間をなくしたかった。 車にも乗らず、お姉さんの顔が怖く感じれたのもきっと事情を話されるのが嫌なんだ。 自分の目でそれを見たい、そうする事が今の俺にとっての唯一の救いのはずなんだから。
病院に駆け込むとそこではお姉さんが待っていてくれた。 俺のした行動には何も言わず今度は優しく俺の手を握り、病室へと引っ張って行ってくれるその手はとても温かかった。
ここが病室よと部屋の前で停まると手を離し、その手で背中を押してくれる。 呼吸を整えゆっくりとドアを開ける、そこには笑顔で座っている先生しか想像できなかった。 広い部屋だった、ただそこは全てが真っ白でその中にあるひとつのベッドが何とも言えない虚無感を引き立たせていた。 調子のいい想像と違い、ベッドに横たわる先生、口や腕にいろいろなチューブがつながっている、その姿を表す言葉はなかった、ただ先生が横になって寝ている、それだけだった。
「私が来ていつものように先生に似顔絵を頼んだの」
茫然としている俺の後ろにお姉さんは立っている。
「突然だったわ、いつものたわいもない話をしていたら、先生がペンを落としたんで拾ってあげたの。 でも渡しても受け取ってくれないからどうしたんだろうって覗き込んだら、目をつぶってだれていたの、慌てて救急車を呼んだわ、そしてあなたがくるのを待っていたの」
お姉さんの声がだんだんこもった声に変わっていくのを、俺はうなずいて聞いていることしかできなかった。
「さっき看護師さんから聞いたわ、先生、昨日から入院していたんだって、今日はそれを抜け出して行ってたみたい。 孫に会いに行くって言って。 孫なんていないのはみんな知っていたから誰も気に留めなかったみたい、でも先生は実行したわ。 ジャン君意味はわかるわよね、先生はそうまでしてあなたに会いに行ったのよ!」
お姉さんは俺の肩を掴み、振り向かせる。 俺の視線に合わせしゃがんでいるお姉さんの顔は泣いていた。
「いい、ジャン君、これから起こっていく事に目を背けちゃダメ、しっかり見続けていきなさい、きっとそれがあなたの人生にとって最高の教えになるはずだから」
俺の肩の上で泣き崩れるお姉さんの重みと言葉にこれから起こる事はわかっていた。 目を背けたかった、さっき殺されておけばよかったとすら思えてきた。 でもこの肩の重みに誓って見続けるんだ、最後のレッスンを、そしてそのレッスンが終わったなら・・・さよならだ。
その日の夜、いつも日課にしていた事をさぼった。 自分で決めた日課をさぼるなんて人生で初めてかもしれない、そう思うと俺は意外とマメな奴だったんだな。 自分の場所で、温かいホットドッグをかじり物思いにふける、いや、むしろ何も考えてなかった。 ただ夜空を見上げひたすら食べ続ける、そこに詩人の様な感慨はない、ただ無心だった。
(1日の内にいろいろ起こったな、それこそあのお姉さんの様に泣き崩れられたなら少しは楽になるかも) けれど結局その夜は何一つ考えれる事はなく、ただ木にもたれながら星の降る夜空を見上げているだけだった。
木漏れ日がまぶたに射し朝を告げる、どうやらあのまま眠っていたらしい。 立ちあがり軽く伸びをすると公園を一周することにした。 別に深い意味はない、ただあそこに座り続けていたら、昨夜の様に何も考えず何もせず1週間を過ごす事もできただろう。 でもそんな自分が嫌だったのかもしれない、ただ歩く、それが今自分にできる事のすべてだった。
公園をまわればそこはいつもと同じ時間が流れていた。 風の音、小鳥の声、人々の笑顔。 でもその風景の中に足りないものを感じている人はいるのだろうか、きっと俺以外いないかもしれない。 もしあのランニングのお姉さんが明日こなくても、挫折したのかもと思うだけだし、あの犬の散歩のおばさんが来なくなっても、引っ越したのかもと頭をよぎっては1週間もすればいないのが当たり前になるのだろう。 それが普通なんだ、だって俺は、俺こそそうやって生きてきたんだから。
