未遂の悪役令嬢
きらびやかなシャンデリア、着飾った貴族の子女たち、そして鼻を突くような香水の匂い。学園生活最後のプロムナードは私にとって戦場だった。
「コンラッド様、あちらのタルトを召し上がりませんこと? ベリーがたっぷりで、わたくしの殿下への情熱のような赤色でございますわ」
「……ありがとう、後でいただくよ。今は、いい」
我が名は王太子コンラッド・フォン・エルトリンゲン。戦場というのはつまり、隣で私の腕に全体重を預けんばかりに密着している婚約者、公爵令嬢エレアノール・フォン・グラナードという名の炸薬を抱えた戦場だ。
エレアノールは美しい。燃えるような赤髪に同じく意志の強そうな深紅色の瞳。いや、事実彼女は意志が強かった。あまりにも強すぎた。美しさと比例して彼女の愛は非常に重く、そして燃え盛る業火のごとき感情の塊である彼女は王太子の婚約者としての適性が絶望的に欠けていた。
卒業すれば、いよいよ結婚の準備が始まる。父上……陛下も母后も、そしてエレアノールの父であるグラナード公爵も、この婚姻を破談にするつもりはさらさらないようであった。私が何度訴えても「まあ、お前なら大丈夫だろう」や「がんばれ」の一言で済まされた。国教会もいずれきたる我々の結婚式を大々的に祝福し、民衆の前で執り行う誓約の儀式の次第をはりきって練っている。
当事者である私だけが危惧していた。このままでは、彼女は愛ゆえの暴走で国を滅ぼすか、あるいは悪として自滅することになる……!
私は意を決した。今日、この場で、公衆を証人として、彼女との婚約を破棄する。私自身をも傷つける諸刃の剣だが、もはやこのような強硬手段をとるより他に道はなかった。
***
「皆、聞いてくれ!」
ホールの中央に立ち、楽団の演奏を止めさせて声を張り上げた。野次馬たちの視線が私のもとに集まる。エレアノールは「あら、愛の告白かしら?」と言わんばかりに頬を上気させて私を見上げていた。
その無垢なまでの信頼が痛い。だが、止まるわけにはいかない。
「エレアノール・フォン・グラナード公爵令嬢。君との婚約を、私は今この場限りで破棄することを宣言する!」
静寂。あまりの衝撃に、共に卒業を迎える同輩たちも、招待客たちも、一様に息を呑んで硬直した。普通ならここで令嬢は泣き崩れるか、あるいは逆上して罵声を浴びせるものだ。でなければ心当たりのある悪事に顔を青くするか。
しかしエレアノールは二度三度と瞬きをしたあと、太陽のような笑顔でこう言い放った。
「お断りいたします!」
「えっ?」
私の思考も硬直してしまった。
「お、お断り……?」
「はい! 却下です。不採用、ボツですわ!」
「いや、今のは王太子としての公式な宣言だぞ。君に却下の権などない。君がまずやるべきは、公然と辱められたことへの抗議と公爵家としての告発だ」
「どうしてわたくしが殿下を告発しなければなりませんの? わたくしはただ、婚約破棄なんて嫌なのです。したくないのです。だからお断りするのですわ」
あまりにも直球、あまりにも単純。だからこそ二の句が継げぬ。そうか、嫌なんだったら仕方ないな、と頷いてしまいそうになる力強さを持つ言葉だった。
「いや待て、待て待て! 冷静になれ、エレアノール」
言いながら自分で思ったが、冷静でないのは私のほうだった。エレアノールはある意味で冷静だ。なぜなら単細胞な彼女の論理はいつも至極単純なのだから。
「いいか、私は君とは結婚できない。君は学業において成績も常に最下位、授業態度は不真面目。王妃に必要な教養も礼儀作法も、家庭教師が泣いて逃げ出すレベルではないか」
「でしたら、これから改善いたしますわ」
「しなかっただろう、今まで! 私は十年間ずっと言い続けてきたんだぞ!?」
「だって、愛しい殿下とのティータイムを削ってまで、なぜ歴史の年号などを覚えねばならないのか理解できませんでしたの。ですけれど、婚約破棄を回避するためという目的があるのなら、わたくしだって火の中水の中ですわ!」
エレアノールの深紅の瞳が、かつてないほどやる気に燃えていた。違う、そういうことじゃない。やる気を出す場所が違う。これまで君が泣かせてきた教師たちが動機の不純さにまた泣くぞ。
「君は……そんなに王太子妃になりたいのか? そんなにも、権力が欲しいのか?」
「いえ、特には。王太子妃という地位なんてどうでもよいことです。書類仕事ばかり多くてずっと椅子に縛りつけられ、自由がなくて、毎日同じような人たちに同じような挨拶を繰り返すだけの退屈な地位、どなたかにお譲りしてもわたくしは一向に構いませんわ。ただ、殿下のお隣だけは譲れません。わたくし、コンラッド殿下を愛しておりますもの!」
私は頭を抱えた。その重要な地位を「どうでもいい」と軽々しく言えてしまう、その政治的感覚の欠如と無鉄砲さが、不適格だと言っているのに!
