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早い春の犬  作者: 臥亜


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8/10

倒れる音

それは、何でもない午後だった。

ニュースでは、まだ動物の話をしている。

学校でも、会社でも、テレビでも。

世界はまだ混乱している。

でも、僕たちの家は、もう慣れた顔をしていた。

「コタロウ、散歩行く?」

僕が声をかける。

「行く」

短い返事。

玄関で靴を履く。

父は仕事。

母はキッチン。

日常だ。

ほんの少し、静かなだけで。

外は冷たい風。

空は薄い青。

歩き始めてすぐ、僕は気づく。

歩幅が小さい。

「大丈夫?」

「うん」

すぐに答える。

でも、息が浅い。

「寒い?」

「寒くない」

少し間。

「ちょっと、眠いだけ」

笑う。

その笑いが軽すぎる。

公園まで来る。

ベンチに座る。

いつもなら、匂いを嗅ぎ回る。

今日は座ったまま。

風が葉を揺らす。

遠くで子どもが笑っている。

「なあ」

コタロウが言う。

「学校、どうだった」

いつもの質問。

でも今日は、声が細い。

「普通」

僕は答える。

「普通って便利な言葉だよな」

少し笑う。

「大丈夫な顔できる」

僕は横を見る。

「大丈夫じゃないの?」

沈黙。

風が止まる。

「……ちょっと、疲れた」

それは初めて聞く言葉だった。

「帰る?」

「うん」

立ち上がろうとする。

足が、もつれる。

「コタロウ?」

次の瞬間。

音がした。

硬い地面に、体が当たる音。

軽いはずの体が、重く落ちる。

「コタロウ!」

目は開いている。

でも焦点が合わない。

「おい!」

揺らす。

呼吸が浅い。

「立てる?」

返事がない。

胸が上下している。

でも、速い。

「コタロウ、聞こえる?」

ゆっくり、瞬きをする。

「……ごめん」

かすれた声。

「ごめんじゃない!」

僕の声が裏返る。

「何がどうなってんだよ!」

コタロウは、笑おうとする。

できない。

「ちょっと、力抜けただけ」

嘘だ。

分かる。

僕はポケットからスマホを取り出す。

指が震える。

父に電話。

出ない。

母。

出る。

「もしもし?」

「母さん、コタロウが——」

声が震える。

言葉が詰まる。

「倒れた」

沈黙。

一秒。

「どこ」

短い声。

「公園」

「動かさないで」

切れる。

僕は膝をつく。

コタロウの体は温かい。

でも、力が入っていない。

「なあ」

僕は顔を近づける。

「無理してたの?」

目が、ゆっくり僕を見る。

「……少し」

正直だ。

「いつから」

「前から」

その答えは、残酷だった。

「言えよ!」

涙が出る。

「なんで言わないんだよ!」

コタロウは、目を閉じる。

「言ったら」

小さく。

「選べなくなると思った」

僕の喉が詰まる。

遠くでサイレンの音。

近づいてくる。

コタロウが呟く。

「なあ」

「何」

「講話、どうだった」

今、聞くことじゃない。

でも、彼は聞く。

「……よかったよ」

嘘じゃない。

「みんな、ちゃんと聞いてた」

コタロウは、少しだけ笑う。

「よかった」

サイレンが止まる。

足音。

母の声。

誰かの指示。

毛布がかけられる。

担架。

持ち上げられる体。

軽い。

あまりに軽い。

「悠斗」

かすかな声。

僕は顔を近づける。

「何」

「選べよ」

息が乱れる。

「ちゃんと」

救急車のドアが閉まる。

サイレンが鳴る。

その音に、声が飲まれる。

僕は手を握る。

その手は、まだ温かい。

でも。

何かが、もう戻らない場所に触れている気がした。

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