人とつながるというのがこんなに苦しいなんて、公園を回り、いつも先生がいた場所に立つと涙があふれてきた。 そのまま泣き崩れる自分の姿に公園の空気が変わるのが感じれた。 みんなが俺を見ている、小鳥でさえもさっきまでの鳴き声を止めてまで。 止めたかった、でも止めれなかった。 先生はまだ死んだわけじゃない、これじゃーみんなが勘違いするじゃないか、みんなにはさっきの俺みたいに思っていてほしい、いつもの似顔絵のおじいさんがここにいないのは、きっと挫折したんだろう、きっと引っ越したんだろう、そうやっていつもの時間を流していてほしかった。
そうだよ、先生もきっと同じ気持ちのはずだ!誰よりも人のキレイな部分を見ていた先生ならきっと) 歯を食いしばり必死に泣くのを止めると、走りだした、目指すものはペンとスケッチブック、それを持つとまた戻りいつもの位置に座りこむ。 無理に作った笑顔に、きっと真っ赤なうるんだままの目、やるしかないんだ、これが先生への恩返しになると信じて。
先生がいつも持ってくるあの小さな木製の椅子はない、だから今日の所は自分の使っている毛布を、前の土の上に敷きそこに座ってもらうようにしよう。 ただそれだけだけど準備は万端だ、後はひたすら待つしかない。 いつもの絵のうまい老人と違うこんなガキに、金を渡してまで似顔絵を描いてほしいとう物好きが現れるのを。 お金は必ずもらう、それも先生の教えだ。 あの時美術館で教えてもらった「売れる絵」、つまりお金を出してでも欲しい絵というのを描けなければ、今の俺には意味がないんだ。 後1週間の内に一枚は必ず売れる絵を描く、お客さんが自分の似顔絵を、お金を出してでも欲しいというものを。 たった一枚と思われるかもしれないが、その一枚を描くことに俺の残りの人生を賭けれる。 それは人生を賭けるに値するものだと思うから。
これは予想通りだと言ってもいいのだろうか、目の前の毛布の上に1番に座り込んだのは、先生の常連さん、いつものスーツ姿のお姉さんだ。 昨日の泣き顔はどこ吹く風、お姉さんはいつものように、いやいつもよりキレイな笑顔でそこにいた。 こんにちは以外に交わす言葉はなかった、お客さんが前に座ったならやる事は一つ、絵を描くこと。 本来なら会話も混ぜつつお客さんに楽しんでもらうのはわかっている、そんなの先生の横でいつも見ていた。 でも今の自分にできる精一杯は笑顔で居続けることしかできなかった。
静かだ、まるで公園の中にいる全ての音という音が、俺の絵の完成を待っているかのように何も聞こえない。 現実ではそんな俺の事などおかまいなし、時間も音も騒がしいくらいに動いているのはわかっている。 それでも今の俺には何も耳に入ってこない、紙の上に映る切り取ったお姉さんのワンシーンだけを見ることしか、脳が許可してくれないようだった。
何十分かかったのだろうか、描き終わると同時に周りの音が体に響いてきた。 今の自分にとって出せるものは出した。 動くことなくずっと笑顔で待っていてくれたお姉さんに自信満々に渡す。 お姉さんはその自信の絵を一瞬見てはその場に絵を置いて、またねと言って立ち去って行った。
(あはは、よかった。 お姉さんがお客さんで)返された絵を膝にのせ足を延ばして空を見上げると、不思議と気持ちは悲しいよりも爽快だった。
それからも何組か俺の前に座ってくれた。 母親に連れてこられた3歳くらいの子供や、たまに来るいまどきの明るいお兄さんは、
「今日は君が描くの?」
と少し馬鹿にした感じで毛布にドカッと座ったり、先生の絵を期待し、やってきては、せっかく来たんだしという感じで似顔絵を頼んでくれた。 そしてそれでも皆が皆お金を渡してくれるのを、俺はかたくなに拒んだ。 先生のレッスンのおかげで人の顔の変化は随分勉強できた。 みんな絵を受け取った時の顔が、期待していたもの、先生の絵を受け取った時とあからさまに違ったからだ。 みんなきっと俺が子供だから同情してお金をくれるんだろう、お姉さんはそれをわかって俺にああやったんだと思う。 だからこそそのお姉さんの気持ちに応えるためにも、俺はお金を受け取らない、みんなが俺の絵を見てあの笑顔を見せてくれるまでは。