何も頷かせる必要はない。私は婚約破棄を宣言したのだから、あとはエレアノールが泣こうが喚こうが嫌だと言おうがすべては終わったのだ。なんなら紋章官に命じてエルトリンゲンとグラナードのかつての血縁関係を地下書庫の古い家系図の中から発見させたっていい。それで結婚を完全に阻止できる。
だが、私はどうにかして彼女に「自分は婚約者として相応しくない」のだと自覚させなければならない。嫌がっているまま、納得していないまま押し進めることができなかった。それでは感情一点突破のエレアノールと変わらないではないか。
私は必死に周囲を見回した。そして、柱の影で他人事のような顔をしてワインを飲んでいる幼馴染の姿を見つけた。
騎士団長の娘、イザベル・ザ・ライオンハート。ドレスを身に纏っているものの、立ち振る舞いは父親そっくりの騎士そのものだ。男子生徒よりもむしろ女子生徒の取り巻きが多い麗人であった。
彼女は私やエレアノールと共に育った仲で、剣術に長け、冷静沈着。厳格な騎士団長の父親に叩き込まれて礼儀作法も完璧。何より、私に対して一切の恋愛感情を持っていない。よし。
「あそこにいるイザベルを見ろ、エレアノール」
私が彼女を指し示すと、聡明なイザベルは何が起こるかを正確に理解して露骨に「げっ」と表情を歪めた。エレアノールは素直にイザベルを見つめて不思議そうな顔をしている。
「私は、イザベル・ザ・ライオンハートと結婚する! 慈悲深く高潔で、理と礼儀を弁えた彼女こそ、私の妻に相応しい! 騎士団長の娘ならば申し分なかろう!」
この成り行きを後に陛下に報告するはずの、檀上の学園長に目をやる。「まあ、そうなんだけどさ~」という顔をしていた。
そしてイザベルは観念して溜息をつき、グラスを給仕に預けてホールの中央に歩み寄ってきた。ドレスの裾をマントのように払い、颯爽と歩く姿に黄色い歓声があがる。
騎士の娘らしく凛とした態度でエレアノールに向き合った。私の無言の「話を合わせてくれ」という視線を察してくれたようだった。
「エレアノール様。殿下のおっしゃる通りです。貴女は王太子殿下のパートナーに相応しくございません」
そうしてイザベルはすらすらと“エレアノールの悪事”をリストアップし始めた。
「貴女は殿下への執着のあまり私の靴に画鋲を入れ……ようとなさったことがございましたね。また、私に対して『殿下に近づくな』という牽制のための醜聞を流布しようとして、間違えてご自分のお名前を添えた怪文書をばら撒きました。さらに取り巻きを使った嫌がらせや暴力行為……は、人望がなく失敗したようですが、仮になさっても私は返り討ちにできますし、しかしながらそのような『企み』があること自体が未来の王太子妃としては問題なのでございます」
淡々と述べられるイザベルの言葉に、エレアノールは途中でついていけなくなったのか、ぽかんとしていた。
「端的に言いますと、殿下を解放なさってくださいませ、エレアノール様。後の処遇については、王妃陛下や公爵閣下が寛容に取り計らってくださるでしょう」
うむ、さすがだ。これでエレアノールはショックを受け、身を引くはず。そう思った私の期待は次の瞬間ものの見事に砕け散った。
「イザベル様。あなたは、殿下に愛されていらっしゃるの? わたくしよりも?」
ひとまずイザベルが恋敵に躍り出てきたことだけは理解できた様子だ。エレアノールの瞳から光が消え、底なしの沼のような暗い色が宿った。
「……………………ええ、まあ」
ものすごく間があった。明らかに深く巻き込まれたくないがゆえの逡巡があった。
「主君として幼馴染として、殿下のことを大切に思っております。幼馴染として」
わざわざ二回言った。
エレアノールはずっと掴んでいた私の腕を離し、重々しく目を伏せた。
「いいですわ、分かりましたわ」
「分かってくれたか、エレアノール!」
「だとしても、あなたが殿下のご寵愛を受けていらっしゃるのだとしても! “殿下への愛”でしたら、わたくしのほうが上ですわ。わたくしが世界で一番、殿下を愛していますもの。……イザベル様、あなたに決闘を申し込みます! いいえ、先程あなたが仰ってらした嫌がらせの数々……あれは名案ですわ。今から実行いたしましょう! あなたを消してしまえば、わたくしは殿下のおそばにいられますものね!」