そんな決意もむなしく、次の日から人がパッタリ座らなくなった。 昨日、日が暮れてから買いにいった木製の椅子も、さびしそうだ。 もう噂が広まったのかな、たった1日で先生の造り上げたものを壊してしまったんじゃ、一体今まで何をしていたんだか。 でも今はそうやって落ち込んでいる場合じゃない。 先生の時間も、俺の時間も、俺の絵に対する信頼を創るのを待ってくれる程余っていない。 常連の小鳥も俺に愛想をつかしたのか今日はやってこない。 ただ空を見上げてるとお姉さんがまた今日も前に座ってくれた、昨日と同じ笑顔で。
「ジャン君はもう先生のお見舞いには行かないの?」
お姉さんの優しい問いかけにペンを止めず黙ってうなずく。 (冷たい奴だと思われたかな? でも俺だって本当は行きたいんだ、先生の傍にいたい。 でも俺がいたって邪魔になるだけだし、先生の親族やお見舞客も俺みたいなストリートチルドレンが、先生の周りをウロチョロしていたと知ったらきっと嫌な気分になるだろう。 何より、ただそこで先生の最後を見届けていましたなんて、あの世で先生に会ったら怒られるよ)俺は今正しい選択をしていると思っている、後1週間の命なんてお姉さんは知らないんだし、それについてお姉さんに相談するつもりはない。 あのリーダーは俺の事を信用してくれたんだから、俺もそれに応えるんだ。
「そう、じゃあ何も聞かない、きっと何かあるのよね、私は知っているわ、ジャン君がとても優しい子だって事。 ここで守っているのね先生の絵と先生の人生の一部を。 あなたならきっとそれをやってくれることも。・・・がんばってね」
お姉さんの言葉はとても痛かった、自分の事をわかってくれているのも、そんな俺に笑顔でエールを送ってくれる事も。 今日もお姉さんは絵を受け取らず帰って行った。 お姉さんが行くのを見届けると、膝を抱えまた泣いてしまった。 このまま何も言わなくていいのかな、あんなに俺の事を信頼してくれているお姉さんに。 聴きなれた鳴き声、いつもより遅く常連の小鳥も来てくれたみたいだ。 (何だお前も俺の事を見捨てたわけじゃなかったのかよ)じゃあその思いに応えないとな、俺は再びペンを取り、小鳥のワンシーンを切り取った。 (きっとお前のキレイな部分も描いてやるからな)紙の端に水滴が一粒湿っているのはきっと見逃してくれるはず。
1週間、時間は無常にも通り過ぎて行った。 あっという間だったな、一ドルも受け取れずに過ぎて行く日々は、たまに来てくれた新しいお客がもう一度来てくれることはなかったくらいだ。 最後の日、お姉さんと小鳥は一緒にやってきた。 最後まで付き合ってくれた二人が終わったらそれを最後にしよう、コンテストにも行かないといけないし。
用意が出来たもののなかなか座ってくれないお姉さんを見上げると、目をつむってうつむいていた。
「ねえジャン君」
椅子に座らずその場でしゃがんでは俺と同じくらいに目線を合わせていた。
「ごめんね今日はお客じゃないの、・・・だって今日は笑顔になれないんだもん」
それだけ言うとしゃがんだまま膝を抱えうずくまるお姉さんにかける言葉はなかった。 (そっか、だから今日はおまえもそんなに鳴いているんだな)木の枝に止まって歌でも歌っているかのように鳴く小鳥を見上げ、自分の情けなさが一層身にしみた。 結局何もできなかった、先生の最後を看取ることも、先生に教えてもらったことを出し切ることも、泣き声を殺しながら膝を抱えるお姉さんを前に、俺は泣くことすらもできなかった。
せめて葬儀には行ってあげて、と先生の家の住所が書かれた紙を渡すのと一緒に、もういいよね、とお姉さんは涙を拭くと、俺の為に先生の経歴を教えてくれた。
先生が産まれたのは戦時中この街のどこかで、すぐに両親を亡くし俺と同じ様にストリートチルドレン時代があったらしい、(だから俺と同じと言ったのか) そんな時代の闇に葬り去られるはずの先生を救ったものが、あの「エレクトリカル」という名の電化製品屋の当時の社長だった。 その社長はとても人情が強く、毎日のように乞食をしている先生を見て、大人達が起こした戦争のせいでこんな事をしなきゃいけない子供がいるんだ、とたまたま目に着いた先生を自分の工場に雇ったらしい。 当時先生は俺と同い年くらい、その時社長の目に留まった先生はただ運がいい子供というだけだった。
でもそこからが違った。 当時はまだ小さく、街の電気屋というイメージの「エレクトリカル」をあそこまで大きくしたのは先生らしい、先生は社長に拾ってもらった恩を必死で返そうと、朝も早くから、夜も寝ずに日々工場で働き続けた。 その働きぶりを社長は街の飲み屋で、あまりにも毎晩自慢するものだから、街の誰もが知る存在へとなっていた。 そんな先生に社長は惜しみなく技術を伝え、元々才能があったのか、それに応えるように先生は多くの発明と特許を獲得した、社長が亡くなった後、誰の反対もなく先生は次期社長へと選ばれる、先生は若干30の頃だった。 それを機に、経営の才能もあったのだろう、「エレクトリカル」は世界へと羽ばたいて行く。 社長から会長へと名称が変わるころ、最早この街では先生の存在は英雄となっていた。
「でもね、そんな英雄も60を迎え引退したの」
先生の歴史は本当にすごく、まるであの電気屋で見ていたアニメのようにそのストーリーに飲み込まれていた。
「みんな引きとめたわ、でも先生の意志のは固く、結局は、老いぼれを引きとめている暇があったら一人でも多くの若者を育てなさい、って言って会社を去って行ったらしいわ」
「じゃあ先生はその時からここで?」
涙も乾き、誇らしげに語ってくれるお姉さんの笑顔は、良かった、お姉さんも先生の事を好きだったんだと安心させてくれた。
「それもあるけど、その前に元々趣味だった絵とモノ作りの為に、先生はもらった退職金であの美術館とひとつの農園を造ったの」
「先生らしいや」
先生はきっとこの街が大好きなんだろう、自分を救ってくれたこの街の為に何かしたくて、似顔絵だってそう、みんなの笑顔の糧として立派にこの街の役に立っていた。 でも、
「農園なんてありましたっけ?」
俺もこの街をよく探索した方だけど、家庭菜園レベルらしきものならまだしも、農園と呼ばれる程のものは見たことがないし、四六時中ここにいた先生がいつその農園の世話をしていたんだろう。
「うふふふ、それはジャン君が一番よく知っているはずよ、よーく思い出してみて」
そんな事を言われても、俺がもし農園を見つけたら何個か拝借する計画を立てるはずだし、「あっ」ウソだろ、でもそんな俺の顔を見て、お姉さんは正解、と指を使ってジェスチャーしている。 でも、そうだとして何で。
「何で先生と私がその事を知っているの?って顔ね」
「実は先生とあなたは出会っているの、あのオレンジ畑の小屋で」
そんなはずはない、あの時の俺は周囲を警戒する事を怠らなかった。 人影なんて一度もなかったし、言っちゃ悪いが老人なんかに出し抜かれる程じゃ。
「ジャン君はその時寝ていたらしいから覚えてないのも無理はないわ。 オレンジ畑だって放置はしないわ、ちゃんと警備装置もつけてあったし、それにジャン君が引っ掛かり、先生はすぐさま向かったの。 でも着いてみたらボロボロの子供が一人小屋の端で小さく丸まっている。 それを先生は自分の昔の姿とに被せたのね。 その晩の内に一緒に来た警備員に装置を全部外させたみたい。 そう、あなたの為に」
2年間一度も主が来なかったのはそういうわけだったんだ。
「だからね、先生は嬉しかったみたい、あなたがこの街にたどり着き、自分の前に現れた時。 自分の趣味で一人の子供を救えた事が、そしてその子供が自分の横で必死に生きようとしている姿が。 あなたの自慢話をする先生の顔は本当に幸せそうだったわ」