「待て待て待て!!」
私は慌ててエレアノールの肩を掴んだ。
「冤罪を訴えるならまだしも、自ら実行しようとしてどうする! 本当に断罪されてしまうだろうが!」
「構いませんわ。愛する殿下のために悪に染まる。なんて素敵な響きかしら。わたくし、今からイザベル様の家に火を放って参りますわ」
「やめなさい! イザベルの家はつまり騎士団長の家なんだぞ! 処刑されたいのか!」
イザベルが冷ややかな目で私を見た。その視線が言葉なく「殿下、貴方のなさりようは逆効果ですよ」と伝えていた。
どうやら我が婚約者殿は御者を失って暴走する馬車よりも危険な存在だ。分かっているが、私に一体どうしろと言うのだ。
***
もはやプロムナードは混乱の極みに達していた。
悪の自覚が芽生えつつあるエレアノールは、周囲の令嬢たちに「さあ、わたくしの取り巻きになりなさい! まずはイザベル様の悪口を百書いたリストを作るのです! わたくしも協力しますわ。えっと……枝毛がありましたわ。あまりよくお眠りになれていらっしゃらないのではないかしら」と指示を出し始めた。
令嬢たちも困惑している。そもそもそれは悪口ではない。どちらかというとイザベルの忙しさを心配しているだけだ。しかし。
「そうですわ。殿下が学業に励めと仰るなら、薬について学びましょう。そしてイザベル様に素敵な毒薬を調合してさしあげます」
どうぞ永遠に快眠なさってくださいまし、おほほ! と笑う彼女は立派な悪であった。あくまでも無邪気なまま、ドレスの裾を優雅につまんで軽やかに善悪の境を飛び越える。エレアノールはそういう人だった。
「おい、エレアノール。そもそも私たちの婚約は政略によるものじゃないか。君の父上と私の父上が決めた、ただの契約なんだ。それは君も分かっているだろう?」
私は努めて冷静に説得を試みた。対するエレアノールもまた真剣ではあった。
「始まりが政略だったとて、わたくしの殿下への愛は本物ですわ。契約書にサインをした瞬間に恋に落ちたのですもの」
「それは紙とペンに惚れたんじゃないのか……?」
イザベルが素に戻ってぼそりと呟くが、エレアノールには私の言葉以外は聞こえていないようだった。
「殿下、わたくしは努力いたします。歴史も覚えますし、刺繍もいたします。他の方への嫌がらせも、ちゃんと露呈しないように努力いたしますわ」
「努力の方向が間違っている。……はぁ。エレアノール、君は自由になるべきだ。私と結婚すれば、君は一生この窮屈な王宮で、好きでもない公務に縛られるんだぞ? 君のような……なんていうか……天真爛漫な女性は、もっと広い世界へ行くべきなんだ」
これは私の本音だった。彼女は私の手に負えないが、根としては悪人ではない。ただ愛が重すぎて、思考が極端なだけなのだ。だから容易に悪へと舵を切ってしまう。
そんな彼女が王妃になれば、周囲の圧力に晒されて道を誤り、本当の「悪役」になってしまうかもしれない。私はそれが怖かった。
だが、エレアノールは私の手を両手で優しく包み込み、視線にひたむきな光を込めて言った。
「殿下。わたくしが王妃の務めを疎んじているから、自由にしてくださろうと仰るのですね?」
「え、ああ、うん……そう。そうそう」
「まあ、なんてお優しいのかしら! わたくしのことを考えてくださっての婚約破棄でしたのね! でも、ご心配には及びませんことよ。殿下がいらっしゃるなら、そこはわたくしにとっての天国ですもの。王宮が檻だというのなら、わたくしは喜んでその檻の飾りになりましょう。……もし」
エレアノールは少しだけ声を落とした。
「もし、殿下のいない世界になど行くのなら。わたくし、何の喜びもない地獄を生きることになりますわ。そうなったら殿下を奪還するために隣国の軍隊をも動かさなければなりませんわ。あそこの国王の弱味を握っておいたのは幸いでしたわね。そうですわ! “双頭の蛇”商会の不正取引の記録も使えますわ!」
「ちょっ、ちょっと待て。自分がどこで何を言っているか分かっているのか」
「殿下の前で、殿下を守る方法を考えておりますわ」
全然違う。いや、彼女の中では違わないのだ。だから厄介なのだった。