気が付いたらペンとスケッチブックを置き、走りだしていた。 後ろから、まだ今日は病院にいるからとお姉さんは手を振ってくれた、その顔は笑ってた。 俺は逃げていたのかもしれない、大好きな尊敬する先生が死んだなんて現実から。 行けば迷惑?そんな事どうだっていい、もし今日先生に花を手向けれないなら、それこそ本当に大馬鹿野郎だ。 さっきまででなかった分を取り戻すかのように、涙は自分の後ろ、走りぬけた道をずっと付いてくる。 エレベーターなんてまどろっこしい、階段を駆け上がり病室のドアを大きく開けると、多くの人が先生を囲んでいた。 それをかきわける様に進みベッドの最前列へと立つ。 (何だよいつもの先生と変わってないじゃないか、ハハッお姉さんもみんなも早とちりだな)その顔はとても安らかに眠っているようだった。
「あなたがジャン君ね」
隣に座っていた優しそうなおばあさんが俺の名前を呼ぶから、止まらない涙を袖で拭ってうなずく。
「主人からよく聞いているわ、あなたの事。 本当、聞いていた通りとてもいい子ね」
ゆっくり優しく話すおばあさん、その一言に泣き崩れそうになるのを我慢して、唇を噛みしめては手に持っていた、公園で摘んだ名もなき花を一輪、先生の胸の上に置くのをみんな見守っていてくれた。
「先生、ありがとうございました」
震えた声でそれだけ告げると病室を離れる。 そんな薄情な俺をおばあさんもまた、笑顔で送りだしてくれた。 行きとは違い名残惜しく病院を離れる自分に、喝を入れれるのは自分しかいなかった。 もう拭くところがない袖で。また目をこすると、走りだす、美術館へと。
コンテスト会場に着くと陽が少し落ちてきていた。 (やばい、急がないと)中に入ると、前来た時よりは多いが、自分と同じ歳くらいの子とその親であふれていた。 みんなきっとそうなんだろうな。 受付に名前を告げコンクールの部屋へと案内される。 コンクール初日の今日から1週間は、前と違い全員の絵が飾ってある。 各絵の下に貼ってある札の色によって発表がされる、大賞はゴールド、特別賞はシルバーが。 でもその発表は残酷なもので、入って1番目の前に飾ってある絵にゴールドやシルバーが付いていた。
そこに自分の絵はない。 ゴールドが付いている絵は、この美術館をモデルに描いてある絵だ。 審査員じゃなくてもわかる、これは俺の絵より上だ、先生の言っていた価値観の違いとはまた違う。 明らかに俺の絵より人に訴えるものを持っている。 くやしいけれど、それでも俺は今だせるもの出したんだ。 最後に、その華やかな場所から離れた自分の絵を見に行こう。 100枚はあるだろうか、1枚1枚見る時間はないが、自分の絵を探すのにちょっとてこずるくらい多くの絵が飾ってあった。 ようやく見つけると、それは1番奥の壁に貼りつけてあった、もちろん下に札は貼られていない。
改めて見てみる。 うん、自分の生きた証としては十分だ。 久しぶりに見た先生の顔はいつもより優しくキレイな笑顔だった。 (先生ありがとうございました。 おかげさまで俺は最後に人間として人生を過ごせたと思います。 きっと先生に出会わなければ、俺は誰の目にも触れることなく死んでいたはずでした。 この絵はコンクールが終わればなくなるでしょう。 でもたったそれだけでも、誰かが見ていてくれれば、それだけで、僕はこの世に生まれてきて良かった。)
さっき言えなかった言葉を自分の描いた絵に語りかける、親不孝者もいい所だ。
それでは先生、俺は行きます。 説教はまたあとで。
「ちょっと遅かったが約束通り来たな」
リーダーは前と同じように箱の上に座り、見せつけるようにナイフを回していた。
「遅れたのはすみません、ちょっと色々あって、でももう大丈夫です」
今のが最後の言葉なのか、もっとかっこつけても良かったかな。 でももうそんなのどうでもいい。 俺は自分の中でかっこいい事をやり遂げたんだ、もう悔いはない。