私は背筋に冷たいものが走るのを感じた。学業成績は振るわないくせに、私が絡むと途端に知恵が回り出す。どうしてなんだ。その一途さを公爵令嬢であり王太子妃候補である自身の義務へも向けてくれ、頼むから。
グラナード公爵が婚約破棄の申し出に頷かないのも致し方ないことではあった。次が見つからないのだ。エレアノールを放逐すると暴走して何をしでかすか分からない。
ひょっとして、私のそばに置いておくのが一番安全なのか――。
私はイザベルを見た。彼女は無言で首を横に振った。「諦めろ」と言っているらしかった。これはもう、王太子の義務というより、エレアノールを稀代の悪女にしないための、婚約者としての義務なのだった。
***
あのプロムナードから一ヵ月。私の隣では変わらずエレアノールの賑やかな声が響いていた。
「見てくださいまし、殿下! 家庭教師に出された歴史のテストで、ついに赤点を免れましたの!」
「本当にぎりぎりの及第点だな。……君は思考を発展させるのは得意なのに、記憶するのが苦手なのかもしれないな」
私は溜息をつきながら、山積みの書類にペンを走らせる。
結局、婚約破棄は実現しなかった。父上は「あんなに愛されているならいいじゃないか。エレアノール嬢ほど一途な娘はいないぞ。ある意味で」と笑って誤魔化した。グラナード公爵は「娘は殿下のためでしたら何でも致すでしょう」と半ば脅迫じみたことを言って遠い目をした。
彼らはエレアノールが「コンラッド殿下のためなら国だって焼いてみせますわ!」という選択肢を常に懐に忍ばせていることをよく知っているのだった。
そしてイザベルはというと、騎士団長の父君によって「お目付け役」の名目でエレアノールの侍女兼護衛として任命されていた。
「殿下、本日もお疲れ様でございます。さてエレアノール様、先程は隣国の使節に『殿下に見惚れるな』と威圧をかけていらっしゃいましたね。ああいう時は害意を悟られぬよう言葉を選んでください。牽制ではなく殿下を誇る形が最適です」
「まあ、イザベル様。素敵ですわ。殿下の魅力を語り明かすのは、わたくし得意中の得意でしてよ。そうしてあの不躾なものたちを圧倒すればよろしくて?」
「左様でございます。どうぞ胸焼けするほど殿下と仲睦まじくなさってください」
恋敵の座を降りればエレアノールのイザベルに対する悪意は瞬く間に消滅し、元通りの幼馴染に戻ったのだった。素直ではある。あまりにも素直すぎて、手綱次第でどこへでも、どこまででも勝手に駆けてしまう。
「殿下、お顔色が悪うございます。肩が凝ってらして? わたくしがマッサージを――」
「エレアノール、座れ。教科書を読み込む間、私の隣にいることを許可する」
「まあ! 喜んでお隣にお邪魔しますわ!」
エレアノールは鼻歌を歌いながら教科書を開く。彼女を制御するには、何よりも「コンラッド殿下のそばにいられる」という最大の報酬が必要不可欠だ。私自身が彼女の手綱なのだった。
執務の傍ら、エレアノールの横顔をちらりと伺う。必死に難しい文字を追い、時折わけが分からないと眉を寄せる彼女。……まあ、いいか。
私が手を離せば、彼女はどこに向かっていくやら分からない暴走馬だ。ならば私がその手を握り続け、彼女が悪の道に進まぬように隣に置くしかない。それはある意味で一生をかけた相互監禁であり、一生をかけた献身であった。
「コンラッド様、どうかなさいまして?」
私の視線に気づいたエレアノールが顔を上げ、花が綻ぶような笑顔を見せる。この花には毒があるかもしれない。しかし適切に処理すれば薬にもなる。
「いや。君は本当に、手がかかるなと思ってね」
「光栄ですわ。ずっと手をかけてくださいませ。わたくしは殿下の所有物ですもの」
「所有物じゃない、妻だ。……もう少し先の話だがな」
その言葉を聞いた瞬間、エレアノールは感激のあまり悲鳴をあげて気絶した。プロムナードで婚約破棄を宣言した時にこうなる予定だったのだが、あまりにも遅く、反応がずれている。イザベルが扇で彼女を仰ぎながらじっとりと私を睨んだ。
婚約破棄は成らなかった。しかしまあ、大丈夫だと今は思えた。これが父上や公爵の境地だったのかもしれない。
何にしろ、エレアノールを御せるのは私だけなのだ。彼女を放っておけない、放っておきたくないと思ってしまった時点で、きっと私の負けは決まっていたのだろう。