前と同じ様に俺を囲むが、前と違うのが1人。 俺と同い年くらいのあいつだ。 憎たらしい笑顔で俺の後ろに立つが、元より逃げるつもりはない、ポケットに手を入れ、お守りの入った袋を握り締める。 自分から前に出る俺に、同じ速度でナイフを構え歩んでくるリーダー。 リーダーの顔がハグをするほど近づいた瞬間、「これでお前は死んだんだ、もう2度と俺らの世界には来るな」、小さく俺だけにささやくリーダーの声、(来るな、と言われてもなあ)冷たい物が腹を貫く、(何だ思ったより痛くないな、これならまだボコボコにされたあの時の方がきつかったや)その場に膝をつき腹を抱えるように倒れこむ。 手には生温かい感触、3人が去っていく足音がやけに小さく感じた。 目もボヤっとしている。 それは眠るように穏やかな気持ちで目を閉じていた。(・・・もう何もないや・・・)【ゴキブリ】の最後にはピッタリだった。
「知っているかい?この街には世界に名を轟かせた人が二人もいるんだよ」
街のメイン通り、小さい孫の手を握り、歩く老人は優しく問いかけていた。
「知らなーい」
「そうかそうか」
そっけない態度を取る孫におじいさんはまた優しく語りかけた。
「一人はお前の好きなテレビが売っている電気屋さんのスミス先生、この街を豊かにしてくれた人だよ」
「あー知ってるー、エレクトリカルでしょ、でっかいもん」
「そうかそうか」
「もう一人はな、この街の、ほらそこにいらっしゃる、美術館の偉い人のジャン先生じゃ」
「それも知ってるよ、ジャンせんせ――い」
その子は手を離すと、目の前にいる少しシャレたセンスの中年の男に、手を振って近づいていく。
「ジャン先生今日も絵を教えて」
「もちろんいいとも」
私は生きていた。 あの後目が覚めると病院のベッドの上にいた。 あの世とは随分明るいものだと、起き上がると、腹が痛む、それに腕からは見たことのあるチューブが。 (まさか病院?)周りを見渡すと横に人影、お姉さんが椅子の上でコックリコックリと寝ていた。 異変に気づいてお姉さんが目を空け、こっちを見るなり抱きついてきた。
「ちょっちょっと」
「よかった、ジャン君、ほんとよかったー」
今思えばもったいないが、余りの事に思わずお姉さんを引き離し、事情を聞いた。
どうやらお姉さんは、何となく私の様子がおかしいのを気にかけて、あの日付いてきてくれていたみたいだ。 路地裏で友達(?)と話しているのを見てしばらく離れていたら、友達が出て行くのは見たが、私が一向に出てこないのを不思議に思い、確認しに行った時発見し、救急車を呼んでくれたみたいだ。
それからは何があった?という質問攻めにあったがいうつもりはなかった。 警察は所詮ストリートチルドレンのやること、とすぐに納得し消えてくれたが、お姉さんはしつこかった。 最後には警察にはいわないという約束で話したら、案の定殴られた。 しかも2回。 1回は先生の怒りの分らしい。 まだあの世で説教くらってた方がよかったかも、という私に、お姉さんはまた怒った。
退院の日、血のついた上着は捨てられていたが、ズボンはそのまま取っておいてくれたので、お守りがちゃんとあるかポケットに手を突っ込む、よかった、あった。 着替え終わると医者が最後の説明をしてくれた。
「もともと死ぬほどの傷じゃないのに、これだからお前らみたいなのは・・・」
嫌みなその医者の言葉には、今となってはむしろ感謝している。
すぐに悟ったよ。 一人だと思っていた私は、いろんな人に生かされているんだと。 お姉さんやリーダーとの約束通り、私はその日から生きる事にした。
人として夢を持ち、その夢を追いかけ、気付いたら、ただのストリートチルドレンだった私を、世界の巨匠と呼んでくれるまでに。 その成果を買ってくれた街の人の推薦で、今は先生の残してくれた美術館で館長をしている。 自分の作った誕生日も今年で40歳になる。 まだまだ先は長い。 でもきっと素晴らしい人生が待っているんだろう。 (先生、説教はもうちょっと待っていてください)
ポケットに入れた、もう粉すら見当たらない袋をにぎっては誓う。
【ゴキブリ】よ僕は生きるぞ。